なんだかわからないや〜いろんな感想

2014-09-06

[]■サカサマのパテマ _原作&s&d吉浦康裕g又賀大介

・サカサマのパテマ

・2013年11月公開映画

・原作・監督・脚本・レイアウト演出・撮影監督/編集:吉浦康裕


◇稀に見る秀作!8月に放送したWOWOWの録画を見る。


◆とても面白かった!(監督も作品も)全く予備知識なく見たので最高度に意表を付かれた。吉浦監督、いったい何者・・・


◇(わたくし的には、TVでCMをやっているのを見たくらいで)あまり話題にならなかったような印象だったけれども、これってアニメーション史的に重要作ではないでしょうか。ユニーク極まりない、垂直方向!の、王道の冒険活劇マンガ映画!!


◆アニメーションの運動的に、これって、コナンの三角搭からのラナを抱いての脱出、カリオストロの城の幽閉されたお姫様の所へ侵入するルパンのシークエンスで感じられるアニメーション的な快感の延長線上にあるよね(女の子を庇護する状況を含めて。)。絵的には、スターウォーズの帝国の逆襲のラストも思い出すところ(うう、古い例しか出てこないあたりが・・・)。


◇まさに同じ動画的な垂直運動(落下する、上昇する)のモチーフを強度最強にして、これでもかと繰り返す。見終わっていまだに、天井に吸い取られそうな感覚(下に落ちるのではなく、天井に吸い取られるのです!)が残る。これ!映画館で観たかったよ!


◆そして、垂直運動を演出のメインに持っていくるための舞台仕立てがユニークで非常に冴えている。少年と少女、それぞれの生活する世界が<重力的に上下逆さまで存在>していて出会うとい異常性。


◇一方が、空に向かって(足を空に向け、頭が大地側になって)「落下する」のに、もう一方は普通に大地に立って安定している。少年少女相互に安定して会話できるのは、たとえば、少年がその世界の重力にしたがって地面に足をつける一方、もう一方が納屋の天井に足をつけて、天井を大地のようにしてすくっと立つという状況に限られる。(文字で説明してもわかりにくいと思うので、是非実作を見てほしい!!)


◇この状況から、すばらしく王道でありながら、いまだかってないボーイミーツガールが描かれる。

・放っておくと「空に落ちていく少女」は、「普通の大地の重力にひかれる少年」が、全力で!「しがみ付く」ことで、空に落下して死ぬことを免れる。上下逆さまで、しがみつくってことは、お互いの胴体に顔を密着するってことでしょう!・・・おお、生死の境にある、青春の甘酸っぱさよ・・・。


この仕掛け、お互いの生死をお互いが握っていて、それが性的な状況を意識しないわけにはいかないのに、それを超越して、無色透明になりただひたすら一生懸命・・・というのが、この作品を冒険活劇と表現するひとつの所以。


・この文章では、「少年が少女にしがみついていないと少女が空に落下して死ぬ」としか書いていないが、逆に「少女が、少年にしがみついていないと少年が空に落下して死ぬ」という立場逆転の状況も発生する。「庇護するもの」と「庇護されるもの」、この立場の逆転が二人の関係性の成長、そして物語における「危機とそこからの脱出」といういくつかある山場にも直結する。すごい。すごすぎる!


・「大地の重力にひかれた床からふつうに立っている少年」と、「天井を大地として、<サカサマ>に立つ少女」。二人が最接近するのは、やはり頭部、顔なんだよね。男女の顔が接近して、お互いにドキドキするシチュエーションは、王道でありながら、これはいまだかってないビジュアルだ。特に(予想外の冒険の結果)中盤の「世界の天井」で見つけた飛行船内で「サカサマ」な二人の最接近がグッと来る!


・ただ、基本的な見どころは、「放っておくと空に落下して死ぬ、か弱き少女」を、少年が庇護し、助けて、救い出す。・・・という超王道の冒険活劇マンガ映画なんですよ。


◆さて話はずれるが、この絵的に異常な(サカサマな)少年と少女の関係性の構図と「危機とそこからの脱出の物語」に、世界の成り立ち、世界の秘密の物語が直結するというのも、この物語の素晴らしいところ。


◇重力的にサカサマの二つの世界は、一方が人間的な氏族的社会で、一方が1984的な非人間的な管理社会。物理的にも、社会の性質的にも、「サカサマ」なのは見てのとおりだが、ラストであっと驚くサカサマな世界の秘密が明らかになる。


◆ところで、さっきカリオストロの城とコナン(未来少年の方!)に言及したけれども、少女を搭の最上階に閉じ込める変態ロリコンおやじとそれを助けにいく少年という構図は、監督を始めたばかりのころの宮崎駿の「冒険活劇マンガアニメーション」の、明らかな末裔だと思う。


◇ただ、この作品のオリジナリティのひとつは、コナンの三角搭からラナを抱いての落下も、カリオストロ城での、ルパンの超人的な尖塔と尖塔の飛び移りも、「マンガ映画」ということで誰も理屈を問わなかったが、この王道の「冒険活劇マンガ映画的な動き」をSF的に昇華しているところ。


何度も言うけれども、すごすぎる。その意味で、この作品を「マンガ映画的」というのは正しくなくて、実際は「SF活劇」なんだよね。


◆最後に、個人的には、あえて図式的に描かれた「オーウェルの1984的な管理社会」のディストピアが好きすぎる。仄聞すると、吉浦監督の商業デビュー作「イブの時間(2008〜2010)」は管理社会をモチーフとしているらしいので、あとで見るぞ!


◇なお、Wikipediaによると、吉浦康裕監督はずっと自主制作アニメーションをやっていた方らしいが、この作品のシナリオ的、構図的、動画的な完成度は、凄すぎる。一体何者なんだ・・・

2013-01-11

[]■ささみさん@がんばらない01明日からがんばるs高山カツヒコc&d龍輪直征g佐々木貴宏

監督:新房昭之

シリーズ構成:高山カツヒコ


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(ご注意)

◆経験上「読んでいない原作ものの感想」には決して手を出すまいと思っておりますが(だいたい見当はずれの感想になるのよ。。。)、この第一話(だけ?)があまりにワタクシ的にドストレートだったもので・・・つい。


◇ワタクシの感想(妄想)が、原作と全く乖離していたりしたらご愛敬ということで宜しくお願いします。。。。

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◆おー!、神林テイストじゃん!!燃える!!!<強固に妄想する引きこもり少女>と、<その妄想を破壊しようと試みるモノ>との闘争。


萌えアニメとして、ダラダラした定型な(いささか異常な)少女の日常を淡々と描き、しかしそこにそこはかとなく侵入する違和感。


◇演出的に「顔を決して見せない兄」は、主人公である少女ささみさんに「使い古されたギャグ漫画の執事」のように付き従う。


◇その日常に寄り添って、かろうじて付置される「昔の漫画」的な、派手な学園ものなキャラ付けをされた3人の少女は、その淡々とした学園萌えアニメの日常にのっとり行動する。


◆視聴者であるわたくしは「違和感」と「古くささ」を抱きつつ、単なる日常萌えアニメだと油断する。・・・・だけど、突如、世界が(この回では文字どおり)ドロドロに崩壊しはじめるのですね。


◇その崩壊する世界は、やはり極度に定型な「漫画」的な闘争として表現され演出されるのだけれども、主人公ささみさんの<妄想>を破壊しようという明確な意図をもった物語的なメタ存在による行為なのであります。・・・・ここが、超燃えポイント!!


うーん、こうくるか。


◆ところで、この作品で何よりも不気味なのは、主人公ささみさんの内面が一切描写されていないこと。引き籠もりらしいのだけれども、あっけらかんと明るい<妄想>としての表面の行動と言動のうらに、どんなドロドロがあるのか(それともないのか)、超期待してしまうのでした。


◆昨今のアニメが萌えが主体になって、(ワタクシ的には)つまらなくなって幾星霜。今期の京都アニメーションは、商店街人情もので「萌えから普遍」を目指している一方、新房監督は、「メタフィクションに萌え」という方向なんでしょーか。


◇ところで、こんな漫画的で古くさく、だけど錯綜した話を、誘引力あるようにどのように小説に書いているのか見当もつかない。ライトノベル恐るべし。

2012-01-05

[]■輪るピングドラム24愛してるs幾原邦彦伊神貴世c幾原邦彦山崎みつえ中村章子古川知宏d幾原邦彦山崎みつえ中村章子g西井輝実進藤優中村章子

◇最終回。


◆(今にして思えば)作中、第一話から何度も振られていながら、まったく思い至らなかったが、この物語は「銀河鉄道の夜」をインスピレーションの源のひとつにしていると思った。(きっと、既にいろんな人が語っていることでしょうが・・・・)


◇第一話で、高倉家の家の外を歩く少年達に語らせ、この最終話でも再度、語られる対話が直球。

「だからさ、リンゴは宇宙そのものなんだよ。手のひらに載る宇宙。この世界とあっちの世界を繋ぐものだよ。(・・・)(あっちの世界とは)カンパネルラや他の乗客が向かっている世界だよ。」(少年A)

#上記の部分は第一話のみ。最終話は以下のみ。#

「つまり、リンゴは愛による死を選択したものへのご褒美でもあるんだよ。」(少年A=子供カンバ)

「でも、死んだら全部おしまいじゃん。」(少年B=子供ショウマ)

「おしまいじゃないよ。むしろそこから始まる・・って、賢治は言いたいんだ。」(少年A=子供カンバ)


◆これ以外にも、蠍の火、苹果(リンゴ)という文字使い、そもそもの幻想の鉄道(地下鉄だけど・・)など、薄々なんか記憶にひっかかるものがあるなーと思っていて、十数年ぶりに「銀河鉄道の夜」を再読してみました。


◆そうしたら、モチーフだけではなく、どうもこの物語のテーマそのものもかなり直球に「銀河鉄道の夜」に近いと思ってしまった。


◇たとえば、「銀河鉄道の夜」における一挿話。イタチに追われて井戸に落ちて溺れた蠍(さそり)の懐述とされるもの。((原典はそういうものらしいが)参考にした本では平仮名が多く読みにくかったので一部漢字に変換。句読点も勝手に追加した。)

「ああ、私は、今まで幾つのものの命をとったかわからない。そしてその私が今度、いたちにとられようとした時は、あんなに一生懸命逃げた。それでもとうとうこんなになってしまった。(・・・)どうして私は私の体をいたちに呉れてやらなかったろう。そしたら、いたちも一日生き延びたろうに。どうか神様。私の心をご覧ください。こんなにむなしく命を捨てずどうかこの次にはまことのみんなの幸いの為に私の体をお使いください。」


◇あるいは、「幻想第四次元の銀河鉄道」車中で出会った「鳥を捕る男」の様子を見た主人公ジョバンニの懐述。

「ジョパンニは、なんだか訳もわからずに俄に隣の鳥捕りが気の毒で堪らなくなりました。鷺をつっかまえてせいせいしたと喜んだり、白いきれでそれをくるくる包んだり、ひとの切符をびっくりしたように横目で見て慌てて誉めだしたり、そんなことをいちいち考えていると、もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持っているものでも食べるものでも何でもやってしまいたい、もうこの人の本当の幸いになるなら自分があの光る天の川の河原に立って、百年つづけて立って、鳥を捕ってやってもいいというような気がして、どうしても黙っていられなくなりました。」


◆全般に私の中に残っていた宮沢賢治のイメージは、「生物に宿命づけられた食物連鎖の輪への罪悪感とそこから出発する関係性」、「過剰な自己の撤退(≒自己犠牲)による他人の幸福の祈念」だったりしたので、概ね「銀河鉄道の夜」という童話から摘出した上記二つはイメージに合うでしょうか。(ていうか、宮沢賢治については本当に今回読んだのが十数年ぶりなので、違っていたらゴメン。)


◆さて、この回でサネトシとカンバが語る「生存戦略」はこうだ。

「真に純粋な生物な世界では利己的なルールが支配している。そこに人の善悪は関与できない。・・・つまり、(純粋な生物の世界のルールに従うならば)もう何者もこの運命(=「<箱>に比定された人間存在」を破壊すること)を、止められないのさ。」(サネトシ)


◇(私の思いこみ上の)賢治さん的に言えば、人間は生物の食物連鎖的な運命の輪からは逃げられない。生物である以上、理性を持つ人間であっても利己的な理由による殺し合いは必然だ。(ヒマリの命がどうやって助かるかは「物語世界の主宰者」のひとりであるサネトシにかかっている。「人間という<箱>」を壊すことを望むサネトシに従うことでヒマリは助かる。のであれば、利己的にふるまうまでだ。)


◆だけれども・・・・・・というのが、この物語最大のテーマ。だけれども、人間には、どんな自己消滅の危機に瀕しても、他人を思いやることが出来るこころがあるじゃないか。


◇再び「銀河鉄道の夜」から引けば、大洋で氷河に当たって遭難した旅客船で我先にと人々が逃げ出す中、連れの子供達だけでも助けたいと願う家庭教師の青年。しかし、そのためには、脱出ボートに既に乗っているたくさんの子供達を放り投げ、また彼らを切実に助けたいと願い遭難船に居残っている父母の思いを踏みにじらなければならない。


◇だから、この青年には「どうして見てるとそれが出来ない。」。そして、「そんなにして助けてあげるよりはこのまま神のお前にみんなで行く方がほんとうにこの方達の幸福だとも思いました。」


◇ちなみに、「つまり、リンゴは愛による死を選択したものへのご褒美でもあるんだよ。」という劇中のセリフは、遭難後、銀河鉄道に乗車したこの青年と子供達に渡されたリンゴのことだと思われます。


◆この物語で言えば、「人間」という「象徴の箱」に「体を折り曲げて入った」カンバとショウマが、「自分がどんな形をしていたのか、何が好きだったのか、誰をすきだったのか。」を忘れそうになった極限の状況(作中では具象的な箱型の牢獄が描かれていますが、あれは人間存在の象徴的な描写だろーと思う。)で、カンバが二つに割ってショウマに与えたリンゴこそが、理性を持つ人間としてのもうひとつの「生存戦略」の象徴なんじゃあないだろうか。


◇そのことを思い出して、カンバは、「サネトシの生存戦略」の列車から別の運命の列車に乗り換える。


◆しかしその前に、カンバとショウマにはもうひとつの「生存の課題」があった。義理の妹であるヒマリを女性として独占したいという煩悩。また、ヒマリの視線も危うい。

「ね。生きるってことは罰なんだね?・・・私、高倉家で暮らしている間、ずっと小さな罰ばかり受けていたよ。」(ヒマリ)

「そうか・・・僕らは始まりから全て罰だったんだ。」(ショウマ)


◇しかし、輝かしい幼い日々の日常。楽しかった共同生活。義理とはいえ、みな兄妹だった。そのことをカンバを体から情念の血流を流しながら悟り、ショウマは、カンバから分け与えられたリンゴという象徴から思い出す。そして、自己消滅を悟りながら、「リンゴを分け合う」ことを選ぶ。


◇私が思うに、この結末は、激烈な異性愛を昇華させて、隣人愛、肉親愛に着地したのだと思う。宗教的な悟りを開いたといってもいい。「過剰な自己の撤退(≒自己犠牲)による他人の幸福の祈念」こそが、人間存在における究極の美しさなのだと語っているんじゃあないかなあ。。。。


◇「銀河鉄道の夜」における、こころやさしい蠍はさそり座になった。

「そしたら蠍は自分の体が真っ赤なうつくしい火になって燃えて夜の闇を照らしているのを見たって。いまでも燃えているってお父さんが仰ったわ。本当にあの火それだわ。」


◆さて、話そのものは、愛の力によって病気の妹を救うという、童話のようなシンプルな道徳物語だけれども、モザイクのようなシナリオのシリーズ構成、アクロバテックな語り口、画面構成、つまり演出の手練手管が壮絶に素晴らしかった。傑出してすごいと思いました。


◇また、具象的な物語を右左に揺さぶった末に破壊し、最終的には抽象的な物語構造を抽象のまま提示して、しかも一般的に面白いという稀なる着地点。素晴らしい。



◆◆以下メモ◆◆

◇「運命の列車」を乗り換えてしまったため、サネトシの指向する、「もうひとつの可能性の世界」が描かれなかったが、人間という<箱>から出るってことは、「幼年期の終わり」〜「生物都市」〜「ブラッドミュージック」〜「エヴァンゲリオン」の系譜のセンだろーか。

「君たちは決して呪いから出ることは出来ない。僕がそうであるように箱の中の君たちが何かを得ることなど無い。・・・この世界に何も残さず、ただ消えるんだ。塵ひとつ残せないのさ。・・・君たちは絶対に幸せなんかには成れない!」(サネトシ)


◇第一話で、高倉家の家の外を歩く少年達に語らせ、この最終話でも再度語られる。

「つまり、リンゴは愛による死を選択したものへのご褒美でもあるんだよ。」(子供カンバ)

「でも、死んだら全部おしまいじゃん。」(子供ショウマ)

「おしまいじゃないよ。むしろそこから始まる・・って、賢治は言いたいんだ。」(子供カンバ)


「ねえ、僕たちどこへ行く?」(子供ショウマ)

「どこへ行きたい?」(子供カンバ)

「・・・・そうだな。じゃあ・・・」(子供ショウマ)

2011-12-23

[]■輪るピングドラム23運命の至る場所s幾原邦彦伊神貴世c幾原邦彦相澤昌弘中村章子古川知宏柴田勝紀d相澤昌弘中村章子金子伸吾g相澤昌弘石井久美西井輝実馬場充子

◆サネトシのゆったりした包み込むような男性的な優しい声と柔和な表情と余裕のある動作、しかしそれに相反した皮肉屋で嘘つきで、結構余裕が無い様子。


◇「抽象の地下鉄線内」で、彼に挑戦的に話かけるモモカとの「世界をめぐる対話」でのサネトシの表情演出が絶品。


◇戸惑いと侮りと、それを抑えつけて同じ目線のフリをするサネトシが実に印象的に表現されています。素晴らしい。


「(私の名前は)モモカよ。」

「・・・・・・・・・・サネトシだよ。」

文章だと判りがたいがこの間と、表情演出が絶妙すぎる。


◆ところで、この物語世界は二人の主宰者によって、善と悪の神話的な闘争が行われてきたと言えるのではないでしょうか(善悪の分かれ目は、「今生きている<日常の世界>が嫌いかどうか」というわりと主観的かつ身勝手な理由。この身勝手さが神様らしいよね。)。


◇ふたりの神は世界の成り立ちに大きな影響を与えたにもかかわらず、全面的な対決で半身を吹き飛ばされた中途半端な存在になってしまった。


◇しかし、悪の神は16年の年月をかけて策略を巡らし、復活のための乾坤一擲の大勝負に出る。身体が消滅したにもかかわらずそれに対抗する善なる神・・・・というカンジだよねえ。神話だから、何故善か?、何故悪か?は深く追求されない。


◆特にこの回アバンタイトル、エンディングの、日常という牢獄を嫌悪する「悪の神」としてのサネトシの深み、しかしそれに反する論理の飛躍、感情的な高ぶりが素晴らしい。


◇ここでのサネトシのモノローグが、実に静かで、哲学的で、説得力があるにもかかわらず、結論の論理が飛躍している部分の性根の腐り具合がなかなか出せないカンジだと思うよ。


(アバンのサネトシのモノローグ)

「ある朝、気がついたんだ。・・・僕は世界が嫌いなんだって。・・・世界はいくつもの箱だよね。人は体を折り曲げて、自分の箱に入るんだ。」

「ずっと一生そのまま。・・・やがて箱の中でわすれちゃうんだ。自分がどんな形をしていたのか、何が好きだったのか、誰をすきだったのか。」

「だからさ。僕は箱から出るんだ。僕は選ばれしもの・・・だからさ。」

「僕はこれからこの世界を・・・壊すんだ。」


(エンディングのサネトシのモノローグ)

「人間というのは、不自由な生きものだね。・・・・・・何故って?だって、自分という箱から一生出られないからね。」

「・・・その箱がね、僕たちを守ってくれる訳じゃない。僕たちから大切なものを奪っていくんだ。」

「たとえ隣に誰かいても、壁を越えて繋がることも出来ない。僕らはみんなひとりぼっちなのさ。その箱の中で、・・僕たちが何かを得ることは絶対にないだろう。」

「出口なんてどこにもない。・・・誰も救えやしない。・・・・だからさ!・・壊すしかないんだよ。・・・・・人を。・・・箱を。・・世界を!」


◆話は変わりますが、丸の内線について。何故劇中の地下鉄、「丸の内線もどき」がこの物語の象徴として扱われるのか。


◇ほぼ円環に近い路線を持ちながら、荻窪と池袋という地理的に(割と)近い駅は永遠に接続されない。円環は閉じない。(・・・ていうか、荻窪と池袋はちょっと近いぐらいだが、丸の内線の大部分を構成するループが、未完の環状線という趣を出しているってカンジ。)


◇終点荻窪を延長すれば、池袋に至り、池袋を延長すれば荻窪に至る。もし、円環が閉じるとすれば、荻窪も池袋も運命の始まる場所であり、かつ運命の至る場所であるという両義的な意味を持ちうる。あくまで可能性の話。


◇これを人間の人生のメタファーと見る。人生はぐるぐる回っているんだ。何度でもやり直せる可能性があるんだ。失われてしまった日常も取り戻せるかもしれないんだ。ただし、「輪の欠けた部分」を補完さえすれば。・・・・・・・って、思ってみました。


◆◆以下メモ◆◆

・ヒマリの主治医として、本来の医師と存在を置換していたサネトシは去った。(この存在の置換が描かれた回は、言葉で説明せず、静かに場面でだけで演出し、早朝夜明け前の内省的な雰囲気を醸し出していて、実に印象に残った。)

「サネトシ先生はどこなんですか?」(ショウマ)

「サネトシ・・・・だれのことだね?ああ・・・そんな名前の助手が昔いたな。」(ヒマリの主治医)

「昔・・・?いえ、僕は先生の診察室で・・・・」(ショウマ)

「そういや、先日奇妙な夢を見たよ。・・・その助手と久しぶりに再会して、笑いあって鍋をたべた。・・・不思議な夢だった。」

「その人・・・今は?」

「死んだよ。16年前に。夢の中で彼は自分を幽霊だって・・・言っていたかなあ。・・・・・・・・・非科学的だねえ。」


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「つまり君たちは亡者に呪われているんだ。僕は「呪い」のメタファーなんだ。今度こそ、見せつけてやりたいんだ。帽子の彼女にね。世界が壊れる所を」(サネトシ)


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「さあ、行こう。・・・・・沢山殺してくれ。・・・試そうよ。君の愛の力で何人ころせるか」(サネトシ)

「ああ、沢山壊すさ。」(カンバ)

「これで君は僕の親友だ。(サネトシ)


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「僕、恐かったんだよね。君とその日記が存在していると、またモモカちゃんにやられちゃうような気がして。」(サネトシ)

2011-12-19

[]■UN-GO_10海勝麟六の葬送〜坂口安吾「明治開化安吾捕物帖”冷笑鬼”"赤罠"」よりs會川昇c木村隆一d高橋健司g矢崎優子村井孝司斉藤英子武本大介

◆不思議で不安定で、しかし挑戦的なシナリオだよね。・・・原作では、繰り出す推理は間違いだらけだが、社会的にも小説内の存在的にも「絶対に安定した視点」としての存在である「勝海舟」、この翻案では「海勝麟六」を殺人を企てたものとして告発し、「他人を巻き込んで自殺した」として演出する。


◇この翻案シリーズでは、「社会に受け入れられる(都合が良い)物語」を重視し、「真実はそれに従属すべき」だと考える海勝麟六にとって、「創造された(かもしれない)この犯罪物語」は、「社会に受け入れられる(都合がよい)物語」でなければならない。


◇ということで、そういう展開になるんじゃないでしょうか。


◆・・・しかし、「別天王(べってんのう)」という<「物語を創造してヒトビトの現実認識を改編する存在」>を設定した時点で、劇中の伏線をちりばめた演出、シナリオも、かなりどーでも良く見えてしまうという悲しいパラドックスが・・・・。


◇ていうか、そもそも、オレ、推理小説的付置が徹底的に興味がないことに想いがいたるのでした。


◇それはともかく、国会の参考人招致のあたりでのシナリオの自由奔放さ(何故か因果ちゃんが参考人招致で呼ばれたり。)を見て、作劇のデッドロックを想起してしまった。・・・(人工的とはいえ)理詰めな推理小説世界で、「理詰め」を完全に無効にしてしまう存在を設定してしまうって、どれだけチャレンジャーなんだろうか、・・って思ってしまいました。


◇海勝会長のセリフと口パクがずれているあたりが明らかに前回からの仕込みのネタなんですが、(理詰めで考えても(きっと)報われないという意味でも)どうでもいいと思えてしまい・・・。


◆加えて、致命的なのが(どうやら映画版で描かれているらしい)因果と新十郎の関係が説明不十分ということかな。{ヒトの隠された真実」=「ミダマ」を喰らう存在である因果に駆動された新十郎という構図が、(すごく面白そうなカンジはするのだけれども!)コレまでTVシリーズで語られた内容と乖離がありすぎる。


◆◆以下メモ◆◆

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・新十郎とカザモリの、海勝の犯罪容疑を明らかにする動機に関する対話。

「オレは真実を明らかにしたいだけだ。」(新十郎)

「あなたは元々真実になんか興味がありましたか?(・・・)因果によれば、あなたは、因果のために探偵になった。」(カザモリ)

「ちがう。オレはヒトの真実を知るために探偵になった。それが唯一オレにできることだからだ。」(新十郎)

「ヒトの真実・・・それがミダマなのでしょう?あなたはミダマを因果に与え続けると約束した。・・・だから探偵になったのではないですか?・・因果がいない今、もう真実を求める必要もないのでは?」(カザモリ)

「勝海は別天王を使っている。・・・野放しに出来るか?」(新十郎)


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・国会の参考人招致での海勝の懐述。(結構これが、この物語のコアに直結。)

「2001年、・・・誰もが旅客機が突入する光景を見ながら、後に流布されたビル爆破説。荒唐無稽な水爆説まで信じるものがいた・・・。2011年、今なお影響が残るあの災害を、・・こともあろうに地震兵器などというもののせいにして納得しようとしたヒト達がいた。(・・・)ヒトは真実は隠されていると考えがちだ。・・・そして自分だけは、その真実にたどり着けると信じるモノがいる。・・・・だが、真実など無数にある。・・・たった一つの真実で満足するのは、そこで考えることを止めることにすぎない。」(海勝)


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・新十郎を前にしての因果少年の絞りだすような懐述。

「僕はミダマを食べたいんだ。・・・だけど、新十郎は殺すなと言った。・・殺さずにミダマだけ食べるのは・・・面倒くさいんだよ・・・。」(因果)


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「まだ、海勝麟六が別天王を手に入れていたと考えているのか?」(警察庁警備局課長)

「だとしたら、死んだように見せかけるのはたやすい。」(新十郎)

「海勝麟六は・・・・生きている?」(警察庁警備局課長)


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・民間刑務所の自称小説家との、「別天王」の性質をめぐる対話。

「偶然アレに出会ってから、その能力について実験と記録を繰り返してきた。・・・アレにできることは全て試した。・・・だから、アレは私のものだ。かえせ!」(自称小説家)

「ふーん。この生者と死者というのは?」(新十郎)

「(・・・)それが面白いところだ。たとえば、ここに生者がいるとする。お前達が別天王と呼ぶアレは、それが死体だと錯覚させることは難しい。(・・・)生者は喋り動く。脳は視覚や聴覚からその影響を受け、別天王から受け取った物語との矛盾に耐えず悩まされる事になる。・・・たとえば、ここで私が結城新十郎であると見せかけるとしよう。だが、君をそこに本物を見ているため、脳は情報の矛盾に耐えられない・・・・・・。」(自称小説家)

「・・・だが、爆発事故で原型をとどめていない遺体なら?」(新十郎)

「あぁ、それなら関係者にその死体は自分のものだと思いこませることは用意だねぇ。・・・必要なのは「声」を聞かせること。そして、別天王を視覚認識することによって・・・・」(自称小説家)

2011-12-15

[]■UN-GO_09海勝麟六の犯罪〜坂口安吾「明治開化 安吾捕物帖"冷笑鬼""赤罠"」より〜s會川昇c和田純一d京極尚彦g竹知仁美冨澤佳也乃中山初絵稲吉朝子糸島雅彦

◆(原作故にこの物語に元来内在されている)人工的な合理、整合を求める推理小説的結構と、前々回からクローズアップされて来た、このアニメーションシリーズのオリジナルな仕掛け、不合理の極みである「ヒトの言葉を現実化する」神のごとき能力。


◇この回に至り、この二つの相容れない物語駆動力が相克する展開になってきたことが明示された。(「ヒトの言葉を現実化する」ことに説得力を持たせるエピソードが、TVシリーズでは省かれたのが気に入らないが)かなり興味深い構図だ。


◆原作とされる「安吾捕物帖」もつまみ読みしてみたけれども、おおよそ古くさい推理小説にすぎず、このアニメーションシリーズから見てみれば、「素材」にすぎないと見ていいだろう。


◇はっきり言って、原作とされるものをそのまま現代に通用するエンタテイメントのシナリオにするのは無理だと思った。(実際「推理小説的な構造」は原作を反映しているようだが、それ以外のキャラクター、人間関係、因縁など、ほぼ完全にオリジナル。)


◇その現代的でない、古くさくも人工的な推理小説的世界認識を、ざっくりと切り取ってきて、まさに「世界構造」として提示する。ここに、このアニメーションシリーズ最大の作劇的な仕掛けがある。


◇「古くさい推理小説が世界を見ている歪んで人工的な視点」を「そもそも世界がそのように作られている」という話として大きく拡張しているんですよ、きっと。脚本家としては、企画をムチャぶりされて考え抜いた末の素晴らしい曲解だと思う。


◆ただ、古くさい人工的な推理小説的な構造を「世界構造」としてとりだすのはいいが、そのままでは物語の風呂敷は広げられない。そこで、昔ながらの推理小説ってのが、そもそも人工的な閉じた世間、人間関係、因果で成立している「構造物」であることを逆手にとり、その「構造物」を創造する存在を仮定してみたんじゃないかなあ。


◇「この物語世界は、そもそも(推理小説という)構造物にすぎない」という前提に立てば、別天王(べってんのう)などという、その存在の原理、理由をすっとばして説明しない不合理な存在を持ってくると言うのも大いにありだと思う。


◇この大きく広げた風呂敷をどのようにするのかが、すごく楽しみだ。実際どーすんのよ、これ!


◆◆以下メモ◆◆

「別天王を使えばどんな嘘でも真実にできる。海勝がそんなものに頼るやつだったとはな!」(新十郎)