お稽古とラーメンと餃子

お稽古のあと、Nさんとラーメン屋にメシを食いに行った。

土曜日の花火大会についてとか話す。

Nさんの家の屋上から花火がよく見えるそうで、みんなで集まって見ることになっている。

結婚の話とかする。

Nさんの家はきっとお金持ちだ。

地下にプールがあるそうだ・・・

家はちょっとしたビル。

近所にもビルやマンションを持っていて賃貸しているらしい。

本人はわかってないかもしれないけど。。

お金に対する危機感のようなものが違うんだよなぁ。


マンションのエレベーターで表現してみる。

例えば10階建てのマンションがある。

5階までしか乗ることを許されていない。

それが持たざるもの。

お金があるひとは10階まで昇れる。

お金がないと行けるところが狭まる。

ぼくはそれがイヤなんだろう。

大は小を兼ねるだろう?

別に10階に行きたいわけじゃない。

5階でも4階でもいいんだ。

だけど、10階に行く権利だけは持っていたい。

10階に行く力だけは持っていたい。

アフリカの難民は地球環境問題に取り組むのだろうか?

動物愛護の精神について話したらわかってもらえるだろうか?

子供が飢餓にさらされている母親に

「いま地球の環境問題は深刻なんです!」

と言ってもねぇ・・・

自分たちのことで精一杯なんだからそんなところにまわせる心の余裕がないんじゃないか?

六畳一間のアパートでもしあわせに暮らせる自信がぼくにはある。

だけどそれは今が永遠に続くなら、だ。

50年たっても今のままでいられるなら可能だろう。

実際には歳もとるし子供ができたりするし親戚付き合いとかもある。

経済状況は人間関係にも深く影響を与えるはず。

「裕福なひと」と思われたってしょうがない。

そうじゃなくて、せめて「一般的な家庭」になりたいだけなんです。

それはきっとぼくが一般的な家庭で育てなかったからかな?

復讐みたいなもんですかね・・・

夢見ていたのはエプロンをした母親がいて、スーツを着た父親が帰ってきて「ただいま」「おかえりなさいあなた」。リビングがあって、父親は帰ってくると子供とお風呂に入るのを楽しみにしている。子供も父親とお風呂に入るのが好きで、父親が帰ってくるまでお風呂に入らないで待っている。お風呂から出ると夕飯の支度ができていて、母親が「さあ食べましょう」と言ってみんなで「いただきます」と言う家庭。

誰もが思い描ける平凡で普通の家族像。マスコミなどに植えつけられた「普通」だけれど、ぼくはずっとそれに憧れていた。

子供の頃からずっと「こんなふうだったらいいな」と思っていたから、いまそれを実現したいのだと思う。

そんなものがなくったってしあわせは作れる。

足の小指が動くだけでも本当はしあわせなんだ。

髪の毛が伸びることだってしあわせだし、筋肉痛になることもしあわせなことだ。

それでも「普通」にこだわるのは、自分の思い通りに箱庭を作りたいだけなんだろう。

一種の呪いみたいなもんですかね。。。





※ちなみにNさんとは口論になったわけじゃなく仲良くトークしてビール飲んで帰りましたよん