無題


 夕方、ギャラリー・メスタージャにて古橋宏之写真展「野末はにおう」鑑賞。察するに京浜工業地帯のなかに入っていくJR東日本南武支線鶴見線の、川崎新町とか扇町といった駅の周辺で撮影された、殺風景な風景のモノクロシリーズ。四の五と、35mmで撮影されている。
http://www.gallerymestalla.co.jp/exhibisions/14/furuhashi/index.htm
 と書いてきて、殺風景という単語をkotobankで調べてみたら
「眺めに情緒が欠けていたり単調だったりして、見る者を楽しませないこと」
とあった。
 では殺風景ではないってことか。フェンスやごみや舗装道路や、装飾という観念は全く勘案されずに建てられた事務所や工場や、そのほかそこに写っている雑多な物たちは、雑然とした見慣れた工場地帯で、眺めていれば通常の感覚として「情緒が欠けていたり単調」、すなわち殺風景に分類されそうだけれど、しかし殺風景という単語も主観によるもので、ある者には殺風景でも別のある者には殺風景どころか「大好きな殺伐」とした好きな風景であったりもするわけだ。すなわち通常の殺風景は、辞書的な意味を飛び越えて、「その眺めは通常的には情緒が欠けていたり単調であったりしており、それゆえに実に情緒的である」といった矛盾をはらんだ好風景でもある。
 人の風景の見方が、その人の経験や記憶のなかで、多岐に渡って広がって、どこにこういう矛盾をはらんだ注目点を見いだせるか、それが問われるようでもある。そしてそのとっつきにくさの先に、わかってしまえば実に魅力的な殺風景なアンチ殺風景が好風景として広がっている。

 で、このギャラリーの前の道を行きかう人たちを見ているのがとても面白かった。