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2018-06-16

[][]“食べられる垣根”ウコギ



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 読売新聞に「“食べられる垣根”ウコギ」という見出しで女性がおにぎりを差しだしている写真が大きく載っていた(6月10日)。女性の後ろに垣根にしている緑の葉が茂ったウコギが写っている。

 新緑の季節、山形県米沢市では、生け垣の低木を剪定する人をよく見かける。ガーデニングが流行しているのかと思いきや……。

 「新芽をサッと湯がいて食べるんです」。えっ、食べるんですか? 垣根を!?

 米沢では家の垣根にウコギを用い、葉を食用に供してきた。起源は江戸初期に遡る。初代米沢藩主・上杉景勝に仕え、町の礎を築いた直江兼続は、武士たちにウコギ生け垣を作らせたとされる。さらに、米沢藩の中興の祖・上杉鷹山が奨励したこともあって、伝統食になったのだそうだ。

 そしてウコギを使った郷土料理として、ゆでた葉をみじん切りにしてまぶしたお握り、パリッと揚げた天ぷら、細かく切った新芽を焼きみそとあえた「きりあえ」、他の山菜と一緒にだし汁で味を調えた「冷や汁」などと紹介されている。

 私の出身地長野県飯田地方でも同じように垣根にしているウコギの新芽を春先摘んでおひたしにして食べている。ちょっと歯ごたえがあって苦みのある山菜だ。飯田地方ではこのウコギのことをオコゲと呼んでいる。松本に住んでいた義父に聞いたら松本でもオコゲと呼んでいたという。昔植物学者の浅野貞夫先生に訊ねるとヤマウコギだと教えてくれた。

 ウコギ東京では見たことがない。北陸出身だという飲み屋のママも田舎では食べたわよと言っていた。福島県でも食用にしていたと聞いたことがある。日本全国の食用分布を知りたいものだ。

2017-10-14

[]小林紀晴『ニッポンの奇祭』を読む



 小林紀晴『ニッポンの奇祭』(講談社現代新書)を読む。小林は長野県諏訪地方出身の写真家で、小さいころから諏訪大社御柱祭に触れてきた。諏訪大社上社と下社からなり、そのそれぞれに2つの社がある。つまり4つの社があって、その4隅に柱を立てる。その柱つまり御柱は6年に1度立て替えられる。柱は長さ16〜17メートル、重さは10トンもある。それを山から神社まで引き下ろす行事だ。危険な祭りとしても知られ、毎回けが人が出る。その祭りを小さな時から体験してきた小林が、全国の奇祭を取材して回った記録だ。ここで奇祭とは稲作以前、縄文の文化を残している祭りと定義される。

 本書は4部構成で、沖縄九州、関東、東北、長野県の16の祭りが取り上げられている。それが無味乾燥の記録的なものではなく、小林の主観的な見方を色濃く書き込んでいるまさに体験記なのだ。

 最後の16番目に取り上げられているのは「御射山祭/長野県富士見町」で、小林は東京から1歳半を過ぎた娘を特急あずさに乗せて連れ帰る。「娘はまだ乳離れができておらず、私と二人だけで遠出するのは初めてのことだった」。そのわけは小林が諏訪大社氏子だからというものだった。妻の同意を得られないままなかば強引に連れて行った。娘を氏子にするために。あずさの車中で娘は2時間半のほぼすべて泣き続けていた。

 面白い読書だった。小林は写真家でありながら筆が立つのだ。以前読んだ『メモワール 写真家・古屋誠一との二〇年』(集英社)でそのことを知った。自殺した妻の遺体をすぐさま撮影し、それから何冊も妻の写真集を編集し続ける古屋誠一を追求している伝記に似たドキュメンタリーだった。


小林紀晴『メモワール』を読む(2013年4月20日)


ニッポンの奇祭 (講談社現代新書)

ニッポンの奇祭 (講談社現代新書)

2016-06-05

[]中沢新一『熊楠の星の時間』を読む



 中沢新一『熊楠の星の時間』(講談社選書メチエ)を読む。中沢が行った南方熊楠に関する5回の講演を記録したもの。熊楠に関するものとはいえ、講演録なので言葉はやさしく読みやすい。しかし、テーマが熊楠の特異な思想を取り上げているので内容はかなり難しい。

 ヨーロッパの学問は「ロゴス」に基づいた体系をなしている。中沢が学んだチベット仏教では『般若心経』を繰り返し読んでいく。そこには「不生不滅」という、生じるのでもなく滅するのでもない、存在するのではなく非存在するのでもない東洋独自の論理がある。それをギリシャ哲学では「レンマ」と呼ぶ。レンマは「物事を抽象的に理解するのではなく、具体的に直観的に理解することを意味する」が、ギリシャ哲学ではそれを展開することはなかった。

 レンマの学を実際に打ち立てたのは仏教だったという。仏教ではロゴスの中心になっている、同一律、矛盾律、排中律の3つの法則を否定した。そういう思考を徹底させたナーガールジュナ(龍樹)はそこで、生滅(存在と非存在)、断常(非連続と連続)、一異(一と多様)、来出、というロゴスの導き出した4つの世界現象のあり方を徹底的に否定し、不生不滅、不断不常、不一不異、不来不出こそが現象の真のあり方であると主張した。

 そして世界をレンマ的、直観的に把握するために、瞑想訓練が組み入れられ、具体的には言語の働きを停止させるヨガを行う。それによって世界の実相を見届けようとする。すると、ロゴスの知性作用によって「因果関係」を認められた現象の奥に、因果関係で結びつけられていない偶然性(蓋然性)の自由な運動として、この世界がつくられている様子が直観的に把握できるようになる。

 中沢は3年にわたるチベットの仏教僧院での体験から、熊楠の考えていたような「東洋の学問」は実在すると確信する。それはヨーロッパの「ロゴスの学」の体系でえはなく、「レンマ」による学の体系だという。熊楠は『華厳経』の体系を重視し、華厳の学がレンマの学の一つの頂点を示すと考えていた。

 雑駁な要約だが、熊楠の思想が単なる民俗学にとどまらずきわめて長い射程を持っていることを示している。難解で分からないながらも続けて読んでいこう。

熊楠の星の時間 (講談社選書メチエ)

熊楠の星の時間 (講談社選書メチエ)

2016-03-05

[][]宮本常一『私の日本地図1』を読む



 宮本常一『私の日本地図1・天竜川に沿って』(同友館)を読む。宮本が天竜川の河口から川をさかのぼって天竜川の始まりの諏訪湖までを旅した記録。正確には一度に旅したわけではなく沿線を何度も歩いたものを1冊の本にまとめたもの。

 宮本が撮った写真がほぼ全ページの半分を占めている。宮本はオリンパスペンというハーフサイズのカメラを持ち歩いて、記録として撮っていた。民俗学者の眼で見たちょっと遅れた地域を記録している。本書では天竜川沿線でも静岡県側の記載が多いが、長野県側は伊那谷にあたる。ふつう川は源流から川下まで谷が徐々に広がって行って、それに伴って文化も下流ほど栄えることになる。ところが天竜川は静岡県と長野県の境あたりが谷が狭くなっており、長野県側の谷はかなり広く文化も栄えていた。それは特殊なことらしい。

 天竜川には天竜下りという小舟で川下りを楽しむ遊びがある。天竜下りは昔は天竜峡という峡谷をしぶきに濡れながら下っていったものだったが、ダムができて流れが緩やかになり、現在は飯田市の北の高森町市田から天竜峡駅までの川を下っている。

……天竜峡駅から北は谷もずっとひらけて、ほんとにひろびろとして来る。そして川の右岸(西側)には4段も5段もの河岸段丘が発達しており、それぞれの段丘上に集落が発達する。しかし伊那谷の西を限る木曽山脈に源を発する川が、この段丘を横切って天竜川におちるところ、深い侵蝕谷をつくって段丘をたちきっているのである。しかもその川は日ごろ流量はきわめて少なく、石ばかりがごろごろと川原にころがっている。この川は雨がふると大変あばれる。西の山々はその峰がいずれも2000メートルをこえる急峻なものであるが天竜川の川面は海抜400メートル余である。この峰と川までの間は直線距離にして12キロ。その12キロの間の落差が1600メートルもあるのだから、山に降った雨はすごい勢で急流を走って天竜川におちこむ。そのとき石も砂も容赦なく押しながしてゆく。雨がやむと水のかれた川になる、こうした支流を何十というほど受け入れている天竜川はおのずから土砂にうずもれた広い河原を持つことになる。そしてその川は大雨の降るときかならずといっていいようにあばれる。

 それらの支流が暴れたのが昭和36年6月の集中豪雨だった。飯田地方では36.6災害と呼んでしっかり記憶されている。そのことを宮本も書く。

 母なる川天竜、それはまたはげしく怒ることがある。昭和36年6月29日の洪水はまさにそれであった。このときは27日から29日までに523ミリ降った。それは雨というようなものではなかった。水がそのまま天からおちて来たのである。山はくずれ、川は荒れ、田畑は砂に埋もれ、家はこわれ、人は死んだ。飯田の町からはるか東に南北につながる赤石山脈をのぞむと、山肌にひっかいたようなあとが無数に見えるのは山崩れのあったところなのである。その土砂が水とともに押しながされた。それをうけるのはただ1本の天竜川である。その水をうけきれるものではない。

 私も当時中学生だったのでこのときのことをよく憶えている。近所の山が崩れ何軒もの家が土砂に埋まって下敷きになって人が亡くなった。土砂崩れのことを山が抜けると言った。

 山本弘もこの災害を経験している。飯田市と山本の住んでいた隣りの上郷村境を野底川が流れていた。宮本が書くように普段ほとんど流量が少ないこの川を濁流が流れ下った。堤防は決壊し土砂や大きな石が畑や家を襲った。そのことは山本に強い記憶となって残り、何度も作品のテーマとして描きつづけられた。ただ山本は写実画家ではないので、災害のテーマはさまざまな形で作品に再現されているようだ。

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 ここに掲げた油彩作品も山本弘がその野底川を濁流とともに大きな石が押し流されているのを描いたものではないか。大きさはF6号、制作年は1977年(昭和52年)だ。洪水からすでに16年たっていた。山本はこの4年後に亡くなった。


私の日本地図〈第1〉天竜川に沿って (1967年)

私の日本地図〈第1〉天竜川に沿って (1967年)

2016-02-19

[]『信州人 虫を食べる』を読む



 『信州人 虫を食べる』(信濃毎日新聞社)を読む。著者は田下昌志・丸山潔・福本匡志・横山裕之・保科千丈の5名。太田寛長野県副知事が巻頭言を書いている。3つの章に分かれていて、第1章が「虫の4大珍味 伝統的な信州の味」となっており、ジバチ、イナゴ、ザザムシ、カイコが取り上げられている。第2章が「必ず誰かは食べている おいしい虫」で、セミ、ゲンゴロウ、カミキリムシ、イラガ、オオスズメバチ・アカバチ、スズメガ・ヤママユガ、コオロギ、トンボ・ヤゴ、クリムシが挙げられている。私も長野県出身の信州人だ。4大珍味は納得するが、第2章のカミキリムシ以外には驚いた。こんなものを食べていたのか。第3章が「信州でもあまり食べない世界の昆虫食」となっていて、カメムシ、カブトムシ、クワガタムシ、イモムシ、アリ・シロアリが取り上げられている。

 ハチ(主にアシナガバチ)、イナゴ、カイコについては普通に食べていた。ザザムシは信州の一部、天竜川の上流、伊那市近郊で食べられているというのが真実だ。私も20年ほど前、友人に料理屋で御馳走されるまで食べたことがなかった。あまり気持ちの良い食べ物ではなかった。

 巻頭言で太田副知事が『ジャングル大帝』を引用している。ジャングル大帝のレオが、獣たちが互いに食い合いをするのを憂い、肉食をやめて植物を食べて生きようと呼びかけるが、草ではお腹がすくし、力が出ない。そこへイナゴが発生したので、それからは動物性タンパク質をイナゴから摂取しジャングルは平和になった。「アニメではバッタだったかもしれないが、私はふつうにイナゴと理解した」と太田は書く。

 パール・バックの『大地』にもイナゴが大発生するシーンがあるらしいが、ジャングルというかたぶんサバンナで大発生するのも、中国で大発生するのもイナゴではなく、Locustサバクトビバッタに違いない。日本での近縁種はトノサマバッタになる。イナゴはバッタと異なり異常な大発生をすることはない。

 さて、カミキリムシだ。これは成虫ではなく幼虫を食べる。田舎ではゴトウムシと呼んだ。昔、風呂やかまどで薪を燃したが、幼虫はその薪の中に入っていて、薪割りをすると見つかるのだ。それを火であぶると柔らかかった体がぴんとまっすぐに伸びて、食べると「心地よいパリパリした食感の後に、なんとも上品な甘さが口いっぱいに広がる。くせになる食感と食味のコラボレーション……」と著者も書いている。このカミキリムシの幼虫なら今でも食べたい。たくさんの薪の中からやっと2、3匹見つかるくらいだから、とても商品になるようなものではない。食べた経験がある人も極めて少ないだろう。でも本当においしいのだ。ローマの貴族も食べていたと何かで読んだことがあるくらいだ。

 セミを食べる項目で、青森県出身の昆虫学者の体験に触れられていなかったのが惜しまれる。その学者は子どもの時からセミの成虫を食べていて、セミの種類によって味が違うとまで書いていた。『ミツバチの世界』(岩波新書)を書いた坂上昭一だったのではないか。しかしWikipediaによると坂上は千葉県出身となっている。では誰だろう。

 装幀は出版社から想像できるとおり野暮ったいものだった。


信州人 虫を食べる

信州人 虫を食べる