貧困の読書、読書の貧困について

《貧困の読書、読書の貧困について》
 ときどき、学生や院生が「この本は良い本ですか?」とか「読むべきでしょうか?」と相談にこられる。その時に、良い悪いを判断するのは君の役目じゃないのかね?と聞き返す。つまりこういうことだ、ひょっとしたら(僕の意見なしに)読んでみたら君にとってものすごくためになる本かもしれない、でも僕は「だめだよ」と言ってしまう。だとしたら、僕は君の未来の可能性を削いでしまう。逆もある、僕が良い本だといっても、君にはぜんぜん心に響かない。むつかしくて歯がたたないかもれない、あるいは簡単すぎて「先生は僕をバカにしたのかな?」と疑念がわくことだってある。君が、もう自分の責任で良い本か悪いものか判断できる証左だ。あるいは、良い/悪いは、人によって違う。つまり、各人にはイケてる本とイケている本があるわけで、それは良い/悪いという判断とは何の関係もないということだ。日本には図書館の本を借りまくって乱読する習慣と環境が貧困なので、限られた良書を自分で購入しなければならないという《悪い伝統》もある――日本は本当に先進国なのか疑いたくなる。読書と消費行為が一義的に結びついてしまうのだ。君の先生方もまた同じ病気に冒されています。そして図書館に、乱読するだけの品揃えの本がなく、また探している本が収書されていないことがある。大学図書館が端的にいってドケチで気前がわるいだけだ。今では電子図書購入に予算を喰い過ぎて、紙のメディアのものの購入をすることにしり込みしている。収書に圧力をかける、見識のある大学教授もほとんどいない。豊富にあるはずの図書館が、個人の消費で穴埋めしなければならない貧困状況、その悪習が、「この本は良い本ですか?」とか「読むべきでしょうか?」という相談を形づくるのである。