「しあわせについての一考」

もともとわたしはあまり感情が濃いほうではない。
怒りも悲しみもあまり長く続かないし、よろこびにもたのしみにも、大してインパクトを受けるほうじゃない。
だから、泣きわめくことも滅多にないし、
さらにはうれし泣きなんて、今までの人生でいっかいもなかったし、
まあ、これからだってあり得ない。
そう、

人から、
きみって恵まれてるよね、
とか言われても、ピンと来ないし、
しあわせな人ってあたし以外にもいっぱいいるし、
きのうだっておとといだって、そんなにいいことなかったし、
一年を振り返っても、いいことを思い出すほうがむずかしい。
てなわけで、
とにかくしあわせであることの自覚が薄い。
だが、それについては、うすうすヤバいんじゃないかと思ってた。

なぜなら、もし仮にどんなに愛されたとしても、ありがたみが実感できないからである。
そういうのって、人としていかがなものか?
他人から愛されるのって、ほとんど奇跡なはずじゃないか!
それがわからないなんて、薄情にもほどがある。
そう考え始めた矢先に。
なんと!
まあ、
そのわたし、が。
いま、
眠れなくなるほどありがたくなって、泪を流している。

「Shakespeare bookstoreとは」

前に書いたことがあるかもしれない。
でも、何度でも書きたい。

そのころまだ20代で、ひとり旅を始めた頃だった。
カルチェラタン界隈の同じような角を幾度も曲がって、
これは道に迷ったのだな
と、ぼんやり感じていた。
もっとも、
旅に出たからには、
わざわざそういうことをしに行っているのだから、
そんなに焦ることはない。

で、
ふと、ある本屋の前に出た。
それがシェイクスピア書店だ。
だけど、なぜパリでシェイクスピアなんだ?
おもしろそうなので入ってみたら、
店内には英語で書かれた本ばかり並んでいた。
次の日、もう一度行ってみようとして、
今度はわざと道に迷ったのに、
その本屋にたどり着くことはできなかった。
それでもわたしにはよかった。
なんとなく、ロマンを感じることができたから。

ずっと後になってから、
そこはヘミングウェイがパリ滞在中によく足を運んだ本屋だったことがわかった。
そして、さらにもっともっと後になって、
ある日、ニューヨーク大学の近所をぶらぶらしていたら、
シェイクスピア書店に再び出くわした。
あ、また…

残念なことに、今はインターネットがあるので、
たいていの物事の背景は、簡単に調べがつく。
だから、
パリだろうがニューヨークだろうが、
その気にさえなれば、わたしはシェイクスピア書店に行ける。
だけど、それはぜんぜんロマンチックじゃない。
わたしにとってのShakespeare Bookstoreとは、
偶然たどり着いたけど、再びはたどりつけない場所のことを言う。
そういう場所に会えると、
この旅はよかったなあと、思う。

「場所を訪ねること」





ハバナ旧市街のある部分はこの国の大切な観光収入を担っているが、
まだほとんどの部分は市民の生活の場であることはまちがいない。
ただ老朽化するにまかせるしかない建物たち、
観光地としての役割を真剣にまかされている建物たち、
それらが混在している。
その双方を歩き回って異邦人気分を堪能することができる。
路地裏での不安はあまり問題じゃない。

「こんしゅうの風景」

今週、窓から見た朝の景色たち。
冬を迎えるせいか、
日々、天気がめまぐるしく変わる。
朝、空を見上げて「午後は雨になるのだろうか」
と、思案する。




1日目、青空に傘を持って行かず、
午後、雨に降られ、
2日目、暗く垂れ込む雲を見て、
傘を持って出たけど、雨は降らず、
3日目、どうにでもなれ、
と、もう傘は持って出ないことにした。

「みじかい」

ほんとは、
自分に才能がないことなんて、ずっと前からわかっているのだ。
そうかい、じゃあ才能ないならどうするよ?

10代の頃は無根拠ナ自信っていうのがあって、
誰もが自分の未来は光り輝いているはずだと信じて疑わない。
それこそまさに若さの力なんだと思うが、
それに乗じてなんだかわけわかんないうちに事をなすことができれば、
しめたもんだ。
だけど大半はその波に乗れなかった奴なわけで、それが20代になって、
10代には信じて疑わなかった無根拠ナ自信にも若干の疑惑が生じて来るんだが、
まあなんとかなるだろう、くらいはそれでもまだまだ残っているのである。
けれども、
30の声を聞いたあたりから、
もしかすると、これってヤバいんじゃないの?
とか
いつか本気を出せるだろう、
とか
思い始めてきて、
すでに大人になってから十分経っているくせに、まあだ「大人になったら」
なんて思っている。

時間だけはすべての人に平等にあるってことはわかってる。
過ぎてしまったことは取り戻せないってことも。
だけど、
そこには実感が伴っていないから、
ほんとうのところではなにもわかっちゃいないんだ。
だから、
40代になっていよいよこれはヤバいことになってきたぞ、
と焦り出す。
焦ってもダメだ。
何も積み上げてきてないんだから。
もうあとは50でも60でもおんなじだよ。
じゃ、あきらめるのか?
いや。
やっぱ、あきらめるにも踏ん切りがつかない。
ぐずぐずな感じでどんどんばばあやじじいになってくんだよ。
と、だいぶ投げやりな感じでいたら、
なかなかいい文章が目にとまった。
にんげん、自分の限界を知ってからが勝負だってさ。
ちょっとだけ、晴れ間が見えたような気がした。

さあおまえ、
どうするよ?

「唐突に思い出した」

ずいぶん前のことなのに、唐突に思い出して、あああああああっと叫びたくなることがある。
フラッシュバックってやつだ。

https://www.youtube.com/watch?v=9cDU-RTDgE0&list=PLvSBbnjyvnx8mgzpk-EGcV79O7_oHu3Dx&index=5

本来なら『四重人格』というタイトルなのに、うまいこと言ったもんだ。

この、まるで鯨の歯のような崖っぷちを見たくて、
たしか、ロンドンにいたとき、
HとSといっしょにブライトンへ行ったんだっけ。
どうやって行ったのか、それも思い出した。
Hが引っ越しをするというので、レンタカーをしたのだ。
ほんで、
せっかくだからどっかドライブしようっていうことになったんだけど、
いい場所が思いつかなかったから、
あたしがブライトンへ行こうって言ったんだよね。
夕方、
車を出してもらったけど、
やっぱりその日のうちにブライトンには到着できず、
どっかのコーヒーショップで時間をつぶしたりして、車の中で夜を明かしたんだっけ。
映画のなかで、
ベスパごと飛び込んだ崖がどれだったのかわからなかったけど、
崖には風が吹き抜けていて、
ブライトンへ行けたこと自体、とってもうれしくて、
なるほど、お話の舞台になった場所を訪れるっていうのは、
こんなに楽しいことなんだって、初めて知った。
もちろん、あたしたち3人、あのときはさいこーだったよね。

ロンドンに戻ってから、こんな映画も見たりしたんだっけ。

https://www.youtube.com/watch?v=mdEOkAZlV3M

「こればかり」

このところ、仕事ばかりである。
自分で言うのもおこがましいが、けっこうマジメに仕事に取り組んでいる。
おいらがやれることはなんでもやってやれーっ
とばかりに引き受けたらこう、なってしまった。

仕事が楽しいのはいいことだ。
あたしもそう思うんだけど、
かといって、
こればっかりなのは、やっぱりよくないと思うのだ。
なぜなら「こればっかり」だと行き詰まるからである。

その弊害はどっかに出てくるに違いない。
からだのどっかが悪くなるかもしれない。
あたまが壊れるかもしれない。
人間関係にひびが入るかもしれない。

仕事ばっか、なので、
じぶんのことを書いたり読んだりもしていない。
書くことも読むことも技術だ。
技術と名の付くものは、
どんなものでもがんばれば、ある程度は身につく。
だけど、生ものなので、
やめると、とたんにダメになる。
と、
こんなふうに書いていたら、
おいおい、
だんだん焦ってきちゃったよ。
うーん、
もうちょっと集中力があればいいんだが…