訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。
……すべての懲らしめ(discipline)は、そのときは喜ばしいものではなく、
かえって悲しく思われるものですが、後になると、
これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます
(ヘブル12章7、11節 写真はミルトスの花)
(ときどき、このブログの不具合でコメントが認証失敗ではじかれることがあります。お手数ですが、その場合にははちこにメールでコメントを送ってくだされば、私の方から投稿させていただきます。s.nakamura37アットgmail.com)
2005-08-11
進化論対ID
最新号のタイム誌に進化論対インテリジェント・デザイン(ID) についての特集が組まれていた。ああ、またかいなという感じだが、やっぱり何か言っといたほうがいいのかな、と思って。
高校の理科教育における進化論の扱いをめぐる議論はアメリカでは歴史が長く、1925年くらいにまでさかのぼる。詳細は面倒なので省くが、基本的にはキリスト教系保守派が生命の起源と歴史についての進化論の記述に異を唱えて、司法・行政の判断に訴えるという構図である。
この路線での最近の動きは、IDを進化論と並べて生物学の教程で教えるべきだ、というもの。IDが創造科学など従来の反進化論勢力の主張と違うのは、進化論を批判するものの、聖書など特定の宗教とのあからさまな結びつきを排している点である。基本的にIDの主張は「高等生物のつくりはきわめて複雑であり、自然淘汰や突然変異などだけで説明することは不可能である。背後にそれをデザインした知能の存在を仮定したほうがはるかに説得力がある」というもので、その知能が聖書の神であるとは言っていない。こうすることで、教える側が公立校の教室に特定の宗教を持ち込むことを禁じる政教分離政策に抵触しないようにしている。また、進化論を教えるなとも言わない。
IDを理科教程に持ち込むことに対する私自身の立場ははっきりしていて、「反対」である。その理由は、他の多くの反対派の人たちも言っているように、IDが科学だとは思わないからだ。ここで注意してほしいのは「IDは科学ではない」と言っている点で、「IDは科学として質が低い」と言っているのでも、IDを推奨する人たちの世界観を否定するわけでもないことである。むしろ、「万物の背後にはそれをデザインした知能の存在がある」というのは、「知能」を「神」と置き換えればきわめて聖書的な世界観で、私のキリスト教信仰によく合致する。
しかし、これはあくまでも「世界観」であって、サイエンスではない。科学はその本質において世界観そのものを教える学問ではない。(その材料を与えることはあっても。)残念なことに進化論は無神論的、物質主義的世界観と結びつけられやすいが、私の同僚のマクロ進化論の講義やその道の専門家のセミナーを聞いてみればわかるとおり、その90パーセントは試料やモデルから仮説を検証するという、サイエンスのルールにのっとった地道な作業についてであり、話し手の世界観が反映されていると感じることはめったにない。
普段からよく言っているように、サイエンスはその手法を重んじ、形而上学的なものは守備範囲外とする。サイエンスの不完全な現状を見かねて創造的知能という(検証不可能な)形而上の存在に訴えることは、科学者たちにルール無視と取られてもしかたあるまい。これはサイエンスのintegrityにかかわる問題であると同時に、理科教育の現場に不必要な混乱と騒音をもたらすことになる。キリスト教界がそこを考慮せずゴリ押しするようなことをすれば、逆にキリスト教のintegrityを疑われかねないので、注意すべき点だと思う。
この議論はむしろ「社会学」「哲学」「科学史」などの教科で世界観同士の比較として取り扱われるべきで、生物学はそのフォーラムとしては不適切であると考える。
***
(はちこより追記)以下は、自然科学と聖書の解釈の関わりについて、ぼぼるパパが彼なりに考えていることをちょっとまとめた文章です。(数年前に当時書いていた研究日誌に掲載したもの。)ご参考までにリンクします。
追記:
- クリスチャンにとっての創造vs.進化って?(2007/9/24)













しゅんぺいさん(とこの場でお呼びするご無礼をお許しください)、ようこそいらっしゃいました。全くの不勉強で、そのようなグループが存在することすら知りませんでした。ところで「大文字の第二次科学革命」の読み方は「おおもじの…」であって「だいもんじの…」ではありませんね?ちょっと気になったものですから。
こういう問題は政治や法も絡んでくるので、核心に触れる議論にまでになかなか及ばないのがじれったいですよね。
しゅんぺいさん、東京にはいつ頃戻られますか。また連絡しますね。
ところで私は18日にいったん東京に帰り、横浜と蔵王のシンポジウムに出るので、本当に帰宅するのは25日以降になります。
いままで私が関わったのはやはり創造科学の立場からのアプローチでしか知りませんでしたので、とても新鮮に感じ、また、納得させられました。
また、近年、ホーム&チャーチスクールという立場からアメリカから日本に輸入されている考え方も、創造科学の立場=聖書的な教育といった立場ではないかと思います。
それでは教育・特に小学生以下の教育という観点からはいかがでしょうか?
この年代の教育において科学と世界観を分離して伝えることが可能でしょうか?
科学と宗教という区別がまだ難しく、大人が教えていることのどちら本当なのかという二極的な思考が強いように思うのです。
クリスチャン・ホームの場合、幼いころから教えられてきた聖書の創造への信仰が小学校に行き始め、進化論を学び、自分はだまされていたと感じ始め、教会から離れていくというケースが多くみられると思うのです。(他の様々な要因・親子関係などがより重要因子だとは思いますが)その場合、神様はサンタクロースと同レベルの存在になってしまうこともあります。松任谷由美の曲に「小さい頃は、神様がいて〜」という歌詞が思いだされます。
小学校に行き始めて進化論に接し始めるときにどのようなアプローチがあるのでしょうか?「科学者たちが、神様の存在を考慮にいれないで純粋に実験をしたり、考えたりしたら、進化論の結果が今のところ正しいようなのだが、結局、人間が考えることなので、今までどおり神様による創造を信じていいんだよ。」というのも、小学生には難しいと思うのですが、、、。
また、最先端の科学者の皆様は世界観を考慮に入れずに、純粋に科学的な結果から進化論を進めているのかもしれませんが、教育のレベルでは世界観と完全に分離して導入されることはかなり難しいのではないかと感じます。
特に日本の場合、アニミズム的・輪廻転生・祖先崇拝的な世界観と密接に結びついてしまいます。今日もNHKでアメーバのことを「ご先祖様」と呼びながら、数十億年前の様子を「仮定」としてではなく、「実証された事実」として組まれた幼児番組が放送されていました。
以上、日本の場合の意見ですので、アメリカのID vs 進化論とはだいぶニュアンスが違うかもしれませんが、、、。
クリスチャンの子供たちが二極的思考に陥るのは、教える大人が二極的思考を補強していることにも一因があると思います。たとえば教会で繰り返し「進化論=反聖書的=いつわり」と教わり、学校の理科の時間に「聖書の教え=非科学的=時代遅れ」と教わる子供は、遅かれ早かれ、教会を取るか学校を取るかの二者択一を迫られることになります。もし、「聖書は理科の教科書とは違うんだよ」「科学と宗教は必ずしも相容れないものじゃないんだよ」と教われば、摩擦を感じつつも、子供は信仰と学問を両立する希望を持てるのではないでしょうか。そのためには教える側がそう考えていないことには始まりません。キリスト教界にも、教育の現場にも、柔軟な姿勢が望まれるところです。(場合によっては神学の多少の修正が必要かもしれませんが、それが聖書の真理について妥協することになるとは、かならずしも思いません。)21世紀はサイエンスの分野では生物学の時代と考えられています。優秀なクリスチャンの研究者がこの分野で活躍し、神を証ししていくためには、教育の現状は決して望ましいものとはいえません。
ちなみに私は、小学生以下の子には、自然をよく観察すること、自然の美しさに素直に感動する体験をさせてあげることがまず第一だと思います。まず理屈抜きに自然の仕組みの面白さや精巧さを目で見ることが、背後にある創造主の存在を実感することの第一歩だと思うからです。