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ミルトスの木かげで このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

God Bless you!!
(ミルトスの花)

Christian spiritual formation is the process of being conformed
to the image of Christ for the sake of others.
M. Robert Mulholland Jr.

ブログを移転しました。こちらにお越し下さい。よろしくお願いいたします。
http://rhythmsofgrace.blog.jp

2007-01-31

いけにえとあわれみ(メモ)

22:31 | いけにえとあわれみ(メモ)を含むブックマーク

 ここしばらく、繰り返し思わされていること。

 

「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。」とは

どういう意味か、行って学んで来なさい。(マタイ9:13)


わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。

全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。 (ホセア6:6)


 先日オバマ氏の話の時にチラッと話題にしたキリスト教右派がどうのとか、この前の夫に尊敬を示すことについてとか、いろんなことを通して、上記の御言葉が繰り返し胸に迫ってくる。

 ホセアの御言葉からもわかることは、神様は確かに私たちに律法をお与えになったけれど、それは私たちから「いけにえ」を強要するためではなかったということ。強制された従順、形だけの従順は神様は願っておられないということ。律法やさまざまな戒め、主の命令の背後にある神様のお心は何なのか… それを知ることを求め、それを大切にする者になりたい。

 祈らされている。主よ、あなたが、あわれみは好むがいけにえは好まない、とおっしゃるのはどういう意味なのか、教えてください。

 

まきとまきと 2007/02/01 01:54 文字は殺し,霊は生かすのです。律法は養育者です。この気分に近いようです。

めぐんちゃんめぐんちゃん 2007/02/01 08:27 ウィロークリークの牧師とU2のボノのインタヴュー見られました?ボノがイエス様の「羊とヤギを分ける(The needyに仕えることはキリストに仕えること)例え話」の話をしていたのを、上のマタイからのメッセージで思い出しました。なんかすごい良かったんで、まだご覧になられてなかったら、機会があれば見てみてください。

このインタヴューを見たあとうちのパスターがマザー・テレサをQuoteして”The needy of this world is Christ in distressing disguise”と言っていたのも印象に残りました。イエス様が痛ましい変装をまとっておられるのを見たら、すぐにかけよってお仕えできる者とされますように。

この「痛ましい変装」について色々考えさせられました。「羊とヤギ」の例え話の中ではお腹の空いている人、裸の人、牢屋に入っている人等が出てきますが、それを現代に当てはめるとホームレスの人や貧しい人はもちろん、薬物やアルコールに囚われている人や、色々な状況かで寂しい思いをしたり苦しんだりしている人も当てはまるのかなと思ったり。

でも私の内には、特に厳しい環境で苦しんでおられる変装のイエス様どころか、すぐ周囲にいる人々に仕える愛も知恵も見つけられなかったりするのです。主の恵みによって取り扱われ、キリストの愛を伝える通り良き管となれるよう、祈っていきたいです。

はちこはちこ 2007/02/01 15:29 まきとさん
文字に仕える者でなく、御霊に仕える者、ということですね!

めぐんちゃん、
おお、そのインタビュー、どこで見れるの?
「Christ in distressing disguise」か… ずしっとくるね。私も、キリストのコンパッションについて、考えさせられています。上のまきとさんのコメントにもあったように、「文字」に仕えることに夢中になっていると、私たちのまわりにいる「痛ましい変装」のイエス様に気づかずに通り過ぎてしまうのでしょうか…

>すぐ周囲にいる人々に仕える愛も知恵も見つけられなかったりする
私も… 内側からキリストのいのちによって変えられていきたいものです。

めぐんちゃんめぐんちゃん 2007/02/01 21:28 うーん、今のとこDVDは教会宛のみで個人への発送はしてないみたいですね。さちさんの教会とか、コピーを受け取ってるんじゃないかな??

http://www.willowcreek.com/features/2006/bonodvd/

この↓リンクからMP3ならダウンロードできるみたいです。

http://biblical-studies.ca/blog/wp/2006/08/12/bono-interview/

yukayuka 2007/02/01 23:06 今年に入って、”礼拝と賛美”ー小牧者出版 を個人で学んでいます。はちこさんの書かれてる御言葉は、私が今学んで語られている事に共通する響きがあるなって思います。
テキストに
 礼拝は、主のご人格に対する関心が最優先であることを知り、神様にお仕えすること
 なのです。
とあります。
マルタとマリアの記事で、イエス様が好まれた事が書かれています。そして、「あなたは「神様について」ではなく「神様」をどれくらい知っていますか?」という質問でとても考えさせられました。ある人をある事を知るためには、その人と長い時間過ごしていろいろと体験する中でその人を知る事が出来ると思ったら、果たして最近、本気で神様を知ろうとしていただろうかと。
そして、旧約の時代の捧げ物について「なだめのかおり」としてささげるものと「罪のため」にささげるものがあり、そういったささげものを通してようやく神様と会うことが許された。それら幕屋といけにえを捧げる方法はイエス様の影だったと説明があります。聖霊様によって、私たちはイエス様を主と告白させ、神様と人格的関係を結ばせて下さり、神様の御前近くに出る事が出来る。罪の告白を促せて聖い神様の御前に出ることができるようにして下さる。御言葉を通して神様の善とされる完全なみこころが何かを礼拝者に悟らせて下さる。それゆえに、礼拝者の心得と動機が、礼拝を受け取られる神様のみこころに添うことが可能になる。だから、道であり真理であるイエス様にとどまり、その御名により礼拝をささげるべきです。イエス様の十字架と復活が礼拝の基礎なのです。神様が生きておられると本当に信じるなら、神様のみことばが真実であり、事実であることを信じるようになる。神様が生きておられる事を信じて御前に出る礼拝者たちは、神様がみことばを通して啓示されるみこころを信頼し、そのみこころに従って礼拝をします。その他の方法を通して神様の御前に出ようとする者は、決して神様の御前に立つことができないのです。
アベルとカインの例話からも説明があって、信仰により、その礼拝者は目を留められるのです。神様の礼拝方法を信じて捧げたアベルが神様の目に留まったとあります。

私には、日々神様との交わりは、まず神様ご自身を知る事、御側で知る事としてある。そして、神様が求めておられる捧げ物を捧げる事が、私の神様に対する礼拝なのではないかと思っています。
私の場合、譬えは、教会では礼拝賛美の奉仕リーダーとして躍起になってしまって、御霊の働きをつかめずに終わってしまったらとかチームメンバーがどうだろうとか、そういう事に心が囚われて、私にとっての神様をきちんと知りもせず、「神様、お捧げします。」といっていないだろうか。例えば、生活における全てを、神様が求めておられる捧げ物をもってお捧げしないと、神様はきっと喜ばれない、目に留めて下さらないんだろうなと思うのです。まず、神様を知る事から始まる個人的礼拝なんだろうと思わされています。
すみません、ずれてたら。そして、すっごく長くなってしまいました。

はちこはちこ 2007/02/02 07:23 めぐんちゃん、
なるほど、うちの教会も受け取ってるかもしれない。ウィロークリークって、いろんなリソースを他の教会にも提供しているんだよね。ダウンロードできるサイトも教えてくれてありがとう!

yukaちゃん、
はてなダイアリーは長いコメントも問題ないので、長さは気にせず、いくらでもお分かちください!
そうか、「いけにえ」というのは、本来、神様に近づき,神様を知るためのプロセスの一つだったのに、いけにえを捧げることそのものに気を取られて、神様を知る事には無関心になってしまうのを神様は悲しまれたんだね。どんなに正しい方法でいけにえを捧げても、神様ご本人を知るついては無関心なら意味がないものね。
そういえば、献金について、数ヶ月前にこれと似たようなことを示されました。献金という行為がいつの間にか、判で押したような機械的なものになってしまい、本来献金が表しているはずの主への感謝とか信頼とか、そういうのが薄らいでしまっていたことに気づかされたんですね。それで、お給料が入金されたら、夫と二人で決めた額の小切手を書いて、それに二人で手を当てて感謝の祈りをし、この一ヶ月も主の備えに信頼しますと告白し、それから献金するように変えたんです。日々の生活の中で、本来自分の信仰から出ているはずのことが、いつの間にか形だけになってしまっているということがありますよね。
いろいろ考えさせられました。どうもありがとう!!

MannaManna 2007/02/02 17:40 初めまして… いきなりコメント書いてもいいものか?と、一瞬、躊躇しましたが、律法や様々な戒め、主の命令の背後にある神様のお心は?との問いに、持ち前のお節介心が沸いてきました。 
私は、それらのきまりは、神様の御愛ゆえだと、受け取っています。
少し、乱暴な言い方かもしれませんが… 親が子供を守りしつける為に定めるルールのようなものだと、理解してもよいのではと思います。 
主の戒めは、「それ以上出ると危ないよ!」と言う、私達を安全に守る為の囲いのようなものではないでしょうか。。。
天の父なる神様が、私達が神の家族の一員として生き成長していく過程を安全で健やかに過す為に、戒めや命令によって安全帯を与えて下さっている事を、時には、反抗したり違反したりしながらも、感謝しています。 
『あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。』 
私達は、愛されています。 ハレルヤ!

はちこはちこ 2007/02/03 22:47 Mannaさん、はじめまして! コメントしてくださって嬉しいです!
主の戒めは、私たちを守るための囲い、まったくアーメンです。私も以前,「律法と親心」という記事を書いたことがあったのを思い出しました。
これからもどうぞよろしく!(^^)

nobunobu 2007/02/05 00:00 ちょうど、昨日の礼拝でこの言葉を取り上げたところだったので、
ちょっとだけコメントしたくなりました。

結局、「あわれみ」って神さまの側からの一方的で、変わることのない、真実な愛ですよね。

そうやって生かされているんだなぁ、とつくづく。

そうやって人を生かしたいなぁ、ともつくづく。

浩子浩子 2007/02/05 06:50 私も以前から”あわれみは好むがいけにえは好まない”のあわれみの意味が
というより、あわれみといけにえがなぜ対になっているのか、と心にずっと
留まっていました。
最近、賛美のリビングプレイスのタイトルのひとつに”あわれみ”があることに気づき、ついで御霊の実という言葉が思い出されました。
9つの実にはあわれみは入っていませんが、どの実もあわれみと言う言葉
を内包している気が(というよりあわれみが先かも)していたので、つまりは御霊によって主を知り、慕い求め続けることこそ、神様が喜ばれることなんだな、と思いました。
許しの心も相手へのあわれみが与えられることによって生まれるし、あわれみの心
って、自分が謙遜にされなければ決して生まれてこない気がするんですよね。
謙遜=イエス様。やっぱり、主を愛し主のようになりたいと渇望する心こそ
神様は何をさておいても一番望まれているのかな、そう思う昨今です。

浩子浩子 2007/02/05 07:00 PS. 詩篇51-17が同時に心をよぎりました。
  主が求めるいけにえは砕かれた魂、砕かれ悔いた心を主はないがしろには
  決してなさらない!人を許せなくてすごく辛かったときすごく励まされ、
  文字通り砕かれました。そして硬い心が溶かされました。

はちこはちこ 2007/02/05 12:46 nobuさん、初めまして! 先日トラックバックをくださったnobuさんですか? だとしたら、私の実家は、先生の教会の結構近くです。(隣の駅)^^
ちょうど礼拝でこの御言葉が取り上げられたばかりだったのですか!
ほんとうに、私たちは主の一方的な恵みと憐れみによって生かされているのですよね。感謝です!

浩子さん、
お分かち感謝です! おっしゃる通り、あわれみって、自分が主の一方的な恩恵によって赦されていると知ることなしには、私たちには持ち得ないものですよね。律法に従って生きようとするなら、私たちはみんな、律法によって裁かれざるをえない… でも、神様はいけにえよりもあわれみを好まれるお方であるゆえに、私たちはあわれみのおかげで生かされることができる… それなのに、私たちは他者を見る時には、律法の目を向けてしまうことが何と多いことでしょうか。
”あわれみは好むがいけにえは好まない”… この箇所は、イエス様が罪人や取税人たちと食事をしているのを見咎めたパリサイ人たちに向かって、イエス様が言われた言葉でしたが、私はこの御言葉をきくと、ヨハネ8章の姦淫の女が石打にされそうになった箇所を思いだすのです。人々は律法に従って、姦淫の女を石打ちの刑に処そうとしたけれど、イエスさまは彼女を罪に定めることよりも、彼女を生かすことを選ばれた… 神様って、私たちに対しても同じことをしてくださいますよね。 私たちが罪を犯せば、神様は確かにコンフロントはされるだろうけれど、それは私たちを罪に定める(condemn)ためではなく、それによって悔い改め、いのちを得ることができるように、なんですね。主のあわれみにただ感謝です。