庭園

昨日滑り込みで東京都庭園美術館に行ってきました。
http://www.teien-art-museum.ne.jp/exhibition/taisyo/index.html
一般的には無名?の画家が多かったようですが(私が物知らずなだけかも)堪能してきました。
特に印象に残ったのは4点。
・平安モチーフの屏風絵
鈴虫取りの絵が凄く良くて友達と大興奮したんだけど、作者不詳・・・もったいない。


・「橋を渡る女」
「女」と銘打ってあるのに月代があって、どう見ても若衆。
解説も若衆として扱ってるのに、何故か題名だけは「女」。何故。


・日光の陽明門を写真に撮る女性の絵
カメラを持つ女性を絵にする辺りが「新しい時代になったんだなあ・・・」と感じる。
この絵、主線をガッツリ描いてアニメ塗りをしているので、どうしてもジブリの絵に見える。
友達と散々笑ってきました。


・看板作品
これは本当にキレイでした。構図の緻密な計算にも驚き。
赤の着物に緑の草履。補色で足のかわいらしさに視点をひき付ける工夫か。見事。


・↑の絵がプリントされた長襦袢
昭和期のおもしろプリントってめっちゃかわいい・・・
戦艦大和柄のモスリンとか骨董市で見るけど・・・いいよね。


結構女性画家が多かった。
青踏の女?(笑)
思ったより女性の社会進出が進んでたんですねほんとに。


展示品の中から、この前印刷博物館の美人絵展で見た画家を見分けることができて感動。
橋口五葉?
あれ見た絶対見た。
小畑健っぽいあの髪の描き方は忘れられない。すごく描線のキレイな画家です。


美術館の建物自体も興味深かったです。
旧宮家の持ち物だったらしい。
でも「若宮様居間」とか書いてある割には結構庶民的な大きさのお部屋に愕然。
6畳間!?
いいのか!?宮様!?
岩崎邸とはエライ違(ry


ですが庭園の方は
正直
如何なものかとιι


彫刻の森を生理的に受け付けない私にはハードルが高かった。
日本庭園なのか現代アートなのか。
やっぱ日本庭園は地方に限ると思った。
もっかい玄宮園に行きたい。

801の擬似恋愛性って。

http://d.hatena.ne.jp/nogamin/20070629/1183075415とかhttp://d.hatena.ne.jp/nogamin/20070503/1178160508で見つけたhttp://d.hatena.ne.jp/emifuwa/20070420#p1みたいな漫画論、とても面白いですね。
激しく頷いてしまう自分がいる(笑)



私、801って文化至上主義のことなんじゃないかと思うんですが。
性的魅力でなく才能への執着が801だっていうの、経験的に言って高偏差値女子校には腐女子が多いことを考えるととても整合性が高い気が。
つまり801の成立前提には、文化水準が高く、「動物本能」ではなく「知恵」の部分に比重がある環境が必要である。と思う。


個人的には、「才能への執着」というよりはむしろ「文化水準の高さとか嗜好の特異さへの執着」と言い換えてもいいような。



例えば世の中には、相手の文化水準の高さというか文化的背景?に一種のエロティシズムを感じる人種が絶対に居る。と思う。


例えば江戸時代の春画とか。
高橋克彦の著作とか読んでると、春画は1人で楽しむものではなくて、他人との猥談のネタに使うものとして使われたと主張してますが、興味深いなあと思う。
春画が純粋に性欲処理の道具でだけあって、1人で楽しむものだとすれば、「笠森お仙」とかアイドルを作り上げてモデルを特定してしまうことは却って興ざめなものだと思う。
モデルに公共性が付加されるほど、動物的な独占欲が満たされることはなくなるはずだから。


そうじゃなくて、春画の存在意義は、嗜好を同じくする者が座の一体感に陶酔するという日本人特有の「俳諧」的な精神が根になってる気がする。
一体感を得ることを意義とするなら、「着衣」とか「衣の下から肌が透けてる」とか、妙にシチュエーションに凝ってたり、アイドルを作り上げて話題性を高めていることも納得できる。


つまり「嗜好の特異性」を作り出して他人を排斥しつつも、それに同調する者同士という狭い範囲でのコミュニケーションの余地を作り、狭く深い自分たちだけの紐帯に喜びを感じるということ。(書いてて気持ち悪いくらいに全く以ってオタク・・・)



で。人は何故こんなことに喜びを感じるのかといえば、それは多分文化を媒介にした擬似性行為として捉えて良いからなんじゃないかなと思う。


本能的な性欲求が、物質主義的に他人との一体感を得たりコミュニティを形成することに満足感を得るものであると定義することができるならば。
人間がホモ=サピエンスである以上、限られた人と文化を紐帯に特別な一体感を味わうことも、限定的にそれに似た感情を生じ得ると考えてもいいのかな。と。



で、文化志向が本能に勝ってしまった人たちが、いわゆるオタクであり腐女子であるのではないかと。そう思った腐女子の1人でありました。

庭園

昨日滑り込みで東京都庭園美術館に行ってきました。
http://www.teien-art-museum.ne.jp/exhibition/taisyo/index.html
一般的には無名?の画家が多かったようですが(私が物知らずなだけかも)堪能してきました。
特に印象に残ったのは4点。
・平安モチーフの屏風絵
鈴虫取りの絵が凄く良くて友達と大興奮したんだけど、作者不詳・・・もったいない。


・「橋を渡る女」
「女」と銘打ってあるのに月代があって、どう見ても若衆。
解説も若衆として扱ってるのに、何故か題名だけは「女」。何故。


・日光の陽明門を写真に撮る女性の絵
カメラを持つ女性を絵にする辺りが「新しい時代になったんだなあ・・・」と感じる。
この絵、主線をガッツリ描いてアニメ塗りをしているので、どうしてもジブリの絵に見える。
友達と散々笑ってきました。


・看板作品
これは本当にキレイでした。構図の緻密な計算にも驚き。
赤の着物に緑の草履。補色で足のかわいらしさに視点をひき付ける工夫か。見事。


・↑の絵がプリントされた長襦袢
昭和期のおもしろプリントってめっちゃかわいい・・・
戦艦大和柄のモスリンとか骨董市で見るけど・・・いいよね。


結構女性画家が多かった。
青踏の女?(笑)
思ったより女性の社会進出が進んでたんですねほんとに。


展示品の中から、この前印刷博物館の美人絵展で見た画家を見分けることができて感動。
橋口五葉?
あれ見た絶対見た。
小畑健っぽいあの髪の描き方は忘れられない。すごく描線のキレイな画家です。


美術館の建物自体も興味深かったです。
旧宮家の持ち物だったらしい。
でも「若宮様居間」とか書いてある割には結構庶民的な大きさのお部屋に愕然。
6畳間!?
いいのか!?宮様!?
岩崎邸とはエライ違(ry


ですが庭園の方は
正直
如何なものかとιι


彫刻の森を生理的に受け付けない私にはハードルが高かった。
日本庭園なのか現代アートなのか。
やっぱ日本庭園は地方に限ると思った。
もっかい玄宮園に行きたい。

801の擬似恋愛性って。

http://d.hatena.ne.jp/nogamin/20070629/1183075415とかhttp://d.hatena.ne.jp/nogamin/20070503/1178160508で見つけたhttp://d.hatena.ne.jp/emifuwa/20070420#p1みたいな漫画論、とても面白いですね。
激しく頷いてしまう自分がいる(笑)



私、801って文化至上主義のことなんじゃないかと思うんですが。
性的魅力でなく才能への執着が801だっていうの、経験的に言って高偏差値女子校には腐女子が多いことを考えるととても整合性が高い気が。
つまり801の成立前提には、文化水準が高く、「動物本能」ではなく「知恵」の部分に比重がある環境が必要である。と思う。


個人的には、「才能への執着」というよりはむしろ「文化水準の高さとか嗜好の特異さへの執着」と言い換えてもいいような。



例えば世の中には、相手の文化水準の高さというか文化的背景?に一種のエロティシズムを感じる人種が絶対に居る。と思う。


例えば江戸時代の春画とか。
高橋克彦の著作とか読んでると、春画は1人で楽しむものではなくて、他人との猥談のネタに使うものとして使われたと主張してますが、興味深いなあと思う。
春画が純粋に性欲処理の道具でだけあって、1人で楽しむものだとすれば、「笠森お仙」とかアイドルを作り上げてモデルを特定してしまうことは却って興ざめなものだと思う。
モデルに公共性が付加されるほど、動物的な独占欲が満たされることはなくなるはずだから。


そうじゃなくて、春画の存在意義は、嗜好を同じくする者が座の一体感に陶酔するという日本人特有の「俳諧」的な精神が根になってる気がする。
一体感を得ることを意義とするなら、「着衣」とか「衣の下から肌が透けてる」とか、妙にシチュエーションに凝ってたり、アイドルを作り上げて話題性を高めていることも納得できる。


つまり「嗜好の特異性」を作り出して他人を排斥しつつも、それに同調する者同士という狭い範囲でのコミュニケーションの余地を作り、狭く深い自分たちだけの紐帯に喜びを感じるということ。(書いてて気持ち悪いくらいに全く以ってオタク・・・)



で。人は何故こんなことに喜びを感じるのかといえば、それは多分文化を媒介にした擬似性行為として捉えて良いからなんじゃないかなと思う。


本能的な性欲求が、物質主義的に他人との一体感を得たりコミュニティを形成することに満足感を得るものであると定義することができるならば。
人間がホモ=サピエンスである以上、限られた人と文化を紐帯に特別な一体感を味わうことも、限定的にそれに似た感情を生じ得ると考えてもいいのかな。と。



で、文化志向が本能に勝ってしまった人たちが、いわゆるオタクであり腐女子であるのではないかと。そう思った腐女子の1人でありました。

庭園

昨日滑り込みで東京都庭園美術館に行ってきました。
http://www.teien-art-museum.ne.jp/exhibition/taisyo/index.html
一般的には無名?の画家が多かったようですが(私が物知らずなだけかも)堪能してきました。
特に印象に残ったのは4点。
・平安モチーフの屏風絵
鈴虫取りの絵が凄く良くて友達と大興奮したんだけど、作者不詳・・・もったいない。


・「橋を渡る女」
「女」と銘打ってあるのに月代があって、どう見ても若衆。
解説も若衆として扱ってるのに、何故か題名だけは「女」。何故。


・日光の陽明門を写真に撮る女性の絵
カメラを持つ女性を絵にする辺りが「新しい時代になったんだなあ・・・」と感じる。
この絵、主線をガッツリ描いてアニメ塗りをしているので、どうしてもジブリの絵に見える。
友達と散々笑ってきました。


・看板作品
これは本当にキレイでした。構図の緻密な計算にも驚き。
赤の着物に緑の草履。補色で足のかわいらしさに視点をひき付ける工夫か。見事。


・↑の絵がプリントされた長襦袢
昭和期のおもしろプリントってめっちゃかわいい・・・
戦艦大和柄のモスリンとか骨董市で見るけど・・・いいよね。


結構女性画家が多かった。
青踏の女?(笑)
思ったより女性の社会進出が進んでたんですねほんとに。


展示品の中から、この前印刷博物館の美人絵展で見た画家を見分けることができて感動。
橋口五葉?
あれ見た絶対見た。
小畑健っぽいあの髪の描き方は忘れられない。すごく描線のキレイな画家です。


美術館の建物自体も興味深かったです。
旧宮家の持ち物だったらしい。
でも「若宮様居間」とか書いてある割には結構庶民的な大きさのお部屋に愕然。
6畳間!?
いいのか!?宮様!?
岩崎邸とはエライ違(ry


ですが庭園の方は
正直
如何なものかとιι


彫刻の森を生理的に受け付けない私にはハードルが高かった。
日本庭園なのか現代アートなのか。
やっぱ日本庭園は地方に限ると思った。
もっかい玄宮園に行きたい。

801の擬似恋愛性って。

http://d.hatena.ne.jp/nogamin/20070629/1183075415とかhttp://d.hatena.ne.jp/nogamin/20070503/1178160508で見つけたhttp://d.hatena.ne.jp/emifuwa/20070420#p1みたいな漫画論、とても面白いですね。
激しく頷いてしまう自分がいる(笑)



私、801って文化至上主義のことなんじゃないかと思うんですが。
性的魅力でなく才能への執着が801だっていうの、経験的に言って高偏差値女子校には腐女子が多いことを考えるととても整合性が高い気が。
つまり801の成立前提には、文化水準が高く、「動物本能」ではなく「知恵」の部分に比重がある環境が必要である。と思う。


個人的には、「才能への執着」というよりはむしろ「文化水準の高さとか嗜好の特異さへの執着」と言い換えてもいいような。



例えば世の中には、相手の文化水準の高さというか文化的背景?に一種のエロティシズムを感じる人種が絶対に居る。と思う。


例えば江戸時代の春画とか。
高橋克彦の著作とか読んでると、春画は1人で楽しむものではなくて、他人との猥談のネタに使うものとして使われたと主張してますが、興味深いなあと思う。
春画が純粋に性欲処理の道具でだけあって、1人で楽しむものだとすれば、「笠森お仙」とかアイドルを作り上げてモデルを特定してしまうことは却って興ざめなものだと思う。
モデルに公共性が付加されるほど、動物的な独占欲が満たされることはなくなるはずだから。


そうじゃなくて、春画の存在意義は、嗜好を同じくする者が座の一体感に陶酔するという日本人特有の「俳諧」的な精神が根になってる気がする。
一体感を得ることを意義とするなら、「着衣」とか「衣の下から肌が透けてる」とか、妙にシチュエーションに凝ってたり、アイドルを作り上げて話題性を高めていることも納得できる。


つまり「嗜好の特異性」を作り出して他人を排斥しつつも、それに同調する者同士という狭い範囲でのコミュニケーションの余地を作り、狭く深い自分たちだけの紐帯に喜びを感じるということ。(書いてて気持ち悪いくらいに全く以ってオタク・・・)



で。人は何故こんなことに喜びを感じるのかといえば、それは多分文化を媒介にした擬似性行為として捉えて良いからなんじゃないかなと思う。


本能的な性欲求が、物質主義的に他人との一体感を得たりコミュニティを形成することに満足感を得るものであると定義することができるならば。
人間がホモ=サピエンスである以上、限られた人と文化を紐帯に特別な一体感を味わうことも、限定的にそれに似た感情を生じ得ると考えてもいいのかな。と。



で、文化志向が本能に勝ってしまった人たちが、いわゆるオタクであり腐女子であるのではないかと。そう思った腐女子の1人でありました。