mmpoloの日記 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2018-06-04

[]池田清彦『ぼくは虫ばかり採っていた』を読む



 池田清彦『ぼくは虫ばかり採っていた』(青土社)を読む。昆虫学者、進化論学者である池田の様々な発言を集めたエッセイ集。これが面白かった。iPS細胞のもたらす未来とか、クローン人間の未来予想図とか、性の決定が複雑なことなどを話題に取り上げている。クローン人間の是非などは当事者に任せておけばいいと言い切っている。

 池田は一貫して現在主流の進化論ネオダーウィニズムを批判している。

 古生物学ではさまざまなミッシング・リンク、大きな変化が起きているのに中間形態がほとんど見つからないものが多くあります。みんなそれを探しているけれど、なかなか見つからない。それは「ない」と考えたほうがいい。連続的なプロセスは自然選択でいくけれども、一挙にシステムが変わる不連続なところは、自然選択とは独立のプロセスでいきなり変わったと考えたほうがよい。特にDNAを解釈する解釈系が変化すれば、不連続な変化を帰結すると思う。

 大きな隕石の衝突により地球規模の環境変化が起こったときなどの大進化と、通常の連続的な小進化を分けて考えるべきだというのはその通りだろう。

 クマムシを例に生命について考えている。クマムシはゆっくり乾燥させていくと普通3%くらいまで水が抜けるが、一番乾燥したクマムシは水が0.05%くらいになってしまう。もう代謝は全くしていなくて、物質の固まりで生きていない。これで120年保存された記録がある。そのクマムシに1滴水を垂らしたら動き出した。乾燥したクマムシは動かないけれど、高分子の配置が残っている。それが生命の基礎ではないか。配置を再現すれば生命を作り出せるのではないか。

 池田は免疫学者の多田富雄の仕事を高く評価している。池田の推薦する多田の著書『いのちの選択――今、考えたい脳死臓器移植』(岩波ブックレット)や『落葉隻語 ことばのかたみ』(青土社)、『ダウンタウンに時は流れて』(集英社)を読んでみよう。『ダウンタウン〜』を、池田は「月並みな表現だけど、このエッセイは涙が出るほどすばらしい。他の業績は知らず、このエッセイ1本だけで多田富雄の名は後世に残るだろう」とまで言っている。

 「ぼくは虫ばかり採っていた」という章は、インタビューアーに応えて半生を語っている。小学4年から蝶を集めて大学1、2年までに日本の蝶はすべて集めたこと、大学紛争の頃は麻雀とデモに明け暮れていたこと、大学院のころからカミキリムシを集めていることなどが語られる。

 最後の章が「構造主義科学論のコンセプト」で、これが池田にとって最重要なのだろうが、難しくてほとんど分からなかった。これ以外はみな面白かったけれど。



ぼくは虫ばかり採っていた ―生き物のマイナーな普遍を求めて―

ぼくは虫ばかり採っていた ―生き物のマイナーな普遍を求めて―

2017-12-01

[]池田清彦進化論の最前線』を読む



 池田清彦進化論の最前線』(インターナショナル新書)を読む。聞きなれない新書だが、今年1月に創刊した集英社インターナショナルの新しい新書名だ。池田清彦構造主義進化論を提唱している生物学者。本書は出版された月に購入したが、池田は地球温暖化の傾向にあるという主張に反対したり、独特の分類学を唱えていたり、しばしば過激な発言が飛び出したりしてなんとなく敬遠していた。その主張には耳を傾けるべきものがあるのだが。

 そんなわけで購入して10カ月経ってようやく読んでみた。それが意外にもやさしく分かりやすく書かれている。現在の進化論は、突然変異自然淘汰で説明できるとするネオダーウィニズムだが、それですべてを説明できるとする主張を池田は批判する。生物の進化は遺伝子だけでは説明できない。細胞といった遺伝子を取り巻く環境(構造)のもとで、遺伝子の発現パターンが変化する。そのような構造の違いによる変化が生物の進化に影響を与えているのではないかと言い、それを構造主義進化論と呼んでいる。

 池田にしては穏やかな物言いだと感じたが、おそらくそれは発刊間もないインターナショナル新書の編集者からの要請なのではないかと思い至った。つまりこの新書は入門書的な姿勢がいわゆるコンセプトなのだろう。進化論について初心者にわかりやすいように書くというのが編集者の注文だったのではないか。何しろ集英社インターナショナルの新しいシリーズ、インターナショナル新書の第2号なのだ。

 さすが分類学者として特異な主張を持っている池田の一端が現れている個所を引いてみる。

 言葉はあらゆるものを分節していきます。つまり、人間は言葉があることによって様々な物事を分類して概念を構築し、世界を認識しているのです。

 例えば、「ヒト」という概念には、地球上にいる73億人のすべてが含まれます。でも、個人は一人ひとり違うのに、なぜ全員を「ヒト」という言葉でくくることができるのか、それは人間が「ヒト」という同一性捏造したからです。

 個人一人ひとりを見比べれば、その違いは明らかです。しかし、なぜか人間には異なる事物を同じと見なす能力があるのです。その同一性客観的根拠はありません。人間は恣意的な区分で「ヒト」という同一性捏造して、すべての個人を「ヒト」と分類したわけです。それは「ネコ」や「イヌ」「コップ」なども同じです。このようにして、我々は同一性捏造することで言語を発達させてきました。

 人間は恣意的な区分で同一性捏造していると、池田は主張する。この考え方は渡辺慧と同一で、分類は恣意的なもので客観的根拠はないという立場だ。そのことは非常に興味深い考え方だが、私にはその正否を判定することができない。いずれこの辺りのことも読んでみたい。


2017-09-07

[]鈴木紀之『すごい進化』を読む



 鈴木紀之『すごい進化』(中公新書)を読む。“「一見すると不合理」の謎を解く”というのが副題。著者は昆虫学者なので、昆虫の事例がたくさん紹介される。いずれもとても興味深い。

 塚谷裕一が読売新聞に書評を書いている(7月16日)。

 性の進化の問題とは、なぜ、多くの生物に性があり有性生殖をするのか、という疑問である。日本のヒガンバナがやっているようなクローン繁殖に比べると、有性生殖は無駄が多い。オスとメスの両方が必要だし、両者の繁殖のタイミングや好みも合致する必要があり、まだるっこしい。この疑問についてこれまでは、有性生殖では遺伝子セットが多様化しやすい、といったメリットに焦点を当てての説明が試みられてきた。しかし決定打に欠け、議論はやまない。

 それに代わり本書で紹介される新仮説は、逆転の発想だ。すなわち、オスというものが偶々進化してしまうと、それによる有性生殖を排除できず、なんと「オスがいる限り、性というシステムが『仕方なく』維持される」のだという。その理由と検証についてはぜひ本文を!

 オスのみさかいのなさ、という項もおもしろい。

 ほとんどの生物でオスとメスの割合(性比)はおよそ1対1です。(中略)もしオスの数が少なくて、メスの数が多ければ、オスはたくさんのメスと交尾できるチャンスがあります。しかし、メスの数はオスの数と同じですから、オスは生涯に1匹のメスとパートナーを組んで自分の子を残せれば御の字なのです。

 ところが実際は、オスの「モテやすさ」には多くの生物で偏りが報告されています。つまり、たくさんのメスとパートナーを組めるオスがいれば、(メスの数は限られていますから)一度も交尾せずに生涯を終えるオスもいるということです。たとえばプエルトリコのアカゲザルでは、群れの中に暮らす子のおよそ4分の3はある1頭のボスを父親としています。その一方で、平均すると7割ほどのオスが毎年一度も交尾をできずに過ごしています。自然界のオスには勝ち組と負け組がシビアにあらわれるのです。

 昆虫を例に実例をもとに議論を組み立てているので説得力があり、実に面白かった。題名の『すごい進化』がよく納得できた。


2017-08-23

[] 木村資生『生物進化を考える』を読む



 木村資生『生物進化を考える』(岩波新書)をやっと読む。分子進化の中立説を説いた進化論の大御所の本をようやく読んだ。発行されてから29年も経つ。評価の高い本だが、いままで敬遠してきた。ダーウィンの自然淘汰論やその後の総合説が気に入らなかったし、木村は分子レベルの突然変異自然淘汰に関して中立だという説で、何となく近づかないで遠くから見ていた。私は一応今西錦司の進化論に敬意を払ってきたものだから。

 案の定、木村が書いている。

……最近、日本では今西錦司博士がダーウィン説や遺伝学に基づく正統派進化論を強く批判し、生物は「変わるべくして変わる」という立場から論陣を張っている。またそれに追随し、これが意味深長な言葉のように考える人も結構いるのは驚きである。しかし、このようなものを科学としてダーウィン説と同列に考えるのは無意味であろう。たとえば、細胞のガン化に対し「起こるべくして起こる」と主張してみても、何の足しにもならぬと同じである。

 いまから10年以上前、虫えい学会に参加するために京都大学へ行ったことがある。そこで京都大学の昆虫学の教授と今西錦司の進化論について雑談したことがあった。その教授は今西さんの3代目の弟子にあたる人だったが、今西進化論について、あんなものはおとぎ話ですよとにべもなかった。それで、今西先生の棲み分け論は国際的に評価されているではありませんかと言うと、あれもおとぎ話ですと鼻で笑ったような答えだった。アカデミズムの世界での今西論のそれが定番の評価なのかと思った。

 本書は木村の中立説を一般向けに書いている。しかし、中立説は数式が欠かせない。とても難しい。読みながら、半分以上分からなかったのではないか。Wikipediaに「中立進化説」について次のように解説されている。「分子レベルでの遺伝子の変化は大部分が自然淘汰に対して有利でも不利でもなく(中立的)、突然変異と遺伝的浮動が進化の主因であるとする説」。詳しくはWikipediaを見てほしい。

 ただ、本書でも「小進化・大進化と種形成」という小見出しに次のような記載がある。

表現型レベルの進化についてよく行われる区分に、「小進化」と「大進化」というのがある。小進化とはわれわれの一生の間に観察できるような集団内(種内)の遺伝的変化を指し、第2章で述べたガの工業暗化などそのよい例である。大進化は新種の形成や種を越えた変化を指すのが普通で、時には、漠然と、表現型的に大きな進化的変化を示す。

 「小進化とはわれわれの一生の間に観察できるような集団内(種内)の遺伝的変化を指し」というのは、時間的に短すぎる定義だと思う。キリンの首が伸びたのも、隔絶された地域などで昆虫の亜種や新種が生まれるのも小進化だろう。大進化とは環境の革命的な変化によって生じる種の爆発的な放散のことを言うのではないか。

 今西錦司は論理的な主張をするのが苦手で、種は変わるべくして変わるなどと言って正統派進化論者からバカにされている。だが、今西の言いたかったことは、木村の説くような論理的な精密な進化の過程のことではなく、もっと大所的な、「進化」の哲学、原理のようなものだった。大きな地質的変動があったときには、「種は変わるべくして変わる」。そのあとは適応とか中立説の出番になる。いや、私が今西説を解説するなどおこがましいが、今西進化論をおとぎ話だなどと切り捨てるのは早計ではないかと信ずるものだ。

 木村も本書で優生学について触れている。進化論は優生学と無関係ではいられないようだ。このあたり少々危険なことのように思うのだが。


 河野和男「カブトムシと進化論」(新思索社)が進化論批判で参考になると思う。また、

奥野良之助「金沢城のヒキガエル」の進化論批判も面白い。



生物進化を考える (岩波新書)

生物進化を考える (岩波新書)

カブトムシと進化論―博物学の復権

カブトムシと進化論―博物学の復権

2017-08-12

[]千葉聡『歌うカタツムリ』を読む



 千葉聡『歌うカタツムリ』(岩波科学ライブラリー)を読む。カタツムリという地味な生物を研究対象としている進化論の本だ。標題の所以は200年前ハワイの古い住民たちがカタツムリが歌うと信じていたことによる。19世紀の半ばハワイでのカタツムリの研究を通じて進化論に偉大な業績を残したジョン・トマス・ギュリックもこのカタツムリの歌声について書き残しているという。ところがこの謎は解けぬままに終わった。ハワイのカタツムリは20世紀に入るとほとんど絶滅してしまったからだ。

 本書について8月6日付けで毎日新聞(海部宣男)と読売新聞(塚谷裕一)に書評が掲載された。読売新聞の塚谷の書評を引く。

……タイトルの選び方も構成も語り口も、ちょっと日本離れした、スケールの大きな自然史の物語だ。英米の良質の自然科学本を読んだ満足感がある。これほどの書き手をこれまで放っておいたとは、自然系編集者はこぞって反省すべきだろう。

 この意見に全く賛成する。

 毎日新聞の海部の評は本書を的確に要約している。「文章は闊達だが、周到に構成された進化論研究史になっている」。さらに引用する。

 本書によれば、ダーウィン以来、進化を生み出す原動力として、一つは言うまでもなく、ダーウィンが最も重視した「適応による自然選択」。環境に適したものが生き残って新たな種へと発展していく「自然選択」は、ダーウィン進化論の基本であり続けている。けれど実際には、それだけでは説明がつかないことが多々ある。そこで重要な役割を果たすのが、偶然が支配する「遺伝的浮動」である。この偶然的な進化というプロセスをカタツムリで提示したのが、19世紀末に20年以上も日本で布教活動をした宣教師、ジョン・トマス・ギュリックだった。ダーウィンより20歳ほど若いが、同時代人である。(中略)

……ギュリックはカタツムリが谷ごとに地域隔離され、それぞれの谷でランダムな進化を遂げたと考えた。彼の論文は、『種の起源』を出版したダーウィンに大きな衝撃を与えたという。(中略)

 「隔離された生物集団は、ランダムで小さな変化の蓄積で新たな種を形成してゆく」というギュリックの考えは、「適応による自然選択」を補強する、進化論上の重要なキーとなる。これが、その後の集団遺伝学や木村資生の「分子進化中立説」などを踏まえながら、「遺伝的浮動」として定式化されていった。だがそれは、一筋縄ではいかなかった。進化は、複雑で精妙なのだ。

 進化論という堅苦しいテーマを扱っていながらきわめて面白いのだ。それは著者の文章力がひときわ優れていることによるものだろう。昆虫生態学を扱っていながらミステリのような面白い本を書いた岸本良一の『ウンカ海を渡る』(中央公論社)を思い出した。

 種の定義について、本書にこうある。

 1940年代初め、(エルンスト・)マイアはニューギニアで行った鳥類の調査の経験から、種とは何かという問題に一つの解決策を見出していた。それが現在の私たちにとって最も一般的な種の定義、生物学的種概念だ。これは種を「自然条件の下で実際にあるいは潜在的に互いに交配している個体のグループで、他のグループから生殖的に隔離されているもの」と定義する。そして種を、実体のある生物学的な単位とみなした。

 第2次世界大戦以前のイギリス優生学協会の理念がちょっとだけ紹介されている。

 ちなみに総合説の幕開けを飾る(ロナルド・)フィッシャーのこの名著(『自然選択の遺伝学的理論』)は、その後半が優生学からみた人間社会学の分析にあてられていた。実はこの著書は、「遺伝子に欠陥のある人間を探し出して排除すべし」「悪い遺伝子が増えないように、上流階級とそれ以外の階級のあらゆる交流を禁止する身分制度をつくれ」と政府に圧力をかけていたイギリス優生学協会会長に、フィッシャーから感謝と親愛の意を込めて捧げられたものであった。

 ヒトラーが出現する土壌として、ヨーロッパではこんな風に優生学が普及していたのだろう。

 そのことはともかくとして、すばらしい本だった。あとがきで著者が書いている。

 生物学者は往々にして、ひとつのグループの生き物を一途に、マニアックに研究することがあります。それはなぜか。その生き物に特別な魅力や不思議を感じるから? もちろんそれも理由のひとつです。しかし実は、その生き物の研究を通して自然の普遍的な原理を見出したい、という壮大な意欲や使命感に駆られている場合が多いのです。ローカルを極めると、グローバルな世界が見える。ガラパゴスな世界を極めると、地球全体が見える、と信じる研究者にとって扱う生き物は、自然と生命現象の「モデル」なのです。しかしこれは、なかなか理解が難しい。

 そこで本書では、カタツムリの進化の研究、という限りなくマニアックでローカルな世界から、どれだけグローバルな物の見方が導かれるか、というもくろみに挑戦しました。だから本書では、「カタツムリ」が進化という大きな謎に迫るための「モデル」であるとともに、「カタツムリの進化の研究」自体が、ローカルとグローバル、局所と普遍の関係を理解するための、ひとつの「モデル」です。

 進化論史の本だからけっこう難しいところも多いが、それを面白く手際よくまとめている。重ねて絶賛したい。


歌うカタツムリ――進化とらせんの物語 (岩波科学ライブラリー)

歌うカタツムリ――進化とらせんの物語 (岩波科学ライブラリー)