ブックフェアに出店のお知らせ

 四月二十七日土曜日に横須賀市文化会館で開催される横須賀ブックミュージアムに、私が同人として参加している「写真同人ニセアカシア発行所」が同人五人による写真集ニセアカシア9号のお披露目を目的に、出店いたします。お時間ある方は、是非お立ち寄りください。

 今回の号は泉鏡花草迷宮を題材にあらたに撮影した写真で組んでいます。よろしくお願いします。

ハマヒルガオと夏みかん

 一昨日の土曜日、南関東は薄曇りで、それほど暑くなかったので、本と小さなデジカメと財布を持って、自転車で海岸まで行ってみた。茅ヶ崎の海岸沿いには、人と自転車のための遊歩道なのかサイクリング道?が続いていて、その道を西へとのんびりと漕いで行く。道沿いに木製のほんの2m位の高さの展望デッキがある、そこで自転車を降りて、展望デッキに座って文庫本を読んでいると、心地よい海風でいい感じ。本はくどうれいんのエッセイで、これが文章は軽快なリズム、内容は面白おかしく、すいすい進む。いい感じ。ところがしばらくすると薄い雲が切れていき、日がさすと途端に暑くなってきた。残念だなぁ、と思いながら読書を切り上げて、再び自転車を漕ぐと、進んでいくときには顔に風が当たるからまたすこし涼しくなった。

 そのうちにこのハマヒルガオの花が咲いている場所があった。砂浜の斜面は不安定なので、膝をついたりしながら姿勢を確保し、ああでもないこうでもないと、試行錯誤しながら何枚も写真を撮ってみる。

 そのあとは砂浜で遊んでいる人たちを点景に扱うスナップを撮ったりした。思いのほか、時間が進むのが早い、あっという間に2時半過ぎだった。

 帰り道、静かで薄暗いカフェに寄り、ガトーブルトンと言うケーキは塩味がとても美味しかった。クラシックのピアノ曲が小さな音で流ている。曲名はひとつもわからない。そこでくどうれいんの本の続きを読んでいたが、途中から、結局はまた後半ロスタイムに点を取られて負けることになるサッカーの試合を、スマホで観戦してしまった。本を読んでたほうが良かったなぁ……負けるんだもの(笑)

 でも帰りがけに店主がカフェの庭で取れたと言う夏みかんをひとつくださった。ずっしり重い、中身に果汁が満ちているのが判る果実。それをバッグに入れて、ちょっとだけ嬉しくなりながら家に戻る。土曜日のこと。

KYOTO GRAPHIE 2024

 14日から五日のあいだ、キョートグラフィー期間に合わせて、写真展巡りと建築見物とグルメ(笑)を目的に京都に旅行をしてきました。河原町通烏丸通りや堀川通などの南北の太い道路と、五条通四条通御池通などの東西の太い道路に囲まれた長方形の範囲の中にも、名前のついた通りが南北に東西にきっちりあって、そういう「大通りに囲まれた長方形の中」を適当に歩いてることが、実のところ私が京都を旅行しているほとんどの時間で、目的は写真展やら建築巡りであっても、京都だなぁ…!と思う本質はこの歩いている時間にあるに違いないと思うのです。街路樹も少ないし歩道も線で区切られているだけだし。だけど、並んでいるビルや家屋の、そんなにでかいビルはないですね、その建物の古い日本家屋から新しいデザインに趣向を凝らしたビルまでの渾然一体が嫌な不統一ではなくて、なんかそれが京都らしさを作っている、だから楽しいですね。

 それにしても日本語が聞こえてこないくらい、海外の方が多くてびっくりしました。写真は上記の長方形の中のどこかです。前後の写真を見ればどこかわかると思うけれど、まぁどこでもいいです。

 影が長く伸びる夕方。または夕方に近い時刻。歩き疲れて重くなった足。首にさげたカメラで、ときにはノーファインダーで行き交う人を撮る。季節外れの暖かさで身体が熱を帯びている。さて、ではそろそろ休もうかな。たまたまあったカフェに入るかな、それとも……グーグルで現在地を示し、近くのカフェと入れると赤いピンマークが重なって一杯になりました。

自然と建築の共存について

 上の写真は渋谷駅(渋谷スクランブルスクエア)からヒカリエを結ぶ東口二階歩行者通路の渋谷駅側のエスカレーターで、写真の右側へ歩いて行くと、その歩行者通路になります。

 先日、再放送された日曜美術館の「建築家内藤廣」の回の冒頭で、建築家ご本人が、渋谷再開発計画で最初に完成するのがこの通路だったので完成度の高いものにしたかったとおっしゃっていました。下の写真がその内藤廣設計の通路です。すなわちこの下の写真の奥が上の写真のエスカレーターのある場所。

 時間の流れの中で、私たちは街を歩いている通行人の一人のようにそこにたまたまいる、その中で、あとから続く人に少しでも良いものを残したい、そういう思い。建築だって、自然や都市環境の中で変化していくという大前提での今なのだから、というようなことを内藤さんが話していた(と番組を観ていて私がそう把握したってことですから正しいかどうかはわかりません)。あるいは、建築を新たに建てることは多かれ少なかれそこにあった自然を破壊することを伴うから、出来るだけ早く自然に溶け込むようになるといい、というようなことも。

 多くの現代の有名建築家が、テレビやウェブで言ったり書いたりしていることを読むと、自然との共存について凄く意識的で、それはまぁ昔からずっとそうで、建築の基本的な課題なのかもしれませんね。建築史等を学んだことは一回もないので、素人の推測ですが。だから内藤廣さんだけがそういうことを言っているわけではないとは思いますが、日曜美術館で内藤さんが話していることは判りやすかった。そのため、この人の建築作品をたくさん見てみたいなと思いました。昨年、島根県グラントワでやっていた内藤廣展に行かなかったのが残念です。

 昨年渋谷のギャラリーTOMは訪れました。みなとみらい線馬車道駅は何度も使っていますがちゃんと構造を見てみたい。あとは東京や京都や御殿場のとらやは内藤さんの作品のようです。何と言っても高知の牧野富太郎植物園に行きたいものです。

 

妙本寺の海棠

 4/7日曜日、初夏の陽気。9:30に家を出て鎌倉妙本寺の海棠の花を見てきました。14:00帰宅、Jリーグの試合をリアルタイムでDAZN観戦し、応援している地元のチームは、またも敗戦。敗戦ばかりなのに、その度にがっかりして。わざわざストレスを抱え込む確率が高い観戦を、どうして辞めないんだろう?とぶすっと機嫌が悪くなりながら思うのです。それもまたいつものこと。

 明日と明後日は関東は雨になるよう。これで今年の桜も散ることでしょう。もう新緑も芽吹きはじめていますが、例年、桜が散るのを合図とするように、このあと一気に新緑の季節がやって来るのだろう。そしてその変化があまりに早くて、その変化をほとんど感知できずにいて、ある日気が付くといろんなことがふつか前、一週間前、ひとつき前と、いろいろな時間軸においてすっかり様変わりしていて、それで翻弄されたような気分になるのも、これもいつものこと。

 ♪季節に敏感でいたい♪ってくるりの何かの曲、「東京」だったかな。そういう歌詞があったのを前後の脈略はともかく不意に思い出しました。日曜の夜が更けていきますね。

蕗の薹の天ぷら

 スマホで撮影した日の丸構図そのものの蕗の薹の天ぷら。横浜の野毛地区の外れにある天ぷらと鰻料理を看板にする居酒屋にて。久々に会った友人は、会社の仕事を続けながら、社会福祉士の免許を取るために猛勉強を帰宅後と休日に続け、齢六十幾つかにして、このたび見事に国家試験に合格したそう。彼はその前には保育士の免許も取っていて、生活に苦しんでいる病気を抱えた子供たちの役に立てる仕事に就きたいと一念発起して、何年もかけて夢に向かって進んでいたというわけです。こういう志の高い友人と話していると、凄いな、私には出来ないな、と感服するしかないです。

 中学生の頃まで住んでいた木造平屋の戦前に建った二軒長屋には広い庭があって、蕗の薹も雑草と一緒になって生えていました。だけどそれを取ってきて食べることはしなかったな。いちど、写真を撮ったことがあるのを覚えています。当時父が使っていたオリンパス35Sというカメラにマクロ撮影のための付属品があったんだろうか?レンズのフィルターリングを使ってねじ込むクローズアップレンズと、三角測距しているレンジファインダーの前に、距離補正用の横長のレンズを取り付けるようなものだと思います。でも本当にピントが合っているのかはなはだ心もとない感じだった。出来た写真を見たらちゃんと写っていて、すなわち蕗の薹にピントが合っていて嬉しかった。場所は家の前の未舗装袋小路の脇の雑草がぼそぼそ生えているような場所だったな。

 天ぷらはお任せ五品で、海老、稚鮎、アスパラ、タラの芽、ホタテ。それにこの蕗の薹と、大葉に撒かれた烏賊、を追加して食べました。少し寒が戻った春の宵の時刻がほろほろと過ぎて行く感じ。

市井の桜を見上げることこそが春

 4/5金曜日は終日寒くて雨模様になる予報。その金曜の朝にこのブログを書いています。写真は昨夜に赤信号で停まった車の中から見上げた桜の花の写真です。トヨタの販売店の前だったようです。

 明日明後日の土曜日曜は、花見に良い日になると天気予報が告げていました。ならばカメラをぶら下げてどこかへ行ってみようかな、と思う。だけどあまりに人が多いところは避けようかなとも思うわけです。

 ある年の春がこうしてやって来て、桜やそのほかの花が一斉に咲きはじめ、新緑がみるみるうちに芽吹いてくる。一週間どころか数日前と今日の植物の変化は、目まぐるしい。目まぐるしいはずなのに人は鈍感で、その鈍感であってもよくわかるのが桜の花であって、それは花の開花から散るまでの同時性と目に見えてわかる時間経過のおかげなんだろうな。もしかすると毎年同じようなことをここに書いているわけですが、どこかの「名所」で立派な桜をその花の絶頂期に見たり撮ったりする、というのも楽しいのですが、こうして日常の中で見上げる名もなき市井の桜、いや、日常の中にある通り過ぎる桜たち、そういう季節の中にいた、ということの方が、春を迎えているという大事な時間なのではないのかな?いつも思うのは、花を付けるまで桜なのかどうかもよく判らない葉を落とした木が街の中にたくさんあって、その中の桜が一斉に花開くのを、どこか俯瞰できる場所から広く見る機会があれば、街の中で桜が一斉蜂起しているようだということです。蜂起などという単語が思い浮かぶのは桜の頃だけです(笑)

 日本のあちこちで地震が起きているし、戦争は泥沼化していつまでも終わりそうもない、各国の政治バランスが首長の変わり目で動いたりすれば日本だっていつ戦争に巻き込まれるかわからないなと不安になる。1ドルが150円と聞けば、むかしは80円だったからだいたい倍だよな、そりゃあUSAで100ドルで売っている写真集を日本で買おうとすれば、昔は8000円だったものが今や15000円だものな・・・これカメラに置き換えれば80000円だったカメラが150000円だよ・・・などと換算したり。

 日々が過ぎていき、読書は相変わらず進まない。けれど、最近読んでいる小津夜景著「いつかたこぶねになる日」の最初のたこぶねのエッセイは面白かった。そんなたこがいることを知らなかったから、驚きました。