小林敏明 編『哲学者廣松渉の告白的回想録』を読む

 小林敏明 編『哲学者廣松渉の告白的回想録』(河出書房新社)を読む。廣松渉西田幾多郎と並んで日本で最も難解な哲学者だ。編者の小林敏明は廣松が名古屋大学で教えていたときの弟子で、もう一人東大で教えていたときの弟子が熊野純彦だ。本書は廣松が虎ノ門病院に入院しているときに小林が病室を訪ねてインタビューしたものをまとめている。廣松はインタビューの2年後に同病院で肺がんのために亡くなっている。
 難解で知られる廣松だが、本書は自分の過去を語っているので拍子抜けするほど分かりやすい。
 冒頭で小林が廣松について、戦後日本を代表する思想家のひとりだと書く。廣松は1960年代から70年代にかけて全国的に起こった学生反乱の時代に、ジャーナリズムやアカデミズムの論壇に登場して活躍した。「ある種の学生たちにとっては、この廣松の登場は、その少し前の吉本隆明などと並んで、戦後を飾るひとつの思想史的事件だったと言ってよいだろう」と。

 では、いったい廣松理論の何がそれほどまでに当時の学生を中心とした若者たちをひきつけたのだろうか。廣松理論の核心は、一言でいえば、マルクス主義に仮託した近代批判である。近代といってもその内容はさまざまだが、廣松にとってその中心にあるのは資本主義という人類史的宿命であり、それに連動して生じているさまざまな現象やものの観方である。なかでも哲学者としての廣松がその理論的ターゲットとしたのは、近代という時代に特有なものの観方、つまり「近代的世界観」と呼ばれるものであった。廣松はその中心的特徴を「主観と客観の分離」や「機械論的合理性」「原子論」といったものの中に見い出しながら、自らそれに対する理論的オルタナティヴをつきつけようと奮闘した。「関係の一次性」とか「共同主観性」「物象化論」といった用語にこめられた内容がそれに当たるが、廣松はこうした自分独自の考えをおもに二つの方向に発展させていった。

 一つはこうした考えがマルクスエンゲルスのなかにもあったことを実証する作業であり、もう一つは、関係主義による主客二元論的発想の克服という近代批判の基本テーゼをさまざまな学問分野で応用、証明するという道である。小林がこう要約しているが、久しぶりに廣松の難解さを思い出した。
 しかし本書は小林が廣松にインタビューして、まさに出生から1960年ころまでをまとめたものだ。旧制中学のころから左翼運動にのめり込み、それがため退学になり、大検などを経て東大に進み哲学を専攻する。母や妹とともに九州を夜逃げしたエピソードや、たくさんのラブレターを送った話も語られる。これは小林が相手の女性から聞き出したことなのだが。学生運動では内ゲバに合って大けがをしたエピソードもちょっと紹介される。思想家廣松の伝記ではありながらも、思想的なことよりむしろ廣松の来歴を中心に語られている。思想的な事柄については数々の著書を読めばいいのだから。
 「編者あとがき」で小林が語る。

 このインタヴューからほぼ8カ月後の1993年正月、私は一時帰国をして病床の廣松氏を訪ねた。だが、このとき普段の意気軒昂はすっかりその影を落とし、われわれはあまり多くを語ることはできなかった。その別れ際、薬瓶をさげた車をひきずってエレヴェーターまで送ってくれた廣松氏と交わした言葉が実質最後の会話であると言ってよい。「今度君が帰ってくるまでは僕はもう生きていないだろうから」。正直なところ、私はあの気丈な廣松氏の口からこんな言葉が出てくることを予期しなかった。狼狽し言葉に詰まってしまったわたしには「廣松さんも一生の生き様としては悔いが残らないでしょう。僕は今死んだら悔いが残るので、もうちょっとだけ頑張ってみます」と返すだけが精いっぱいであった。短いながらも一生を燃焼できた人、私はそう納得しようとしたが、病院を出て地下鉄の駅に向かう間涙が止まらなかった。それは何とも言いようのない感情であった。自分の青春の大半を重ね合わせたひとりの人間が今こうしてこの世界から姿を消していく、そのことを確認させられた瞬間の、半ば自らの身を切られるような寂しさでもあった。こういう感情は後にも先にも経験したことはない。

 小林が一時帰国したと書いているのは、当時小林はドイツのライプティヒ大学の教授だったから。別な場所で、小林は廣松渉木村敏に強い影響を受けたと言っていた。
 本書を読んでいるときに岩波文庫の新刊案内が岩波のPR誌『図書』に載っていた。廣松渉の『世界の共同主観的存在構造』が今月文庫で出るという。その単行本が出版された直後に私もそれを購入したが、45年経ったいまも本棚に差したまま読んでいない。廣松は難しいのだ。文庫では熊野純彦の解説がつくという。文庫を買いなおして久しぶりに廣松渉の世界に入ってみよう。


哲学者廣松渉の告白的回想録

哲学者廣松渉の告白的回想録