2004-01-03-Sat 申年はお笑い界が熱い!?
■[rakugo][memo]申年は 
実家の本棚で発掘した高田文夫さんの『楽屋の王様』によると、申年はお笑いが盛り上がる年なのだとか。お笑い番組がいろいろ目につくのは、わたしの興味が向いているからかと思っていたが、あながちそうとばかりも言えない? そうであって欲しいなぁ、いい意味で。
chomo
2004/01/04 19:52
てなわけで,6日別口を考えていたんですが日暮里に行こうかと思ってます。どうぞよろしゅう。
mittei-omasa
2004/01/04 20:04
なるほど、そういうことですね。ウーン、誰がその件についてコメントするか、興味津々です。
2003-07-30-Wed
■[kabuki][memo]左團次さん 
ふじたさんのページ*1が更新されていたので、さっそくお邪魔する。「シブい本」のコーナーで、戸板康二『劇場歳時記』が取り上げられていて、そこに、なんと!左團次さんのエピソードが紹介されている。
子役の頃、「寺子屋」の菅秀才を演じていた左團次さん(当時は男寅ちゃん)が、半紙に書いていたのは「へのへのもへじ」だったというのを、誰かが舞台写真で見つけたというお話。
役の性根からいうと、これはいけないことなんだけど、戸板先生はなぜか、微笑ましく感じ「大人になったら、いい役者になるにちがいない」と、確信されたという。
*1:A Moveable Feast http://www.on.rim.or.jp/~kaf/
2003-07-07-Mon
■[memo][words]ざっかけない 
二、三年前のことだが、ラジオの故郷探訪の番組に出たときである。生まれたのは隅田川のほとり、矢ノ倉町(現・東日本橋一丁目)というところで、幼児の思い出や土地の歴史を語っているうち、「帯をざっかけなくしめて……」としゃべったら、スタジオで司会をしていた永六輔さんが、
「ワァ、ざっかけなく―。久しぶりにうかがった」
と大喜びをしてくださった。永さんは浅草の生れで同郷のようなものだからわかってくださったのである。しかし一般人には意味不明かと思う。何しろ『広辞苑』にも載っていないし、手許の『江戸ことば・東京ことば辞典』にも出ていない。これはいいかげんとか無造作にとかの言葉にいいかえていいだろう。
ざっかけない姿を恥じて「ウマイかっこうでごめんなさい」なんて来客に弁解したりするが、現代人には一層わからない言葉かも知れない。元結をモットイと発音し、芝居をシバヤという人がこの世に何人いるだろうか。それこそざっかけない言葉と思われていた東京の下町言葉だが、現代の若い女性のものと比べてずっと品がよいと思うのは私の身びいきだろうか……。
近藤富枝『美しい日本の暮らし』(平凡社)P.60-61
■[memo][eat]幕の内弁当 
当時を振り返って、今でも忘れられない味が一つある。劇場で食べる幕の内弁当なのだ。鰆の照焼にしても、玉子焼きにしても、つくねやちくわぶから野菜の末までもひたすらおいしい。分量も豊かで食べきれないうちにヂリヂリと開幕ベルが鳴り、何度口惜しい思いをしたことか。
「当り前だろ。吟味した材料を使い、だしも本格、魚も炭で焼き、腕の確かな料理人が目を光らしてこしれえたものよ」
とその道の人に言われてしまった。昔のやり方を守ったら現代では三倍の価格をとってもひきあわないそうだ。
近藤富枝『美しい日本の暮らし』(平凡社)P86-87
■[memo][words]葵 
若葉のころというのはまさに恋の季節である。葵を胸につけてひとびとが行列をする葵祭が五月十五日に行われるが、葵とはあう日のかけ言葉なのだ。葵祭の男女たちが若葉のかげで恋を語らう人言える。
近藤富枝『美しい日本の暮らし』(平凡社)P.109
■[memo][kabuki]二代目左團次 
「左団次と佐多女」という文が収められている。佐多女とは、祇園の松本佐多のこと。谷崎潤一郎に「女傑であり、すぐれた政治家にも教育かにも事業化にもなる人だった」と言わしめた女性。
近藤富枝『美しい日本の暮らし』(平凡社)P.139-141
■[memo][haiku]久保田万太郎 
湯豆腐やいのちのはてのうすあかり
は、天下の認める久保田万太郎の名句だが、火鉢の灰を眺めつつ苦吟しての制作と思いきや、『銀座百点』という雑誌の忘年句会の席上で生まれたという。
近藤富枝『美しい日本の暮らし』(平凡社)P.176
■[memo][haiku]久保田万太郎 
私は俳人では久保田万太郎が好きで、彼の小説も戯曲も読むけれど、やっぱり俳句に一番ひかれている口である。というのも、万太郎の句、
短夜のあけゆく水の匂かな
の水の匂いのする大川沿いの町に、同じく袋物商の娘に生まれた私である。やるなら和歌ではなく、俳句の道に進む人間だったろうに、五、六年に一句の成績とは情けない。
万太郎の地縁はこれだけではない。彼は震災後は日暮里の住人で、私は田端で育ったのである。一方、田端には芥川龍之介がいて、万太郎の家とは、朝日(煙草)一本のむうちに着く距離だった。この二人にまつわる心あたたまる話がある。それは句作の筆を絶っていた万太郎に、しきりに復活をすすめたのが龍之介だったというのだ。二人は派は違うが、いってみれば俳句友達ともいえる関係だった。昭和二年五月、万太郎の第一句集『道芝』が出るが、その序文を龍之介が書いた。友情のこもった透明な美しい文章である。そしてその二ヵ月後に彼は自殺する。
近藤富枝『美しい日本の暮らし』(平凡社)P/177-178