mmpoloの日記 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2019-01-01

[]新年のご挨拶



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謹賀新年




初釜やデュシャンの泉に水貝汲み







※水貝=すがい、日本人の苗字

2018-08-13

[]水性インクのことなど



 朝日新聞の俳壇に根岸哲也東京都)の俳句が載っている(8月12日)。選者は高山れおな。


ウ オ ッ シ ャ ブ ル ブ ル ー イ ン ク 買 ふ 茄 子 の 花


 「評」の欄で「水洗い可」の横にウオッシャブルとルビが振られている。茄子にも「なす」と。もう25年ほど前になるが、野見山暁治さんに書いた手紙に返事をもらったことがあった。野見山さんの手紙が明るい青のインク万年筆で書かれていた。そのころ勤続20年ということで会社からモンブラン万年筆をもらった。それで野見山さんをまねて青いインクを詰めてみた。パーカーのロイヤルブルーだ。野見山さんのインクとは色合いが違ったが結構気に入った。普段万年筆を使う機会は少なくて、せいぜいメモか画廊を回った時の記帳くらいだった。

 万年筆ワイシャツの胸のポケットに挟んでいたが、まれにキャップが外れることがあった。ワイシャツのポケットに青い染みができた。ところがロイヤルブルーは水性インクだったので洗濯をすればきれいになった。何枚もワイシャツを駄目にしないで済んだ。

 その頃表参道のミズマアートギャラリー山口晃の初個展があった。画廊の前にテーブルと椅子が置いてある庭みたいな空間があって、山口さんがそこに一人で座っていた。今もらった個展のチラシを差しだしてサインをお願いした。私が差しだした万年筆でなんと花押を書いてくれた。何年も経ってからチラシを引っ張り出してみると、水性インクの文字は薄くなって消えそうだった。ボールペンで書いてもらえばよかった。

 万年筆を使い始めて10年ほどしたころから右手の人差し指が変な風に曲がるようになってしまった。バネ指の専門医からさらに紹介されて西所沢防衛医科大学付属病院の整形外科医へ。そこでフォーカルジストニーと診断された。10年ほど前に書いたその症状を再録する。

 私は奇病を持っていて治療のため大学病院へ通っている。2年ほど前から万年筆で字を書こうとすると人差し指の力が抜けて万年筆が持てなくなってしまったのだ。人差し指を使わないで書いた字は見られたものではない。ボールペンだと問題ないのは強く握って書くからだろう。近所の内科医に書痙でしょうかと相談すると、いやストレスです。別の、今度は外科医に相談するとレントゲンを撮り血液検査までして、ストレスだねえ。

 会社の定期健康診断ストレスの診断をしてもらうと、「総合的にみると、あなたはストレスに強い性格のようです。領域的に見れば多少弱い部分がありますが、大きな問題はありません」となった。

 半年ほど前新聞にバネ指のことが紹介されていた。老人に多く、指が曲がったまま戻らなくなる症状とのこと。早速新聞に紹介されている専門医を訪ねる。診察のあと、私は3年前からこの病院でバネ指の治療をしています。3年間で3人だけバネ指ではない患者さんが来ました。あなたがその3人目ですと言われた。musician's hand とか local dystoniaという病名です。専門医を紹介しますと言って教えてもらったのが防衛医大付属病院だった。

 こちらで見てもらうと正に局所ジストニア=Focal dystonia だった。ピアニストギタリストの指が曲がって演奏できなくなる。銀行員が判子を押そうとすると手首が反り返ってしまう。あなたみたいに万年筆では書けなくてボールペンなら書けるというのは普通と逆ですね、ボールペンだと書けないという症例の方が多い。昔は書痙といいました。ストレスが原因です。

 病院へ通ったが結局症状は治らなかった。ただ万年筆を握ったときのみ出る症状なので、万年筆を使わなければ問題がない。

 文中紹介した山口晃さんの花押がこれ。

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2018-04-23

[]洋裁をおぼえたい



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 資生堂がPR誌『花椿』を発行している。この雑誌が好きでデパートなどの資生堂の化粧品売り場へ行ってもらっていた。そのうち、以前の勤務先で定期購読するようにした。化粧とかにはほとんど興味がないのに、モードの動きみたいなのが面白かった。流行の映画や演劇なども小さく載っていた。

 あるときマチスの絵が切手くらいの大きさで何枚か紹介されていたことがあった。ニューヨークでマチスの大回顧展があったときだとすれば1992年になる。切手ほどの小さな絵は金魚を描いた有名な作品だ。このとき初めてマチスをすばらしいと思った。『花椿』のおかげだった。

 昨年だったか突然『花椿』が休刊になり、以後ネットに移ったのだった。あきらめていたら半年ばかり前、月刊だった『花椿』が季刊になって戻ってきた。銀座の資生堂ギャラリーに行くと無料で手に入った。季刊になって薄っぺらだが文庫サイズの詩集が付録につくようになった。

 先日資生堂ギャラリーへ行って『花椿』の夏号をもらってきた。詩集の代りに「URBAN SURVIVAL BOOK」という小冊子が付録に付いていた。そこに11の項目が立てられ、イラストと簡単な解説がついていた。

 「歩く」では交通機関はないと考えて、歩ける範囲に行くときは自分で歩くとある。

 「見る聞く嗅ぐ味わう」では、電灯をつけず、電気製品は使わず、一日暮らしてみようとある。

 「水を確保する」では、自分が歩き回れる範囲に何があるか知っておきたいとある。家の周囲を探検して、井戸の場所を確認するなどと。

 「安全な場所」では、シュラフ(寝袋)で寝てみようとか、鍋で米を炊いてみようと提案している。

 「裁縫」の項で、裁縫道具を揃え、積極的に継ぎはぎしようとある。「廉価で量販される衣類を買い替えるのではなく、気に入ったよいものを繕って着続ける。本当はそれが豊かで格好いいことである」とあり、これにはまってしまった。そのイラストを下に引用する。ミシンの使い方を覚えたいと思った。

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 その他刃物の研ぎ方、アジの下ろし方、野草の食べ方、「生き物」の項では、アメリカザリガニやミシシッピアカミミガメ、ヒキガエルやかたつむりの簡単な料理法が載っている。その他野生を感じる本が紹介されている。

 いや、どこかでミシンを手に入れて洋裁を習ってみようか。

2018-01-01

[]謹賀新年



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 謹賀新年



もゝちどりさへづる春は物ごとにあらたまれども我ぞふりゆく

         「古今和歌集」より 読人しらず



 佐伯梅友 校注『古今和歌集』(岩波文庫)の脚注には次のように記されている

もゝちどり:さまざまな小鳥。古今伝授三鳥の一。物ごとに〜:みんな新しくなるが、自分だけが古くなっていく。




古今和歌集 (岩波文庫)

古今和歌集 (岩波文庫)

2017-12-07

[]私の履歴書



 誰からも要望はないが、私の履歴書を書いてみる。

 1948年(昭和23年)長野県下伊那郡喬木村生まれ。同郷の偉人に椋鳩十がいる。母の実家のすぐ近所の出身だ。母が子どものころ、長髪の大学生で、ひょうひょうと歩いていたという。継母なる人と折り合いが悪く、卒業後村に帰ることをしないで、鹿児島に行ってしまった。

 他には相撲の大山親方の出身地だったが、大山親方については何も知らない。生家は県道に面していたが、古くて小さな田舎の家だった。

 小学校の5、6年のときの担任が宮島光男先生だった。植物学が専門の先生で強い影響を受けた。植物が好きになったのは先生の影響だった。小学校の同級生が親友になった。ハムとは1年生の時からの同級生で、交友は去年彼が肺がんで亡くなるまで続いた。ハムからはクラシック音楽を教わった。ベートーヴェンのピアノソナタ好きも、シューベルトの『冬の旅』が好きなのもハムの影響だった。ハムの贔屓はケンプとヒュッシュだった。

 小学校では、もう一人の親友に出会った。ニックネームを原文と言った。本人はペンネームを原A章と名乗っていた。牧師さんに名前を聞かれて「エイショーです」と答えると、字はなんだと聞かれ、英語のエイですと言ったら、ケ、ふざけるなと言われたという。英語のエイは「英」のつもりだったが、「A」と思われたらしい。以来A章と名乗っている。

 原文からは文学を教わった。大江健三郎を知ったのも原文からだった。『万延元年のフットボール』以来、大江はリアルタイムで読んでいる。

 高校は飯田高校、日本史を教わったのは矢嶋先生だった。穴熊と呼んでいたが、去年だったか俳句の最高峰である蛇笏賞を受賞した矢嶋渚男がその穴熊だった。熊蝉や熊野は山の噛みあへる、などの句がある。あほな高校生はそんな偉い先生だとは知らなかった。

 高校を卒業して田舎で浪人をしているときに、さらに二人の親友を得た。小池と原和だった。原和は1浪のあと静岡大学の法学部に受かって行った。学生運動をして、大けがもし、小林秀雄に触れて運動から離れた。寮で麻雀と囲碁に明け暮れた。大谷寮で麻雀も囲碁も一番強いとうそぶいていた。6年間在学して中退した。一時期サラリーマンをしたが、すぐ土方になった。現場監督もしたが、山仕事で大けがをし、酒におぼれパチンコに狂った。古代史の古田武彦を教えてくれたのが原和だった。10年ほど前の夜電話をしてきて、これから死ぬからと言ってその夜本当に死んでしまった。

 原和を悼んで詠んだ俳句と短歌

空荒れる君の心か道凍れ

珍しき大雪の降る君死ねば

もっと降れなまじの雪では鎮まらぬ

焼け跡に君を鎮めて雪積もれ

鎮魂の薔薇を沈めて雪積もる

わが妻が君に手向けし花束を深く埋めて雪よ降り積め

燃えていた君の身体をかすかにも冷ましくれるか雪の降り積む

 一緒に浪人した小池君は北海道大学の経済学部に行き、就職した旧財閥系の鉱山会社で代表取締役専務になった。決して威張らない男だった。好きなことを訊くと、休日早起きして公園を散歩し、早くから開けている喫茶店でショーロホフの『静かなドン』を読むことだと言った。送迎の社用車を断り、電車通勤を通した。その方が本が読めるからと。彼も今年の冬肺がんで亡くなった。

 ハムは早稲田大学を中退し、鳥取大学の獣医学部を卒業した。田舎に帰って養豚業をやりながら獣医をしていた。キリスト教に夢中になったこともあった。私たち夫婦に革装の分厚い聖書を2冊贈ってくれたことがあった。わが師山本弘の口癖だった「空の空 空の空なる哉(かな) 都(すべ)て空なり」の出典を問うと、旧約聖書の「伝道の書」だと即答して、即座に日本語と英語で暗唱してみせた。

 Jと知り合ったのも高校でだった。同じ天文班(クラブ)だった。桑沢デザイン研究所に行った彼からはデザインについて教わった。後年私がデザイン会社で仕事をしたのは、その教えのおかげだった。

 高校のとき一番親しくしたのは星君だった。星は早稲田を卒業したあと、シナリオ研究所に通ってシナリオライターを目指していた。シナリオの共同ライターに誘われたと喜んでいたのに、恐山へ行ったままついに帰らなかった。もしかすると、北朝鮮に拉致されたのではないかと同級生と話している。

 私は結局田舎で2浪して受験をあきらめ、上京してしばらくJのアパートに同居させてもらった。最初に就職したのは銀座のキャバレーのポーターだった。将校のような衣装を着せられ、銀座の中央通りに立って客をビルの6階の店まで案内した。店の名は、未亡人サロン何たらと言った。高級クラブのクラウンの姉妹店だった。

 その後は、何をしたんだったか、渋谷のマンモスキャバレー「エンパイア」のウエイターもした。ホステス700人、ウエイターとメンバーが70人ずついた。

 その後横浜の鶴見でテキヤをしたのだった。屋台を引いてラーメンを売っていた。与えられたショバが末吉町だった。衛生的に問題がなかったわけではないが、おいしいラーメンだったと自負している。

 テキヤのあとは日雇い土工もしたし、飯場に入って舗装土方もした。飯場ではおいちょかぶを憶えた。1から0までを符丁で呼ぶ。チンケ、ニタコウ、三太、四ツ谷、後家、六法、泣き、おいちょ、カブ、ブタ。

 その後が日産自動車座間工場のプレス工だった。丸1年間やった。休み時間にマルクスの『経済学哲学草稿』などを読んでいて、原文から労働者の鑑と揶揄された。そのころ寮に住んでいて、コピーライターを通信教育で勉強した。その資格で次の広告会社に入った。

 広告会社では34年間勤めた。入社したときに編集プロダクションだったのを、私が広告プロダクションに作りかえた。コピーライターとアートディレクター、営業と撮影を担当した。営業が一番向いていたのかもしれない。

 34年勤めて、経営に携わったが、オーナーを批判して辞めさせられた。無収入になってかみさんが出て行った。その後、東京都住宅供給公社、総合警備保障、みずほ信託銀行などに勤め、現在はA出版で庶務係をしている。

 

大事なわが師 山本弘のことが抜けていた。

帰燕せつなき高さ飛ぶ(2006年6月29日)