mmpoloの日記 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2017-12-28

[]執筆という行為自体が考える行為(再録)



 ブログを書く時間がないので、以下、昔書いたのを再録する。

 ルイーズ・バレット小松淳子・訳『野性の知能』(インターシフト)に執筆という行為について興味深いことが書かれている。

……言語は私たちにコミュニケーション能力を与えるものだし、私たちの脳の構造にもうまく適している。しかし、それだけでなく、私たちの脳が「生まれながら」には備えていない能力も付与してくれる。本来なら解けない難しい課題を、言語が脳の処理能力に適したフォーマットに書き直すのだ。人間は基本的にパターン認識者だとアンディ・クラークは言う(身体化され、埋め込まれた認知への生態学的アプローチについて考察したことを思い返せば、うなずけるはずだ)。このデフォルト・モードの「克服」を可能にするのが言語だ。言語無しではうまく構造化できないはずの問題に、別の形で取り組めるようになるからである。クラークはつまり、言語が「空間のトレード」を可能にすると言いたいのだ。どういう意味か? 私たちは言語を構成する身体外の記号体系を使って、文化的に獲得されたさまざまな表象をトレードし、脳の負担を軽減している。言語は情報伝達の道具であるだけではなく、私たちが本来の能力以上のことを達成できるように環境を変化させる手段でもあるのだ。たとえば、エッセイを綴る時も、最初に思考ありきで、それを書き留めるわけではない。執筆という行為自体が考える行為だ。なぜなら、執筆は、私たちが自分の思考を正確に順序づけ、自分の言わんとするところを伝えられるように、言語を使用する方法であるからだ。思考は執筆行為によって、執筆行為を介して産出される。執筆しなければ、私たちはこの類いの思考を持つことはできないと、クラークは言う。

 これは信原幸弘『考える脳・考えない脳』(講談社現代新書)と同じことを言っている。信原は脳は考えないと驚くようなことを言う。では何が考えるのか。きわめて大雑把に要約すると、考えるのは3つの場合だという。1.人と話すとき、2.紙に書くとき、3.自分自身と心の中で会話をするとき。

 それ以外の状況では脳は考えない。脳内で自動的に考えることはない。たしかに、ブログを書くときも、書こうとするテーマは決めているが、その細部はあらかじめできあがっているわけではなく、書きながらできていくという経験をほとんどいつもしている。書きながら考えている。人と話すことで考えがまとまるのもしばしばだ。暗算はどうか? 暗算するときも頭の中にソロバンや数字を描いている。脳内で自動的に計算ができているわけではない。

 では脳は何をしているのか? 脳はひたすらデータを溜め込んでいるという。私は20年以上にわたって毎年2,000軒以上の画廊を見てきた。脳内にたくさんの蓄積されたデータが入っている。新しい作家の個展を見たとき、無意識に脳内のデータを参照しつつ作家に話しかけ、話しながら作品の位置づけなどが出来上がっていった経験が何度もあった。

 この『考える脳・考えない脳』はもう10数年前に読んだきりなので、ほとんど憶えていないが、上述した部分は印象に残っていた。脳はデータを蓄積するだけで、他者に話したり、紙に書いたり、自己問答したりしたときに初めて考えるのだという驚くべき主張は忘れることができなかった。



考える脳・考えない脳―心と知識の哲学 (講談社現代新書)

考える脳・考えない脳―心と知識の哲学 (講談社現代新書)

2014-06-27

[]執筆という行為自体が考える行為



 ルイーズ・バレット小松淳子・訳『野性の知能』(インターシフト)に執筆という行為について興味深いことが書かれている。

……言語は私たちにコミュニケーション能力を与えるものだし、私たちの脳の構造にもうまく適している。しかし、それだけでなく、私たちの脳が「生まれながら」には備えていない能力も付与してくれる。本来なら解けない難しい課題を、言語が脳の処理能力に適したフォーマットに書き直すのだ。人間は基本的にパターン認識者だとアンディ・クラークは言う(身体化され、埋め込まれた認知への生態学的アプローチについて考察したことを思い返せば、うなずけるはずだ)。このデフォルト・モードの「克服」を可能にするのが言語だ。言語無しではうまく構造化できないはずの問題に、別の形で取り組めるようになるからである。クラークはつまり、言語が「空間のトレード」を可能にすると言いたいのだ。どういう意味か? 私たちは言語を構成する身体外の記号体系を使って、文化的に獲得されたさまざまな表象をトレードし、脳の負担を軽減している。言語は情報伝達の道具であるだけではなく、私たちが本来の能力以上のことを達成できるように環境を変化させる手段でもあるのだ。たとえば、エッセイを綴る時も、最初に思考ありきで、それを書き留めるわけではない。執筆という行為自体が考える行為だ。なぜなら、執筆は、私たちが自分の思考を正確に順序づけ、自分の言わんとするところを伝えられるように、言語を使用する方法であるからだ。思考は執筆行為によって、執筆行為を介して産出される。執筆しなければ、私たちはこの類いの思考を持つことはできないと、クラークは言う。

 これは信原幸弘『考える脳・考えない脳』(講談社現代新書)と同じことを言っている。信原は脳は考えないと驚くようなことを言う。では何が考えるのか。きわめて大雑把に要約すると、考えるのは3つの場合だという。1.人と話すとき、2.紙に書くとき、3.自分自身と心の中で会話をするとき。

 それ以外の状況では脳は考えない。脳内で自動的に考えることはない。たしかに、ブログを書くときも、書こうとするテーマは決めているが、その細部はあらかじめできあがっているわけではなく、書きながらできていくという経験をほとんどいつもしている。書きながら考えている。人と話すことで考えがまとまるのもしばしばだ。暗算はどうか? 暗算するときも頭の中にソロバンや数字を描いている。脳内で自動的に計算ができているわけではない。

 では脳は何をしているのか? 脳はひたすらデータを溜め込んでいるという。私は20年以上にわたって毎年2,000軒以上の画廊を見てきた。脳内にたくさんの蓄積されたデータが入っている。新しい作家の個展を見たとき、無意識に脳内のデータを参照しつつ作家に話しかけ、話しながら作品の位置づけなどが出来上がっていった経験が何度もあった。

 この『考える脳・考えない脳』はもう10数年前に読んだきりなので、ほとんど憶えていないが、上述した部分は印象に残っていた。脳はデータを蓄積するだけで、他者に話したり、紙に書いたり、自己問答したりしたときに初めて考えるのだという驚くべき主張は忘れることができなかった。

考える脳・考えない脳―心と知識の哲学 (講談社現代新書)

考える脳・考えない脳―心と知識の哲学 (講談社現代新書)

2013-08-27

[]オクタビオ・パスと渡辺京二



 ノーベル文学賞を受賞したメキシコの詩人オクタビオ・パスは『マルセル・デュシャン論』(書肆風の薔薇)で機械と人間を比較して、人間こそ不死だと書く。

 これらの機械は、われわれの身体よりも長もちのする材料でできているにもかかわらず、われわれよりも速やかに老朽化する。それは考え出されたもの、つくられたものであり、身体は再生であり、再創造である。機械は傷み、ある期間経つと、新しい型が前の型にとって代わる。身体は年老い、死ぬが、人間の身体は人間が地上に出現して以来、今日まで、同じものたりつづけている。身体は死すべきであるがゆえに、不死である。そしてこれこそ、そのつねに変わることのない魅惑の秘密−−性の秘密であり、かつエロティシズムの秘密である。

 それとは少々異なるが、『逝きし世の面影』の著者渡辺京二が朝日新聞のインタビューに答えて「長生き」という価値観に疑問を呈している(8月23日)。

 私たちは彼ら(幕末維新の頃日本に滞在した外国人)の観察を通して、近代化で失ったものの大きさ、豊かさを初めて実感できます。いま私たちが生きている近代文明の本質も見えてくる。たとえば、いくら江戸時代がいいといっても当時の平均寿命は今の半分以下だったんだぞ、という批判があります。でも、その前提にある「寿命は長ければ長いほどいい」という価値観が、すでに近代の発想なんです。人は時代に考えを左右される。その思考枠に揺さぶりをかけ、いまの社会のありようを相対視したかったのです。

 パスの「人は不死だ」という考えと、渡辺の「長生き」という価値観への疑問。これらは少々共通したものを持っているのではないだろうか。長生きなどしなくても、短命で充実した人生があるということ。その人生は同時に「人」という強い共通性によって他人たちとも連続していること。この時、死は断絶などではなく、たとえて言えば何か小さなズレ程度のことになるのではないか。人は死を超えて他の人と連続している。


『逝きし世の面影』を読んで(2010年4月13日)


逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

マルセル・デュシャン論

マルセル・デュシャン論

2013-08-21

[]記憶のかたち



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 お茶の水駅近くのお堀の岸に白い百合の花が咲いていた。よく知っている百合だ。何だったっけ? 「た」行の名前だった気がする。タメトモユリ(為朝百合)だったか、いや違う、タメトモユリはヤマユリよりも大きくて日本でもっとも華やかな白い百合だ。こんな路傍に咲いていることは決してない。実にみごとな豪華な花なのだ。

 「台湾」という言葉が浮かんだ。台湾なんて付く名前の百合はなかった。しばらく考えてタカサゴユリ(高砂百合)だったことを思い出した。タカサゴユリは新鉄砲百合とも呼ばれ、近年あちこちで見られる帰化植物だ。栽培が簡単で種がたくさんでき、発芽率も高く各地で雑草化している。花期が短く花の形も崩れることが多く、栽培種の百合としては魅力に欠ける。

 名前を思い出したことで、なぜ台湾を連想したかも分かった。台湾には戦後中国本土から大量に中国人が移住してきたが、それ以前から住んでいた住民を高砂族と言っていた。記憶の奥の方で高砂百合の「高砂」が「台湾」を呼び起こしたのだろう。「た行」というのも間違っていなかった。

 名前を思い出すとき、私はしばしば「〜行」の言葉だと言う。以前カミさんから、その言い方、娘もおんなじねと言われた。これは私と娘に共通する癖というより、記憶のかたちが同じタイプなのではないか。


タカサゴユリの記事(2009年10月30日)

タカサゴユリ(2006年9月13日)