雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

「働いたら負け」という甘えと、背景にある社会矛盾

努力に対する報酬って数値化できる訳ではないし、誰もが機会費用とか真面目に算定して人生を選択しているとも思えず、ROIという言い方には微妙に違和感がある。でもたぶん社会が彼らを失望させたのは確かなんだろう。それは絶対的な報酬水準よりも、何かを動機付けされた時の期待報酬水準とか、周囲やメディアで流布されるライフスタイルと比べた相対的妥当性とか、将来期待とか、そういったもののアンバランスなんだろうな。

努力してもペイしないのであれば(投資に対して期待されるリターンが1:1以下なら)、努力しないのが合理的。いわゆる「働いたら負けかなと思っている」状態。
もしそういう状況を社会が弱者に強いているのであれば、「弱者の内面」の問題はすなわち社会の問題であって、「弱者の内面と社会の状況を分けて考えろ」とは言えなくなるのではないか。努力するインセンティヴを奪っておいて(あるいは剥奪状態を放置しておいて)「やる気のなさ」を個人的な問題と決めつけるのは不当。

ところでそもそも個々人に対して最適なインセンティブ・メカニズムを提供することって、いつから政府の役割になったんだろう。政府がニートを悪者扱いしているのであれば「それお前のせい」くらいいえるだろうけど、その程度。そもそも世の中いつの時代だって社会にディスカレッジされる人々はいくらでもいたし、それは政策対象として議論されることはあっても、政府の義務というよりは、こういう人々に居場所を提供した方が、もっと世の中うまく回りますよ、程度のことではないか。
個人的にはロスジェネ世代のひとりとして社会に対する違和感とかある訳ですよ。けれどもそれは因果に過ぎない。たまたま戦後のいい時代に生まれたから、徴兵されることも、飢えることもなかった。その代わり、オトナを信じてレールに乗ってきた奴は就職のところで裏切られた。それは因果だけど、ちょっと勉強すればオトナのいうこと信じてたら大変なことになるぞって気付けた。
いま決定的に足りていないのは希望だ。ロスジェネ世代で苦労している連中だって、たぶん絶対的な労働条件や生活水準でいったら高度成長期のモーレツ社員よりずっと恵まれている。「働いたら負け」とかいってる時点で、かなりヌルい状況にある。じゃあ高度成長期のモーレツ社員にあって「働いたら負け」と信じるニートに何が足りないかというと、たぶん希望だ。彼らは期待を裏切られ、そして将来に期待を持てないという点で、二重に希望を失っている。そして月9のドラマに出てくるキラキラしたライフスタイルをみて臍を噛み「俺たちは割を食った」という思いを新たにするのだろう。
そういった意味で成熟経済で「今日より明日はよくなる。踏ん張って頑張れば逆転もあるかも知れない」的な希望がない中で、専門学校とか大学院カタカナ研究科が「なりたいものになれる」的な夢を売り、首狩り族がしきりにキャリアアップを喧伝し、テレビをつければ爛熟した消費社会と明らかにこれフツーの所得水準じゃねーだろ的ドラマに感情移入させられ、みたいなのって、みなさん商売だから仕方ないんだろうけど罪な話だよなーと思う。
テレビつけてもいつも「おしん」とか橋田壽賀子ドラマみたいのばっかりだったら、みんなツベコベいわず頑張れるんじゃね。『下流社会 新たな階層集団の出現 (光文社新書)』で低所得層が「自分らしさ」的な方向に走るのって、すげー自然だし、けれどもそういった反動そのものが市場セグメントとして再定義されて、心地よい宣伝文句とかコンセプトが生み出されるのが現代の高度消費社会って奴なんだろう。世の中のそういう身もふたもない現実を伝えるには、先生があまりにナイーヴ過ぎるという問題もある。
高校時代、僕は新聞記者になりたかったんだが、先生の進路指導は「東大の新聞研か早稲田に入れ」とか噴飯ものだった。進路指導といいながら、どう僕を受験勉強のレールに乗せるかしか考えてなかったんだろう。どうせ多くの先生は他の生き方を知らないんだから、大した進路指導なんかできなくって当たり前だ。僕が当時の自分から相談を受けたら「君はまだ世間を知らなさ過ぎる。世の中には面白いことがいろいろあるし、若いうちは自分が何に手応えを感じられるかについて、いろんな経験をして気付くことが重要だ。マスコミに入りたい奴って世にゴマンといるし、それしか知らずにそれに憧れるのは、小学生が運転手になりたい、ケーキ屋さんになりたいというのと変わらないぞ。大手の新聞社に入れば高給だが、いずれ少子化で経営は厳しくなるし、若いうちは好きなことばかり書ける訳でなし、ライターじゃ食えないし」というだろう。もちろん、いろいろやった上でマスコミを目指すのもいい。
いつの時代からか「分を弁えろ」というコトバが死語になった。それはそれで素晴らしいことでもあるが、実際には期待と現実とが収束しないまま放って置かれる連中が増えて「働いたら負け」的なエートスを生んでしまった。たぶん戦前以来の学校歴パイプラインシステムを教育界では堅持したまま、出口のところを壊れるがままにしたことの弊害なのだろう。早めに日本の近代化を支えたキャリアシステムの前提が崩れることに気付いた連中が、先手を打って大学院重点化とか「新時代の日本的雇用」といった彌縫策を打ち出し、その通りになってしまった訳だが、彼らも必ずしも悪意はなくて、これまでの日本はそうやって矛盾を先送りしていれば、気付いたら問題が雲散霧消していたという成功体験が少なからずあるのではないか。
確かに努力するインセンティヴを奪っておいて「やる気のなさ」を個人的な問題と決めつけるのは不当だが、努力できるのに努力せず報われない人々に対する福祉なんて財政難の折、真っ先に削られるだろうし、それに抗うことは理屈として難しい。それこそ働かない日本人の若者の代わりに、移民を受け入れる話にもなるし、若者と移民を差別するのかという議論さえ出かねない。
人口構成を考えるとロスジェネ世代が多数派を占めるとは考え難いし、いくら他責の議論を積み上げたところで詮無いのではないか。もちろん「何故勉強しなかったのか」という自己責任の論法でロスジェネの過去を問うことも同じように詮無い。働こうと思える希望をどう取り戻すかの方策、身を粉にして働いている人々が能力蓄積を通じて報われるための仕組みを検討することが当面は現実的ではないか。