mmpoloの日記 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2018-09-19

[]青柳貴史『硯の中の地球を歩く』を読む



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 青�尹貴史『硯の中の地球を歩く』(左右社)を読む。青�尹は東京浅草で硯を作っている職人だ。祖父も父も硯を作っていた。その硯の魅力を自分の体験を具体的に書きながら教えてくれる。

 父の助手として中国へ石を集めに行く。深い山へ入り硯に適した石を探す。危険も多い。山賊に出会ったり、人里離れた場所で車のクラッチが壊れたり、狭い山道で対向車にサイドミラーをへし折られたり。

 中国での硯の石を探した体験から、それまでないと思われていた北海道で硯に適した採石地を探し当てたりもする。

 青�尹は硯を作るときに作家性は考えなくて銘も入れない。依頼者の使いやすい硯を作ることを心掛ける。機械はあまり使わない。時間をかけて鑿で彫っていく。硯は一面、二面と数えるが、昨年は三面作ったという。たった三面なのだ。制作に関する時間は半年かかるという。

 青�尹はふつうの人も硯で墨を磨って筆で手紙を書けば良いという。なるほど、面白そうだ。やってみようか、どうしよう。そんな気にさせられる楽しい本だ。



硯の中の地球を歩く

硯の中の地球を歩く

2018-05-11

[]合掌の法則、再び



 この2冊の本のカバーが短くて上部が数ミリ寸足らずになっている。2冊とも同じ著者(白井聡)の本で、講談社α文庫と集英社新書で出版社は違う。

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 カバーを取ってみたら、どちらもその下に別のカバーがあった。してみると、寸足らずのカバーは実はいわゆる「帯」が大きくなったものだった。どちらの本も、大きな帯、カバー、表紙という構成になっている。

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 このようにカバーが寸足らずだと見えたこと=小さな違いに注目して調べると、それがカバーではなく帯だったことが分かった。小さな違いから大きな違いが発見できること、私はこれを「合掌の法則」と名付けている。

 合掌の法則について以前詳しく書いている。

 一見同じものに見えても、小さな差異に注目すると、それが全く違うものだったり、あるいは単なる誤差だったりすることがある。普通単なる誤差に過ぎないものが多いかもしれないが、まれに全く異なることがある。売上げの計算が合わなかったとき、それは単なる計算違いかもしれないし、お釣りを間違えて渡してしまったのかもしれない。しかし、もしかすると、横領のつじつま合わせに失敗してしまったのかもしれない。深夜帰宅してきた夫の下着が前後逆になっていた場合、朝から間違えて履いていたのかもしれないし、会社で健康診断があってそのとき間違えたのかもしれない。しかし、もしかすると部下の女性と浮気をしてきたのかもしれない。

 合掌の法則とは、小さな差異がもしかすると根本的な違いを示しているかもしれない、ということを示唆しているのだ。竜頭蛇尾と言うなかれ。バーナード・ショウも同じ様なことを簡潔に言っているのだから。

When a thing is funny, search it carefully for a hidden truth.

(何かがおかしい時は、真実が隠れていないか気をつけろ)

 日本ではカバーと表紙と呼ぶものを、アメリカではジャケットとカバーと呼ぶという。カバー=ジャケット、表紙=カバーという図式。


 合掌の法則を詳しく紹介した私のブログも併せて読んでください。

合掌の法則2016年5月4日)

2018-02-05

[]加藤周一+池田満寿夫『エロスの美学』を読む



 加藤周一+池田満寿夫『エロスの美学』(朝日出版社)を読む。「比較文化講義」というシリーズの1冊で、二人がエロスをテーマに対談をしている。日本でトップクラスの評論家と、エロチックな版画を作り、エロ小説も書いている作家という組み合わせは「エロス」をテーマにした対談としては最強に思えるのだった。どこにも書かれていないが、おそらく企画したのは松岡正剛だろう。しかし本書に関してはこの目論見は失敗している。もっとも発行されたのはもう36年も前の1981年だ。いろいろと古びてしまっているのかもしれない。

 池田はエロチックな版画を作っていた。だからと言ってエロスについて語ることを持っていたことにはならない。加藤は一休を主題にした小説を書いているし、そこには盲目の森女と性愛に溺れる一休が描かれている。そのような点からもエロスを語るにふさわしいと考えられたのだろう。しかし、池田は単にスケベな作家に過ぎないし、加藤はエロスを話題にしてもその優れた教養から、すぐ文化一般や哲学などの方向にそれていってしまう。二人の対談はエロスの方向に深まってはいかない。最後にクリムトとエゴン・シーレに関する話題がおもしろかった。

池田満寿夫  ぼくらはやはりヌードではなくて、ネイクドの方に惹かれるんです。ぼくがやっている裸の絵は、衣装を剥ぎ取ったというところから出発してる。クリムトはヌードとネイクドとの境にいる画家ですね。そしてネイクドには扇情的なものを挑発する要素があると思うんです。ところがシーレになると、ネイクドの方が断然強くなる。女がパっと投げ出されて、なにかいかにも剥ぎ取られた状態を寒々と表現している。狂気が現れています。そのへんから裸体画の流れが違うのではないかと思う。それ以降の裸体は、全部ネイクドですね。表現派になってくると、ますますそれが強くなってくる。剥ぎ取った上でさらに裸を痛めつけ、破壊寸前まで歪めてしまう。

 いまいわゆるヌードというのは、写真の方にいってる。絵画はもうそこから離れたということですね。

加藤周一  それは人間に対する絶望を表しているのかな。少なくともペシミズムだな。

池田  一種のペシミズムでしょう。

加藤  ベルナール・ビュッフェの裸は、「女に限らずみなダボハゼみたいだ」と、寺田透が言っていたけれど、あれなども体全体が大変醜い苦しさみたいなものを表してる。拷問の時代だな。

池田  そうですね。裸は称賛の対象ではなく貧しさや苦痛の対象になっている。いろいろな意味で絵画では美女は存在しなくなったとも言えます。ぼくがいちばん惹かれるヌードは、デ・クーニングなんですよ。

加藤  デ・クーニングがそのいい例ですね。

池田  ぼくはあそこから強烈な影響を受けたわけですが、そこでは、ヌードをセックスをむきだしにした苦痛とも歓喜とも区別しにくいエクスタシーの状態としてとらえている。

加藤  フランシス・ベーコンなどひどいものですね。あれは苦悩というか、ほとんど拷問ですね。

 池田に限っていえば、エロス論なんかじゃなくて、絵画論とか美術論を語らせれば面白かっただろう。



エロスの美学―比較文化講義 (1981年) (Lecture books)

エロスの美学―比較文化講義 (1981年) (Lecture books)

2016-05-04

[]合掌の法則



 私が「合掌の法則」と名づけた考え方がある。ここに4点の写真を並べた。いずれも合掌の形をしている。

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 最初の写真は正しい合掌の形だ。両方の掌を合わせている。左手が右手に重なって見えづらいが、間違いなく重なっている。

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 2番目の写真は間違った合掌だ。いやこれは合掌とは言わない。右手の甲に左手の掌が重なっている。親指より長い左手の小指が親指の向こうに顔を出している。

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 3番目の写真は合掌の写真だ。左右の薬指が少しずれていてきちんと重なっていない。わずかにずれはあるが、修正するのは簡単だ。両手の掌が合わさっていて合掌であることは紛れもない。

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 4番目の写真が微妙なのだ。一見正しい合掌の形に見える。しかし、よく見ると左手の親指の向こうにあるのは右手の小指に見える。左手の薬指と重なっている向こう側の指には爪が見える。つまり、これは右手の甲に左手の掌を重ねているのだ。ちょうど2番目の写真の形を反対側から撮ったものだ。掌が合わさっていないので合掌の形ではない。

 一見同じものに見えても、小さな差異に注目すると、それが全く違うものだったり、あるいは単なる誤差だったりすることがある。普通単なる誤差に過ぎないものが多いかもしれないが、まれに全く異なることがある。売上げの計算が合わなかったとき、それは単なる計算違いかもしれないし、お釣りを間違えて渡してしまったのかもしれない。しかし、もしかすると、横領のつじつま合わせに失敗してしまったのかもしれない。深夜帰宅してきた夫の下着が前後逆になっていた場合、朝から間違えて履いていたのかもしれないし、会社で健康診断があってそのとき間違えたのかもしれない。しかし、もしかすると部下の女性と浮気をしてきたのかもしれない。

 合掌の法則とは、小さな差異がもしかすると根本的な違いを示しているかもしれない、ということを示唆しているのだ。竜頭蛇尾と言うなかれ。バーナード・ショウも同じ様なことを簡潔に言っているのだから。


When a thing is funny, search it carefully for a hidden truth.

(何かがおかしい時は、真実が隠れていないか気をつけろ)


 合掌の法則は私のオリジナルですが・・・

2016-05-03

[]『世界の名前』を読んで



 岩波書店辞典編集部 編『世界の名前』(岩波新書)を読む。これはちょっと変わった本だ。世界各国、各地域の人の名前の付け方をまとめたもの。小項目主義で編纂された事典のように、世界100の地域の命名法が100人の専門家によって執筆されている。これを読むと各地域でずいぶん違った命名がされているものだ。また同時に各地域の文化の違いも垣間見える。

 古代マケドニアにおいて、

 プトレマイオス朝の王たちは添名(そえな)によって区別された。1世は、大王の後継者戦争において対立する将軍からエーゲ海のロドス島を救ったことで、ソテル(救済者)と呼ばれた。2世は実の姉アルシノエと結婚したことからフィラデルフォス(姉を愛する者=愛姉王)、3世はエウエルゲテス(善行者)、4世はフィロパトル(父を愛する者)……

 古代マケドニアでも古代日本と同じく、近親婚があったのか。

 カザフスタンの例で、

……遊牧時代には年の差婚が少なくなく、高齢の父親から生まれた子どもはセクセンバイ(セクセン=80)などと命名された。

 すごい! 80歳で子どもをつくったということか! 池田君みたいだ。いや彼はおそらく避妊しているので子供はつくっていないが。

 スコットランドでは、

 ハンバーガーチェーン店のマクドナルドは、地方によって「マック」と称されたり「マクド」と略されたりする。その名の起源からすれば「マック」で区切るのが正しい。ゲール語でMacは〜の息子という意味だからだ。

 マッカーサーはアーサーの息子、マクレガーはレガーの息子、マッキャンベルはキャンベルの息子か。

 ウガンダ、ニョロ語では、

 「彼らを放っておけ」という名は、あの子は夫の子供ではないのではないかなどと人に噂された時によくつける名前である。そう言う奴らは勝手に言わせておけばいいのだ。「それらは腹の中で死ぬ」というのは、妻のことをいろいろ知っているが、オレは言わない。腹の中に収めるという意味である。妻としては、夫は言わないけれどやっぱり知っているんだということになり、反省することになる。これは、子供の名前を介した夫の妻へのメッセージである。

 「よくつける名前である」だなんて! なんだか、すごいことになっている。

 ルーマニアでは、

 ルーマニアの首都ブカレストでバスに乗っていると、乗客が頻繁に十字を切る。時には運転手も切っている。気がつくと窓の外に教会が見えている。ここはヨーロッパの中で昔ながらの信心がより色濃く伝わっている方だと言えよう。

 100の地域の命名を通した文化の多様性が興味深い。


世界の名前 (岩波新書)

世界の名前 (岩波新書)