おもいついたことをおもいついたままにかこう このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2013-04-21

数学本がマイブームになりそうな予感

自分の読書は、基本的にマイブームがあって、最近だと宗教系が長いのだけれど、昨日ぐらいから唐突に数学系が新たな興味先として浮上してきた。数学・・・それはわが宿命の大敵。理系出身のくせに、という話なのですが、高校時代は理系目指してたくせに、国語が最強に得意で、数学絶望的な状況というわけのわからない状況でありまして(物理化学のおかげで理系にとどまれた)、コンピュータ好きで情報工学にいったんですが、まぁ、基本情報工学なんて数学でできている学問においては、完全に落ちこぼれるハメになったわけですが、ってまぁそんな思い出したくない記憶はさておき。

でも改めて色々読んでみると数学いいですね。当時数学が美しいとかのたまっているやつは頭わいているんじゃないかとおもっていたんですが、ようやくちょっとわかる気がするのですよ。たぶん宗教系の読書を経たからわかるようになったのかもしれないんですけど。このうさんくさい世俗のなかにおいて、明確で絶対的な基準をもった数学っつー学問は、「信仰」するにふさわしいものだなぁと思います。学生のころには思えなかった心境ですね。やっぱり理屈じゃ割り切れないことが多い日本ビジネスの世界にいるからこその美しさなのかなぁ。

まぁそんなわけで、

大人のための数学勉強法 ― どんな問題も解ける10のアプローチ

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あなたにも解ける東大数学 (PHP新書)

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数学的思考法―説明力を鍛えるヒント  講談社現代新書

数学的思考法―説明力を鍛えるヒント 講談社現代新書

なんて本を読んでます。あと、

数学を哲学する

数学を哲学する

いかにして問題をとくか

いかにして問題をとくか

なんかが興味あり。

一応、仕事とかの問題解決能力にも役に立つといいなぁと思って読んでもいる。デザイン思考のひとつとして、論理的思考は重要だなぁと最近よくおもうんですよ。数学のひらめきにみえるものは、推論の積み重ねによるものだというようなことがいろんな本に書いてあるんですが、いいサービスにするのも、一見ひらめきにみえて、実は結構がちな無意識論理的思考の積み重ねなんじゃねーかなとかおもうんですよね。まぁそれこそ仮説なんですけれども。

なんか、内容ないのに長文になった。まぁいいや。本読むのはたのしいなああぁ。

2013-04-07

日本の精神史(思想マップ)

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日本の精神史

古代

家族 家族を中心とした身近な人たちだけを対象にしたルールと感情があった

神道 そこに憎しみがうまれたため、鎮めるために神道がうまれ、矛盾した感情をおさえた

奈良

儒教 そこに、中国から国を収めるためのより効率のよいルールが儒教律令制度)としてもたらされた

仏教 だが、権力闘争はますばかりで、またうらみつまりがたまったため、それを鎮めるため仏教がとりいれられ大仏などができた

密教 それでも、不安はおさまらなかったので、真言宗など密教をとりいれることにした

■平安

念仏 それでも、不安はおさまらなかったので、世の中は念仏をとなえる

武士の世 そんな中、律令精度は崩壊し、武力を中心とした武士道の世界がうまれた

鎌倉

禅 が、やはり矛盾がうまれ、禅などの精神修養の方法論がとりこまれた

江戸

武士道 儒教や禅などをとりいれ。独自の禁欲的な世界観がうまれる

■現代

資本主義 その後、もろもろすっとばして資本主義ははいってくるわけです

家族 が、また世の中は不安で矛盾なので家族などの右下にバックラッシュしている状況

身内に行けば行くほど、身近な人たちを対象にした思想体系

他人に行けば行くほど、知らない人も含めた思想体系

上の、「広い」にいけばいくほど、どちらかを中心にしつつ、他人も身内もまきこむ思想体系

下の、「狭い」にいけばいくほど、他人か、身内か、どちらかだけを対象にした思想体系

ヨーロッパの精神史(思想マップ)

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キリスト教系の精神史

家族間の自然な愛情でくらしている

自然な愛情だけではなんともならず、矛盾した気持ちを整理するためにいろんな自分たちの神様信仰する

ユダヤ教は、そんななか自分の神様は、自分たちの神様だけじゃなくて他人もふくめた全世界のひとたちの神様として設定して、いろんな矛盾を克服する

キリスト教カトリック)は、もう少し視野を広く、自分たちの民族をまとめるための戒律を否定し、どんな民族でも汎用的につかえるようにした。

キリスト教プロテスタント教会が中心にでてくるカトリックを否定して、さらにどんな民族でもつかえるような体系にかえた。禁欲的、道徳的に働くことを肯定した

啓蒙主義 神をカッコにいれて、世界観を構築しなおす。神のかわりに理性を大事にする。

資本主義 いったん、精神性を排除して、仕組みとしてかんがえる

科学 観察によってうまれる客観的な事実のみをもとに世界観を構築する。精神性を排除しがち。

中国の精神史

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儒教 基本は昔から今もずーっと儒教 特に上層部はそう ただ、その分恨みや矛盾は社会に生まれる ただそれも、本来の儒教であれば、革命という形で、体制を次のものにかえる仕組みがある

道教仏教 基本負け組の思想。儒教などで上層部に入れないひとたちがやる、負け組救済措置。道教は、完全に俗世間を捨てる仕組み。狭い。大乗仏教は、現世そのままを解釈しなおし、いろんな儒教以外の思想性を追求した

共産主義 基本、儒教なのだが、現代において発展をとげるために、科学経済の発展を考えざるおえなくなった。しかし、完全に儒教中心の世界をかえることはできないので、軸足は身内のほうにおきつつ、広い視点をもつほうこうを目指した

2013-04-06

UXに関するまとめ

いったんUXに関して自分の中で整理がついてきた

プロジェクトをまとめるためのUX

イノベーションをおこすためのUX

現在、現場で必要とされているのは,梁μ漫ところで、専門家たちは△梁μ未鯆謬瓩垢襦そこで現場と専門家乖離がうまれ、信頼関係が失われる。

かといって、,世韻能淑かというと、△梁μ未鯆謬瓩靴覆いぎり、クオリティ向上は望めない。

さて、自分の中では,里燭瓩諒法論はなんとなくつかめてきた。△梁μ未任寮長を改めて目指そう。

△亡悗垢詈法論は、海外由来のものが多くあり、翻訳文章もたくさんある。たぶん、日本人にはそのまま適用はできないだろう。真の意味で「翻訳」をしなければいけないだろう。さてどうしようかなー。

思想マップ(仮)

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この人間社会、ルールがなくては崩壊してしまう。そういうルールを宗教といったり、思想といったり、主義といったり、愛といったりする。

自分用に、宗教・思想などをマッピングしてみた。

身内に行けば行くほど、身近な人たちを対象にした思想体系

他人に行けば行くほど、知らない人も含めた思想体系

上の、「広い」にいけばいくほど、どちらかを中心にしつつ、他人も身内もまきこむ思想体系

下の、「狭い」にいけばいくほど、他人か、身内か、どちらかだけを対象にした思想体系

ちょっとメモ書き程度に作製

2013-03-31

キリストが合理的じゃないから近代文明ができたのだから、社長の発言は合理的じゃないほうが良いのだろう

やっぱりふしぎなキリスト教 (大澤真幸THINKING O)

やっぱりふしぎなキリスト教 (大澤真幸THINKING O)

なぜキリスト教文明が近代化に成功したか。それはキリスト教を信じる人々が、合理的に考えたり行動することが思う存分できたからではないかと思います。ではなぜ、合理的に考えたり行動したりできたのか。それは聖書とかキリスト教の考え方が十分合理的ではないからだと思います。これがイスラム教、あるいは仏教みたいに、言っていること自体が非常に合理的にできていたら、その経典に書かれているように考えたり行動したりすることが、すなわち合理的であることになる。しかしキリスト教ではそうではなかったから、合理的であるとはどういう考え方なのか、どういう行動なのか、試行錯誤しながら実験することが出来た。

もともとキリスト教って、ユダヤ教みたいな厳格な法律をもったものに反発してでてきたので、世間の厳格なイメージと違い、割とゆるい部分が多いようで。

これって会社とかでもそうなのかも。リーダーがやたら合理的すぎる人だと、それ以降発展しないわけで、ある程度方針が正しくあと人望が厚ければ、言っていることは矛盾していても、部下が自由に解釈できる余地があるほうがうまくいくかもね。

人間中心設計の人間はヨーロッパの人間を指しているのじゃないか

なんつーか人間中心設計でいうところの人間て、理性をもった近代的な人間像を指しているような気がするので、日本人的人格はこの場合「人間」中心設計の人間にはみなされないのではないだろうか。そうなると、アメリカ的な人間中心設計手法はやはりそのまま実践してもうまくいかない、つうことになるんじゃなかろーか。

もうちょいいうと、東洋というか日本的な人間て、欲望もなんもかんも肯定的な人間像で、ヨーロッパの方は、もう少し禁欲的で理性的な人間像をもっている。で、人間中心設計の思想が生まれたのはヨーロッパなわけで、そういう「人間」を対象にすることが、イノベーションをおこす可能性につながっていたのだとおもうんだけど、日本の人間を対象にすると欲望をそのままだしちゃうので、わりと単純な願望をかなえる、イノベーションに到達しないデザインになっちゃうんじゃなかろーか。

もちろん、人間中心設計って、お客様の声を素直にきくべきではない、っていうのはあるわけなんだけど、そもそも日本的な「人間」には深読みするべき深淵なるニーズなんてものはないんじゃなかろーーーーか。

イノベーションは、基本的に、飛んだ発想、神から降りてくる発想でなければいけない。アジアでそれやるなら黒船のように外部から起こすしかない。日本人のなかにはそれはない。ユーザー調査なんて意味ないんじゃなかろうか。

2013-03-24

日本の葬式仏教はとてもバランスのとれた良い中二病である

日本での仏教つーのは、葬式仏教なんていわれて、まぁ普段あんまり気にしない程度のものだったりしている。たまに法事で、説法きいてへーとおもったり。もうすこし踏み込むと、カジュアルテレビとか本とかで般若心経とかの解説本よんだりして、へーっとおもったりする。

でもまぁ、日本人の識者にいわせると、そのレベルで宗教を捉えているのは良くない、もっと真面目にかんがえろ!っていって葬式仏教なんてものを否定する人もいる。まぁわからんでもない。

そういうカジュアルによく唱えられる「説法」のひとつに、このよのすべては幻的なものだから、まぁあんまりくよくよすんな、とかそういうのがある。それを完全に理解したら、悟りがひらけて、悩みとか煩悩から解き放たれるよ、みたいな筋書きがある。いわゆる色即是空ってやつです。

そこの境地までいかなくても、色即是空とか聞くと、あーなんかくよくよしててもしかたねーなーって思えるところは凡人でも、なんとなく思えるし、ちょっとすっきりする。

仏教の話でぴんとこない人には、宇宙規模の巨大な話をきくと、人間ってちっぽけだな、くよくよしててもつまらんな、みたいな感覚に近いというとわかってもらえるだろうか。

で、この程度で話が終わる分にはとてもいい話だとおもう。人間関係に疲れている社会人にはたまには、こういう境地にふれることが必要。カジュアル座禅カジュアル写経は超重要で、宇宙の話とかを勉強するのもとてもいいことなわけですね。で、次の日からはまたそんな小難しい話はわすれて、世間の波にもまれていく。

これを、まぁ矛盾した生き方と否定するのは簡単なんですが、とても安全な考え方だとおもう。この論理の延長上には、若干病気でカルトな世界がまっていて、家族とか友達とかの共同体を全否定して、個人と巨大な「世界」が直接つながりうるような感覚になり、万能感をえられるようになる。ここまでいくと病気なわけです、いわゆる中二病。生きる上で世の中馬鹿にしすぎて、社会生活に支障をきたすから。あとカルト宗教になってしまう。

あと、この境地までいくと、葬式仏教的なものも全否定したくなる。カジュアルに一時しのぎで悩みを解決するな、そもそも世俗への思いをすべて捨て出家しろ!中途半端なことやってんじゃねえ!という感じ。

っつーわけで、やばい。

そこまで行ってしまった人への処方箋としては、そういう家族とか共同体を否定している君がなんで満足感を得られるのか、その理由をはなしてあげればよい。実は、君はただ、今所属している人間関係とは違う、別のつながりを作りたいだけだ、という事実。この世はむなしい、無常であるといっている人たちが、たくさんいて、そういう「真実」をわかっている人たちと傷をなめあいしたいだけなんだ、という話。

中二病仏教の違いは、そういう部分を自覚しているかしていないかなんだろう、と思う。そういう世の中を全否定してしまいたくなる心境は教義のなかで徹底否定されている。この部分を徹底しているのは上座部小乗仏教

じゃあ完全に、そういう中二病的なひとたちの集まりと仏教が関係ないか、ってうとそうでもなくて、なかばたぶん意図的に中二病側にふみだしているのが大乗仏教。そもそも人を救いたい、ってのは要は、世俗とは別に「わかっている」仲間をつくりたい、っていう欲求が強まっている状態だと思う。(だからこそ上座部では人を救いたいというのは否定している)。

大乗仏教のうち、葬式仏教とよばれるような世間に浸透した仏教は、そういう傷の舐めあいにならないように、理屈で語るのではない進化の仕方をしたのだとおもう。念仏をとなえればいいとか、坐禅をすればいいとか、身体的な感覚でこの世は空だということをなんとなく気づかせるレベルにとどめる。意識化させない。非日常を少し感じさせ、世の中と少し一体化させるレベルにとどめている。がちで修行を普通の人たちにさせすぎない。この延長上には、葬式仏教がまっていて、法事のときだけ説法をきいて非日常を得るぐらいになる。

中二病カルトになる危険性を避けて、ただ、世の中の人間関係の疲れを癒す程度に人々に救いをあたえるには葬式仏教とかカジュアル宗教体験が一番いい、ていう結論になるんじゃないかなぁと思う。

親を差別するところで成り立つ「若者文化」

六本木アートナイトとか、まぁライブとかもそうだけど、やっぱまぁ子供いると気軽にいけないのは、しょうがないけど、まーなんか色々考える。

結局そういうー踊ってアートなりミュージックなりを楽しみ尽くす「若者文化」はやっぱり「親」を排除したところに存在していて、というか自分が排除して楽しんできていて、「親」っぽい世俗性を差別している文化なんだなぁと思う。いや、ところどころ取り込もうという努力は見られるんだけど、それは免罪符程度というか…(ex avex主催のママフェスとか、親子でたのしめるフェスとか)。

「若者文化」こそが世界を変えるっていう雰囲気、というのは「親」になることを拒否しないと成立しないなーと。そして「若者文化」バンザイだった自分は、覚悟することなく、なんとなく「親」になってしまって、そういう楽しいことにとても羨ましさを感じるし、あと、当時自分がもっと「親」になることをリアルに想像して、おじさんになる準備をするべきだったなーとか思ったりする今日このごろです。

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