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2018-08-27

[]朝日新聞読売新聞



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朝日新聞

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読売新聞


 昨日の朝日新聞読売新聞に毎日ワンズの新刊広告が載っていた。どちらも全5段という大きさで、紹介されている本も同じ2冊。倉田耕一『アメリカ本土を爆撃した男』と津田左右吉『古事記及び日本書紀の研究』だ。しかし、朝日新聞では『古事記〜』が紙面の80%を占め、読売新聞では逆に『アメリカ〜』が85%を占めている。

 朝日の『古事記及び日本書紀の研究』の広告コピーは、

古代史を科学的に捉え、八代天皇の実在に疑義を呈した不敬罪発禁本、ついに新書化!


「博士の研究はそもそも不敬罪に触れるものではない。全体を読めば合理的解釈に満ちているのである」(南原繁元東大総長)

 とあり、読売の『アメリカ本土を爆撃した男』の広告コピーは、

その軍人に大統領は感謝状とホワイトハウス星条旗を、爆撃地は名誉市民章を贈っていた!


総理大臣の警告にも怯まず日本刀を携えて渡米、爆撃したオレゴン州の若者たちを74歳にして私財をなげうち日本に招待した藤田元中尉の「反省」と「気概」!

 広告には本音が現れる。これらの配分がそれぞれの新聞の読者に有効だとクライアント(毎日ワンズ)が考えたのだろう。おそらく広告代理店のアドバイスがあったのだろうが。

 昔、雑誌『ジャンプ』が500万部出てた頃、読者は子どもたちより大人が多いのだと言われたが、広告を見れば子ども相手の商品ばかりだった。この雑誌が膨大な部数を誇っていても、読者のほとんどが子どもたちであることをスポンサーは正確に見抜いていた。広告主はお金がかかっているからシビアなのだ。

2018-08-08

[]大丸東京店のちらし



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 今朝の新聞折り込みに大丸東京店のちらしが入っていた。「盆マルシェ」というタイトルで、訳せば盆市場、まあお盆のセールくらいの意味なんだろう。そのちらしの一部に「紳士用品雑貨量り売りセール」というのがあって、「1g当たりの価格で販売!」と謳っている。

 ワイシャツ1g当たり税抜き8円とあり、ワイシャツ1着当たり約250gとある。同様にネクタイ1g当たり税抜き20円、ネクタイ1本当たり約80g、ベルト1g当たり税抜き12円、ベルト1本当たり約136gとある。

 具体的に計算すると、ワイシャツ1着2,000円、ネクタイ1本1,600円、ベルト1本1,632円となる(いずれも税抜き)。この数字はスーパーのバーゲンセール並みで、大丸がこの数字を掲げても誰も魅力を感じないだろう。キモはワイシャツやネクタイを1g当たりの価格で表示した面白さ、目新しさだろう。面白がって来店してくれれば販売につながるかもしれない。

 ネクタイといえば、昔取引先の部長に東京駅前の飲み屋に呼び出され、あんたとあんたの奥さんにプレゼントがあると、ネクタイとショールを手渡された。高島屋で買ってきたんだと言っていた。酒を御馳走になって帰宅し、カミさんにショールを渡すとすぐにあなたこれのお返しはしなくていいからと言われた。日頃世話になっている部長だったから、翌日高島屋のネクタイ売り場に行って、もらったネクタイの価格を訊いた。店員がこれうちで扱っているメーカーのものではありませんねと言い、別の店員バーゲンで扱ったものかしらと尋ねた。いえ違います、うちでは扱っていません。ネクタイのタグにある電話番号に問い合わせればいいんじゃないですか、とアドバイスされた。

 翌日その番号に電話した。おかけになった番号は現在使われていません、とのテープ音声が流れた。するとこのネクタイメーカーは倒産しているのだろう。部長の部下にその旨話すと、部長はパチンコが好きでよく景品をもらってくるんですとのこと。倒産した工場の製品はパチンコの景品に流れるのか。

2017-02-16

[]ルミネのポスターのモデルの眉



 井の頭線のどこかの駅だったか、大きなルミネのポスターが貼られていた。


生まれた感情の数だけ、女は表情が生まれる。


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 このモデルの眉がかもめ眉なのだ。(かもめ眉については2日前に書いた中田いくみの『かもめのことはよく知らない』の紹介を見てほしい。「眉間がつながって、かもめが羽ばたいているように見える眉毛のこと」とある。メキシコの画家フリーダ・カーロの眉にもよく似ている。もしかしたら、この眉が今年の流行なのだろうか? それとも単にフリーダ・カーロに擬しているだけなのであろうか。(この「擬して」は「似せて」くらいの意味で使っているのだが、吉本隆明の著書『擬制の終焉』がカッコよかったので真似している。むかし友人の部屋にあって気になっていたが、まだ読んでない)。

 フリーダ・カーロはなぜあんな眉をしていたのだろう。当時あれがカッコよかったのだろうか。あるいはインディオのアイデンティティを眉で主張していたのだろうか。

 そういえば昔付き合った彼女の眉の生え方の形と陰毛の形態が相似形だったのが面白かった。急にそんなことを思い出してしまったが、このことに普遍性はあるのだろうか。つまり誰でもそうなのだろうか。

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フリーダ・カーロ

2016-03-12

[]『コンセプトのつくり方』を読んで



 山田壮夫『コンセプトのつくり方』(朝日新聞出版)を読む。副題が「たとえば商品開発にも役立つ電通の発想法」とあり、新刊案内にも「電通のクリエイティブ・ディレクターが明かす、実践的クリエイティブ発想法。ロジカル・シンキングにも代わる、新しい思考の方法論を解説する」とある。

 広告業界の商品開発の手法を教えてくれていて、なるほどさすが電通と感心した。私も10年近く前には似たような業界にいたけれど、今では派遣社員に近い仕事をしているのでほとんど縁がない世界になってしまった。ではなぜ読んだのか、身近にあってたまたま時間があったからだ。ほぼ1時間くらいで読んでしまった。

 本書は新書判の体裁だが一応ハードカバーとなっている。本文の体裁は1行35字詰め、1ページ13行、総ページ数143ページだが、図版と写真が24.5ページ分ある。400字詰め原稿用紙に換算すると135枚の分量になる。文字の大きさは写植文字なら15級、活字で10.5ポイントくらいと割合大きい。

 岩波新書の『蘇我氏の古代』の字詰なら90ページ足らずになってしまう。短時間で読めたのも道理だ。しかし、この内容なら日経新書あたりの方が向いているような気もするが、電通マンである著者が朝日新聞出版を選んだのは理由があるのだろう。コンセプトを語っているが、専門の広告マン向けというよりむしろ一般向けと考えているのではないか。そうすると専門家向けの日経新書よりこちらの方が合っているのかもしれない。

 一般の人が商品開発をもし考えるのならまさに適当な参考書かもしれない。私だってずいぶんと勉強になった。ちょっとだけ広告の仕事をやってみたいと思ったほどだ。

2015-05-30

[][]お嬢様聖水という飲み物



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 新宿の地下道に貼られていたポスターが目に入った。新しい缶入り飲料「お嬢様聖水」の広告だった。キャッチフレーズが「私の中の女神が目覚める」とあり、ショルダーが「植物発酵エナジードリンク」となっている。ポスターや製品のイラストから見て、若い女性が販促対象の製品だということは分かる。ポスターには「東京メトロ駅売店で、全国に先駆けて先行発売中!」とある。早速買ってみた。ちょっと甘ったるい味がする。でも210円は男には高いと思うが、男なんて相手にしてないんだろう。

 さて、「聖水」はルビがないので正確な読みは不明だが、常識的には「せいすい」だろう。しかし「しょうすい」という読み方もできる。すると、この音は「小水」に通じてしまう。「お嬢様小水」なんて、ディープなマニア向けの商品になってしまう。そんな名詞があるということはわずかであってもそのような需要があるということだろう。そんなことを連想すると、お笑いタレントが憧れの女優のウンコが食べられると発言したことを思い出した。

 ある時、たまたまテレビのバラエティー番組を見ていたら、タレントの松村邦洋が好きな女優について質問されていた。松村は小川知子と言ったのだったか、正確には忘れてしまったが、きれいな女優の名前をあげた。他の品の悪い出演者が、そんなに好きなら彼女のウンコが食えるかと聞いた。松村は、出口に口をつければ食べられると答えた。これが印象に残った。

 以前読んだ鷲田清一の講演録『ファッションという装置』(河合ブックレット)に、まさに「きたない」という感情について、レインを引用して次のように紹介されていた。

 「レインは、ぼくたちが何かを飲むときには4通りのケースがあると言います」。

1. まず口の中の唾を呑みこむというケース。

2. たとえばコップの中の水を飲むというケース。

3. コップのなかに唾を吐き出し、その唾と水とをいっしょに飲むというケース。

4. 水をすすり、それで口をすすいでからまたコップに戻し、その吐き出したものを、もう一度飲みこむというケース。

 ぼくたちはほとんど例外なく、3と4のケースに即座に「きたない!」と反応しますね。想像するだけでぞっとする。けれどもよく考えてみれば、どのケースにおいても、実際に喉を通過するのは同じもの、つまり水と唾だけです。そうすると「きたない!」といったこの拒絶反応は、何を飲むかではなく、むしろ飲むという行為についての何らかの解釈から発生している、と考えたほうがよさそうです。

 3、4のケースが1、2のケースと違うのは、3、4では水や唾が口から出たり入ったりすることにあります。もともと身体のなかにあったものがいったん外へ出て、外にあったものと混じりあって、それがもう一度身体の内部に吸収される。ここでは身体の内と外がごちゃごちゃになっている、混乱しているわけです。そしてこのように身体の内部と外部の境界を曖昧にするものに、ぼくたちはどうも拒絶反応を示すようです。

 ところで、ダート、つまり汚物の観念については、メアリ・ダグラスという文化人類学者が非常に明解な説明をしています。尿・便・月経血・唾・痰・アカ・汗・爪・髪など、もともとわれわれの身体の一部であるものが、いったん身体から排泄され、分泌され、あるいは剥げ落ちると、しかもそれらが身体の開口部に付着したままになっていると、とたんにたまらなく汚くおもわれるのは、それらが身体の内部と外部の境界を、言いかえれば、私と私でないものとの境界を曖昧にしてしまうからだ、と言うのです。身体の穴から出てきて、その穴の周りにくっついているものは、身体から出てしまっているので、もはや私のものではないが、かと言って、くっついているわけだから私以外のものに属するわけでもない。それは私であって私でないもの、私の内部と外部が決定不可能なかたちで混じりあっている両義的な部分であり、〈私〉という存在の輪郭を侵犯し、曖昧にしてしまうので、それゆえわれわれによってはげしく忌避されるのだ、と言うのです。要するに、あるものとそれ以外のものとの分類を混乱させるものが、「きたない!」というかたちで、われわれの過剰な感情的反応を引き起こすというわけです。だから、場違いなもの、たとえばテーブルの上に置かれた靴とか、ネクタイにくっついたケーキとかにも、ぼくたちは「きたない!」と反応してしまうということになります。

 こうした事実からメアリー・ダグラスは、次のような命題を導きだします。それは、「汚(けが)れがあるところには必ず体系が存在する」というものです。というのも、もし分類を混乱させるものが汚いのだとすると、「きたない」という感情はいつも何らかの分類システムの存在を前提していることになるからです。この分類システムというのは、言ってみれば意味の分割線、意味の境界のことです。

 松村が「出口に口をつければ好きな女優のウンコが食べられる」と言ったのは突拍子もないことではなかった。身体の穴から出てきて、その穴の周りにくっついているものは、身体から出てしまっているので汚いが、まだ体の中から出ていなければ汚くないのだ。もしかしたら、松村も鷲田清一かメアリー・ダグラスを読んでいたのだろうか。