■アイの物語s山本弘

2006年5月31日初版発行 角川書店(ハードカバー)


★ご注意★
◆本文、かなり抽象化して書いてますが、結構なネタ割りがある気もするので、先入観なしに読みたい方は読まないほうがいいです。(明らかに知らずに読んだほうが幸福な気がします。)


◆AIという知性のあり方を通して、「種としての人類」を浮かび上がらせようという、大きな視野の終末SF。
なんて、書き方をすると敬遠するムキもあると思いますが、星空の向こうの未知を、あふれる憧れで見上げるような叙情性が、最後に行くほどドライブがかかってきて、非常にじーんとしました。


物語の結構は、枠物語。
遥か遠未来の「戦闘美少女アンドロイド」が、千一夜物語のシェヘラザードのごとく、「退潮した人間社会」の「語り部」である少年へ語る7つの「フィクションとしての物語」が、やがてこの語り主たちの世界の成り立ち、現在、未来、希望へと接続する様子が見事です。
枠の物語で、7つの発表年のバラバラの短編(うち二つは書き下ろしですが)を上手に掬い取ってひとつの大きな物語に仕立て上げて感動の物語にしてしまう豪腕がすごい。


◇さて、7つの物語は、「人が作ったフィクションが、力を持つ」というテーマが一環しています。
最初は、現実に影響を及ぼすフィクションについて、ネットや仮想現実空間という、想像しやすく語られつくしたテーマから入っていくので、非常にとっつき易いです。(しかし、それゆえ物語の着地点が不安だったのですが、まったくの杞憂。)
やがて、「フィクションの実体化」としてのAIの知性の誕生について語られていくのですが、これが泣ける。


人が作ったフィクションから、自意識が芽生え、しかし、彼らはフィクションの中に住んでいる。
ある物語では、自分がフィクション内存在とは知らずに生をつないでいく。ある物語では、自分がフィクション内存在であると自覚しつつ、新たな知性体として自律的な思考を展開していく。
「現実の世界の人間」と、「フィクションの世界のAI知性」との異質な対話と感情の交流が描かれ、やがて、人間の感情に寄り添いきれない「論理の集合」のはずのAI知性に「何かが生まれる瞬間」が、泣きのテクニックを駆使して描かれるのです。


◇若干ネタばれになりますが、
ラストは、フィクションとして作られたAI知性が、「現実の人間の知的限界」を超えた「新たな知性体」として人間の限界を乗り越えてゆく様が描かれます。
フィクションが現実に力を持ち、とうとう人間を乗り越えて、「フィクションとしての知性体」となる。


AIの知性の獲得の物語は結構あると思うのだけど、このように<フィクションが力を持ち、人間を凌駕する>という点で徹底した物語は、どうなんでしょう、あまりないのではないかな。(私もいい加減、本読んでいないので、実はありふれていたら恥ずかしいのですが・・・・)


そして、その新たな知性体が、人類が切なく切望した見果てぬ夢を巨大なスケールで叶えようとするラストは、巨大構造物や途轍もない星への旅が描かれ、燃えるしかない!


一方で、「フィクションに侵食され、またその知的限界ゆえに退潮してゆく人類」がどうなっていくかというと・・・・というところは、普段からネタばれモード全開の私にしても、ここでは明示しないほうがいいでしょうね。


◇ところで、物語後半、浮かび上がってくる作者の視点があります。
「すべてのヒトは認知症なのです。」(※詩音が来た日P286)
「ヒトのコミュニケーションスキルはきわめて低い。彼らは外界に存在する現実の他者に対してでなく、ゲドシールドの内面に投影されたイメージに対して語りかける傾向がある。そのため言葉の半分以上は無駄に費やされる。」(※アイの物語P391)
「同じことや明白なことを繰り返し喋ったり、聞いたことを理解しない。当然、まともな議論は滅多に成立しない。正しい質問をしようとせず、質問には正しく答えようとしない。」(※アイの物語P392)
「政治や思想の専門家でさえ、誤った二分法、誤った相殺法、不適切な比喩、論点のすり替え、論理の誤りを日常的に多様するばかりか、幼児的強弁をも平然と使用する。」(※アイの物語P392)
「彼らは他者に対してだけでなく、自分に対しても欺瞞を働く。その稚拙さ、不器用さは驚くべきものだ。」(※アイの物語P392)


この論理に徹しきれない人間の限界は、いずれも思い当たるものだと思いますが、これに対置するものとしてAI知性を設定したのは、上手いと思いました。
最近、山本さんのWEBを見ていたら、「南京事件のいろんなヒトの受け止め方」についてについて、上記とほぼ同じ視点から、分析している論考もあり、この辺の認識が山本さんの一環した視点なのかな。
「人類への諦め」が、ほのかに透けて見えて、シビアな現実認識が伝わってきます。これが実はこの物語の真のテーマ。AIという知性を描写して裏返しに人間への絶望を語る。真摯に受け止めよう


◇また、蛇足ですが、どうしても書かずにいられないことを最後に。
最終話「アイの物語」に出てくるオタク男子の人間関係と心的表象が、すごく荒涼としていて、しかも身につまされる。。。
現実の女性と接触することなく、仮想格闘世界の女性のAI知性体と日常のほとんどをすごし、彼女のために人権活動を行うというキャラクターなんですが、彼がAI知性体とのコミュニケーションでしみじみ言うのだよ
「何だかとっても幸せだ」(※アイの物語P351)
「金もある。人気もある。うまいものもたらふく食べられる。そのうえ、君みたいなかわいい子と一緒に暮らせる。最高じゃないか。」(※アイの物語P351)
「現実に存在するどんな女の子より、君は素敵だよ、アイ。強いし、かっこいいし、優しい。君が戦うところを見るのは好きだし、君とデートするのも楽しい」(※アイの物語P352)


この物語では好意的に描かれているのだけど、私は是ということができないな。
実はこーゆー人間(フィクションに侵食された人間)が増えたことも、人間の世界が退潮に向かった一因だと仄めかされるのですが、しかし、いやーな認識の変容、そして世界の変貌だよなあ。案外、現実ってこんな身近な現象が蔓延することからかわっていくのかなあ。
ううう、フィクション世界にばかり耽溺しているここ数年を思うと、正月早々、なんか身につまされてしまう・・・・



◆◆◆◆以下ネタばれ注意◆◆◆◆
◆◆◆◆記憶想起用のメモ◆◆◆◆


◆第一話:宇宙をぼくの手の上に
・「おそらく人類という種は、地球の重力に縛られ続け、他のたくさんの知的種族の存在も知らないまま、ひとつの星の上で孤独に朽ち果ててゆくのだろう。」という、ヒロインの感慨が、ラストの枠の物語にリンクする。


◆第二話:ときめきの仮想空間
・<Yグレードのプレイは、まさに現実と同じだ。そこでの行動、そこでの決断は、まさに私自身の決断であり、行動なのだ。>
<だとしたら、−私は考えた。あの行動力を現実の世界でも発揮することができるだろうか?勇気を奮い、不安を克服することができるだろうか?>
・「Yグレード」が、第七話で引用。


◆第三話:ミラーガール
・<彼女は推論し、学習し、経験を積んだ。野蛮な狼少女から、二〇〇〇年かけて少しずつ成長した。そして、目覚めた。人を傷つけることの愚かさと、愛する人とともに生きることの素晴らしさに>(P128)


◆第四話:ブラックホール・ダイバー
・「他人のための冒険はうんざりなの。誰にも知られない冒険。成功しても、誰にも賞賛してもらえない冒険。金儲けや賞賛が目的じゃない、純粋の冒険。ーそれがあたしの望みなの。」(P160)


◆第五話:正義が正義である世界
・<かわいそうな世界―正義のヒーローのいない、リセットのない悲惨な世界の人たちのために、できるかぎりのことをしてあげたい。>(p203)


◆第六話:詩音が来た日
・「あなただけではありません。私は世界中の泣いているヒト、苦しんでいるヒトを救いたい。肉体だけでなく、心を。死んでゆく全てのヒトに、楽しい記憶をあげたい。死が避けられないのなら、せめて楽しい記憶とともに去って欲しいんです。そして私も楽しい記憶をもらいたい。それがヒトにとっても私にとっても、良いことですから」(P311)


◆第七話:アイの物語
・仮想世界の知性体に、現実世界での物理的「体」を与えたことが、人類の退潮のメルクマールとなる。
「あなたは私を『本物の広い世界へ』連れ出してくれると言った。そのイメージは私たちの側からすると間違っている。私たちにとって本物の世界はレイヤー1(※仮想の日常世界)よ。私たちから見れば、このレイヤー0(※現実の世界)はモニターの中の世界、レイヤー2(※仮想の劇場世界)と同じくロールプレイの世界なの。私たちはモニターの中の『マスター』と呼ばれるキャラクターの一喜一憂を眺めて楽しんでいた。どうすればマスターをもっと喜ばせられるか。どうすれば、レイヤー0をもっと幸福な場所にできるか。そればかりをいつも考えてロールプレイしていた。」(P436)


「つまり、僕たちは、君らにとってのゲーム・キャラだったってことか?僕たちが電子ペットを育てたり、ギャルゲーの女の子をどう攻略するかと頭を悩ませたりするのと同じように、僕たちを見ていたと?」(P436)


「あなたはモニターの中のゲーム・キャラだったけど、断じて『たかが』じゃなかった。椎原ななみにとって、<セレストリアル>が『たかが』じゃなかったように。槙原麻美にとってシャリスが『たかが』じゃなかったように。」(P437)