mmpoloの日記 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2016-01-14

[]原和の13回忌



 友人の原和が12年前の今夜(13日の深夜〜14日にかけて)亡くなった。今夜は彼の13回忌に当たる。亡くなる直前の夜9時頃電話をしてきて、54年付き合ってくれたけどさよならと言った。酔っていてろれつが回らなかった。ぐでんぐでんだった。20歳の頃から死ぬ死ぬと言っていた。青木ヶ原へ入って死ぬとか言っていた。いつも言っていたからまたかと思って、勝手に死ねと答えた。娘が心配して、原さん死んじゃうよ、私電話していい? と言うので、電話してやってと言った。別室で電話していた娘が戻ってきて、酔っていて何を言っているのか分からないと言う。

 まさかと思っていたが、翌日の昼、会社の女性から外出先の私のケータイに電話がかかってきた。友だちのハムさんと言う人から電話があって、原さんが亡くなったそうです。

 実家に帰っているカミさんに公衆電話から電話をした。電話をしながら泣いてしまった。すぐ帰るとカミさんが言った。受話器をフックに戻したとき、手が受話器から離れなかった。強く握って硬直していたのだ。

 深夜12時近く、原和の住む飯田市の風越山麓の小さな一軒家から出火して家は全焼した。焼け跡から仰向けの大人の遺体が発見された。家は四囲の壁を除いてすべて焼け落ちていた。

 亡くなったあと親しくしていた2人の女性が異口同音に、やっと死ねたのね、良かったねと言った。原、良かったなあ、やっと死ねて。こんな娑婆におさらばできて。長い間苦しかったよな。

 カミさんが言う。原和はあの世なんか行かないわよ。風越山の頂上に登っていって風と遊んでいるわよ。

飯田市の西には風越山が位置して、東を南北に流れる天竜川に真向かっています。風越山麓の東斜面の高台にひっそりと山荘のような一軒家が建っていました。1月の夜、空を見上げれば中天にひときわ明るい星が輝いています。おおいぬ座シリウスです。シリウスギリシャ語で焼き焦がすもの、光り輝くものを意味します。何年か前の冬の夜、シリウスはこの一軒家を選び突然その輝く光で焼き焦がしました。炎は山荘を包み、山荘は四囲の壁を残して燃え尽きました。その時炎とともにひとつの魂が去ってゆきました。山の稜線に沿って高いところへ、ここではない違う世界へ。星の王子さまは自分の星へ帰るとき、砂漠で毒蛇に体を咬ませます。僕のことを悲しまないで、重たい体は持っていけないのだからと言って。だから何も悲しいことはないのです。いまその魂は風越山の頂きあたりで風と戯れています。ほら、かすかに木立のさやぐ音が聞こえるでしょう。

 友人から別れの電話があった夜、彼の住む大山荘が全焼し友人が遺体となって発見された。3日後の葬儀の日は底まで見通せるような快晴で終日凍てついていた。葬儀の後焼け跡を訪れて薔薇の花束を手向けた。翌日飯田には珍しく大雪が降り世界を真っ白に変えた。


空荒れる君の心か道凍れ

珍しき大雪の降る君死ねば

もっと降れなまじの雪では鎮まらぬ

焼け跡に君を鎮めて雪積もれ

鎮魂の薔薇を沈めて雪積もる

わが妻が君に手向けし花束を深く埋めて雪よ降り積め

燃えていた君の身体をかすかにも冷ましくれるか雪の降り積む

 原和の1周忌に

友人の一周忌に

渦を巻く炎に乗って君は去り風越(かざこし)の峰木立さやげり


友人の住居址に立って

谷に向く君の姿に重ねれば朝ごとに見し君の視界が


酒瓶にひそと沈める黄なる実の焼け跡近く花梨立ちたり

黄金なる花梨をひとつ手に載せて業火と煙の記憶を問えり

かりん二つ君が賜いしものなれば酒瓶の底静かに沈めん

谷間に君の墓立ち振り向けば天竜遙か風越の山

 今までで一番悲しかったのが、原和、君の死だった。

 私は君のことをいつも「原」と呼んでいた。君は私のことを「船沢」(私の旧姓)とか、「君」とか「お前」って呼んでいたな。原和、君と親しい友人だったことを誇りに思っているよ。まだ風越山の頂きあたりで風と戯れているかい。

2015-04-11

[]ハム追悼



 丸谷才一『腹を抱へる』(文春文庫)を読んでいたら、「懐かしい人」という章の中に、「菊池武一」というエッセイがあった。菊池武一は四国高松の人、明治29年生まれ、長く國學院大学の教授として英語を教えた。昭和47年没、享年76。丸谷は昭和39年まで十数年間、この大学で英語を教えていた。丸谷の文章の初出は分からないが、この「菊池武一」は追悼文のようにも読める。文章の最後はこうなっている。

 人間は誰でも死ぬ。とすれば、死んだからと言つて別に悲しむ必要はない。ただ、不幸な一生を送つた死者に対しては、われわれは悲しまなければならない。そして菊池さんのやうに、天才的と言つてもいいくらゐうまい具合に一生を送つた人の場合、われわれはただ羨みさへすればそれでいいのではないかと思ひます。

 今年2月2日に友人が亡くなった。私は彼のことを40年以上ハムと呼んでいた。同じ村に生まれ、小学校では1年1組だった。6年間同じクラスで過ごし、中学、高校とも同じ学校だった。小学校1年のときから仲が良かった。プロレスの技を掛け合ったりしていた。中学3年になるとき、突然天文クラブを作ろうと誘われて、それから高校を卒業するまで天文学に関する本を読みふけった。

 高校を卒業して1年間田舎で浪人生活を送り、その間2日に1回は会っていた。クラシック音楽を教えてくれたのはハムだった。シューベルトの『冬の旅』が好きで何度も聴かされた。戦前のヒュッシュがハムのお気に入りだった。ベートーヴェンピアノソナタもよく聴いた。ハムはケンプが好きだった。

 1浪したのち、ハムは東京へ行くと言って村を去っていった。田舎で浪人をしていた友人はほかに2人いた。1人は北海道大学に合格し、もう1人は静岡大学入学していった。静岡大学入学した友人、原和はもう10年ほど前になるが、1人暮らしの山荘に火を放ち亡くなった。その直前にこれから死ぬからと電話をしてきて。

 東京でハムは肉体労働の仕事を転々とした。新聞配達とか山谷日雇い仕事とか、横浜では港湾労働の仕事もしたと言っていた。アンコウって言うんだ。コウアンをひっくり返した名前だとか、鮟鱇のように口を開けて仕事を待っているから付いた名前だと言っていた。ポンプの仕事はきつかった。生コンクリートをポンプ車でビル建設の現場に流し込む仕事だ。寒風吹きすさぶ冬の現場は寒かった。手が凍えた。最後に屋台のラーメンを売る仕事に就いた。テキ屋親分に雇われていた。

 しばらくして田舎へ帰った。田舎で1人で勉強をして翌年早稲田大学入学した。しかし1年経ったかどうかで退学し、田舎へ戻って兄貴の経営する養豚場で働き始めた。養豚業は動物薬品が高価だと言って、自分が獣医になればそれが安価に入手できると気づき、また1年間勉強して今度は鳥取大学獣医学部入学した。6年間学んだのち、村へ帰って兄貴の養豚場を手伝っていたが、そのうちに独立して自分の養豚場を持った。1人で2,000頭飼育していた。

 やがて人も雇い、豚の新しい品種も開発した。仕事は順調のようだった。ただ酒量はハンパなものではなった。ほとんどアル中だったのではないか。部屋は焼酎のビンやビールの空き缶で床も見えないと言っていた。

 一昨年の暮れに、肺癌と診断された、余命2年と言われたと電話してきた。治療は拒否して近藤誠のガンは治すなというような本を読んでいると言っていた。癌宣告を受けて結局1年2カ月ほどで亡くなってしまった。近くに住む友人が、昨秋家を訪ねたら、ビールの空き缶などであんなに散らかっていた部屋がきれいに片づいていたよと話してくれた。覚悟していたのかもしれない。

 ハムは小学校の同級生だったきれいな女の子が好きで、その気持ちは一生変わらなかったようだ。数年前大きな口径天体望遠鏡を買ったと言っていた。自動追走式の赤道儀だったと思う。今度星を見せてやるよと言っていた。見せてもらえなかった。何で約束を守らなかった。

 ハムと名づけたのは私だった。人にはハムレットのハムだと言っていた。悩みが多いんだと。本当はハム・ソーセージのハムだった。ハムとの付き合いは60年近かった。一番長い付き合いの友人だ。身長が184センチもあった。変わり者と言われていた。亡くなった原和も変わり者と言われていて、二人が通っていたバーのママから、あの二人が親しい友人だなんてあなたも大物ねと言われたことがあった。大物ではないが、たぶん同じ色の羽をしているのだろう。

 丸谷才一の言う「人間は誰でも死ぬ。とすれば、死んだからと言つて別に悲しむ必要はない」はその通りだろう。悲しむ必要はない。ただ悲しいのだ。それを抑えることができない。昔カミさんが言った。あんたたち3人は宇宙人よ、みな足が1センチ地球から離れている。いつかあちらの宇宙ででまた会いたい。ハムの本名は知久博司と言った。

2014-06-12

[][]田中博文『真田一族外伝』を読んで



 田中博文『真田一族外伝』(産学社)を読む。副題が「伝説の英雄はなぜ誕生したのか」というもの。真田という豪族の出自を滋野一族から解き明かし、のち海野姓を名乗るようになり、海野の娘が嫁して真田幸隆(のちの幸綱)が生まれたという説を紹介している。

 真田幸隆は武田信虎と戦い、破れて落ちのびる。のちに幸隆は信虎を追放した武田信玄に臣従する。信玄が上杉謙信と戦ったときも幸隆は信玄について戦った。信玄の配下として戦ってきたが、信玄の病死のあと幸隆も病死する。

 幸隆のあとを三男昌幸が継ぐ。信玄の後を継いだ武田勝頼は織田信長に攻められ自害する。昌幸は徳川家康に従う道を選ぶ。しかし家康から所領を変えるよう命令された昌幸はそれに従わず、徳川との間で戦になる。そして2度の戦で徳川方を退却させる。ついで秀吉に接近していく。

 徳川・豊臣の戦で真田は二つに分かれる。昌幸の長男真田信幸(信之)は徳川につき、昌幸と次男真田信繁(幸村)は豊臣方につく。関ヶ原の戦いで徳川が覇権を握り、破れた豊臣方についた昌幸・幸村は罪一等を許され高野山へ流されるが、やがて昌幸が病没する。大阪の陣で幸村が大阪城に招き入れられるが、夏の陣で破れて幸村も首を取られる。

 信之は上田から松代へ移され93歳で没したが、外様でありながら真田藩は明治維新まで続いた。

 真田一族と題しながら、実は幸隆・昌幸・信之と幸村の3代を扱っている。その後のことは、田中博文が以前書いた「シリーズ藩物語」の1冊『松代藩』(現代書館)を読んでほしいと書かれている。

 著者の田中博文は私とは45年以上の友人だ。長野工業高等専門学校に入学し、中退して立命館大学に進んだ。そこを卒業して出版社に勤め、のちに独立して出版社を起こし、また古書店を経営していた。歴史に関する著書を数冊書き、本書が6冊目となった。しかし、発売後半月足らずの6月3日病気のため亡くなってしまった。64歳だった。

 亡くなる半月ほど前、病室を訪ねた友人に「原さん、人間の欲望は限りないものなので、どこかで諦めなければならないね」と言っていたという。田中君、すべてをやり終えて心残りなく亡くなる人はほとんどいないだろう。誰もが何かをやり残したまま人生を終えるのだ。君なんか3人の子供たちは立派に成人し、著書も6冊も残すことができたのだ。それ以上望むのは贅沢というものだ。若い頃親友が自死したり、いろいろ辛いことがあったのは伝え聞いている。でも振り返ってみれば決して悪い人生ではなかったのではないか。どこかで諦めるのではなく、よし、俺の人生これで良かったのだと肯定すればいいと思う。

 もう40年前、仕事で京都へ出張した折り、一乗寺下り松近くの君の住む下宿を訪ねたことがあった。探しあぐねてうろうろしていた時、君と一緒に住んでいた君の親友が私の名前を大声で呼びながら追いかけてきた。下宿に行くと朝からコッペパンしか食べてないとのことで、二人を連れてジャズ喫茶でカレーをご馳走したことを思い出す。その君の親友も翌年死んでしまった。

 一つ年上だったので、どこか先輩風を吹かしていたかもしれない。実際は私の親友が君の先輩だっただけなのだが。50年前は、一緒に下手な詩の同人誌を作ったね。君に、いや、あなたに会えて良かったと思う。


田中博文『松代藩』を読む(2012年9月16日)

「こんなにもある 善光寺のなぞ」(2009年5月6日)


真田一族外伝 伝説の英雄はなぜ誕生したのか (historia)

真田一族外伝 伝説の英雄はなぜ誕生したのか (historia)

2012-01-04

[]友人からの古い年賀状



 押入を引っかき回していたら、友人からの古い年賀状が出てきた。昭和52年(1977年)のものだ。差出人の活司は古い友人だったが、もう亡くなってしまった。そのことは以前ブログに書いたことがある。この年賀状をここに書き写す。

年移り 物変われども変わらぬこころ

    めでためでたと とそ五盃


という正月にする心算が、みそかに借家の契約、大晦日の引越しで大騒ぎ、おせちもへったくれもあったものではなく、三ケ日は茶漬けで荷物の整理にいそしみ、六日に至ってやっと完了、齢二十七にして念願の家風呂につかり、うれしさに目のくらむ程長湯して、やっとありついたウィスキィ。けれども八帖、六帖、洋風四帖半、バス・トイレ・広い玄関、縁側、裏口、物置きの一戸建てはどうみたって分不相応、月末の支払を考えるとゆっくり酔えるどころではなく、年計の早春にして、前途絶望の思いにまっさおになっております。(後略)

 いつも思うがうまい文章だ。どうして文筆で成功しなかったのだろう。

 ついで差出印が昭和56年(1981年)10月25日という手紙も出てきた。

フナよ、貴兄の激昂退散の後、私もすぐに帰宅し、席上流石にはばかられて口には出せないまま別れてしまったけれど、既にあの時私は一人暮らしで、離婚別居の身、つらつら愚痴を申しあげるのは幸福の家庭に不安投げかける様で、いや事実そのとおりで今さらまことに恐縮の次第でありますが、眠られぬ夜を転々、ずいぶん寂しい思いをしました。心の説明はむつかしいので、それに私は朝から飲っているざまの毎日なので、思慮分別のまことに浅く、それはもう貴兄に会った時既に、その様な状況でありました故、ここにきて釈明の余地もありますまい。実につらかった、先生に叱られている様な気がした、暴言お許しください。(後略)

 フナというのは当時の私の呼び名。いったい何があったのだろう。この頃の日記を見てみると、活司の手紙の3カ月前の7月26日の日記にそのことが書いてあった。山本弘さんが7月15日に亡くなり、26日に葬儀があった。葬儀後精進落としとして寺で飲み、その後山本夫人の実家である焼肉屋北京楼で飲み、さらに活司に誘われ2人で活司の友人が経営するかつ禅へ行って飲んだ。日記には「つまらぬことを言う活司を叱る。帰宅9:00’、したたか酔う。」と書いている。

 しかし活司との思い出は楽しいものばかりだ。亡くなってもう25年になる。生きていれば喧嘩をしたかもしれないし、絶交さえしたかもしれないが、好きだったことには変わりがない。

活司命日(2006年10月27日)

2011-11-14

[]hayakarさんが亡くなった



 hayakarさんが亡くなった。ブログの「hayakarの日記」を書いていた早川さん(id:hayakar)だ。9月11日に亡くなったという。三上さん(id:elmikamino)と中山さん(id:taknakayama)が教えてくれた。早川さんが亡くなったと聞いてもなかなか実感が湧かなかった。

 それが10月29日付けの中山さんのブログ「hayakarさんへの小さな弔辞」やブログ仲間たちの追悼文を読んでようやく早川さんの死が実感された。早川さんと知り合ったのは私がブログを始めた2006年の半ば頃だったと思う。私のブログにコメントしてくれた人がいて、それが「よこしまなシマウマ」というブログを書いていたmai_aokiさんだった。青木さんのネット上の知人が早川さんだった。

 早川さんと初めて会ったのは、中山さんが書かれているのを読むと2008年1月5日だった。中山さんと3人で会って飲んだ。有楽町駅前の三省堂で待ち合わせ、中山さん行きつけの店で飲んだ。初対面なのにもう2年間もブログを読み合っていてすぐに打ち解けたと思う。楽しい酒だった。その時の様子を早川さんが描いてくれた。

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新年会「hayakarの日記」(2008年1月5日)

       ・

中山さん、mmpoloさんとの新年会に、お誘いいただき、喜んで参加させていただく。

17:30、有楽町の三省堂で待ち合わせ。

私にとっては、ご両人は初対面なのだが、お二人は何度か会っている御様子。三省堂で、それらしきお二方を見つけたので、声をかける。

中山さんからは、「ブログの絵に似ていますね」と言われる。

mmpoloさんは、プロフィール画像のおっさんが現れると思われたようで、意外な反応をされる。

そういえば、猫ヶ原さんに会った時も「プロフィールの顔と違う」と言われたっけ。

有楽町ガード下の飲み屋で、お二方からいろんな話を聞かせていただく。

やはり、自分の知らない経験をしてらっしゃる方の話ほど面白いものはない。

とても有意義な夜でした。

 とても楽しい夜だった。後ろ姿が私だが、驚くほど似ている。正面が早川さん、私の陰に隠れているのが中山さん。早川さんのデッサンの腕は確かなものだった。しかも、おそらく映像記憶にも優れていたのだろう。だから映画のシーンもありありと憶えていたのではないか。

 最後に会ったのは昨年の12月18日だった。新宿西口の小便横町で三上さんと中山さんと4人で飲んだ。しばらく具合が悪かったと言っていたが、まさかそれが最後になるとは思わなかった。

 早川さんは本当に映画が好きだった。雑誌「マリ・クレール」の映画特集で、淀川長治と蓮實重彦の対談が載っている1990年7月号を貸すから読んでほしいと言ったら、早川さんも読ませたい雑誌があるから貸し借りしようと言った。それは何回目に会った時だったか。貸してくれるからと雑誌の題名をメモしなかったので、早川さんが私に何を読ませてくれようとしたのか分からなくなってしまった。ささいなことだがそれが悔やまれて、そのことを考えると本当に早川さんは去っていってしまったのだと悲しくなる。

 以前だいじな友人が亡くなったとき、尊敬する岳父が細く長く涙を流すのが亡き人への供養だと教えてくれた。早川さんを識ることができて良かった。

 ここまで書いて「hayakarの日記」を読み直したら、2009年4月19日にその雑誌のことが書かれていた。そうだ、シティ・ロードだって言っていた! 早川さんの日記から、

今は無き『シティ・ロード』の1991年4月号。淀川さんのロングインタビューが載っています。私が死んだら蔵書は全部焼き捨ててもかまわない。この1冊だけを棺桶に入れてほしい。

〈コメントを書く〉

mmpolo  羨ましいけど、私も1990年7月号の「マリ・クレール」を持っています。淀川長治と蓮實重彦の11ページにわたる対談が載っています。今度お互いに貸し借りしませんか?

hayakar  mmpoloさん、こんばんわ。

以前、お話になっていた雑誌ですね。

>今度お互いに貸し借りしませんか?

いいですね。お互い家もそんなに離れていないことですし、私も読んでみたいです。

ただ、シティロードの場合、ロングインタビューっていってもそんなに長くないですよ。

淀川氏の著作なら、いっぱいあるのに、なんでシティロードなの?って思われるかもしれないけれど、このインタビューで淀川さんが、ベルトルッチの『シェルタリング・スカイ』のことを激賞しているからです。

『シェルタリング・スカイ』について語ると、また長くなるから、いつか機会がありましたら。

 よし、それでは『シティ・ロード』の1991年4月号を探して読んでみよう。

 また、2009年4月14日の日記にはこう書かれていた。

吉祥寺に到着。どこに寄るでもなく大正通りを西に向かう。前に通っていたカットハウスの前を通りすぎ、しばらくしてから左折。中道通りの吉祥寺西公園でコブシとシラカシの木を見上げて一休み。しばらくしてから井の頭公園に向かう。桜の見頃を過ぎたとはいえ、前からの癖で池の周辺を避け、少し離れた雑木林に向かう。陽気のいい時期には、ここで缶ビールを飲みながら本を読んだ。

死んだら、幽霊になってここらへんのベンチに座ってる予定。

 分かった。来年の春に井の頭公園へ行って、池から離れた雑木林のベンチに座り、缶ビールを飲みながら早川さんの幽霊が現れるのを待とう。そして映画の話をたっぷり聞かせてもらおう。


・hayakarの日記

http://d.hatena.ne.jp/hayakar/