mmpoloの日記 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2019-01-14

[]松濤の廃墟



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 渋谷東急百貨店本店の横の道をまっすぐ首都高に向かって登っていく坂道松濤1丁目あたりの道に面して廃墟があった。これを撮影したのはもう15年以上前だったが、現在は瀟洒なビルが建っている。

 屋敷だったところの右側に立派な門らしい石柱が立っている。それにしても普通の屋敷がここまで樹木に覆われるまで何十年も経っているのではないか。松濤のこんな地価の高そうなところを廃墟にして地主は何を考えているのだろう。当然不動産屋は放っておかないはずだ。つまり相続に問題があって売ることができなかったのだろう。

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 門の石柱に少し壊れた表札が残っていた。それは「神道寛×」と読める。×に当たる文字は「次」のようだ。神道寛次で検索してみる。「20世紀日本人名事典の解説」によると、

 神道寛次(じんどう かんじ)は、

大正・昭和期の弁護士,社会運動家

生年 明治29(1896)年11月20日

没年 昭和46(1971)年2月17日

出生地 愛知県

学歴〔年〕小卒

経歴 布施辰次法律事務所で手伝いながら大正11年独学で弁護士試験に合格。12年の亀戸事件で布施弁護士らと救援活動。13年兵役を終えて弁護士となり自由法曹団に参加、福田雅太郎大将狙撃事件、京都学連事件などの弁護活動を行う。3.15事件、4.16事件の弁護に当たった日本労農弁護士団の他の弁護士と共に、13年治安維持法違反で検挙された。戦後20年自由法曹団再建に加わり、三鷹事件、松川事件の弁護に当たった。この間、3年の第1回普選に労働農民党から立候補、4年新労農党の結成に参加。戦後は日本共産党から数回衆院選に立候補した。

 とある。さらに「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」では、

1896−1971 大正-昭和時代の弁護士。

明治29年11月20日生まれ。布施辰治法律事務所に出入りし,独学で弁護士試験に合格。大正12年亀戸(かめいど)事件では布施らの糾弾運動を支援。13年弁護士となって自由法曹団にはいり,福田雅太郎大将狙撃(そげき)事件,京都学連事件などを担当。戦後,自由法曹団の再建に参加。三鷹事件,松川事件にたずさわった。昭和46年2月17日死去。74歳。愛知県出身陸軍工科学校卒。

 1971年に亡くなって、その後この家に誰も住まなくなって、ほぼ30年後に私が屋敷跡を撮影したと考えればその荒廃ぶりにも納得がいく。


※追記。「住所でポン」の2000年版には神道寛次の電話番号が記載されている。住所も載っていて、Google Mapで見れば間口に比して深い奥行で駐車場になっている。

2019-01-02

[]吾嬬神社への初詣



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 元旦は近所の吾嬬神社初詣に行ってきた。吾嬬神社東京都墨田区立花に位置している。早朝7時ころ行ったが。参拝客は私のほかたった1人だった。実は吾嬬神社はきわめて古い神社なのだ。最寄りの駅は東武亀戸東あずま駅だし、東吾嬬小学校や橘吾嬬の森小学校というのもある。この辺り一帯は江戸時代あづま村と呼ばれてきた。隅田川にかかるあずま橋も吾嬬神社へ参拝するために掛けられたという説がある。吾嬬神社を描いた広重浮世絵もある。古代では吾嬬神社を浮州の森と呼んだ。周囲が海だったころ小高い島だったらしい。丘はその後地震地盤沈下してしまったという。古墳があったと鳥居龍蔵が言っている。近くには亀戸石井神社があり、これまた鳥居龍蔵が縄文時代からの神社だと言っている。

 この辺り一帯は墨田区立花と言い、その1丁目1番地に吾嬬神社がある。御祭神弟橘媛オトタチバナヒメ)で、日本武尊ヤマトタケルノミコト)の妃だ。弟橘姫を祭るので吾嬬神社(吾嬬=わが妻)。本当に小さな神社で常駐する宮司もいない。近くには墨田区香取神社江東区香取神社、また有名な亀戸天神など大きな神社がある。

 ヤマトタケル横須賀走水港から下総の国(千葉県)を目指して浦賀水道を航海しているとき嵐が襲い船が難破しそうになった。海神を鎮めるために弟橘媛が海に身を投げると嵐が治まり無事に対岸につくことができた。その後西の方に舟を進めると一つの島が見えた。そこに弟橘媛衣服が浮かんでいた。ここに築山を作り衣服を納めた。これが吾嬬神社のいわれとされる。 

 しかしこれらは跡づけされた地名説話に過ぎない。一般に地名説話より地名の方が古く、これらの伝説も「あづま」を説明するために作られたものだろう。もともと吾嬬神社の歴史の方が古いのだ。江戸東京に変わっても、江戸湾江戸川のように古い地名が残るように、太古の地名が残っているのだろう。だから東京のあちこちや千葉木更津あたりにも吾嬬神社が存在している。微かな太古の歴史の痕跡として。

 現在「あづま」が色濃く残っているのは群馬県だ。すると、古代東京群馬県の豪族の植民地だったのではないかと空想をたくましくしてしまう。

2018-12-26

[]地下鉄丸ノ内線四谷三丁目駅近くのお岩水かけ観音について



 小林紀晴『写真で愉しむ 東京「水流」地形散歩』(集英社新書)を読むと、四谷三丁目のお岩水かけ観音に触れている。

……四谷三丁目の交差点近くにあるスーパーマーケットの丸正食品総本店前のお岩水かけ観音。かなり目を引く存在なのだが、あの四谷怪談と深く関係している。

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 いや、そんなに目立った存在ではない。店舗の前の一角にひっそりと設置されているといった印象だ。まるでレリーフのようで、存在を主張することなくさりげなく置かれている。横に銘板があるが文字が読めない。ネットで由来を調べてみた。

 貞享年間(1684〜1687)四谷左門町に住む御家人宮又左衛門の一人娘お岩は迎えた婿養子伊右衛門の放蕩が原因で哀しくも狂乱行方知れずになりそれからと云うものは種々怪奇な事件が頻発したが田宮家の菩提寺にてお岩の霊を供養したところようやく平穏になったと伝えられています

 この伝説をもとに脚色したのが鶴屋南北の東海道四谷怪談で文政八年(1825)三代目菊五郎の浅草市村座で初演大評判を得ました

 当お岩水かけ観音は縁あって再建の世話人をつとめた飯塚五兵衛が昭和四十六年九月■丸正食品株式会社本社屋建築施行の際■かけ昭和四十九年九月二十三日満願にあ■稲荷と観音様の慈愛をこめて祈願成就のしるしとして新たに分祀建立したものです

※新宿区の歴史(http://tokyoshinjuku.blog.shinobi.jp/四谷/お岩水掛観音)より

 昭和49年9月23日に分祀建立したものだとある(なお文中■はママ)。ここからすぐ近くに澤登ビルがあり、その9階にギャラリーTS4312 がある。この不思議な名前の由来は、住所の「東京都新宿区四谷三丁目12番地」の頭文字を取ったものだという。


2018-12-05

[]小林紀晴『写真で愉しむ 東京「水流」地形散歩』を読む



 小林紀晴『写真で愉しむ 東京「水流」地形散歩』(集英社新書)を読む。写真家である小林が大型カメラを担いで、東京の河川を歩き回った記録だ。小林は写真家でありながら『メモワール』とか『ニッポンの奇祭』など興味深いエッセイを書いている。

 本書はちょっと中沢新一『アースダイバー』に似ている。が、中沢とは違って地層を読んで古代史に思いをはせるとまでは踏み込まなくて、常識的に想像できるところまでにとどまっている。それでは退屈かといえば、そんなことはなくて、河川が作った地形や東京の歴史を表面的にではなく掘り込んでいる。

 主なところにデジタル標高地形図が引用されていて、高低差が明暗で表されているので普通の地図と違って立体感が想像できる。赤羽付近の日暮里崖線とか国分寺駅付近の国分寺崖線(ハケとも呼ばれる)、ヒトデのような谷が分かる四谷あたり、杉並区や中野区を東西に流れる神田川や善福寺川、小林はそれらの流れに沿って歩き、高低差の露出しているところを撮っている。新宿駅近くから流れ下る渋谷川、新宿御苑を通って渋谷駅近くは暗渠になり、天現寺橋付近で古川と名前を変えて東京湾へ流れ下る。

 本書には共著者がいて、地図研究家の今尾恵介が科学的な解説を付け加えている。こんな地味な本が意外に面白かったのは小林の語り口の上手さだろう。いや、小林の好奇心の持ち方が面白いのかもしれない。続巻、続々巻が書かれればいいのに。

 ちょっとだけ不満は、大型カメラ(シノゴ、4×5)で撮っていながら、新書なので写真が小さく写真の肌理も粗いこと(写真分解の線数の問題)ともう少し詳しい普通の地図も付けてほしかった。口絵に数ページカラー写真を付けてくれても良かったのに。

 国分寺崖線を示した国分寺駅付近の写真を引用する。

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2018-07-28

[]新宿の小浜藩邸跡



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 東京新宿の矢来町に小さな矢来公園がある。そこに小ぶりな石碑が立っていて、その下に公園の由緒が書かれている。

  小浜藩邸跡


 若狭国(福井県)小浜藩主の酒井忠勝が、寛永五年(1628)徳川家光からこの地を拝領して下屋敷としてもので、屋敷の周囲に竹矢来をめぐらせたことから、矢来町の名が付けられました。

 もと屋敷内には小堀遠州作になる庭園があり、蘭学者として著名な杉田玄白先生もこの屋敷内で生まれました。

 私が時々訪ねるギャラリーeitoeikoはこのすぐ近く(10mくらい西)だし、矢来能楽堂も東へ100mほどの近くだ。

 近くの東京メトロ東西線神楽坂駅No.2出口の海抜は21.9mだった。

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