自然と建築の共存について

 上の写真は渋谷駅(渋谷スクランブルスクエア)からヒカリエを結ぶ東口二階歩行者通路の渋谷駅側のエスカレーターで、写真の右側へ歩いて行くと、その歩行者通路になります。

 先日、再放送された日曜美術館の「建築家内藤廣」の回の冒頭で、建築家ご本人が、渋谷再開発計画で最初に完成するのがこの通路だったので完成度の高いものにしたかったとおっしゃっていました。下の写真がその内藤廣設計の通路です。すなわちこの下の写真の奥が上の写真のエスカレーターのある場所。

 時間の流れの中で、私たちは街を歩いている通行人の一人のようにそこにたまたまいる、その中で、あとから続く人に少しでも良いものを残したい、そういう思い。建築だって、自然や都市環境の中で変化していくという大前提での今なのだから、というようなことを内藤さんが話していた(と番組を観ていて私がそう把握したってことですから正しいかどうかはわかりません)。あるいは、建築を新たに建てることは多かれ少なかれそこにあった自然を破壊することを伴うから、出来るだけ早く自然に溶け込むようになるといい、というようなことも。

 多くの現代の有名建築家が、テレビやウェブで言ったり書いたりしていることを読むと、自然との共存について凄く意識的で、それはまぁ昔からずっとそうで、建築の基本的な課題なのかもしれませんね。建築史等を学んだことは一回もないので、素人の推測ですが。だから内藤廣さんだけがそういうことを言っているわけではないとは思いますが、日曜美術館で内藤さんが話していることは判りやすかった。そのため、この人の建築作品をたくさん見てみたいなと思いました。昨年、島根県グラントワでやっていた内藤廣展に行かなかったのが残念です。

 昨年渋谷のギャラリーTOMは訪れました。みなとみらい線馬車道駅は何度も使っていますがちゃんと構造を見てみたい。あとは東京や京都や御殿場のとらやは内藤さんの作品のようです。何と言っても高知の牧野富太郎植物園に行きたいものです。

 

妙本寺の海棠

 4/7日曜日、初夏の陽気。9:30に家を出て鎌倉妙本寺の海棠の花を見てきました。14:00帰宅、Jリーグの試合をリアルタイムでDAZN観戦し、応援している地元のチームは、またも敗戦。敗戦ばかりなのに、その度にがっかりして。わざわざストレスを抱え込む確率が高い観戦を、どうして辞めないんだろう?とぶすっと機嫌が悪くなりながら思うのです。それもまたいつものこと。

 明日と明後日は関東は雨になるよう。これで今年の桜も散ることでしょう。もう新緑も芽吹きはじめていますが、例年、桜が散るのを合図とするように、このあと一気に新緑の季節がやって来るのだろう。そしてその変化があまりに早くて、その変化をほとんど感知できずにいて、ある日気が付くといろんなことがふつか前、一週間前、ひとつき前と、いろいろな時間軸においてすっかり様変わりしていて、それで翻弄されたような気分になるのも、これもいつものこと。

 ♪季節に敏感でいたい♪ってくるりの何かの曲、「東京」だったかな。そういう歌詞があったのを前後の脈略はともかく不意に思い出しました。日曜の夜が更けていきますね。

蕗の薹の天ぷら

 スマホで撮影した日の丸構図そのものの蕗の薹の天ぷら。横浜の野毛地区の外れにある天ぷらと鰻料理を看板にする居酒屋にて。久々に会った友人は、会社の仕事を続けながら、社会福祉士の免許を取るために猛勉強を帰宅後と休日に続け、齢六十幾つかにして、このたび見事に国家試験に合格したそう。彼はその前には保育士の免許も取っていて、生活に苦しんでいる病気を抱えた子供たちの役に立てる仕事に就きたいと一念発起して、何年もかけて夢に向かって進んでいたというわけです。こういう志の高い友人と話していると、凄いな、私には出来ないな、と感服するしかないです。

 中学生の頃まで住んでいた木造平屋の戦前に建った二軒長屋には広い庭があって、蕗の薹も雑草と一緒になって生えていました。だけどそれを取ってきて食べることはしなかったな。いちど、写真を撮ったことがあるのを覚えています。当時父が使っていたオリンパス35Sというカメラにマクロ撮影のための付属品があったんだろうか?レンズのフィルターリングを使ってねじ込むクローズアップレンズと、三角測距しているレンジファインダーの前に、距離補正用の横長のレンズを取り付けるようなものだと思います。でも本当にピントが合っているのかはなはだ心もとない感じだった。出来た写真を見たらちゃんと写っていて、すなわち蕗の薹にピントが合っていて嬉しかった。場所は家の前の未舗装袋小路の脇の雑草がぼそぼそ生えているような場所だったな。

 天ぷらはお任せ五品で、海老、稚鮎、アスパラ、タラの芽、ホタテ。それにこの蕗の薹と、大葉に撒かれた烏賊、を追加して食べました。少し寒が戻った春の宵の時刻がほろほろと過ぎて行く感じ。

市井の桜を見上げることこそが春

 4/5金曜日は終日寒くて雨模様になる予報。その金曜の朝にこのブログを書いています。写真は昨夜に赤信号で停まった車の中から見上げた桜の花の写真です。トヨタの販売店の前だったようです。

 明日明後日の土曜日曜は、花見に良い日になると天気予報が告げていました。ならばカメラをぶら下げてどこかへ行ってみようかな、と思う。だけどあまりに人が多いところは避けようかなとも思うわけです。

 ある年の春がこうしてやって来て、桜やそのほかの花が一斉に咲きはじめ、新緑がみるみるうちに芽吹いてくる。一週間どころか数日前と今日の植物の変化は、目まぐるしい。目まぐるしいはずなのに人は鈍感で、その鈍感であってもよくわかるのが桜の花であって、それは花の開花から散るまでの同時性と目に見えてわかる時間経過のおかげなんだろうな。もしかすると毎年同じようなことをここに書いているわけですが、どこかの「名所」で立派な桜をその花の絶頂期に見たり撮ったりする、というのも楽しいのですが、こうして日常の中で見上げる名もなき市井の桜、いや、日常の中にある通り過ぎる桜たち、そういう季節の中にいた、ということの方が、春を迎えているという大事な時間なのではないのかな?いつも思うのは、花を付けるまで桜なのかどうかもよく判らない葉を落とした木が街の中にたくさんあって、その中の桜が一斉に花開くのを、どこか俯瞰できる場所から広く見る機会があれば、街の中で桜が一斉蜂起しているようだということです。蜂起などという単語が思い浮かぶのは桜の頃だけです(笑)

 日本のあちこちで地震が起きているし、戦争は泥沼化していつまでも終わりそうもない、各国の政治バランスが首長の変わり目で動いたりすれば日本だっていつ戦争に巻き込まれるかわからないなと不安になる。1ドルが150円と聞けば、むかしは80円だったからだいたい倍だよな、そりゃあUSAで100ドルで売っている写真集を日本で買おうとすれば、昔は8000円だったものが今や15000円だものな・・・これカメラに置き換えれば80000円だったカメラが150000円だよ・・・などと換算したり。

 日々が過ぎていき、読書は相変わらず進まない。けれど、最近読んでいる小津夜景著「いつかたこぶねになる日」の最初のたこぶねのエッセイは面白かった。そんなたこがいることを知らなかったから、驚きました。

 

 

 

 

出猩々(秋ではなく今日の写真です)

 出猩々というモミジは新芽が真っ赤、その大木を大きな55mmF1.2のオールドレンズを付けたカメラで真上を向いて撮っていたら、すっかり腕と首が凝り固まってしまいました。モミジの名になっている猩々をネットで調べると「猩々は中国の古典書物で、人語をあやつる、または解する獣とされ、酒を好むという記述も古い。海棲と言うのは日本独自の設定」あるいは「能の演目である五番目物の曲名「猩々」が有名であるが、中国の海棲の精霊と言う設定の猩々が、真っ赤な能装束で着飾り、酒に浮かれながら舞い謡う」(ウィキペディア)とありました。

 昨日の土曜日3/30と、今日の日曜日3/31と二日続けて季節外れの暑さ。特に今日は3月にして真夏日になったようです。東京は3/30に桜の開花宣言、今日3/31に歩いていてソメイヨシノの木を見るとほんの一輪だけ開花している花を見付けました。昨日は咲いてなかったので、開花がいよいよ始まった日曜日という感じでしょう。桜が咲いても、それでうきうきと、あちこち飛び回っては、写真を撮るのは・・・若い頃はそんなことをよくしていて、桜が開花している短い期間には休暇も使って、あちこち有名な桜見物に行ったりもしたのですが・・・そういう積極的な行動は、なんだかダサい気がしてしたくないな。と、今は思っているが、結局は右往左往しちゃうんだろうか。自分の日常の中にある名もなき桜に、あるいは桜を主目的にはせず、それでもたまたま出会った桜に、春を見ればそれでいい……が、出来るとかっこよいよなぁ、という気分です。

 いや、本当は右往左往して?、あれやこれや五感で感じて、そこから色々と思ったり感じるほうが健康なんだろうな。出来事を誰かにすらすらと沢山話せて、そうやって日々に起きた事と対峙して生きて行くことが「時間が早く流れると感じてしまうことへの防止策」だと、このまえテレビでそんな話をしているのを観ましたが、これを言い変えると「日々を淡々と生きようとし、予想外が起きないよう、既存の価値感のまま、自分の立ち位置が脅かされないよう、なるべく繰り返し暮らし、新しい情報も自分の既存の判断基準でしか考えないようにして、深入りしない」という安全側の暮らしぶりをしていると「時間が早く流れて行く」と感じるということですね。旅に出たり、なにかを新たに始めたり、そういうことをし続けることが大事だってことだな。いや、日常のひとつひとつのことでも、流さずにしっかりと受け止めるのがそれ以前にやるべきことなのかな。

 

ずっと家にいた土曜日曜

 先日、恵比寿の東京都写真美術館ではじまった木村伊兵衛の写真展を観に行きました。前回のこのブログで、最近は自分でいいと思える写真が撮れなくなっている、という情けないような独白?を書きました。この恵比寿へ行った日の写真を、その夜にパソコンで撮った写真を見直したときには、その日は久しぶりに気に入る写真が多いなと満足して、せっせせっせと選んだ写真をブログ投稿用に、画素数を適度に減らしたり、写真によってはトリミングしたり傾きを直したり、それで10枚ほどを準備したのですが、それから数日経ったら、やっぱりそんなに良くない。やれやれですな。

 まぁいいや、上の写真はそのうちの1枚、右の男性のダウンジャンパーを着たその姿が、どういう理由かはわかりませんが、ちょっとロボットっぽい感じがしました。ジャンパーの縦のラインが直線にストンと落ちているからかもしれない。あとはフードを被っているそのフードも丸くなく四角いシルエット。きっとちょっとしたことで印象が作られるんだろう。

 ま、そんなことはさておき、昨日と今日の土日は天気が悪かったし、昨日は風も強くて寒かった。昨日は住んでいるマンションのすぐ隣にあるコンビニへ一度行きましたが、それが二日のあいだの唯一の外出で、日曜は一回も外に出なかった。

 NHKプラスで先日最終回の4回目が終わった夜ドラマのユーミンストーリー川上弘美原作の「春よ、来い」を観ました。あとは大相撲で尊富士が110年振りに幕ノ内に上がった場所で即優勝したニュースを知って動画配信を観たり、水泳で大橋選手が200m個人メドレーで勝つのを、すげーな、と思って観たりしていたかな。土曜には瀬戸大也選手が圧勝するのも、すげーな、と思った。

 

 上の写真を撮ったあとに、恵比寿の写真集やアートブックの書店で奥にギャラリースペースのあるPOSTに寄りました。ギャラリーで開催していたエレナ・トゥタッチコア「風の音が道になって」が良かった。

[Exhibition] Elena Tutatchikova / On a Windy Path | 風の音が道になって — POST (post-books.info)

作家が長い道を辿りながら、そのときどきの状況を日記のように文章にしたり、感じたことをたぶん後日に文章にしたり、その道のイメージを描いたり、そこからインスパイアされていろいろな表現を使って作品にまとめている・・・うーん、この私の解説文章もずいぶん稚拙ではありますが・・・

 なにかインスパイアされた理由を持って自分の足でどこかへ向かう、その途中で自分とその辿った時間の周囲の自然などで一期一会の偶然がたくさん積み重なったひとつの旅というものが出来上がる、その唯一の旅を多面的な表現で現すというのは、即興演奏のような感じなのかな、こういう表現が新しいやり方なんだろうなと思う。けっこうきつい作業だと思う。でもなんかこう・・・少し前によく聴いた言葉でライフログというのがあって、生きている個の時間そのものを全部記録して振り返るような記録がいまのスマホのあるネットと大容量メモリークラウドとAIの時代には可能になったことから出てきた(流行った)単語だけど、なんとなくライフログをアートにするようなやり方だと感じました。

 

 読書は岩波文庫ボルヘス作「シェイクスピアの記憶」を読んでいます。帯の文章は「ボルヘス最後の短編集/これはボルヘスの文学的遺言であると同時に短編作家ボルヘスの集大成、そして人間ボルヘス最晩年の自伝である」

いいじゃんと思える写真が全然撮れなくなっている件

 以下、とてもくだらない文章なので、読んでいただくのが申し訳ないな・・・

 写真は少し前、5月の陽気になった暖かい日に、横浜駅から気まぐれに道を選んで歩いて行ったらあった横浜ゲイトタワーという高層ビルの低層階の、一般の人も入れるレストラン街あたりです。高層階はオフィスなので、そこの社員しか入れないのだろう。それからこの写真の左側の通路、小さく人影が写っている通路を奥に進んで行くと、大きな球体状の建造物があって、コニカミノルタプラネタリウムのようでした。

 まぁこんな写真を選んでなんとか載せたけど、どってことない写真ですね、最近はやりの新しい街のなかに小さく後ろ姿やシルエットの人を配置するような写真。その手の写真のなかでも全然ダメなレベルですね。

 自分の実感として、最近は街を歩いてたくさん写真を撮って、それを見返したときに、おっこれいいじゃん、と思う写真が撮れている割合が非常に低い。ある魚の漁獲量が年を経てどんどん減ってしまったというニュースがあると、横軸に西暦を、縦軸にその魚の漁獲量を取った棒グラフで示されるように、横軸に西暦を縦軸に自分が撮った写真から「おっ、これいいじゃん」と自分が思えた写真の数を取った棒グラフを作れば、それと全く同じ形になるんじゃないかな?なんて思ってます。まぁね、実は読了した本の冊数だって同じようなグラフになるわけです。

 たとえば砂浜にカメラを持っていくと、そこに遊びに来て居る人が三々五々いたり、サーファーが波に乗ったり、景色だってダイナミックな雲が焼けたり、シルエットになった箱根山や富士山が見えたり、そういうちょっと素敵な光景を、人やサーファーや波や雲や空や山並みが、いつだって作ってくれている。それをちゃちゃっと撮ると、なんとなくいい雰囲気の写真が写るけど、それも実は惰性に基づく結果なんじゃないか。

 ちゃんと上のような新しい街とか、砂浜じゃなくて、雑然とした「生きている町」でそういう写真が撮りたいんだけど・・・まぁスランプってことでしょうかね(笑)

 フイルムカメラを持ちだすとなにかが修正されるだろうか?むしろしばらく写真を撮んないでいた方がいいのかな?いや、それより撮りたい写真のコンセプト(と言うほどでもないけど)のようなことに全く意識的ではないからかな。なにか機材の縛りとか普通じゃない撮り方にこだわればいいのかな・・・こんなこともあるものです。

 すいませんつまらない文章でどうでもいい独白のようなことでした・・・