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2019-01-25

[]秋山画廊主からの最後のメッセージ



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 東京千駄ヶ谷にあった秋山画廊の秋山田津子さんが昨年11月8日に亡くなった。秋山画廊は1963年から続く伝統がある現代美術の老舗画廊だった。昨年夏に体調を崩された秋山さんは画廊を閉じることを決心した。閉廊にあたり、和光大学の三上豊さんが秋山画廊の記録の編纂を任された。その際、秋山さんから三上さんに宛てて「冊子を作る前に」というメモが送付された。出来上がった『秋山画廊 1985-2018』にはそのメモが掲載されている。この秋山さんからの最後のメッセージを多くの人に読んでほしいと思ったので、誰の許可を得ることもなく勝手に転載させてもらう。

   冊子を作る前に


 知っておいて頂きたいこと。

〇きっかけはJ.P.サルトルのいわゆる”l’angagement” 社会の現実に関わりを求め、職業として美術商ではなく、現代美術を選んだ。

〇秋山画廊は”空間ありき”だった。何年経っても”よそ者” ”ド素人”の意識を最後迄持ち続けた。

〇出会いは、3人展、榎倉、遠藤、村岡作品の衝撃的、電撃的出会いに雷に打たれる思い。

〇村岡さんの、”プロの作家とは、作品で食べている人のことではなく、たった1人の人の為に作品を作ること”、という言葉。又、”全ての人が良いという作品は本当に良いのではなく、半々位が良い作品だ”etc. 村岡ゴロク。

その後、私の(展覧会の)作家選びは全てこの空間にこの作品を展示したいか否かで決められていった。

従ってfileを見て話をきいてimageが浮ばない人は、お断りしていた。

〇そして段々作家が、作品とは何かを教えてくれるようになった。

日本橋での17年間は、全く私の修業時代。

千駄ヶ谷に移っても私は新しい”空間”を愛した。こちらは若い人達を意識して取り上げようとした。

2009年頃から若い学校出たばかりの悩み多い世代が口こみで増えてきた。

〇これ迄私が苦手としていた絵画の見方も若い人達の熱心な美術論議でとても勉強になった。

〇何となく若い作家が集まるようになり、意外と、この世代にも70年代に興味を持つ人が多いことを知った。

〇若い作家達は一寸背中を押すと感性のするどい作品を次々と発表することが判り、張合いを感じる。

日本橋と違って展覧会がない週も気にならなくなり、じっくり待てるようになった。

〇閉めたくはなかった。しかし、こればかりは仕方がない。

皆に申し訳ないけれど、私自身は、この仕事で素晴らしい人達に出会えたこと、感謝しかない。そこで最後迄作家に育てられたオーナーとして一生を閉じられること幸せです。

 1枚目のメモの「出会いは、3人展、榎倉、遠藤、村岡作品」とは、榎倉康二、遠藤利克、村岡三郎だろう。秋山画廊といえば高山登と小山穂太郎も外すことはできない。日本橋時代では塩田千春の初個展も印象に残っている。日本橋千駄ヶ谷もユニークな空間で素晴らしい画廊だった。

 日本橋の秋山画廊は1階入口から地下の展示空間へ螺旋階段を降りて行った。階段を下りながら展示されている作品を見下ろし、地階へ降りて作品を正面から見ることができるのだった。千駄ヶ谷画廊が玄関を床より数十cm高くして、最初ちょっと見下ろす形に設計されていたのは、日本橋画廊の記憶を移植したのだろう。少し高い位置から画廊いっぱいに置かれた遠藤利克の作品を見下ろし、床に降り立って背丈ほどある遠藤の作品に対峙するのは心地よい体験だった。

 秋山さんが急に亡くなられたことは残念でならない。しかし人はいつか死ぬ。残された者はただそれを嘆き悼み、そして別れを受け入れるしかできない。メモの最後の言葉、「最後迄作家に育てられたオーナーとして一生を閉じられること幸せです」とは秋山さんの本心だろう。私は秋山さんが2002年に日本橋画廊を閉じるまで10年間ほど毎週通い、現代美術の最前線を教えられた。千駄ヶ谷に移ってからは熱心な客ではなかったが、ここが現代美術の最も重要な画廊であることは疑ったことがなかった。秋山田津子さん、長い間ありがとうございました。

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