山本弘に関する56年前の新聞記事

 長野県飯田市の地方紙『南信州』に山本弘に関する新聞記事が載っていた。もう56年前になる1958年8月22日付けのコラム「人あれこれ」という欄で、見出しが「放浪の異色画家 作男しながら彩管振う」となっている。その全文を紹介する。

 ひろしが個展を開く、と聞いたら手放しで喜んでやる人と?つきで祝福する人々が半々くらいじやないかと思う。今までの山本君だつたら、飯田で知るかぎりにおいて、ナニをやらかすか、ドンナ画を並べるやらワケが分からない、といつた面が多く、いや全てに近くそのナニが飛び出しても、ひろしらしくてよい、というのが前者、予測できないままに首を傾けるのが後者だが、いずれも山本君のどこかに惚れこんどる人々といえよう。
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 20年ころ絵を志して上京、武蔵野美術に籍を置いて、かなり苦しい生活と勉強を続けたらしい。松本出身の一水会滝川太郎画伯に師事、滝川画伯は石井柏亭門下のアカデミックな画家であり、山本君もそのもとでみつちり学んだわけだが、若さと情熱はアカデミックなものにあき足らず、自分の道を求めて遂に放浪の旅に出たのだつた。当時健康を害し画にも生活にも行き詰まつて、カリ自殺を企てたが、服毒の前に濁酒をのみすぎたせいかオウ吐して助かつたというが、死にそこなつたという伝説の持ち主でもある。
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 東京へ往つたり来たりから31年には愛知県下で開拓の仕事を手伝いながら開拓者のたくましさをえがき、滋賀、岐阜、京都などを転々、劇場の舞台背景描きや、山仕事の間にも絵心を燃やし続けて、この春ひよつこり飯田へ現れ、座光寺耕雲寺に寄寓して午前中畑仕事の手伝い、午後は製作という一応の落ちつきの生活に入り、この3カ月ばかりの新作40余点を世に問う意気込みで、来る25日から3日間中央公民館で個展を開く。
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 作品は人物が主でデッサンと油半々の小品であるが「人物とくに顔を通じての詩的雰囲気の表現、渋い色調潜熱的な色彩のアウトラインを切りすてたような、黒い像に自己の生命をうちこんでいる」と友人がいうところをみると、おそらく感覚的に過ぎて一般向きでないことは、今からうかがえるがナニかをつかんで来たことも充分期待できる。先ごろ公民館夏期大学に来飯した仏文学者で美術評論家宗左近教授が「他の作家にない女の病的エロチシズムは放浪のたまもの……」といつたとか、気をよくしている。酒は浴びるほど、酔つての毒舌は人物月旦に映画評に、詩文にも一風をもち、仲々コクが、当人はへのようなと称している。行くべき道を得て、好漢自重して進め……。

 以上、引用終わり。筆者の署名がないので誰の文か分からない。1958年(昭和33年)は山本弘28歳だった。飯田市中央公民館で第1回めの個展を開いている。完売だったと聞いている。文中の「20年」とか「31年」というのは昭和、最後の「仲々コク」は「なかなか言う」の意。小さな白黒写真が載っているが精悍でハンサムな顔立ちだ。