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2016-10-16

[]小川洋子河合隼雄『生きるとは、自分の物語をつくること』を読む



 小川洋子河合隼雄『生きるとは、自分の物語をつくること』(新潮文庫)を読む。河合と小川が対談したもの。2005年と2006年に文化庁長官室で対談したが、その2度目の対談の2カ月後に河合が倒れ、翌年7月に79歳で亡くなった。軽い対談なのだが、さすが河合隼雄、ちょっとした話の奥に深いものが見られる。

 個性について二人が話している。

河合  (……)よほどのことでも、どこかの物語の中に必ずあると言っていいんじゃないかと思っています。

小川  神話とか説話とか昔話には、現代人の悩みがもう全て凝縮されて表現されていると、先生はお書きになっていらっしゃいます。

河合  ええ。だから、われわれのところにシンデレラ白雪姫が来ることもあるわけですよね。

小川  人間は繰り返し同じことを悩みながら生きているってことですね。

河合  その人の個性で、ちょっとずつ色が違ってきますけどね。

 これとちょっと違うが、コンラート・ローレンツが語っていることを思いだした。『人イヌに会う』(ハヤカワ文庫)から、

個性を誇大にいわれる人類にあっても、型は遺伝によってみごとに保存されている。(中略)私の子どもの一人に、4人の祖父母たちの性格の特質が、つぎつぎと、ときとして一度にあらわれるのを見て、私はしばしば神秘の念に打たれた――生者のあいだに死者の霊を見たかのように、私が曾祖父母を知っていたら、おそらくその存在をも子どもたちのなかに発見しただろうし、それらが奇妙にまざりあって、私の子ども子どもたちにつたえられていくのをみることになったかもしれない。

 私は、みるからに無邪気で、素直な性質をもったちびの雌イヌのスージー――その先祖のほとんどを知っている――をみると、いつも死と不滅についてのそのような思いにかられるのである。私たちの飼育所では、やむをえず、許されるかぎりの同系交配が行われているからである。が、個々のイヌの性格の特性は、人間のそれとは比較にならぬほど単純であり、したがってそれが子孫の個体の特性と結びついてあらわれるときにいっそう顕著であるので、先祖の性格の特性のすべての再現は、人間における場合にくらべて、はかり知れぬほどはっきりしている。動物においては、先祖からうけついだ資質が個体として獲得したものによっておおいつくされる度合いが人間よりも低く、先祖の魂はいっそう直接的に生きている子孫に残され、死んだものの性格は、はるかに明白な生きた表現をとるのである。

 長い目で見ると、個性と思われているものが先祖から子孫に続く長い系統のうちに、繰り返し現れていると考えられるのではないだろうか。私の個性なんか、すでに何代か前の先祖と同じもので、神のような存在から見れば、繰り返される同じパターンの表現型に過ぎないのではないか。同じようにシンデレラ白雪姫も現われるのだろう。

 箱庭療法の有効性もちょっとだけ触れられている。箱庭療法ユングの弟子だったドラ・カルフが発展させ、河合が日本に持ち帰って研究を重ね、臨床に応用していった。箱庭療法は砂を入れた箱を用意し、それに家や人形や木や自動車等々のおもちゃを置かせることを繰り返し、そのことによって、精神的な障害を持った患者が恢復していくという療法だ。そのことが、最相葉月セラピスト』(新潮社)に詳しく紹介されている。

 本書『生きるとは、〜』の巻末に「二人のルート――少し長すぎるあとがき」と題された小川の文章が載っている。文庫本で30ぺージある。あとがきであり、河合隼雄への小川の追悼だ。小川が河合を心から尊敬し、その死を悼んでいることがよく分かる。先日読んだ村上春樹『職業としての小説』(新潮文庫)でも、最後の章が「物語のあるところ――河合隼雄先生の思い出」という追悼文だった。河合に接した人がその死を深く悼んでいる、そのような人だったのだろう。


生きるとは、自分の物語をつくること (新潮文庫)

生きるとは、自分の物語をつくること (新潮文庫)

2016-10-06

[]河合隼雄『物語を生きる』を読む



 河合隼雄『物語を生きる』(岩波現代文庫)を読む。ユング精神分析家の河合が日本の王朝物語を取り上げて論じている。古代の物語は作者不明のものや多くの人によって書き足されたものが多い。そのようなことから集団的無意識、共同的無意識を研究するユング派の河合の興味を惹いたのだろうと読み始めた。

 初めに『竹取物語』が取り上げられる。ついで『源氏物語』、『宇津保物語』、「落窪物語」が分析の対象になる。それらの人間関係ヨーロッパの古い物語などに見られる熾烈な対立(殺人を伴う)がないことが指摘される。

 『とりかへばや物語』は姉と弟が役割を交替する話で、現在流行っている映画『君の名は』の源流ともいえる。これを場所=トポスと絡めて図解して分析している。そのトポスと転生という側面から『浜松中納言物語』が取り上げられる。さらに夢に注目して『浜松中納言物語』と『更級日記』が比較される。

 鎌倉時代に書かれた『我身にたどる姫君』では「密通」が大事な要素だと指摘される。複雑な系譜の中に5つの密通が描かれている。密通によって宮家摂関家の血が混じり、両家の融和が完成し、それぞれの姫も幸福になってゆくという。それを紹介しながら、河合はシェークスピアの『リチャード3世』を思い出す。リチャード3世は権力の座を獲得するためにつぎつぎと人を殺してゆくが、結果的に殺人の果ての仲直りという形で、ランカスター家とヨーク家は合体する。日本の物語では密通=「つなぎ」を凝り返して融和に至り、イギリスでは殺人=「切る」を繰り返して邪魔者が消え統合が行われる。密通をこんなにポジティブに捉える視点に驚かされた。

 国文学者ではなくユング派の精神分析家による日本の王朝物語の分析ではあったが、国文学会で発表してもあまり違和感はなかったのではないか。しかし、改めて「物語」の重要性を教えられた気がする。私の青春時代はフランスのヌーヴォーロマンが全盛だったので、物語ることに対して多少とも否定的に考えてしまっていた。物語の機能の重要性を教わった気がする。


2016-03-31

[]新宮一成『夢分析』を読む



 新宮一成『夢分析』(岩波新書)を読む。冒頭、空飛ぶ夢は幼児が言葉を初めて話すようになった経験を反映していると唐突に語られ始め、その裏付けもはっきりとは示されておらず、ちょっと眉唾かなあと読み始めた。

 新宮は様々な夢の例を示し、それらを読み解いていく。その一例が紹介される。社会のために努力する志を立てつつあった若い男性の夢だ。

〈一盛りの肉の夢〉

 先輩がある文学賞を受けたようだ。選考の対象になった論文を見せてもらった(古い装丁、漫画のよう、鬼が出たよう、宗教画のよう)。

 そのとき、なぜか私は、風呂に入ろうとしていた。裸になって、湯につかろうとしていた。

 賞品に、一盛りの肉(生の肉、すこし気味が悪い)をもらったらしく、祝いに来た二人ほどの男女は、街に出て、これを料理して食べさせてくれるところを探していた。二人は比較的大きな焼き肉屋に入った。

 この夢の中で初めに動いていた自分は、第三段階に入ると、突然いなくなる。そして、かわりに現われてくるのは「一盛りの肉」である。この肉は「賞品」であり、社会的価値を体現している。彼自身が、この肉へと変化したのである。第二段階での、湯に入るという彼の身体の運動は、第三段階での、肉が焼き肉屋にもちこまれるという運動へと転化した。そして肉を受け取った二人の男女は、両親を表していると考えるとよいだろう。両親は、彼という存在を、高い価値をもったものとして受け取り、これからその価値を開花させるべく、それを手にして適当な場所を探しているところなのである。彼らの行動は、子どもを育てる両親の様子として理解できる。

 夢を見ている彼自身の視点は、この両親に同化しており、彼は自己の存在の価値を、両親という他者の視点で享受している。(後略)

 ついで、決まった「型」をもっているためにフロイトによって「類型夢」と呼ばれた夢について語られる。建物は、類型夢の象徴作用によって、女性の身体を表現する。妊娠が「虫にたかられる」ことによって表現される。「洪水」も類型夢の一つで「尿排泄象徴」として知られている。誕生のモチーフは「水から出る夢」として表われる。夢の中での「橋」は「つなぐもの」としての男性性器を象徴することが多い。

 また「三」は「ファルス」の象徴であり、「四」は「結婚」の象徴となる。ある女性の見た夢が分析される。

〈三基のエレベーターと「4」のゼッケンの夢〉

 はじめの場面ではエレベーターが三台あって、そのうちの、真ん中に乗るが、上がったり下がったりするので気持ちが悪くなる。

 次の場面では、男の人が運転する車に乗っているのだが、運転がとても乱暴で、しかも運転する彼は、半分立ったような中途半端な座り方をしている。ふと見ると、彼の背中には、「4」と書いたゼッケンが付いていた。

 この夢の意味については、連想がなくとも、類型夢論からだけで次のことがわかる。はじめのエレベーターの場面では、「三」を用いて肉体関係が表現されている。そして次の場面の「4」という数字は、彼女の頭の中に「結婚」という観念があることを示している。この数字をつけている男の人の腰が落ち着かない。すなわちこの夢からは、結婚という問題に関して、この相手の男性の態度がまだはっきりしないなと、彼女が思っていることがうかがえるのである。

 最初、読み始めたとき、なんだか眉唾っぽいなあと思ったのに、読み進むうちに、新宮の夢の分析に感動すら覚えてしまった。とても面白い本だった。ほかにも新宮の著書を読んで見たいと思ったのだった。


夢分析 (岩波新書)

夢分析 (岩波新書)

2015-10-26

[]河合隼雄『影の現象学』を読む



 河合隼雄『影の現象学』(講談社学術文庫)を読む。題名がフッサールの現象学を連想させるし、講談社学術文庫から出版されているから難解な本だと思われるかもしれない。しかし本書は難しいものではなく、無意識を研究して人の心を理解しようという心理学の本だ。題名の現象学は河合が選んだものではなく、本書を最初に発行した思索社の意向によるもので河合は不本意であったようだ。河合はユング派の心理学者で、心理療法を行いまた日本に箱庭療法を導入している。

 本書の題名の影とは意識下におけるもう一人の私だ。影についてユングが言っている言葉は、「影はその主体が自分自身について認めることを拒否しているが、それでも常に、直接または間接に自分の上に押しつけられてくるすべてのこと――たとえば、性格の劣等な傾向やその他の両立しがたい傾向――を人格化したものである」という。そこで影を知るためにしばしば夢を分析する。本書にはさまざまな夢の事例と夢の解釈が引用されている。夢を通じて本人の気づかなかった内面が明らかにされる。

 この影と自我が対立し、影の力が強くなって自我がそれに圧倒されるときは破滅がある。「ある個人がみすみす自分を死地に追いやるような無謀な行為をするとき、その背後に影の力がはたらいていることが多い」と河合が書いている。

 影との対話で、河合は映画『戦場のメリークリスマス』を引用する。原作がヴァン・デル・ポストの『影の獄にて』で、大島渚によって映画化された。河合は、この物語が「影との対話、東洋と西洋との対話、という点で示唆するところが大であると思った」と言っている。

 夢の事例が具体的に多く紹介されていて、興味深く読むことができる。それでいて、意識下に関することが明らかになってくるように思われた。これらの夢のエピソードを読んでいるだけで、自分や家族に関して今まで気がつかなかったいくつかの謎が理解できたような気がした。

 先日読んだ『河合隼雄自伝』と同様に有意義な読書だった。河合隼雄に関してもっと読んで見よう。


影の現象学 (講談社学術文庫)

影の現象学 (講談社学術文庫)

2015-10-04

[]河合隼雄河合隼雄自伝』を読む



 河合隼雄河合隼雄自伝』(新潮文庫)を読む。ユング心理学者、箱庭療法の第一人者河合隼雄の自伝。自伝ではあるが、河合が執筆したのではなく、河合が勝手気ままに半生について話したものを編集者がまとめている。「ぼくのいちばん最初の記憶についてお話ししましょう」と始めているが、このように話し言葉なので、最初はなんだかかったるく思えてしまった。しかし、さすがに河合の自伝だけあって、臨床心理学への傾倒からフルブライト留学生の試験に受かってアメリカへの留学、そこで出会ったシュピーゲルマンとクロッパーからユング心理学を学び、二人の推薦で特別奨学金を得てスイスのユング研究所で学ぶことになる。さらに箱庭療法を知り、それを帰国してから独自に発展させる。

 それらを具体的な体験をからめて紹介している。河合の自伝がそのまま日本でのユング心理学の受容の歴史になっているという見事さ。

 スイスでは日本語を勉強したいという人の教師をしたことがあった。それが舞踏家のニジンスキーの未亡人だった。彼女は日本で宝塚少女歌劇を見たら、亡き夫にそっくりの人物が舞台で踊っている。それでそのA.T.という女優に惚れこんで、次に日本へ行ったとき彼女に日本語で話しかけたいと日本語を学ぼうと思ったのだった。ニジンスキーは同性愛者だったので、宝塚少女歌劇のに両性具有的なものを感じたのではないかと河合は推測する。

 ニジンスキーが精神を病んだのを最初に気づいたのは雇っていた召使だった。召使が言うには、「ご主人は絶対に精神の病を病んでおられます」と言う。自分が前に仕えていた旦那と言動が同じ感じがするという。前の旦那というのを訊くと、ニーチェという人だった。

 また、ヴァン・デル・ポストの『影の獄にて』を読んで感動したことも書かれている。「電車に乗っているあいだも読んでいて、涙が出てきて困りました」と言う。現在は『戦場のメリークリスマス』と改題され、映画化されている。

 おもしろい読書だった。ぜひ読まれることをお勧めする。