小谷野敦『江藤淳と大江健三郎』を読む

 小谷野敦江藤淳大江健三郎』(ちくま文庫)を読む。江藤と大江の二人の伝記を同時に描いている。ただ小谷野はかなり癖の強いひねくれた性格の文芸評論家なので、他の伝記作家とはだいぶ異なった意見が綴られることになる。遠慮することがなく、細部に必要以上に拘泥し、噂話程度も記録している。
 江藤の『成熟と喪失』について、

 これは、小島信夫ら「第三の新人」の文藝評論にことよせた近代文明評論に見えるが、それもまた見せかけで、要するに江藤の私小説である。

 大江の「性的人間」について、

 大江はその小説作品から、同性愛ではないか、幼女性愛者ではないかなどと言われてきたが、江藤については、あたかも妻一人を大事に守ってきたように見える。だがその記事(『噂の真相』)によると、藝者の愛人がいたこともあるという。江藤は学者意識を持っているから、そういうことを表に出さないが、いくらかの性的逸脱はあっただろう。そしてこの(大江の「性的人間」の)「J」というのは、そもそも江藤がモデルではないかと言ったのはスガ秀実なのだが、確かに「J」は「淳」だし、大江は江藤をブルジョワ出身と見ているから、辻褄はあう。それどころか、もしかしたらこの当時も江藤に痴漢事件があったのじゃないかと勘繰りたくもなる。

 「江藤のエッセイのつまらなさ」という項で、

 私は江藤のエッセイ集のうち、『夜の紅茶』と『こもんせんす』を、江藤に熱中していた時に古本屋で見つけて買ってきたのだが、帯に、読書カードからの抜粋か、江藤さんのエッセイは上品でといった言葉が躍っているのを見て、どうも嫌な気分になった。読んでみると、いつもの自慢話はともかくとして、なんだか学者が定年後に半ば自費出版みたいな形で出すエッセイ集に似ているのである。批評ではあれだけ厳しい江藤が、エッセイでは妙に気取って、他人の悪口はあまり言わず、上品な読者を相手にしているという風情で、ユーモアのつもりらしいところもあるのだがそれが不発で、團伊玖磨のような毒がないし、小林秀雄のべらんめえもない。週刊誌の連載なのに、下がかったネタもほとんどない。人物伝も、一次資料を引いてきて妙に学問的に見せかけるのだが、松本清張が書く文学者や藝術家の伝記のような、ゴシップ的な面白さがない。

 大江の『キルプの軍団』について、

 私は数年前に、初めてこの『キルプの軍団』を読んで、なぜこんな名作があまり騒がれなかったのだろうと驚いたもので、大江はこの一作だけでほかの凡庸な作家が全作品あげてかかってもかなわないくらいだと思った。

 「あとがき」で、

 大江の政治的発言は、みな役割演技だと考えたいほどに、私は大江の文学を高く評価していて、日本文学史の三大文学者を、紫式部曲亭馬琴大江健三郎と名ざししたいほどである。大江は、谷崎や川端に譲ってもいいが、三島や村上春樹に譲ることは絶対になく、夏目漱石に譲ることもまずない。馬琴には同意しない人も多そうだが、これが西鶴上田秋成に譲られることはない。

 今読んでいるドナルド・キーン西鶴をきわめて高く評価しているが・・・。