mmpoloの日記 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2017-02-16

[]ルミネのポスターのモデルの眉



 井の頭線のどこかの駅だったか、大きなルミネのポスターが貼られていた。


生まれた感情の数だけ、女は表情が生まれる。


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 このモデルの眉がかもめ眉なのだ。(かもめ眉については2日前に書いた中田いくみの『かもめのことはよく知らない』の紹介を見てほしい。「眉間がつながって、かもめが羽ばたいているように見える眉毛のこと」とある。メキシコの画家フリーダ・カーロの眉にもよく似ている。もしかしたら、この眉が今年の流行なのだろうか? それとも単にフリーダ・カーロに擬しているだけなのであろうか。(この「擬して」は「似せて」くらいの意味で使っているのだが、吉本隆明の著書『擬制終焉』がカッコよかったので真似している。むかし友人の部屋にあって気になっていたが、まだ読んでない)。

 フリーダ・カーロはなぜあんな眉をしていたのだろう。当時あれがカッコよかったのだろうか。あるいはインディオアイデンティティを眉で主張していたのだろうか。

 そういえば昔付き合った彼女の眉の生え方の形と陰毛の形態が相似形だったのが面白かった。急にそんなことを思い出してしまったが、このことに普遍性はあるのだろうか。つまり誰でもそうなのだろうか。

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フリーダ・カーロ

2016-03-12

[]『コンセプトのつくり方』を読んで



 山田壮夫『コンセプトのつくり方』(朝日新聞出版)を読む。副題が「たとえば商品開発にも役立つ電通の発想法」とあり、新刊案内にも「電通のクリエイティブ・ディレクターが明かす、実践的クリエイティブ発想法。ロジカル・シンキングにも代わる、新しい思考の方法論を解説する」とある。

 広告業界の商品開発の手法を教えてくれていて、なるほどさすが電通と感心した。私も10年近く前には似たような業界にいたけれど、今では派遣社員に近い仕事をしているのでほとんど縁がない世界になってしまった。ではなぜ読んだのか、身近にあってたまたま時間があったからだ。ほぼ1時間くらいで読んでしまった。

 本書は新書判の体裁だが一応ハードカバーとなっている。本文の体裁は1行35字詰め、1ページ13行、総ページ数143ページだが、図版と写真が24.5ページ分ある。400字詰め原稿用紙に換算すると135枚の分量になる。文字の大きさは写植文字なら15級、活字で10.5ポイントくらいと割合大きい。

 岩波新書の『蘇我氏の古代』の字詰なら90ページ足らずになってしまう。短時間で読めたのも道理だ。しかし、この内容なら日経新書あたりの方が向いているような気もするが、電通マンである著者が朝日新聞出版を選んだのは理由があるのだろう。コンセプトを語っているが、専門の広告マン向けというよりむしろ一般向けと考えているのではないか。そうすると専門家向けの日経新書よりこちらの方が合っているのかもしれない。

 一般の人が商品開発をもし考えるのならまさに適当な参考書かもしれない。私だってずいぶんと勉強になった。ちょっとだけ広告の仕事をやってみたいと思ったほどだ。

2015-05-30

[][]お嬢様聖水という飲み物



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 新宿の地下道に貼られていたポスターが目に入った。新しい缶入り飲料「お嬢様聖水」の広告だった。キャッチフレーズが「私の中の女神が目覚める」とあり、ショルダーが「植物発酵エナジードリンク」となっている。ポスターや製品のイラストから見て、若い女性が販促対象の製品だということは分かる。ポスターには「東京メトロ駅売店で、全国に先駆けて先行発売中!」とある。早速買ってみた。ちょっと甘ったるい味がする。でも210円は男には高いと思うが、男なんて相手にしてないんだろう。

 さて、「聖水」はルビがないので正確な読みは不明だが、常識的には「せいすい」だろう。しかし「しょうすい」という読み方もできる。すると、この音は「小水」に通じてしまう。「お嬢様小水」なんて、ディープなマニア向けの商品になってしまう。そんな名詞があるということはわずかであってもそのような需要があるということだろう。そんなことを連想すると、お笑いタレントが憧れの女優のウンコが食べられると発言したことを思い出した。

 ある時、たまたまテレビのバラエティー番組を見ていたら、タレントの松村邦洋が好きな女優について質問されていた。松村は小川知子と言ったのだったか、正確には忘れてしまったが、きれいな女優の名前をあげた。他の品の悪い出演者が、そんなに好きなら彼女のウンコが食えるかと聞いた。松村は、出口に口をつければ食べられると答えた。これが印象に残った。

 以前読んだ鷲田清一の講演録『ファッションという装置』(河合ブックレット)に、まさに「きたない」という感情について、レインを引用して次のように紹介されていた。

 「レインは、ぼくたちが何かを飲むときには4通りのケースがあると言います」。

1. まず口の中の唾を呑みこむというケース。

2. たとえばコップの中の水を飲むというケース。

3. コップのなかに唾を吐き出し、その唾と水とをいっしょに飲むというケース。

4. 水をすすり、それで口をすすいでからまたコップに戻し、その吐き出したものを、もう一度飲みこむというケース。

 ぼくたちはほとんど例外なく、3と4のケースに即座に「きたない!」と反応しますね。想像するだけでぞっとする。けれどもよく考えてみれば、どのケースにおいても、実際に喉を通過するのは同じもの、つまり水と唾だけです。そうすると「きたない!」といったこの拒絶反応は、何を飲むかではなく、むしろ飲むという行為についての何らかの解釈から発生している、と考えたほうがよさそうです。

 3、4のケースが1、2のケースと違うのは、3、4では水や唾が口から出たり入ったりすることにあります。もともと身体のなかにあったものがいったん外へ出て、外にあったものと混じりあって、それがもう一度身体の内部に吸収される。ここでは身体の内と外がごちゃごちゃになっている、混乱しているわけです。そしてこのように身体の内部と外部の境界を曖昧にするものに、ぼくたちはどうも拒絶反応を示すようです。

 ところで、ダート、つまり汚物の観念については、メアリ・ダグラスという文化人類学者が非常に明解な説明をしています。尿・便・月経血・唾・痰・アカ・汗・爪・髪など、もともとわれわれの身体の一部であるものが、いったん身体から排泄され、分泌され、あるいは剥げ落ちると、しかもそれらが身体の開口部に付着したままになっていると、とたんにたまらなく汚くおもわれるのは、それらが身体の内部と外部の境界を、言いかえれば、私と私でないものとの境界を曖昧にしてしまうからだ、と言うのです。身体の穴から出てきて、その穴の周りにくっついているものは、身体から出てしまっているので、もはや私のものではないが、かと言って、くっついているわけだから私以外のものに属するわけでもない。それは私であって私でないもの、私の内部と外部が決定不可能なかたちで混じりあっている両義的な部分であり、〈私〉という存在の輪郭を侵犯し、曖昧にしてしまうので、それゆえわれわれによってはげしく忌避されるのだ、と言うのです。要するに、あるものとそれ以外のものとの分類を混乱させるものが、「きたない!」というかたちで、われわれの過剰な感情的反応を引き起こすというわけです。だから、場違いなもの、たとえばテーブルの上に置かれた靴とか、ネクタイにくっついたケーキとかにも、ぼくたちは「きたない!」と反応してしまうということになります。

 こうした事実からメアリー・ダグラスは、次のような命題を導きだします。それは、「汚(けが)れがあるところには必ず体系が存在する」というものです。というのも、もし分類を混乱させるものが汚いのだとすると、「きたない」という感情はいつも何らかの分類システムの存在を前提していることになるからです。この分類システムというのは、言ってみれば意味の分割線、意味の境界のことです。

 松村が「出口に口をつければ好きな女優のウンコが食べられる」と言ったのは突拍子もないことではなかった。身体の穴から出てきて、その穴の周りにくっついているものは、身体から出てしまっているので汚いが、まだ体の中から出ていなければ汚くないのだ。もしかしたら、松村も鷲田清一かメアリー・ダグラスを読んでいたのだろうか。


2015-04-05

[]ふりむくと、未来が見える。



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 六本木の東京メトロの駅の壁に某テレビ局のポスターが貼られていた。「ものづくり日本の奇跡」という某テレビ局60周年特別企画の番組の広告で、「ふりむくと、未来が見える。」というヘッドコピーが書かれている。そのボディーコピーが、

焼け野原で、先人たちは夢を見た。

もういちど立ち上がる夢だった。

何もなかった。

夢だけをむさぼった。

夢は未来だった。

未来はつくるしかなかった。

汗と涙を、知恵と勇気を、涸れるほどしぼった。

やがて、プロダクトで、テクノロジーで、アイデアで、遠く描いた未来に手が届いた。

焼けるような魂に触れながら、いま、私たち自身に問いかけよう。

むさぼるように夢を見ているか。

つくれるか。

歴史が嫉妬するほどの未来を。

21世紀は、もう、15年目だ。

 何だか、S酒造メーカーが新成人向けに毎年4月1日に新聞に掲載している某作家の書くコピーのようだ。気負っているところとちょっと臭いところ、言葉が垢抜けないところなどがほんの少しばかり似ている。S酒造メーカーのその広告は以前は江分利満氏が書いていたけど氏が亡くなって、それからこの作家に代わったのだった。江分利満氏の方が良かったと思うけど……。

「焼け野原で、先人たちは夢を見た。もういちど立ち上がる夢だった。何もなかった。夢だけをむさぼった。夢は未来だった。未来はつくるしかなかった。汗と涙を、知恵と勇気を、涸れるほどしぼった」。

 これって、実体がなくて単に言葉を弄んでいるだけじゃないか。こんな臭いコピーにオーケーを出してはいけないでしょう。

2015-01-07

[][]筆文字のロゴタイプ



 昔小田実が「アメリカ」という紀行文で、初めてアメリカに行った時アメリカの女性の美醜が分からなかったと書いていた。極端なのは分かる、中間が分からない。しかしそれもアメリカに何カ月も暮らすうちに徐々に両側から埋まっていって、最後は日本人女性を見るようにアメリカ人女性が見られるようになった。

 私は日本から出たことがないのでこの経験はないが、これはたいていのことに当てはまるのではないか。絵でも本当に良い絵は誰でも分かるだろう。極端にひどい絵も分かる。経験を深めていくことによって中間部分がだんだんに秩序つけられていく。

 以前、こういう枕を振ってから苦手な書について書いたことがある。今回も同じ枕を使って書について偉そうなことを書いてみたい。

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 友人と居酒屋へ行ったとき、醤油のびんの商品名のロゴタイプが眼についた。筆文字で書かれている。この文字が良くないと見えた。ろくろく書が分からないくせにそんな偉そうなことが言えるのは、上に記したように極端に良いものと悪いものは誰でも分かりうるからだ。この「しょうゆ」の文字も商品としての受けを狙っていて、ケレン味たっぷりだ。まだ「刺身醤油」の方が良いけれど、どうでえ、すごいだろうという声が聞こえてきそうだ。

 以前、銀座の画廊で開かれた書家の個展を見たことがあった。壁一面に貼られた大きな紙に般若心経を書いていた。その書の中に朱色を散りばめていて、これは何だろうと不思議に思った。画廊の2階に上がると、同じ書家の小さな作品がたくさん展示されていた。それが商品のロゴマークの原図だった。「商業書道」とでも言うのか、その世界では売れている人のようだった。それで、般若心経を書いても色を付けたくなってしまうのだろう。関根伸夫がモニュメントの会社経営に携わった結果、作品の質が驚くほど低下したのを思い出した。