漕ぐ人たち


パドル・サーフィンと言う名前のスポーツだそうです。神奈川県第美術館葉山の下の砂浜から撮影。

水曜日か木曜日。単身赴任先の宇都宮の本屋をぶらぶらしていたら、神奈川県立美術館で開催中のクエイ兄弟~ファントム・ミュージアム~展の図録があった。なんで神奈川県立美術館の図録が栃木県の書店に置かれていたのか、理由はわからない。この展示は、プレスリリースをパソコンの画面で読んだときには、行ってみたいと思わなかったのだ。でも、書店で図録を手にしてぱらぱらと捲っているうちに、よくわからないけどなんか気になるね、って感じになってきた。しかし本屋を出たあとにはそんな風に思ったことも忘れた。

土曜日、茅ヶ崎。例によって朝早く起きる。起きて、適当に朝食を食べて、隣のコンビニ(いいのか、悪いのか、隣がコンビニ)で100円で紙コップを買って、自販機でコーヒーを入れる。と、こう書くと昔っからある紙コップが出てくる自販機のコーヒーと同じなのだが、LAWSON街カフェあたりから始まった、紙コップをレジで買ってからコーヒーメーカーにセットして、でも所詮は自販機じゃないか、と、一括りにもできるこの仕掛けはどこが違うのか?珈琲豆を挽くところからやってるのかどうか、あたりの違い?
自分の舌の、と言うか味覚の不確かさには相当なものがあるから、ブラインドテストをされても必ず判るって自信すらないけれど、紙コップも機械のなかにあって完全自動で珈琲が出てくる前っからある自販機の珈琲と、最近のコンビニのこの手の珈琲では、なんかやっぱり後者の方が美味しい感じがするものだ。
その手の珈琲を飲み、さぁて、どうしたものか?読みかけの中上健二のジャズに関する著述を集めた文庫本を読み進もうか、でもなんか気が進まないし。三ヶ月に一度、書かせてもらってる某ミニコミに載せるショートショートも書かねばならないが、まだ書くネタすら出てこない。
ひとつきほど前にニセアカシア7のために作り込んだ車窓からのスナップを元画像に、そこから、トリミングやモニター接写や、トーンカーブ調整や彩度調整や、周辺光量を暗くするのやら、なんやかやして、一言で言えば画像をある決まりに沿って被写体を忠実に写しとることが高画質と定義するならば、そこから「劣化させる」ことで出来上がる写真を作り込む作業を、これがなかなか面白いからニセアカシア7のあとも着々と作りためているので、今朝もその作業をしようかな。などなど思うが、思うだけでやる気が出ない。と、そのときに、神奈川県立美術館葉山にクエイ兄弟、見に行こうかな、と思い至った。

と、こんな感じで、車で出発したのだが、美術館は9時半からなのに、8時少し前には美術館のある葉山の御用邸付近に着いてしまう。そのまま通り過ぎて、無料で駐車できる立石まで行ってみる。岩場では釣りの人がぽつぽつと。早い時間のせいか、磯で遊ぶ子供たちや家族連れはまだ少ない。
人が三々五々散らばっているような風景を撮るにはこんな早い時間は適してない。しかし、こちらは早朝から起きて行動を始めてしまう。さらに移動手段に自家用車を選ぶと、渋滞は嫌だから早く出るのは好都合ではある。
なるほど!こうして各条件を掛け合わせると、私が間違っているのは、人が三々五々散らばっている(集まっている)写真を撮りたいと言う嗜好に違いない。無人の、人造物のない、もっと早い時間の、朝焼けの頃の、由緒正しい風景写真を撮ろうと思えば、すべてがピタリとはまるのではないのか。だから、早起きになった六十台、七十台の方々は、そうなるのか。なんて、穿った見方でした。
自家用車を使うのがいけないって見方もある。最近は私の移動手段に占める自家用車の割合が増えてしまったな。暮らしにコンビニが侵入したように、自家用車の利用頻度が急に伸びた。今までも車は持っていたのに、これは、結局のところ移動の楽ちんさを選択しているのだ。春に車を買い換えてから、新しい車の運転が今までの車より面白くてついつい移動手段に自家用車を選ぶ、なんてのは言い訳でかも。あるいは、そう言う面があったとしてもそれだけじゃない。本当は電車やバスや徒歩を使った方が、ずっと自由で、気紛れも効いて、新しく見付けたり知り合ったりすることも多いのに。
基本は徒歩であるべきだな。スナップでは。などと、最近は車窓からのスナップからの後加工で遊んでいるのに、ここにこうして書いてきたら、あるべきだな、に行き着いた。
ときどきカメラをぶら下げて自転車で出掛けてスナップをすることもあるが、自転車を漕いでいるときに、歩きならばあそこも撮る、ここも撮る、とおもうものの行きすぎることが多発するものだ。
こんな風に、やはり歩くべきだって、立石でそのときに思ったわけではなくて、こうして文章を書いているいま、書いてるうちにこんなことになってるだけですが。

クエイ兄弟展を見てから、昼前にはもう帰宅。