ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

ぢみにやってゐます

先週は、教えているクラスの半数が球の表面積の公式を知らないという現実に強い衝撃を受けて、4日間ほど気分がすぐれなかったが、やっと少し落ち着いてきた。この件に関してはとにかく愕然としたので、学生たちには正直に「このような基本的な事項を理系の諸君が知らないということに深く失望した」と伝え、「いったい君たちはどこで幾何学を学んできたのか」と問いただしたところ、3人ほど講義のあとで「勉強が足りませんでした」「講義の外で自分で補習します」と言ってきたが、2人は次の講義から姿を見せなくなってしまった。講義に必要な予備知識が足りないことを自覚して自ら去っていくのであれば、無理をしてレベルの合わない講義を消化しようとするよりずっと健全だが、それにしてもアメリカ人の大学生の基礎知識は日本のゆとり教育の結果と大差ないということか。2人のうち少なくとも一人は本年度の卒業予定ではないので、仕切り直しをして来年また戻ってきてもらいたいものだ。このようにして学期が進むにつれ、クラスの規模がだんだん小さくなっていく。

きのうはみぞれまじりの空模様のもと、ま〜やがこの春から始めたばかりのサッカーの初めての試合を観戦しに行った。小学校1、2年生の女の子のチームだが、体の小さいま〜やは2年生でもあまり存在感がない。足もそれほど速くないし、ボールに対する執着があまりないので、チームへの貢献度という点ではまだまだだ。それでも何回かはボールに触ることができ、15分間ゴールキーパーもやらせてもらえて、すっかりご満悦だった。さいわいチームメートに何人か優秀なプレーヤーがいて、試合は2対1で勝った。帰宅後はちことま〜やの会話。

 は 「サッカーどうだった?」
 ま 「うん、すんごいたのしかった!ゴーリーもやった」
 は 「で、ま〜やのチームは勝ったの?」
 ま 「知らない」

ぬわ〜んと、まるで大局が飲み込めていないま〜や。

今やっている翻訳

 『12 "Christian" Beliefs That Can Drive You Crazy --Relief from the False Assumptions』という本を翻訳している。今回もクラウド&タウンゼント博士の著作。彼らの著作の何が素晴らしいかといえば、彼らは「人間」というものを、本当に聖書的にとらえていることだと思う。つまり、人間は「霊的」な存在であると同時に身体と魂(感情・知性・意志など)を持った「肉的」な存在でもあることを正面から見据えているということ。
 この世の心理学は人間を後者のようにしか見ていないし、いわゆる「スピリチュアルな」キリスト教の書物はしばしば人間の肉的な性質から目を背け、霊的な部分でしか人間を捉えようとしていないように感じる。結果として、セキュラーな心理学は人間の行動や思考パターンに関する豊富な観察とデータの集積という点では貢献してくれるけれど、人間の根底にある霊的な必要にまでは手が届かず、本当の解決は与えてくれない。一方人間を霊性からだけで語ろうとすると、確かに正しいことを言っているようなのだけれど、受け取る側としては何かが自分の実際の経験や生活とは噛み合ず、それは私が充分霊的でないからいけないのかな…という気にさせられる。
 しかし、イエスさまは「受肉」した神だ。100%神でありながら、100%人間でもあったイエスさまは、人間の霊的な必要と肉的な必要の両方をご存知であられた。そして聖書は人間を確かにそのような存在として語っている。クラウド&タウンゼント博士の著作は、そのことを読者に思い出させてくれる。人間の霊と魂と身体がどのようにつながっているかを理解した上で、私たちが日々の生活で直面する諸問題への解決の糸口を教えてくれる。人間はいのちのパンも必要だけれど、小麦粉のパンも紛れもなく必要なのだ。イエスさまは群衆の霊をいのちのパンで満たしただけでなく、身体もまた実際の食べ物で満たしてくださった。イエスさまは私たちの両方の必要をご存知であり、それを満たすことのできるお方。実際弟子達には(私たちにも)「日ごとの糧」を求めて祈る事ことも教えられた。しかしキリスト教「的」考え方のなかにどっぷり浸かっていると、小麦粉のパンを必要とすることがあたかも罪であるかのように思えてくることがある。でもそれは聖書の教えていることではなく、あくまでキリスト教「的」な考えだ。

 『12 "Christian" Beliefs That Can Drive You Crazy』はクリスチャンを混乱させ、みじめな「クルシチャン」にさせてしまうような、12の間違ったキリスト教「的」信念(思い込み)を斬り、聖書が実際には何と言っているかを教えてくれる本です。夏の終わりまでには翻訳が完成すればいいなと思っています。 今回の翻訳の上にも主の助けと守りがありますように!

Incarnational needs

 夕べ書いた日記に、少しだけ加筆しました。それから、「肉的な必要」という表現は誤解を招くかもしれないので、ちょっとだけ説明を加えます。ヨハネ1:14には「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」とありますが、この「ことばは人となって」の部分は、英語では「The Word became flesh」(flesh=肉 原語でも「肉」を意味する単語が使われている)となります。神学者はこれをIncarnation、すなわち「受肉」と言いますね。「肉的な必要」(クラウド&タウンゼント博士は「Incarnational needs」と表現していました)とははいわゆる「肉の欲」のことではなく、私たちが人間としてこの地上で生きていくにあたって必要なもの、神さまが人を肉をもった存在としてお造りになられたときに、それを維持するために神さまご自身が組み込まれた必要、というような意味です。

 人間は肉的存在でもあり、肉的必要がある、なんて言うと、「それでは『自己を否む』はどうなったんだ? 肉は十字架につけるべきではなかったのか?」と思われるかもしれませんが、イエスさまが人としてこの地上に生きておられたときに必要としていたものなら、私たちもまた、イエスさまと同じようにそれが必要なのだということです。

上沼昌雄先生の「ウィークリー瞑想」

 今日の午後メールで配信されてきた上沼昌雄先生の「ウィークリー瞑想」でもイエスさまの「受肉」に触れられていてあっと思った。以下、抜粋。

「わたしについて来なさい」といわれたイエスが私たちと同じ肉を持ってくださったので、肉を持つ私たちの弱さや苦しみや罪をよく知っていました。罪人たちと食事をすることはイエスにとって自然なことでした。私たちのまっただ中に来てくださったのです。遠くから私たちを招いておられるのではないのです。罪に苦しみ、弱さに落胆している私たちの真ん中に来て「わたしと一緒に歩こう」と言ってくださっているのです。その道は十字架の道ですが、イエスと一緒に歩くことができるのです。

アーメン。クラウド&タウンゼント博士の著作に感じることは、まさにこのイエスさまの視点とも言えるかもしれない。イエスさまはご自身も肉になられたために、私たちの苦しみ、弱さ、誘惑、必要をよくわかってくださるお方。そして恵みをもって私たちを包容し、真理をもって教え、諭し、解放してくださるお方。ちなみに、先に言及したヨハネ1:14の全文はこうなっている。

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネ1:14

栄光の主、イエスさまの御名を讃えます!

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