五十嵐太郎・菅野裕子著『様式とかたちから建築を考える』を読んで

五十嵐太郎・菅野裕子著『様式とかたちから建築を考える』(平凡社, 2022)

横浜国立大学の菅野先生より新著をご恵贈いただいた。私のような業界の隅で細々と生きる一介のサラリーマンを気をかけていただき恐悦至極、感謝感激、早速背筋を正して拝読したのだが、これまた素晴らしく「素人に容赦ない」内容だったのでここに書き留めておきたい。

本書は先立つ五十嵐太郎、菅野裕子著『装飾をひもとく:日本橋の建築・再発見』(青幻舎, 2021)の原点となる書籍である。前著は日本橋界隈の近代建築の様式、ディテールを仔細に解説した同名展覧会の図録という位置付けだったが、本書はより広範に亘り、国内の近代建築とその引用元となる西洋建築の比較解説がメイン。菅野氏の職場が横浜ということもあり、横浜の古典主義建築の紹介は類を見ない程、具体的な解説が綴られている。

 


本書は1.観察編、2.様式論、3.歴史編、4.図解編の4つの章立てから編成されている。

1の観察編では、様式的に特色のある5つの近代建築にフォーカスし、建築意匠論としての詳説を加える。例えば、露亜銀行のイオニア式柱頭で用いられた四隅に張り出した渦巻きの形状について、元々古代ギリシア建築の出隅部分で用いられたものが、ローマ時代に出隅以外でも使用されるようになった、スカモッツィの建築書に詳解図が掲載され、バロック期にこの表現が好んで用いられた、ということを知った。このような知識は少なくとも私の所持している書籍には見当たらず、一般書で解説されることは後にも先にもまずないと考えられる。

2の様式論は、擬洋風、複製建築、ポストモダンといったキーワードから掘り下げている。一見、バラバラな建築ごとの論考が、「様式」の観点から再編集され、様式の裏に隠された意図を剥き出しにする。

3の歴史編は、膨大な引用から西洋建築における様式の変遷をめぐる。本来ならばここだけで1冊の本にまとめられそうなほど濃密な内容は、大学の西洋建築概論を受講しているようなスピード感があり、うっかりしていると振り落とされそうだ。

最後の4の図解編は、1や前著で紹介された国内の古典主義建築のオーダーにおける柱頭を16個取り上げて、詳解図で細やかに解説している。同じイオニア式、コリント式でも、設計者による違いが一目瞭然であるとともに、戦前までの建築家がこうしたオーダーの意匠に心を砕いたという事実に、改めて感じ入ってしまう。令和の現在では、オーダーを適切に扱った建築を生み出せる建築家も、社会的な要請も絶えてしまった。この図解が一般書に掲載され市販されたという意義は大きい。

 

 

一般書はその筋の素人でも置き去りにされないよう、一般的に知られる言葉を用いて、事物の概要を簡潔に述べるに留まる。広く浅くである以上、踏み込んだ解説が副えられる例は少ない。一方、専門書は読者に一定の知識を有することを前提として多くの言葉の解説が省かれ、よりきめ細かな事実を照らす。

こうした住み分け、言わば読者に対する“忖度”は本書では通用しない。研究者の目から見た驚き、発見、類推、感動が、豊富な資料と経験に裏打ちされた言葉の隅々からありありと伝わり、読み手はその専門領域をめまぐるしく駆け抜ける追体験を通して、建築の知りえなかった見方に肉薄する。頭を空っぽにして読むにはやや不向きだが、より深く古典主義建築を知りたいという知的好奇心旺盛な方にはピッタリとはまるだろう。

本書に通底する思想は、最終章におけるガブリエーレ・モロッリ氏の「人間の目は知っているものしか見ない」という言葉が象徴的に表している。私も日常の仕事の中で知りえた知識により、街の見方がガラリと変わったこともあり、この言葉には大変共感を覚えた。この街の建築の形は、いかに法規と経済性、施工性、メンテナンス性、不動産としての資産価値といった要素に拘束されてできているのか、自身がその場に身を置かなければ知ることがなかった。一方で古典主義建築は、現代の我々からみると遠い世界の出来事に見えてしまうが、つい1世紀前の建築家は真剣にその表現について考えていた。知らなければ見過ごされそうな部分に対する執拗な分析と考察により、古典主義建築への解像度は飛躍的に向上するだろう。

こうした本書の「素人に容赦ない」内容は、古典主義建築とその生み出した建築家に対し真摯に向き合う姿勢の表れでもある。それは建物に対する慈しみ、眼差し、畏敬の念、そして穏やかな讃辞を内包している。 

2人の建築史家が紡ぎだした珠玉の様式論、近代建築の見方をより深く知りたいならば必携の一冊である。私も手元に置いて、何度も読み返したいと思う。

 

購入はこちらから。

honto.jp

旧坂本小学校解体前見学会レポート

f:id:miyashitajunya:20220226144825j:plain


先週末はTwitter近代建築界隈で話題になっていた台東区下谷にある旧坂本小学校の解体前の見学会に行ってきた。
『旧坂本小学校』は下谷区入谷尋常高等小学校新校舎として1926年竣工、鉄筋コンクリート造3階建てで、設計者は阪東義三(東京市営繕課)、施工者は長谷川精二郎と伝えられる。*1「復興小学校」とひとくくりにされることも多いが、関東大震災以降の土地区画整理事業の対象区域外だったので正確には「改築小学校」と分類されるのだそうだ。

f:id:miyashitajunya:20220305003159j:plain


プランはコの字型で、中央に屋外運動場を備えている。片廊下型で教室群は全て屋外運動場に面して配置され、劇場のように中庭を囲んでいる。ちなみに復興小学校の配棟計画はコの字の他、L字、ロの字のいずれかになっていることが多い。

f:id:miyashitajunya:20220226144818j:plain
f:id:miyashitajunya:20220305180757j:plain
左:エントランス側、右:中庭側

昇降口に入ると、正面の三連の尖頭アーチを抜けて屋外運動場に繋がる。この三蓮の尖頭アーチは、エントランスと同じ軸線上に配置され、視線を中庭へと誘導すると同時に、通風と採光を確保している。形態はドイツ・オーストリアなどの東欧圏で流行していた表現主義風で、目地のないシームレスで彫刻的なフォルムが特徴的だ。分離派建築会メンバーの同窓生である阪東義三ならではといえる。

f:id:miyashitajunya:20220305181614j:plain
f:id:miyashitajunya:20141029111615j:plain
左:旧坂本小の階段室塔屋、右:九段小の階段室塔屋

また外観で特徴的な階段室のパラボラアーチは、復興小学校ではしばしば用いられてきた。写真右は在りし日の九段小だが、坂本小では九段小のように時計台を兼ねる訳でもなく、朴訥で不穏な表情を見せる。

f:id:miyashitajunya:20220306172214j:plain

坂本小学校立面図*2

設計図の立面図では縦方向が通ったデザインであったことから、着工後に何らかの理由でデザイン変更されたとみて良さそうだ。

f:id:miyashitajunya:20220306080419j:plain

階段室のヴォールト屋根と水切り部分

屋上から見るカマボコ型(ヴォールト)の屋根。曲面屋根の宿命として汚れやすいというのがあるが、出隅に水切りのための段をつけていたというのは初めて知った。このヴォールトはそのまま内部空間にも露出し、余剰空間はやや使いにくそうな物置になっていた。

 

f:id:miyashitajunya:20220226143026j:plain

f:id:miyashitajunya:20220305182139j:plain

講堂は現存している最古級のもので、こちらは鉄骨造。トラスで組まれた壁柱が突き出し、その隙間に大開口を設けている。

 

f:id:miyashitajunya:20220226140649j:plain

講堂を中庭から望む

この講堂のファサードはRC造校舎との連続性に配慮しているが、よく見ると本体とはやや趣が異なり、円柱とエンタブラチュアからなる神殿風にまとめられている。特に柱は付加的な装飾であるため、エンタシス(円柱の下部又は中間部から上部にかけて細くなっている柱)のようにも見え、神殿的な性格を強調している。

f:id:miyashitajunya:20220226140824j:plain

講堂のエンタシス?の柱型

なぜ学校に神殿?と思ったが、内部壇上の重厚な扉に注目いただきたい。こちらは「奉携所」と呼ばれる、天皇、皇后の御真影を掲げた場所だったという。

f:id:miyashitajunya:20220305183212j:plain

左:ステージ壇上の奉携所、右:額縁に廻された雷文装飾

大正期以降、日本の教育現場において天皇の影響力を強めるべく、奉安殿が設置された。奉安殿とは、天皇御真影教育勅語の謄本を納める施設で、旧坂本小にはこれに類する「奉安庫」に加え、御真影を掲げた「奉携所」が講堂に設けられた。講堂デザインに神聖さを象徴する神殿の形式を取り入れたとすれば一応辻褄が合うな、と勝手に想像してしまった。

奉携所の三方枠には雷文があしらわれ、扉には銘木の一枚板が贅沢に使用されているが、それだけ重要な場所という位置付けだったのだろう。

 

f:id:miyashitajunya:20220305183741j:plain

一般教室

西・北・東の校舎の内、西側校舎が最も原型を留めていた。廊下側には欄間付きの木製引戸、木製窓がそのまま残り、RCラーメン構造の特長を存分に生かした開放的なプランニングとなっている。

 

f:id:miyashitajunya:20220305183947j:plain
f:id:miyashitajunya:20220305183959j:plain
階段と手摺のアップ

階段はモルタル洗い出しの人造石仕上げ。丸みを帯びたデザインは児童の安全性に配慮しているのだろう。

 

f:id:miyashitajunya:20220305193435j:plain


音楽室の後部にはタイル貼りの手洗場が設けられていた。なかなか手の込んだタイルワークだ。

室内を一巡し、外観撮影のために外に出た。

f:id:miyashitajunya:20220305193848j:plain
f:id:miyashitajunya:20220226144312j:plain


外観を撮影していると、エントランスの片隅にひっそりと記念碑(校長名碑)が残されているのに気づいた。表現主義の薫香に満ちたなだらかな稜線で立ち上がったコンクリートの台座、月桂樹のレリーフでピンときた。これは戦前のものかもしれない。

f:id:miyashitajunya:20220226144318j:plain

左:戦時中の応援旗、桜に「入谷」の文字、中:記念碑の校章は「入谷」の別バージョン、右:昭和26年から廃校になるまで使用されていた「坂本」の校章

室内の展示資料によると、桜花に「入谷」の文字が浮かぶデザインは、昭和26年に「坂本」に改称されるまで使用されていた。つまりこちらの碑(写真中)は入谷尋常高等小学校時代のものである。さらに側面には金属製の解説文があった。一部欠落した部分を除き、読み取れる部分を転記してみたい。

f:id:miyashitajunya:20220306000306j:plain

 本校ハ明治三十二年七月ノ創立ニシテ年ヲ閲スルコト二十有八年
 大正十四年十一月二十日改築起工仝十五年十一月十五日竣成ス
 記念塔ハ𦾔校舎校庭ニ建設セシモノナルガ改築校舎落成ニ際シ其
 一部ヲ改造シテ新𦾔記念ヲ表スル為此ニ移セシモノナリ
   大正十五年十一月十五日
 東京■入谷■■■學校長 松田久稔 誌
 校舎設計技師■學士   阪東義三
 工事請負人       長谷川精二郎
(拙訳:本校は明治32年7月の創立で、28年後の大正14年11月20日に改築校舎が起工、大正15年11月15日に落成した。この記念塔は旧校舎の校庭にあったが、改築校舎が落成した際に一部を改造し、新旧校舎の記念のためここに移設した。)


この碑の解説文に設計者の阪東義三、施工者の長谷川精二郎の名が刻まれている。こうした校長名碑が戦時中の金属供出対象にならず、今まで残っているのはなかなか貴重であり、ぜひ残してほしい。

f:id:miyashitajunya:20220226144124j:plain

都内の復興小学校・改築小学校は老朽化から解体される例もあれば、旧十思小学校(中央区)のように「十思スクエア」としてコンバージョンされ再活用される例もあり、復興小学校は誕生から100年を目前にして岐路に立たされている。それでも当時最新鋭であったRC技術で100年もつ躯体は現代建築よりも長寿命、適切な補強でまだまだ延命できる可能性は残っている。

この旧坂本小学校は団体の積極的な関与により、元在校生によるコメントが書き込まれるイベントが行われた。建物の壁という壁に書き込まれた昔を懐かしむコメントは、建物が生きて使われていた当時を生々しく謳う。これだけ沢山の人に愛されてきた建物が無くなってしまうのは、当事者でなくともやはり寂しい。

f:id:miyashitajunya:20220306170255j:plain

都内には廃墟になってまだ活用の目処が立たない復興小学校が残っている。これらの有効な活用方法と適切な運用がなされることを願ってやまない。

おわり

*1:日本建築学会編『日本近代建築総覧 : 各地に遺る明治大正昭和の建物』技報堂出版, 1983

*2:台東区文化財報告書第55集 台東区の歴史ある建物シリーズ 3『台東区の復興小学校』台東区教育委員会, 2017

『東京のかわいい看板建築さんぽ』発売のお知らせ

f:id:miyashitajunya:20200311063125j:plain

© tegamisha

先般、看板建築の3冊目、自身の名前では2冊目となる著書を上梓した。
本書は東京都内に現存し、かつ現在も営業中の店舗に焦点を絞ったさんぽ本で、都内の下町めぐりに最適な構成となっている。

タイトルからも察しがつくように、メインターゲットを女性に据えているものの、建物鑑賞の着眼点においては私のTwitterフォロワーからしたらお馴染みのもので、今まで書籍や雑誌などに紹介されてこなかった建物も多数掲載しており、資料的にも価値あるものに仕上がっている。男性諸兄も表紙やタイトルに惑わされることなく手に取っていただきたい。
また前著と異なる点として、専門的な用語を極力使わずにわかりやすい言葉遣いを心がけ、初心者にもとっつきやすい体裁を整えた。見本誌を送った実家の両親曰く「こっちの方がわかりやすい」そうだ。

掲載した物件数は計45件。構成は私の方から提案したのだが、やはりエリア毎にした。ほとんどが同時期に固まっているため年代順にしてもあまり意味がないし、表層のマテリアル別にしてしまうとページごとの変化に乏しくなる。その点、エリアごとであれば散策に適した構成にできる。
「神田・神保町エリア」「日本橋エリア」「築地・銀座エリア」「品川・芝・高輪エリア」「台東・墨田エリア」「その他エリア」の6つのエリアに分け、そこから各7~10件ずつほどセレクトしているのだが、実はこれがなかなか難儀な作業だった。

というのも今回はメインビジュアルが写真のため、引きが取れないと煽りのキツい写真になってしまい、そうした物件は当初から避けた。またデザインが良いからといって極度に荒廃した建物も選びずらい。ここがイラストとの決定的な違いで、いくつか掲載を断念せざるを得ないケースが生じた。
またセレクトの途中から「現在営業中で訪れることができるもの」という方針が加わり、仕舞屋を除かなければならなくなった。(それでも魅力的ないくつかの仕舞屋はコラムに掲載した。)
さらに昨年に出した『看板建築 昭和の商店と暮らし』や『看板建築図鑑』との差別化のため、物件の被りを減じる措置もとる必要があった。
ようやく掲載が決まったものの取材を断られてしまったケースが加わり、結果的に僕が当初提案したものは半分程度しか残らず、残り半分は追加提案をすることになった。
「東京の看板建築なのに、○○が掲載されていなかった」という批判もあるかもしれないが、都内のものはほぼすべて検討の俎上に上げており、それぞれ選べなかった理由があることをお許しいただきたい。

こうした多難なセレクトにも関わらず、掲載できた建物はみな表情豊かで、しかも生き生きとその土地での暮らしを謳歌しているようにみえる。商店としての役目を終えた建物にはなかなか見出せない「生命感」といえばよいだろうか、現店主のもとで手を加えながら営みが続けられているものがもつ輝きがあるのだ。写真家の岩崎美里さんによる洗練されたカットが、こうした建物の魅力を引き出している。

セレクトのあとは撮影箇所の指示を出し、撮り下ろしの写真に300~400字程度の解説文とキャプションを加えるスタイルで文章を書き連ねていく。3冊目ともなるとこうした作業は慣れたもので、いくつかの修辞法を使いつつ、時に序盤のフリを文末に回収する、といった技術を密かに組み込んだりしながら文章を組み上げていった。

表紙を飾るのは江東区佐賀の「コスガ」。王冠にも似た黄色のパラペットを戴く重厚感のあるファサードながらも、窓や入口に非対称の崩しが取り入れられ、正統派の西洋建築にはない面白さが滲み出ている。1冊目が「パリ―食堂」、2冊目が「蜷川家具店」ときて、「コスガ」と、それぞれの書籍のカラーを象徴するような物件が選ばれているのがなかなか興味深い。出版社の編集方針が違えば、成果物には自ずとカラーが出る。私も出版社も、同時期に同じテーマで出す書籍が似たような本にならないかという心配はしていたものの、結果的には杞憂であり、切り口によって全くの別物に仕上がった。本作りの妙味でもある。

f:id:miyashitajunya:20200311063208j:plain

© tegamisha

しかし、自分で言うのもなんだが、よくも1年間に3冊も出したなぁと思う。特に『看板建築図鑑』と『東京のかわいい看板建築さんぽ』は同時並行で執筆を進めるという荒業だった。

そんなキャパオーバー寸前の状態であっても、それぞれ納得のいくレベルの書籍を複数出版させてもらうという経験は、平々凡々なサラリーマンにとってなかなか味わえるものではない。これもTwitterというツールなしには実現しなかったことで、逆をいえば少々ニッチな趣味でも信念もって発信し続ければ、チャンスを得ることもある。
たまたま「看板建築」というコンテンツが世間的に見直されている時期とかぶったのもあるかもしれないが、結局は新しいことを始めるには、誰かのお墨付きを得る前に、まず「やってみる」しかない。そういうことを肌で感じた2年間だった。

またチェック作業を通して、自分の筆跡がそのまま残ってしまうこの作業は、きっと何度繰り返してもスリリングなものだろうなと思った。
建築はひとたび建ててしまえば、数十年と残るが、その場に身を置かなければ本質的に知ることはない。一方で書籍は何千部と複製され、どこかの書店や図書館、あるいは個人の書棚に残ってしまう。誰にどんな影響を与えるのか、全く計り知れない。趣味本とはいえ内容のミスは許されないというプレッシャーは常に感じていた。
百戦錬磨の作家であっても、その筋に通暁した研究者であっても、きっとこの校正作業には神経を尖らせているに違いない。もっともそのクラスになれば優秀な校正者がついているのかもしれないが、自分しか知りえない情報も多々あり、妥協は自分に跳ね返ってくる。
3冊を通して、執筆よりも校正の方が神経を削がれるということも学んだ。

こうした労苦を乗り越えて、『東京のかわいい看板建築さんぽ』は東京の下町を味わい尽くすための必携書だと、胸を張って言えるものに仕上がった。初めて書籍に掲載される物件も多数あり、しかもすべて現時点で訪れることが可能。それでも、ここに掲載している建物も数年後には数を減らしている。
本書を手に、今ある東京の風景をいま一度見つめてほしい。

 

『看板建築図鑑』発売のお知らせ

f:id:miyashitajunya:20191218205845j:plain


2019年12月24日、前著『看板建築 昭和の商店と暮らし』の出版から7ヶ月後、満を持して『看板建築図鑑』を出版する運びとなった。初の単著である本書は、2018年の春に「大福書林」という出版社から届いた「このブログ記事にある立面図集をつくりませんか?」というお誘いからスタートした。実は2018年の年始に「3年以内に書籍を出版する」という目標を掲げ、イラスト制作とブログ、SNSを活用し積極的に「仕込み」をしていたという経緯があり、こうしたお誘いがあるのはある程度狙い通りのものであったものの、本ブログ掲載の直後に反応があったのは少々面食らってしまった。

 

さて話を伺ってみると、大福書林は瀧さんという小柄な女性が個人で興した出版社であり、ここで出した『いいビルの世界』、『喫茶とインテリア WEST』といったレトロ建築の本は、出版社名こそ意識しなかったもののかねてから気になっていたものだった。そして何度かお会いして対話を重ねるうちに、流行に左右されることなく丁寧に本づくりをおこなう姿勢が徐々にみえてきた。大手出版社ならば手続きに時間がかかったり、上司や営業といった担当者以外の意向にも左右されたりするという噂も耳にするが、会社の運営から営業、編集までひとりでおこなう個人出版社では、二人の合意さえ取れたら物事が進む。大手書店でも平積みや面陳列が目立つ営業力も然ることながら、こちらの要望も最大限取り入れてくれそうな物腰の柔らかさ、何より美しいもの、さりげないものに対する瀧さん自身の感性の鋭さに惹かれ、この出版社であれば作品の魅力を余すことなく引き出してくれるだろうと確信し、瀧さんのお誘いを受けることにした。

 

f:id:miyashitajunya:20191218205851j:plain

 

本書は看板建築のイラストを中心とした作品集である。それと同時に、看板建築にまつわるさまざまな知識を紹介する、専門書とはいかないまでもかなり専門書寄りの書籍でもある。僕は建築史家ではないが建築士ではあり、世間的には同列のプロとしてみられる(きっと建築家、建築士、建築史家の違いを説明できる専門外の方は少数だろう)。さらに後世に残る資料にしたいという気宇壮大な企てから、知識面でもやや踏み込んだ内容になっている。

たとえば「看板建築・リヴァイヴァル」という言葉が出てくるが、これは僕のつくった造語で、平成以降に昭和初期の看板建築のファサードを模してつくられた比較的歴史の浅い建物を指している。ノスタルジーや景観との調和、といった文脈から生み出されていることを指摘したうえで、ゴシック・リヴァイヴァルやバロック・リヴァイヴァルのように、時空を超えて当時の様式(形式)が再評価されつつあることを示している。これは看板建築探しから発見したもので、看板建築をめぐる新たな展開として紹介した。

 

f:id:miyashitajunya:20191218210212j:plain

読み物ページの例

文章において、書籍化となればエビデンスが必要になる。建物の情報については、店の主人に話を伺い、区の図書館や都立図書館に赴いては複写し、郷土資料館や役所への聞き込みなどの地道な作業を経てひとつずつ裏取りをした。特に苦戦したのは建物の竣工年で、資料によってまちまちだったりする。とある市の国登録有形文化財の竣工年表記が店のHPと相違することを市の担当者に問い合わせたところ、近年になって棟札がみつかり、市が発行する資料やそれを基に書かれた媒体が誤りであったことが判明した、ということもあった。自治体等が発行した先行研究資料においても、必ずしも事実が書かれているのではないという教訓は、〈歴史は生き物である〉というエピグラムを想起させる。歴史研究者であれば日々直面する文献間の齟齬という課題に興味本位で立ち入り、深淵を覗きこんで深淵に睨み返されたこともしばしばあった。とまれ、イラストを中心とした作品集ではありつつも、イラストと同じくらい資料参照とテキストに労力を割いている。

 

f:id:miyashitajunya:20191218210138j:plain

 

肝心のイラストは資格試験の終了後から本格始動させた。線画、色塗りの時間をストップウォッチで計測して作業時間を想定し、それを元に工程表を組み立て、進捗管理をおこなうという方法で、自身の作業時間を意識しつつ妻との情報共有を図る。以前は気ままに暇をみつけては描いていたのだが、書籍化となると悠長なことも言ってられなくなる。まるでアスリートのように日常の娯楽や無駄を削ぎ落とし、時間を管理し、アウトプットを進めていかなければ追いつかなかった。不要な外出も少なくなり、それとともに食事量も調整したので、体重も5キロほど減った。2019年はそうした年で、もはや趣味とは言えない状態になってしまったが、著書2冊と講座開講によって、自分の興味関心事を趣味からレベルアップさせることができたのは、マイペースな僕の性格からすれば十分な成果といっていいだろう。

 

タイトルの『看板建築図鑑』については、当初『看板建築図集』として始めていた一連のイラスト群の最後の文字を取り替えたものだ。「図集」というと、本書のイラストの参考にした『ボザール建築図集』をはじめ、Amazonでは『○○詳細図集』といった建築系や「図案(デザイン)集」といった意味をもつ書籍がヒットする。どちらかというとアカデミックな意味合いで用いられることが多く、一般的になじみがあるかといわれれば、必ずしもそうとは言えないし、そもそも「図集」という言葉自体、広辞苑には載っていない。一方、「図鑑」であれば小学生でもわかり、内容も「図集」よりイメージがしやすい。文字組み時の座りも申し分なく、より多くの人に手に取って眺めてもらいたいという意図から、最終的にこのタイトルにおさまった。

 

f:id:miyashitajunya:20191218210156j:plain

「図解 海老原商店」は本書のために描きおろした

ここで本書の意義について触れておきたい。

看板建築に特化して写真以外の方法で記録した媒体はいままで無かった。あくまで都市景観の一部の特異点として、好事家の観察対象に留まっていた看板建築を、横並びに大真面目に描いて記録したものは、この本が最初になるだろう。「影をつけた立面図」という切り口が果たして適切だったのかどうか未だに議論の余地はあるが、その是非を問う間もなく看板建築は都市空間から姿を消しつつある。そうした一刻を争う状況においては、巧拙ひっくるめて撮影・記録し、どのような方法であれアウトプットしなければならないという危機意識がこの作業を突き動かした。

看板建築のもつデザインの豊かさ、斬新さ、ちぐはぐさは、映し鏡のように、近代化にひた走る当時の日本の状況を象徴している。冷めた言い方をすれば西洋建築の劣化コピーなのだが、ひとつひとつが異なる表情をもち、全てがオリジナルな建築であるという状況は、現代の日本ではもはや叶えられない夢になってしまった。

現在のマスを占める住宅はハウスメーカーによって、サイディングや化粧スレートといった工業製品による均質で劣化の少ない安定した建材を用いて、デザインもカタログからセレクトするように、極めてシステマチックに進められている。そうした企業努力によって、ローコストで一定の質を保った住宅が大量に供給されてきた。

対照的に看板建築は、地元大工との一対一の対話から生まれた唯一無二の存在がほとんどで、その本来の面白さをファサードに表出し、都市空間に雄弁に語りかける。こうした存在が都市空間において貴重なものだという意識が一般に浸透すれば、戦前の建築の保存活用についてより建設的な議論が生まれることだろう。単にノスタルジーとして消費されるものではなく、歴史的な文脈を背負い、かつ一定数現存する看板建築だからこそ、都市空間に目を向ける契機になりうる、と僕は考えている。自治体においては、これを都市の資源と考えるか否かが、歴史や文化に対するスタンスの分岐点になりうる。

『看板建築図鑑』は美しいビジュアル(自分で言うと照れくさいが)によって、看板建築を「再発見」させることがねらいだ。そして看板建築を保存・活用の議論の俎上に上げるための、カンフル剤としての役割も担っている。そのため、いわゆる廃墟趣味やノスタルジーから距離をおいて、純粋な造型の豊かさ、妙味に触れられる媒体としての機能を持たせている。表現も、研究とは違い、今現在都市に生きる人々に目を向けられなければ、この作業の意味が薄れてしまうと考え、視覚的に訴えることを徹底した。その姿勢はイラストのみならず、書籍の装丁にも表れている。

 

f:id:miyashitajunya:20191218210222j:plain

 

版型はやや縦長で、あまり見たことがないプロポーションである。これは、イラストの建物に縦長のものが多いというのと、洋書のような雰囲気を出すためにあつらえた独自のものだ。

表紙の「蜷川家具店」は佐原の伝統的な街並みのなかにある看板建築で、作品としての美しさ、密度は申し分なく、また版型にもフィットしたので表紙を飾るのに最適だった。

製本は並製(ソフトカバー)ではなく上製(ハードカバー)で、保存に適したつくりだが、ソフトカバーの手になじむ感じも捨てがたかったので、台紙の厚さを試行錯誤し、上製でありつつも軽く、手になじむ仕様になっている。この台紙へのこだわりは瀧さんの提案によるもので、並製と上製のジレンマを克服するべく奮闘していただいた。またカバーを外した表紙には竹尾のビオトープという風合いのある紙を採用し、アンティーク調に整えた。

 

f:id:miyashitajunya:20191218210230j:plain

 

こうした数々の工夫によって、作品の雰囲気を最大限に引き出した装丁に仕上がった。全く頭が下がる思いだ。

もし本書を書店で見つけたら、是非手にとってみていただきたい。めくるめく看板建築の世界へと、貴方を誘う準備はできている。


ご購入はこちらから。

 

最後に、本書に関わっていただいた全ての方に、御礼を申し上げたい。ありがとうございました。

『看板建築 昭和の商店と暮らし』発売のお知らせ

2019年5月29日、『看板建築 昭和の商店と暮らし』という本が出版される。看板建築のみに焦点を当てた出版物としては藤森照信氏の『新版 看板建築』(三省堂,1999)以来、実に20年越しのもので、間違いなく看板建築をめぐる言説の貴重な資料のひとつとなる。

この看板建築愛好家たちが待ち焦がれた著書に、僕の描いた立面図と写真の解説文、冒頭の解説、コラムといったテキストが掲載されている。看板建築の立面図を描き始めて1年半、全国の書店に並ぶ書籍への掲載によって、ようやく2018年の年始に自分の中で決めた「3年以内に本を出す」という目標を、曲がりなりにも叶えることができた。まずは機会を与えてくださった出版社さん、そして本づくりに対するあらゆる知識や業界の構造、契約、ゲラチェックに至るまで面倒をみてくれた元編集社勤務の妻にお礼を申し上げたい。

f:id:miyashitajunya:20190525092454j:plain

この本の企画について声がかかったとき、本づくりは中盤に差し掛かっており、大枠の構成や掲載物件などはあらかた決まっていた。声をかけてくださった編集者さんはInstagramハッシュタグを追って情報収集をしていたところ、立面図が目に留まったという。そのため、当初は立面図の掲載について打診をしてきたのだが、話を聞いてみると文章を書くライターも探していた。なにしろ対象がニッチなだけに類書や資料が少なく、普段仕事を依頼しているライターさんにも「予備知識が必要で難しい」と匙を投げられ、途方に暮れていたところだった。立面図を描きながら全国に散らばる看板建築をGoogleストリートビューでキャプチャーし、建築についての解説を加えていくツイートスタイルを築きつつあった僕にとってこれは海原に小船を浮かべていたら甲板にマグロが飛び込んできたような千載一遇のチャンス、二つ返事で文章も請けることにした。

f:id:miyashitajunya:20190525092115j:plain

掲載された立面図

ところがその期限というものが実に差し迫った状況で、わずか1か月の間で初稿を全てアップさせなければならならず、日中の業務時間、家事や食事、妻との時間、立面図イラストを描く時間などを差し引いた隙間時間を投じてライティングを練り上げる他なかった。そこで、写真についての短い解説文などは移動時間にTwitterの非公開アカウントにツイートをする感覚で書き溜めていき、コラム等で事例を提案するものについては休日にサイクリングやランニングを兼ねて足しげく都内を徘徊し、写真を撮り溜めては物件ごとフォルダに整理していった。こうした地道な作業を積み重ね、依頼分の仕事を遅延無く円滑に上げることができたのも、資格の勉強に一区切りがついたのに加え、普段のTwitterによる短文とブログによる長文、本職において身についたデータ整理と活用のスキーム、それぞれの準備運動がうまく噛みあい奏功しているように思う。いつもやっていることの少しだけ延長上に書籍の仕事があったという感じだ。こうした仕事は稀である。

f:id:miyashitajunya:20190525095922j:plain

担当した建物解説のページ

一方で肝心の看板建築自体はメディアでも取り上げられたり展覧会が企画されたりと社会的な知名度も増してはいるが、消失のスピードは依然衰えていない。藤森氏は1999年の『新版 看板建築』のあとがきで、初版の『看板建築』から6年経って多くの看板建築が取り壊されていったと当時の状況を述懐しているが、それから20年も経った。体感的には更に半減はしている勢いで、都心は再開発によって街区ごと刷新し、地方は後継者の不在から駐車場や小綺麗なチェーン店やプレハブ住宅に変わっている。1年前に写されたストリートビューで存在を確認し、いざ行ってみると工事の白い仮囲いが廻されている、といった状況にもしょっちゅう出くわした。失われつつあるものを追う者の宿命で、時には身体の力が抜け、呆然と立ちすくむこともあるが、その反面、新たな発見の喜びは人一倍大きい。そんな悲喜こもごもの渦中に身を投じるのはその道の者にしかわからない密の味で、一度入門したら中々やめられない、誰が言い出したか“沼”という言葉がしっくりくる。

沼に嵌らずとも楽しめる本書は、僕の書いた少々肩肘張ったコラムや解説を挟みながらも、看板建築とそこに住まう人々に光を当て、温かい眼差しを注いだ本だ。ぜひ手にとって、今まであまり知られてこなかった看板建築の世界をちょっとだけ覗いてみてほしい。 

看板建築 昭和の商店と暮らし (「味な」たてもの探訪)

看板建築 昭和の商店と暮らし (「味な」たてもの探訪)

 

藤森照信氏講演会「辰野金吾と東京駅」レポート

 

f:id:miyashitajunya:20190127093127j:plain

図1.東京駅(1914)

2019年1月26日(土)10:30~12:00、東京駅構内の東京ステーションギャラリー2階にて連続講座「東京駅で建築講座」の第2回、藤森照信氏の講演会が催された。題して「辰野金吾と東京駅」。元東大藤森研OBの柳井良文氏の紹介によりこの回を受講する機会を得たので、ここにその講演会の記録をまとめることにする。(以降敬称略)

 

仏文学者辰野隆が語る父親、金吾は「足軽に毛が生えたようなもの」だそうだ。長野県辰野村の庄屋からの姓で、「帯刀膳焚」という下級武士の出身であった辰野金吾は、電車に乗っていると、縁のある地名を見るにつけ息子にエピソードを言って聞かせるような人物だった。

唐津藩の英語学校で、高橋是清(後の日銀総裁、大蔵大臣、総理大臣)が東太郎を名乗り辰野に英語教育を施す。後に高橋を追って辰野が上京し、当時新設された工部大学校に入学する。
辰野家の「人が一やることをニやり、ニやることを四やりなさい」という家訓を守り、大学校時代は人一倍勉学に勤しむが故に、地味な学生時代を過ごしていた。同級生には発明家である高峰譲吉らがいた。四名の造家学科の卒業生、曾禰達蔵、片山東熊、佐立七次郎、辰野金吾のうち、成績は曾禰、辰野、片山の順だったがJ.コンドルは教授の後釜に辰野を起用。最も才能に秀でた曾禰が選ばれなかった理由は、丸の内の小姓の出という根っからの武家気質で少なからず国家に反感があったとの事で、結局6年間の工部大学校に在席後に、7年間役所勤めをした後、海軍、三菱と職を移す。他にもそれぞれ片山は劣等生であり宮内庁入庁が決まっていたため、佐立は若すぎるという理由により見送られた。ロンドン大学やバージェスの事務所で学んだ後、消去法的に決まった辰野金吾が工部大学校で教鞭を執ることとなる。
 
かの渋沢栄一が辰野のパトロンとなり兜町の建物を依頼する。処女作となった「銀行集会所」(図2)はパラーディオ式、川に面した渋沢栄一邸(図3)はベネチア以外において世界でも純度の高いベネチアンゴシックで造られた。

f:id:miyashitajunya:20190127011318p:plain

図2.銀行集会所(1884)

f:id:miyashitajunya:20190127011506p:plain

図3.渋沢栄一邸(1888)
渋沢は東京を商都とする野望を掲げ、横浜港の機能を兜町に移し、堀の水路を利用した交易の中心地とする計画とした。ベネチアは当時商都のモデルであり、ベネチアの様式(ベネチアンゴシック、パラーディオ等)が参照される。
ところが横浜港の移転について、横浜在住の外国人等の反対により頓挫。三菱の牙城である丸の内で仕事は絶え、やっとの思いで譲り受けた丸の内の北東の外れ、日本橋本石に計画された日銀本店の設計を任される。
 

f:id:miyashitajunya:20190127011845j:plain

図4.日本銀行本店(1896)
日本銀行本店(図4)の設計に際し辰野はジョン・ソーンの「イングランド銀行」や「ベルギー国立銀行(ネオバロック様式)」を参考に、ネオクラシズム、ジョージアン様式を取り入れるも、藤森曰く“柱のプロポーションが中途半端、せっかく設えたドームやパラーディオ風の列柱空間も歩行者から見えず、盛り上がりに欠ける”。設計の巧拙はさておき、地味なのは日本はまだ謳い上げる段階ではない、という意志の現れと受け取られる。
また防禦性への配慮からか、①入口が奥まっている②門扉で外界から閉ざす③周囲に堀を設ける(緊急時に地下の水没が可能)④正面に設えた銃眼(?)のような開口部、といった慎重かつ保守的なつくりから、同僚からは「やはり辰野 “堅固” だ」と揶揄される羽目にあう。
 

f:id:miyashitajunya:20190127012546j:plain

図5.日本生命九州支店(福岡市文学館, 1909)
辰野は50歳で工部大学校の部長を辞し民間事務所を開き、日銀の地味な作風から一転、赤白ボーダーの華やかなヴィクトリアン様式(クイーン・アン様式)を取り入れる(図5)。産業革命以降の発展した都市景観から生まれたこの様式について辰野はその意味を熟知し、“日本はもう謳い上げても良い”と判断したと考えられる。英ノーマン・ショウがこの様式の先達だが、例えば角の塔は目立たぬよう計画されており(図6)、むしろ壁面の連続性に重点を置いている。対する辰野は角の塔をデザインの主眼に据え、象徴的に飾り立てる(図7)。また屋根上の飾りもノーマン・ショウは控えめなのに対し、辰野はゴテゴテと盛る。これがその地域の記念碑たる建築を作った辰野と、街並みの整理に意識を向けたノーマン・ショウの決定的な違いという。

f:id:miyashitajunya:20190127013240p:plain

図6.Richard Norman Shaw "Allianz Assurance Building"(1883)

f:id:miyashitajunya:20190127013415j:plain

図7.岩手銀行本店本館(岩手銀行赤レンガ館, 1911)

ドイツ人鉄道技師フランツ・バルツァーが描いた東京駅初期案は瓦屋根を冠した和洋折衷のもので、複数棟からなる計画だったが、後に辰野がクイーン・アン様式で提案し、一体感や皇居への配慮を盛り込んで幾度と無く修正を加え正式に決定される。決定当時の喜びようは所員の記憶にも鮮明にあり、「これで諸君らに給料が払える」と言い万歳したという。
余談になるが辰野は万歳が好きで、死に際にも妻への謝意を述べた後に万歳をして息を引き取った程だという。

f:id:miyashitajunya:20190127020918j:plain

図8.東京駅(1914)
東京駅は全体をクイーン・アン様式で時代精神を高らかに謳いあげる一方で、部分ごとに作ったまとまりに欠ける建築と藤森は評する。やはり屋根の上にはこれでもかとドーマー窓や塔を載せた賑やかな造りとしている。所員の誰にも設計を触らせなかったという皇族用出入口を設計し、「どうだ、良いだろう?」と誇らしげに所員に見せたが、全員が良いと思わず苦笑が漏れた、とのエピソードすら語られている。
結局最期まで設計が巧いという評価をなされることが無かった辰野だが、学生時代めっぽう強かった相撲よろしく、皇居に向かい大きく広げた東京駅はまさに皇居に向けた横綱の土俵入り、辰野金吾の集大成を作り上げた、と評して講演会は締めくくられた。
 
以上が本講演会の概要となる。
 
講演会の内容は概ね同著『建築探偵の冒険 東京篇』(1989, ちくま文庫)の内、「全町三三五メートルの秘境―東京駅」、「東京を私造したかった人の伝―兜町と田園調布」の各章の内容を下敷きにしていたが、辰野金吾という人を軸に史実や関係者への聞き取り調査によって人物像に肉薄する講演は非常に刺戟的だった。日本初の建築家、かつ建築界の権威という堅い肩書きとは裏腹に、下級武士の子息という出自、勤勉な努力家で地味だった学生時代、時に揶揄もされる決して巧くない作風、東京駅の設計を受注した際の歓喜の様子から、辰野のどこか憎めない人柄が滲み出ている。それは無欠のエリートだった曾禰や、芸術の才に秀でた片山にはない欠点を、士族の矜持と他人の倍の努力で補完し、日本を代表する建築家に登りつめた辰野自身の魅力に拠るところに思われる。「才能が無ければ努力で補え」というシンプルなロジックを愚直に実践した人間の強度を我々は目の当たりにし、その追体験を通して東京駅に昇華されるカタルシスを覚えることができる。こうした背景を知らない一般市民からも辰野建築が今なお愛されるのは、日本の建築を背負って立った一人の人間の生き様や矜持が、彫りの深い建築に滲み出ているからではないだろうか。
 
辰野金吾という人となりと、語り部たる藤森照信氏のユーモアを交えた真摯な研究成果の競演であるこの講演会は大変貴重なものだった。藤森氏が質疑応答する暇も無く足早に立ち去った後も、熱量を帯びた空気がしばらくステーションギャラリーの剥き出しのレンガ壁を温めていた。
 
おわり
 
 

図版出典

図1:筆者撮影、図2:藤森照信『日本の建築[明治大正昭和]3国家のデザイン』三省堂. 1979、図3:『明治大正建築写真聚覧』国立国会図書館デジタルコレクション、図4:「日本銀行本店」Wikipediahttps://ja.wikipedia.org/wiki/日本銀行本店〉、図5:「旧日本生命保険株式会社九州支店(福岡市赤煉瓦文化館)」福岡市の文化財http://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/cultural_properties/detail/51、図6:Google ストリートビュー、図7:「岩手銀行赤レンガ館」Wikipediahttps://ja.wikipedia.org/wiki/岩手銀行赤レンガ館〉、図8:「東京駅」無料写真素材東京デート〈https://www.tokyo-date.net/etc_tokyo_st2/

看板建築を描くことについて


《蜷川家具店(1930)》

2018年に入ってから、時間を見つけては看板建築の写真を撮り、立面図を起こす作業に没頭している。一体何を始めたのかと疑問に思っている方もいるかもしれないが、決して伊達や酔狂で描いている訳ではない。・・・と言いつつも、狂人は往々にして自分が正常だと信じて疑わないものであり、既に当人は酔狂の渦中にあるかもしれない。ここで少し頭を冷やしつつ今まで考えてきたことを振り返ってみたい。


***



「蜷川家具店」千葉県香取市佐原


「看板建築」という言葉をご存じだろうか。

1923年に発生した関東大震災の復興時、和風の長屋にファサードだけ西洋風のものを取り付け、手っ取り早く洋風建築に“擬態”するものが流行した。これを東京大学名誉教授で建築史家・建築家の藤森照信氏が学生時代「看板建築」と名付け建築学会で発表して以来、この呼称が定着している。

木造の在来工法でつくられた町家は耐火性に乏しく、震災時の出火で江戸から続く町家群はことごとく炭になってしまった。この反省から都市防火が唱えられ、大きな通りに面する建築物には耐火材でファサードを覆うことが義務付けられた。もちろん鉄筋コンクリート造なら火に強いが、庶民にはまだまだ手の届く技術ではなかったため、木造の在来工法で建てた躯体にモルタルや銅板等でできた西洋風のファサードを貼りつけた折衷方式が用いられた。こうして表は洋風、裏は純和風という二つの顔を持った看板建築が誕生した。1930年頃のことである。

街路に面していかに目立たせるかといった広告的テーマがファサードを構成するだけに、より複雑に、また斬新にと、職人が競って技巧を凝らし、数多くの秀逸な意匠を生み出した。この手の込んだファサードは決して有名建築家による設計ではなく、その多くが地元、あるいは地方の無名の大工や画家、家主が見よう見まねでデザインを練り上げたアノニマスなものだという。

2016年の秋に初めて訪れた川越で、僕は江戸時代から続く蔵造りの街並みよりも、この洋風のファサードを纏った看板建築にすっかり魅了されてしまった。もともと人目を引くためにハイカラで斬新さを追い求めたファサードも、90年経った今では街並みに欠くことが出来ないレトロな建物として地元の人々や観光客に親しまれ、中には文化財に登録されているものもある。東京の小金井公園内にある「江戸東京たてもの園」には看板建築が6軒移築され、休日には老若男女問わず幅広い客層で賑わっている。

ただそういった価値を認められている例はごく少数で、家主の死亡とともに相続が放棄されたり、再開発に取り込まれるなどして、人知れず解体されているケースが全国各地で起きている。また一部の好事家がインターネット上で公開している数枚の写真しか当時を知る手掛かりは残ってないようなものも多々あり、藤森氏の『看板建築』*1で取り上げられていた物件も既に半数近くが姿を消してしまった。2018年1月に名作と謳われる「田中家」が解体されたことも、愛好家の間で話題になったばかりだ。

このように断片的で、藤森氏の著書以上さしたるまとまった情報が無いまま急速に喪われていく看板建築を前にして、一時は無力感や虚脱感に苛まれたが、やがて何らかの方法で残したり、現存するものに目を向けさせることはできないかと考えるようになった。


「看板建築の立面図を描く」というアイディアはこうした背景から生まれた。


《すがや化粧品店(1930頃)》

建築は先ず設計図を描き、設計図を基に施工される。実際の建物から立面図を描くというのは、この建築プロセスを遡行する行為だ。これは一度フラットな情報に還元することで、見慣れた建物を不純物や感傷を排し「初心に還す」ことを目的としている。

表現の手段としてスケッチを描いたり写真を撮るといった方法もあるが、描き手の手癖が明瞭に現れてしまうスケッチは普遍的な記録資料としてやや不適であり、また写真というメディアはより現物に即した情報を提供する反面、電線や外壁の汚れ、建物前の植木鉢などが写り込み、視点がぼやけたり意図せざる感傷を引き起こしてしまう恐れがあった。“古き良き時代”や“郷愁”といった懐古趣味はともすると“古いものは良い”という思考停止に陥り易く、そうなってしまっては本来の趣旨から外れてしまう。ここではより純粋に建築意匠を鑑賞・評価の対象とするため、ファサード構成とマテリアルの質感のみを抽出した「立面図」が対象建築物を表現する手段として最適だと考えた。流行に左右されず、対象を客体化させるために、この工学に立脚した表現手法は100年経とうと200年経とうと普遍的な強度を保っている。


《三村貴金属店(1928)》

また画法は敢えて19世紀頃の西洋建築の立面図を参考にした。これは「取るに足らない大衆の建物」だと長らく認識されていた看板建築を、半ば強引に建築意匠論の俎上に上げるためのレトリックである、という建前はあるものの、実のところ僕自身のフェティシズムに因るところが大きい。許してほしい。

このファサードを描き起こす作業を通じて、「レトロ」という懐古的・退廃的な文脈で一括りに語られることの多かった看板建築とそのファサードについて、現代のフラットな視点からの再定義・再評価を試みたい。かつての商業建築が自然と有していたヒューマンスケールに即した店舗デザイン、「様式」の再現・解釈・省略・派生の手法、多様性を内包した奔放な構成や細部に目を向ければ、きっと現代を生きる僕らにとっても新鮮な驚きや発見があるはずだ。

2017年7月に石岡で初めて開催された「全国看板建築サミット」、そして今年の3月から江戸東京たてもの園で始まった「看板建築」展(2018)は、看板建築が今まさに省みられるべき店舗併用住宅の形式だということを示唆している。スクラップアンドビルドによってありきたりな再開発ビルやマンションや駐車場になり果てる前に、二度と取り返しのつかない状態になる前に、風前の灯は省みられなければならない。


神田須賀町の街並み
左:1980年代*2 右:2017年
中央の「海老原商店」を残して全て取り壊されてしまった


誤解が無いように付け加えるが、僕は「看板建築はあまねく保存されるべきだ」とは決して思っていない。現代の商業空間のニーズからは程遠くそのまま運用し続けることは困難であり、空間の有効活用の面からも用を為さなければ有用なものに更新されていくのは必然だと思っている。だからこそ記録作業は重要性を帯び、保存活用に関する是非はより多くの人が関心を向けるべきトピックに思う。特に住宅は個人の所有物なのでデリケートな問題ではあるが、地方・地域の歴史的な文脈や、ある程度定まった価値を有する建築物が当事者同士の都合により破壊されていることが、都市全体の歴史的価値を下げ続けている現状を直視しなければならない。今のところ、保存の是非がほとんど問われることがないまま多くの看板建築が最期を迎えている。

また、ひとたび直下型の地震が起こればこれまで戦災にも耐え抜いた看板建築に決定的なダメージを与え、都心から瞬時に消滅させてしまう可能性も否定できない。建築史家の村松貞次郎は都内の建築物を調査した結果「東京には江戸時代の建築物が一切無い」と結論づけた*3が、特に東京は歴史を積み上げられない都市という性格から、三菱一号館美術館などの特殊な例を除き、手間暇をかけて古い建物を再現するということをほとんどしない。ゆえに看板建築の消滅は時間の問題でもある。

たとえこの作業が現代において芳しい評価がなされなかったとしても、50年後、100年後に都市論の俎上で不意に我々の子孫の目に留まるかもしれない。それくらいのスパンに耐えうるものを描いているのだという不遜な自負によって、この作業は粛々と続けられている。

これは波乱に満ちた大正末期〜昭和初期の日本において瑞々しい感性の花開いた大衆芸術の一部を「立面図」という形式に還元する試みであり、現在急激に失われつつある建築の類型をひとつの切り口から記録する都市建築の考現学である。


作品はInstagramにて公開中
https://www.instagram.com/biblio_babel/?hl=ja

*1:藤森照信(1988)『看板建築』(都市のジャーナリズム)三省堂.

*2:同.pp12-13.

*3:村松貞次郎(2005)『日本近代建築の歴史』(岩波現代文庫)岩波書店. pp275-276.