ドナルド・キーン『日本文学史』を読む

 ドナルド・キーン『日本文学史 ――近代・現代篇7』(中公文庫)を読む。原著は英語で書かれており、英米の読者向けに書かれたものだろう。本篇は短歌と俳句を取り上げている。英米人向けとはいえ、私も短歌史、俳句史について知らないのでちょうど良い入門書だった。
 キーンの解釈は深く適切だ。前半は短歌について書いている。
 有名な若山牧水白鳥の歌について、

  白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただようふ
     The white seagull-----
     Is it not saddening
     It the blue of sky
     Or the blue of the sea?


 この歌の意味に関しては多くの議論が成されてきた。「かなしからずや」という言葉が、鳥に向けられた問いだと主張する評釈者もいれば、鳥に対する牧水の共感を表している、または鳥を牧水が代弁していると解釈する者もおり、さらにはこの詩を浪漫主義的なシンボルとして読んだ者もいた。しかし「かなしからずや」という言葉は、「この光景を見て悲しさをおぼえないか」という、第三者に対する問いかけとして解釈するのが妥当だと思われる。作者の悲恋が歌の背景となっているが、それは作品には表われていない。この鳥は牧水のシンボルではない。周りのものから孤絶している鳥はむしろ作者の寂しさに調和する存在なのである。

 斎藤茂吉について、

 現代の生活について簡潔で迫力のある歌を詠んだ啄木が人気を博したのは納得がゆくが、茂吉の人気の高さはいささか不可解でもある。茂吉の歌は難解で、その表現方法も直接的ではなかった。偉大な歌人としての世評だけをうのみにして解りもしないのにその作品を称えた者もいたことは確かだが、茂吉の歌人としての重要性は疑いの余地がない。たとえ古い様式の短歌であっても、他の近代的な詩形よりも日本人に大きな感動を与えうることを茂吉は証明したのだ。茂吉はこれを、短歌が日本の遺産として、その血の中に流れているからだと解説している。

 後半は俳句を取り上げている。俳句についての理解力も高い。高浜虚子について、

 虚子の保守性は一部の俳人を遠ざけたが、同時にまた多数の俳人を『ホトトギス』派に引き寄せた。こうして、『ホトトギス』は全国に広まり、俳句は20世紀の日本の生活と文学におけるさまざまな変化にもかかわらず、生きのびることができたのである。この頃の『ホトトギス』の歴史は俳句そのもの歴史と言えるかもしれない。しかし他の文学が近代の諸問題と正面から取り組もうとしている時も、『ホトトギス』は超然とした態度を保ち続けた。これは必ずしも間違った態度とは言えないだろう。たとえば戦時中の虚子の作品は、当時の他の文学の病的興奮とは対照的に落ち着いた、超越したものだった。しかしこの美点そのものが虚子の俳句の基本的な弱点を示している。かれの俳句は瞬間的な知覚は表わせても、人間の本質的な部分を扱うことはできなかった。花や鳥は人生に喜びをもたらす。四季の変化は永遠に歌い上げられるべきものだ。しかし芭蕉が俳句に表わそうと試みたのは、より深い何かだったのではないだろうか。

 水原秋桜子ははじめ『ホトトギス』に加わっていたが、のちに別れて『馬酔木』に専念する。そして評論を発表し、『ホトトギス』派の俳人を批判した。

 秋桜子の評論はそれ自体の価値というよりも歴史的な意義において重要だったと言える。論旨は簡単で、秋桜子の作品を知る者にとっては特に目新しくはなかったが、それまで神聖な存在だった『ホトトギス』に挑戦状を叩きつけることによって俳句の新しい運動の到来を印象づけたのである。秋桜子のまわりには若い俳人が集まった。この頃の『馬酔木』の同人の平均年齢はわずか30歳で、最年長は秋桜子自身で40歳、最年少は19歳の石田波郷だった。(中略)『馬酔木』の売上げは倍増したが『ホトトギス』からの反応は皆無といってよかった。成り上がり者を無視するというのが虚子の方針であったようだ。

 山口誓子の句が紹介される。

……昭和21年に刊行された句集『激浪』には、主に19年の7月から10月までに詠まれた句が集められている。実際の戦争に触れた作品は少ないが、誓子が戦争によって多大な影響を受けていたのは疑いもない。次の句からは作者の虚無感が示唆される。・


  海に出て木枯帰るところなし
     Moving out to sea
     The winter storm has nowhere
     For it to return.


 むなしく海に向かって吹く木枯しは、俳句を作り終えた後の、作者の空白感を表しているのかもしれない。

 この句については、特攻隊の兵士を詠んだものだと教わってきたのだが。
 石田波郷の俳句が取り上げられる。

  雪はしづかにゆたかにはやし屍室(かばねしつ)
     The snow is quiet,
     Abundant, precipitous:
     The mortuary.

 この句に波郷は自解を添えている。しかし山本健吉は句の背景を知らず、まったく違う解釈をした。

……山本は波郷が意図した以上のものをこの句から読み取っているが、だからといってその解釈が間違っているわけではない。俳句の曖昧さは短さ、言葉の省略、そして「説明」の少なさから生じるが、それがさまざまな解釈を可能にする。波郷が俳句を好んだのもまさにこういった理由からで、誤解の余地のない明白な事実を伝えたかったのなら俳句を選びはしなかっただろう。

 初めて読む短歌史、俳句史として、本書は正に正解だったのではないか。合理的で明晰でとても分かりやすかった。キーンの著作らしく索引が充実している。