Faithful in Discouragement
今、スモールグループで、ボブ・ラッセルの学びの本&DVDを使ってバイスタをしている。ヨセフの人生から、人生のあらゆる局面において忠実であり続けることについて学ぶ、というテーマ。
- 機能不全の家庭の中にあって忠実である。(創世記37章)
- 誘惑の中にあって忠実である。(創世記38、39章)
- 気落ちするような状況にあって忠実である。(創世記40、41章)
- 繁栄の中にあって忠実である。(創世記41章14−57節、47章13−26節)
- 赦しにおいて忠実である。(創世記42−45章)
- 最後まで忠実である。(創世記46−50章)
今日は、三番目の「気落ちするような状況にあって忠実である』から。思いがけずすごくタイムリーな学びで、とても励まされた。学びながら、この半年あまり、私自身も拒絶と待機の連続で、実はかなり気落ちしていたことに気づかされた。でもその状況がはっきりとわかったことで、逆に安心したというか、何を祈ったらいいのか明確になったのでよかった。
ラッセル師の話の中で、次の部分が特に印象的だった。ヨセフが監獄に拘留されている時、献酌官と調理官の夢の解き明かしをした。献酌官は解き明かしの通りに釈放され、ヨセフは、献酌官がしあわせになったら私のことをパロに話してすぐ釈放されるよう頼んでくださいとお願いしておいたので、すぐに自分も釈放されると思っただろうに、献酌官は何とヨセフのことを忘れてしまった。献酌官が釈放された時、ヨセフはこのことすべての上に働かれておられる主の御名をどれだけたたえ、神さまのタイミング、神さまのお取り計らいに、どれだけ感謝しただろうか。それなのに、いくら待っても釈放の知らせは来ず、彼はどれだけ気落ちしただろうか。結局その後2年間もヨセフは監獄に拘留されたままだった。
絶対神さまが働いておられる、確かに主の御手が動いているのが見える、ああ、主はなんて素晴らしい!そう思って疑いなく主に期待し、主を賛美していた矢先に、上からコンクリートの塊が落ちて来るかのごとく、期待が一気に潰されることがある。神さまが事を導いておられたはずじゃなかったのか? 神さまの御心だと確信が与えられていたはずじゃなかったのか? がっかりし、自分の心の中に疑いが湧いてくる… しかし、そんな状況にあってこそ、踏みとどまって主に忠実であり続けること。 God knows what He is doing. 気落ちする状況の中でも、召しにふさわしく歩み続けること、良い業を行なうことに飽くことなく、熱心に励み続けること。
Dear Lord, help me stay faithful to You and keep going as You direct me in Your path, even when the path looks like a dead end in my eyes.