エロティシズム

バタイユの『エロティシズム』がちくまで新訳になっているのを知らなかった!
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第1部 禁止と侵犯(内的体験におけるエロティシズム;死に関係した禁止;生殖に関係した禁止;生殖と死の類縁性;侵犯 ほか)
第2部 エロティシズムに関する諸論文(キンゼイ報告、悪党と労働;サドの至高者;サドと正常な人間;近親婚の謎;神秘主義と肉欲 ほか)
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学生か院生のブログにこういうのがあった。傾聴にあたいすべしかな?
彼(彼女?)の解釈だと、行為や形や人格的主体の形相の二重化(=同一化)ということになっちまう。この引用の前の文脈でキリスト教批判を反キリストをもってきてまじめに?(苛烈に?)やるのかパロディでやるのかという、私にとっては些末な議論で終わっているような気がする。それだったらニーチェ主義者としてのバタイユがとどまってしまうような気もする。
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「マダム・エドワルダは「私は神だ」と述べるように神=キリストとして、つまり娼婦としてのキリストとして描かれています。その「聖なる存在」としての神の「陰部=俗なる部分」を見るというのが、この場面でバタイユが表現しようとしたことです。言い換えると、バタイユは、聖なるものと卑猥なもの、つまり聖と俗の関係をこの物語の中で連想させ、結び付けようとしたのです。それは、中国の処刑写真を見るときのバタイユの思考の中にもあったものです。中国人処刑囚は、バタイユにとって、キリストの磔刑のイメージと同じものとして写ったのではないかというのが今回の僕の発表の内容でした」(d.hatena.ne.jp/shirime/20070621)。