阪根タイガース日記 Z このページをアンテナに追加 RSSフィード

2018-12-01 日記

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12月30日(日)



年末年始はゴルフ、映画鑑賞、読書とゆっくり栄養補給したいと思います。購入したのはこの三冊。



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アメリカ南部には以前から興味があって、それは「南部はアメリカのパワーの源」だと思うからで、これまで、フットボール宗教という観点からアメリカを見ていたのだけど、あとアメリカの音楽についても知りたいと思っていた。



そして今日、本屋をぷらぷら歩いていたら、ちょうど良い本がみつかったので、さっそく買って、読み始めた。すごく面白い。




里中: ペンキも塗っていない掘っ立て小屋に生まれ、小麦粉用の袋を縫い合わせた下着をつけ、生きるために窃盗をくりかえしていた少年時代。しかし、そこから身を起こしたJBはいつも自信満々でした。どのインタビューを見ても、その自信に揺るぎがない。ワニのようにニカっと笑う表情にも自信がみなぎっている(笑)。


バーダマン: 黒人文化では、自画自賛(brag)は自己主張のあらわれだし、大言壮語(boast)はユーモアとして好意的に受け入れられます。JBはそれらを体現していました。また、派手なふるまいや見せびらかしは白人文化の枠組みでは品のない行為と受けとめられることが多いけど、黒人文化では見せびらかしは「ショーボート」(showboat)と呼ばれ肯定的評価されます。


里中: 黒人民衆の精神的リーダーだという自覚もあった。キング牧師が亡くなったときは、ラジオをつうじて黒人たちに平静を呼びかけましたね。


バーダマン: 公演先のボストンでは、急きょTV中継をすることになり、「家にとどまって俺のショーを観るように」と呼びかけ、危惧された蜂起をおさえた。全米各地で暴動が起こったけど、JBの呼びかけを聞いた地域だけは大きな混乱は生じませんでした。


里中: 極貧から這いあがり、黒光するグルーヴでソウル・ミュージックの星となったJB。彼は黒人社会の希望の星でもあった。なんといっても、Say it loud   I'm Black and I'm proud.(大声で言えよ、黒人であることを誇りに思っているって)ですからね。JBのファンクには、つねにむきだしの情熱がほとばしっていた。〔Get up (I Feel Like Being a)Sex Machine〕では、「ゲロッパ」(Get up)と「ゲローナップ」(Get on up)のやりとりだけで見事なグルーヴ感をつくりあげている。トロンボーンのフレッド・ウェズリー、アルト・サックスのメイシオ・パーカーなどのバックアップ・メンバーも素晴らしい。


バーダマン: ファンクが目指すものは「連帯感」。パフォーマーとオーディエンスのあいだでコール&レスポンスをやるけど、あれも魂(ソウル)の連帯を確認している。





ジェームス・M・バーダマン、里中哲彦『はじめてのアメリカ音楽史』ちくま新書pp.196-197.








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みなさま、良いお年を!








12月23日(日)

ハロー、メリイ、クリスマアス。




明日と明後日は仕事なので、クリスマスという気分に浸れるのも今日しかないか。とは言っても、ケーキを食べたい年頃でもないし、みんなでワイワイという質でもない。ひとりの時間をつくって静かに本でも読んでいたい。



さて、クリスマスにちなんで何を読もうかと考えた。太宰にしようか安吾にしようか。この二択がすでにおわっているのだが、後者を選んだことで、さらにというか、絶望的に終わった感がある。



小説は、意味を持たせない方がよいと思うが、安吾ほどの意味のふくませ方、理屈っぽさは、読んでいても鼻につかなし、すぅーっとこころに落ちる。それにつけても、安吾の小説に出てくる女というのは、なぜこうも怖いのだろうか。




桜の森の満開の下 (講談社文芸文庫)

桜の森の満開の下 (講談社文芸文庫)





桜の森の満開の下





桜の花の下へ人がより集まって酔っ払ってゲロを吐いて喧嘩して、これは江戸時代からの話で、大昔は桜の花の下は怖ろしいと思っても、絶景だなどとは誰も思いませんでした。





女はそこにいくらかやる瀬ない風情でたたずんでいます。男は悪夢からさめたような気がしました。そして、目も魂も自然に女の美しさに吸いよせられて動かなくなってしまいました。けれども男は不安でした。どういう不安だか、なぜ、不安だか、何が、不安だか、彼には分からぬのです。女が美しすぎて、彼の魂がそこに吸いよせられていたので、胸の不安の波立ちをさして気にせずにいられただけです。


なんだか、似ているようだな、と彼は思いました。似たことが、いつか、あった、それは、と彼は考えました。アア、そうだ、あれだ。気がつくと彼はびっくりしました。


桜の森の満開の下です。あの下を通る時に似ていました。どこか、何が、どんな風に似ているのだか分かりません。けれども、何か、似ていることは、たしかでした。彼にはいつもそれぐらいのことしか分からず、それから先は分からなくても気にならぬたちの男でした。




女は大変なわがまま者でした。




女は櫛だの笄だの簪だの紅だのを大事にしました。彼が泥の手や山の獣の血にぬれた手でかすかに着物にふれただけでも女は彼を叱りました。まるで着物が女のいのちであるように、そしてそれをまもることが自分のつとめであるように、身の廻りを清潔にさせ、家の手入れを命じます。その着物は一枚の小袖と細紐だけでは事足りず、何枚かの着物といくつもの紐と、そしてその紐は妙な形にむすばれ不必要に垂れ流されて、色々の飾り物をつけたすことによって一つの姿が完成されて行くのでした。男は目を見はりました。そして嘆声をもらしました。彼は納得させられたのです。かくして一つの美が成りたち、その美に彼が満たされている、それは疑る余地がない、個としては意味をもたない不完全かつ不可解な断片が集まることによって一つの物を完成する、その物を分解すれば無意味なる断片に帰する、それを彼は彼らしく一つの妙なる魔術として納得させらたのでした。


男は山の木を切りだして女の命じるものを作ります。何物か、そして何用につくられるのか、彼自身それを作りつつあるうちは知ることが出来ないのでした。それは胡床と肱掛でした。胡床はつまり椅子です。お天気の日、女はこれを外へ出させて、日向に、又、木陰に、腰かけて目をつぶります。部屋の中では肱掛にもたれて物思いにふけるような、そしてそれは、それを見る男の目にはすべてが異様な、なまめかしく、なやましい姿に外ならぬのでした。魔術は現実に行われており、彼自らがその魔術の助手でありながら、その行われる魔術の結果に常に訝りそして嘆賞するのでした。


(中略)


彼は模様のある櫛や飾のある笄をいじり廻しました。それは彼が今迄は意味も値打ちもみとめることのできなかったものでしたが、今も尚、物と物との調和や関係、飾りという意味の批判はありません。けれども魔力が分ります。魔力は物のいのちでした。物の中にもいのちがあります。




桜の森は満開でした。一足ふみこむとき、彼は女の苦笑を思いだしました。それは今までに覚えのない鋭さで頭を斬りました。それだけでもう彼は混乱していました。花の下の冷たさは涯のない四方からどっと押し寄せてきました。彼の身体は忽ちその風に吹きさらされて透明になり、四方の風はゴウゴウと吹き通り、すでに風だけがはりつめているのでした。彼の声のみが叫びました。彼は走りました。何という虚空でしょう。彼は泣き、祈り、もがき、ただ逃げ去ろうとしていました。そして、花の下をぬけだしたことが分かったとき、夢の中から我にかえった同じ気持ちを見出しました。夢と違っていることは、本当に息も絶え絶えになっている身の苦しさでありました。




けれども彼は女の欲望にキリがないので、そのことにも退屈していたのでした。




あの女が俺なんだろうか? そして空を無限に直線に飛ぶ鳥が俺自身だったのだろうか? と彼は疑りました。女を殺すと、俺を殺してしまうのだろうか。俺は何を考えているのだろう?




彼はふと女の手が冷たくなっているのに気がつきました。俄に不安になりました。とっさに彼は分かりました女が鬼であることを。突然どッという冷たい風が花の下の四方の涯から吹きよせていました。


男の背中にしがみついているのは、全身が紫色の顔の大きな老婆でした。その口は耳までさけ、ちぢれた髪の毛は緑でした。男は走りました。振り落そうとしました。鬼の手に力がこもり彼の喉にくいこみました。彼の目は見えなくなろうとしました。彼は夢中でした。全身の力をこめて鬼の手をゆるめました。その手の隙間から首をぬくと、背中をすべって、どさりと鬼は落ちました。今度は彼が鬼に組みつく番でした。鬼の首をしめました。そして彼がふと気付いたとき、彼は全身の力をこめて女の首をしめつけ、そして女はすでに息絶えていました。


彼の目は霞んでいました。彼はより大きく目を見開くことを試みましたが、それによって視覚が戻ってきたように感じることができませんでした。なぜなら、彼のしめ殺したのはさっきと変わらず矢張り女で、同じ女の屍体がそこに在るばかりだからでありました。


彼の呼吸はとまりました。彼の力も、彼の思念も、すべてが同時にとまりました。女の死体の上には、すでに幾つかの桜の花びらが落ちてきました。彼は女をゆさぶりました。呼びました。抱きました。徒労でした。彼はワッと泣きふしました。たぶん彼がこの山に住みついてから、この日まで、泣いたことはなかったでしょう。そして彼が自然に我にかえったとき、彼の背には白い花びらがつもっていました。


そこは桜の森のちょうどまんなかのあたりでした。四方の涯は花にかくれて奥が見えませんでした。日頃のような怖れや不安は消えていました。花の涯から吹きよせる冷めたい風もありません。ただひっそりと、そしてひそひそと、花びらが散りつづけているばかりでした。彼は始めて桜の森の満開の下に坐っていました。いつまでもそこに坐っていることができます。彼はもう帰るところがないのですから。


桜の森の満開の下の秘密は誰にも分かりません。あるいは「孤独」というものであったかも知れません。なぜなら、男はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです。彼自らが孤独自体でありました。









孤独自体.....





合掌。





合掌というのは、クリスマスとはちょいと違うような気がする。やはり今日読むのは、太宰にしておくべきであったか。




安吾も悪くなかったが、もうちょい、軽やかで、温もりのあるほうがよかったかな 汗。。。





ハロー、メリイ、クリスマアス。





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12月16日(日)

ロナウドとエマちゃん




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昨晩は仕事で遅くなったので、無理をせずにゴルフの朝練と朝ランをキャンセル。朝は体を休めて、昼から所用を済ませて、夕方からジムのレッスンに参加。ジムでは、モチベーションをあげるためにサッカーのユニフォームを着てる。いわゆる成りすましってやつね。最近のお気に入りは、



C.ロナウドのユーベ・ユニ!



スタジアムの興奮そのままにテンションあがる〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!



ユーベに移籍しても、あいかわらずの活躍っぷり!



あっぱれ!



スタジアムの空気を一瞬で変えてしまう、C.ロナウドのようなスーパースターが、2019年に、我がタイガースにも出現することを願っている!



SIUUUUUU!!!!!!






そうそう、サッカーと言えば、最近、ロナウド以上に、僕に元気をあたえてくれているのが、



スタジアムで歌うエマちゃん!



大観衆をまえに物怖じするどころか、こぶしまできいている 笑



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トランプは、アメリカの真のパワーを捉え違えているのではないか?



エマちゃんに、あっぱれ!!!









12月9日(日)

トレーニング




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土日をフルに休むというのが難しい状況にまたなってきたので、今日まとめてトレーニング。ゴルフ朝練からのジムで朝ラン7km(10km走りたかったが無理だった...)、夕方にもう一度ジムに行って、筋トレ系のレッスンと格闘技系のレッスンに参加。筋トレ系のレッスンだけでもけっこう汗をかいた。この2週間ほど、ほとんど筋肉を使ってないから無理もない。



本当は、以前のように生活のリズムを整えて、朝型に戻して、仕事帰りに週2,3回ほど適度な運動をするようにしたいのだけど、それは、ま、夢のまた夢だな。






キングダム




遅まきながら《キングダム》にはまってます。。。



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中国の歴史に興味があって読み始めたのがきっかけだけど、そんな堅苦しいこと関係なく、とても面白い。しかもスマホで読めるから、わざわざ漫画喫茶にこもって読まなくても次々読めてしまう。



不思議なもんで、本は紙じゃないとぜんぜん頭に入らないからダメなのだけど、マンガはスマホの方が断然よみやすい。ま、月末の請求額がおそろしいことになっているというのは疑う余地がないのだが....



これくらいの散財はゆるせ!



でも、ちゃんと元が取れるというか、




《キングダム》の信


ワンピース》のルフィ


《ドラゴンボール》の悟空




自分のなかに冒険王がいるというのは、心理的にプラスになる。



ただただ忙しいだけの単調な毎日で、



「えっ、今年ももう終わるのか! 」



というのをここ数年くり返しているし、人生ってそういうものなのだろうけど、そんな退屈な毎日に活気をもたらしてくれるというか、自分のなかに冒険王がいると、物事に前向きに取り組めるようになる。



コラムニストのブルボン小林氏は云う。




漫画を読むという行為について確実に言えることが一つあって、それは間違いなく読者が平和だということだ。


戦場で銃弾飛び交う中、漫画本をめくる兵士はいない。殺人鬼に追われる最中に漫画をめくる人もいない。漫画を読む姿のイメージは、かぶき揚げでもかじりながら寝転がっている感じだろう。


(『ザ・マンガホニャララ』より)




まったくその通り!



この名言を伊藤潤二作品を紹介する枕にするところが、これまた心憎いのだが、



いやー、まー、マンガを読んでいるときというのは本当に平和なんですよ!



家でも電車のなかでもカフェでも、いつでもどこでも。



ほんとに平和!










しかしながら《キングダム》で、僕にいちばん元気を与えてくれていた麃公さんがさきほどお亡くなりになりました。残念だ(涙)。



いい顔をしていた。ほんとに!



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合掌






ザ・マンガホニャララ 21世紀の漫画論

ザ・マンガホニャララ 21世紀の漫画論







12月2日(日)

テキトーが死んでる




仕事がまた忙しくなってきて、体調を崩して喉をやられた。1ヶ月くらい咳がとまらなくなるという例のアレだ。毎年疲れがたまってくると喉が炎症をおこして咳で夜も眠れなくなるので、今回は「またきやがったな!」と咳が出はじめて3日目くらいに、早々に医者に行った。先手必勝という訳である。



医者から薬をもらい、「よし、これでもう大丈夫!」と安心しきっていたのだけど、「あれ?おかしいなー?」、なかなか治らない。とうとう鼻水もとまらなくなってきたので、たまらずもう一度医者に行った。



「あらら、のどが腫れてきちゃったねー、薬よわかったかー、あはは....」



あはは、じゃねーよ。まったくよー



でも、ま、医者の考えもわからなくはない。こちらが早めに仕掛けたものの、医者は「まだまだ症状は軽い、まずは様子を見よう」と思ったのだろう。その後、お互いに意気投合? 予想通り、症状はだんだん悪化してきた。そして、はっきり悪いと分かったところで、「やっぱりダメだったかー」と言わんばかりに、本命の薬を処方してきたのだった。



まんまと医者のペースに嵌められた訳だが、結果的にはこれがベストだったのだと思う。こちらとしては、「1回でガツンとやっつけてくれ」と思ってしまうものだけど、少々時間をかけて、容態を見ながら、対応を判断する。やはり無理して治そうとするのが一番悪い。



今日は、観劇して(iakuよかったです!)、ジムのレッスンにも参加。体調も回復してきて、生活のペースもつかめつつある。





読書



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そんなこんなで、時間がかかってしまったけれど、國分功一郎さんの『中動態の世界』を読了。いい本だった。特に最後の2章は、読んでいて行間から國分さんの熱い息遣いが感じられるほどのパワーがあった。



本論では「意志」についての探究からはじまり、最後「本質」を論じるところまでたどり着く。前作『暇と退屈の倫理学』から、僕は「仕事とのキョリの取り方」を学んだ。そして本作『中動態の世界』から、僕は「仕事の質」とは何かを学んだ。とりわけ「コナトゥス」なる概念がすこぶる気に入った!



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『中動態の世界』はまだ僕の頭のなかに定着していないので、思考が展開するのはまだまだこれから。「意志=過去との断絶=ゼセッション=近代」、あと石岡良治さんの議論だけれども「意志/意欲=本質=芸術意欲(kunstwollen)=芸術学=ウィーン学派」との関連も調べたいと思う。



ま、これは死ぬまで考えつづけるようなことだから置いといて、この機会に読み返した『暇と退屈の倫理学』について、以前じぶんが書いた原稿がなかなか面白かったので振り返ってみようと思う。



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テキトー論(2012年・秋)




昨年書店員をやめて工場員になったのをきっかけに始めたこの日記? 連載?も3回目となりました。初回(『アラザル6号』所収)では、横光利一『機械』に触発されるかたちで工場員としてのモチベーションを確認し、文学としての工場員(カッコイイ!)なる方向性を探っているかに思われました。が、その半年後の2回目(『アラザル7号』所収)では期待に反してというべきか、大方の予想通りというべきか、文学色が日に日に褪せていき、とうとう本を読まなくなり、「いま、TOEICテストにはまっています!」と書きました。そして、さらに半年が過ぎました。



さてさて、3回目です。えーと、まず最初に報告しておきましょう。TOEICの勉強は飽きてやめました(笑)。すると今度は、また小説を読むようになりました。主に読むのは、古典ではなく同時代の作家です。やはり工場で働いていると残業が多く平日はほとんど働いて食べて寝るだけの生活になり、本を読むのは週末のみです。このように時間的な制約がきついのと、あと生活が単調になりがちなので、体というよりも心が、何か別の人生を自分の人生の一部として取り込みたいと要求してくるのです。だから人生の歩調を合わせやすい同時代の作家を好んで読んでいます。言ってみればサプリメントのようなもので、これは本物の読書とは言えないかもしれませんが、心が強く求めてくるのだから仕方ありません。



よく読むのは、保坂和志、柴崎友香、阿部和重、川上未映子、古川日出男、長嶋有、戌井昭人、前田司郎、福永信などなど。他の作家も読みたいし、たまに読むこともあるのですが、最近はどの作家も新刊の出るペースが速いので、あまり手を広げず同じ作家を続けて読むことにしています。彼、彼女らは独自の文体を持っていて、知識云々ではなく、軽い言葉で言えば、空気を僕に運んでくれますし、大げさに言えば、世界を僕に与えてくれます。なかでも長嶋有と戌井昭人の小説は、出てくる人や流れている時間、これはもう軽い言葉ではなく、まさに空気が醸し出されていて、あれよあれよという間に僕を包み込んでしまいます。そんな期待を持って、戌井昭人の新作小説『ひっ』を読んだのでした。





鉄割アルバトロスケット




戌井昭人さんは小説家でもありますが、劇作家・俳優としての方が有名かもしれません。《鉄割アルバトロスケット》という劇団?の座長?、なんだか全然わからなくて、もうめちゃくちゃですが、好きです。はい。


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○『ひっ』について語る理由




今回、これから『ひっ』について語ろうと思うのですが、それには3つの理由があります。



1つ目は、



『ひっ』の著者である戌井昭人さんと哲学者の國分功一郎さんのトークイベントを実現したい!



からです。「なぜこのふたりなの?」という疑問については、以下を読めば分かってもらえると思います。僕自身は書店員をすでに辞めたのですが、まだ書店員気質が完全には払拭されていないようです。現役の書店員で「なるほど、面白い!」と賛同してくれる方がいらっしゃれば是非開催をお願いします!



2つ目は、『ひっ』を読んだときの意外な第一印象でした。



「あれ? これ、うまく書けてない。僕からみたらテキトー極まりない戌井さんが全然テキトーに書けてない!」



『ひっ』も戌井さんの以前の作品である『まずいスープ』や『ぴんぞろ』と同様に、とある人物の魅力がモチーフとなって、その魅力に戌井さんが惹きつけられるかたちで小説が書かれています。これはもう戌井さんの当初からの一貫した創作スタイルと言えるでしょう。人柄、雰囲気、またその人が巻き起こす、巻き起こしてしまう、あるいは巻き込まれてしまう出来事、もちろんその人の生まれてから死ぬまでが詳細に書かれている訳ではありませんが、実際に書いてあるのがたった1つのエピソードであっても、もうその人の人生そのものと言ってしまってよいくらいの実感を読者に与えてくれます。



しかし、『ひっ』はなんと言うべきか、読んだときの感触がこれまでの戌井さんの小説と決定的に違うのです。確かに話は面白いのですが、真面目に書きすぎているといか、とにかく堅いんです。「どうしてこうなっちゃったんだろう? 」という疑問について考えみようと思ったのが2つ目の理由。



3つ目の理由は、『ひっ』の帯に書かれている



「テキトーに生きろ」



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というメッセージが気に入ったからです。書店員の時は「とにかく残業はしないように」と口を酸っぱくして言われましたが、工場員になると今度は残業が当たり前になりました。工場はつくってなんぼですから、工場全体がどうしてもハードワークになっちゃうんですね。そこで働く僕にとって、働くこととどう折り合いをつけるかは目下、最大の悩みです。働きすぎても自分を壊すだろうし、サボったらクビになるだろうし、さて、どうしようか?



そんなとき、『ひっ』を手に取って目に飛び込んできた言葉が、「テキトーに生きろ」でした。「おいおい、滅茶苦茶言うなよ!」と思いつつ、でも、結構いいかもって(笑)。





○『ひっ』について




さてさて前フリはこの程度にして、そろそろ『ひっ』についての話を始めましょう。『ひっ』は俗にいうダメ人間である主人公(おれ)が、どうやって生きようかとダメなりに必死に考えるというお話です。考えるといっても本を読んだり、立ちどまって考えあぐねるという感じではありません。なんとなく生きながら、過ぎてゆく時間のなかで、起こること、出会う人について思いを巡らせながら、体験的に自分の人生を考えていきます。そして、はっきりと目で確認することはできませんが、おれの生き方が少しずつ変わってゆきます。



『ひっ』は、その名の通り、「ひっさん」(名前はヒサシ)という伯父が魅力ある人物として書かれています。ただその魅力というのが一癖も二癖もあって、ま、はっきり言って、魅力的どころか、とても誉められたものではありません。



ひっさんがどのような人生を送ってきたかというと、職人気質父親とソリが合わず家を出て、ヤクザの見習いのようなことをして、屋台で客といざこざを起こしてフィリピンに逃亡。半年ぐらいで日本に戻るつもりが、そのまま居続け、拳銃の密売にもかかわりだす。そうこうするうちに仕事がヤバいので様々なトラブルに巻き込まれ、何度か殺されそうになり、さすがに見切りをつけて日本に戻る。帰国後エロ雑誌の通信講座の広告がきっかけで、薄っぺらな教則本ハーモニカ練習して半年後には楽譜が読めるようになり、カルチャーセンターのギター教室に通い一年後にはギターの腕も驚くほど上達して、作曲もできるようになる。その後、高級クラブでボーイの仕事をして、店で演奏するバンドが交通事故に遭った際に、急遽交替で演奏し、それが気に入られ、女性歌手の伴奏を毎週やるようになる。作曲のチャンスもものにして、ヒットを連発する。がある事件をきっかけに作曲家をやめて、半島でひとり隠棲して今に至る。そんなひっさんが主人公のおれに一貫して言い続けたのが、「テキトーに生きろ」であったと。



ついでにというか、主人公(おれ)の人生も確認しておきましょう。山登りばかりしていたので大学は一年留年し、卒業後はやりたいことも目的もなかったので、先輩に紹介してもらった油脂を扱う会社に入る。営業部に配属され、外回りでレストランなどの飛び込み営業をしていたが、営業成績は最悪、サボって映画観たり、サウナ行ったり、ピンサロ行ったり、あげく仕事中に酒も飲むようになる。ある日、車に跳ねられ入院する。会社には営業先の店で酒を飲んでいたのがバレてクビになる。退院して、実家に戻り、ぷらぷらして今に至る。ま、典型的なダメ人間ですな。




○『ひっ』の核心




はい、『ひっ』の主要人物であるひっさんと主人公(おれ)をチェックしましたが、いかがでしょうか。ひっさんが良くて、おれがダメという以前の問題というか、はっきり言って、ふたりともダメダメ!



このあたりのことをグダグダ言っていても始まらないし終わらないので、いきなり核心に行きます。『ひっ』の割と早い段階で、おれとひっさんが言い合うシーンが出てきます。ちょっと長くなりますが引用します。




「だいたい、なにやってんだよ毎日、おめえは」


「ぷらぷらしてんだけど」


「ぷらぷらしてるのは構わねえけど、なんにもしねえで家に居るってのは、どうにも良くねえんじゃねぇのか」


「なんにもしてない、わけじゃないけど」


「じゃあ、なにしてるんだよ」


「なにしてるっつうか」


おれは口ごもってしまった。近所に弁当を買いに行ったり、酒を飲みに行ったりしているだけだった。


「ぷらぷらしているったって、近所の野良猫以下だろ。どうせぷらぷらするなら、もっと範囲をデカくしろよ」


ひっさんは一升瓶を片手で持ち、自分の茶碗に注いだ。


「ミミズだって移動するってぇのによ。お前は糞がつまったみてえに同じ場所に居続けて、ミミズにも及ばねえよ」


「悪かったね」


「悪かったねとひらきなおってる前によ、ほら、なんか楽しいことを探せよ」


「探してるつもりなんだけどさ」


「だいたいな、つもり、なんて言ってるから駄目なんだよ。つもりつもりの前に、一歩踏み出せってんだよ」


 ひっさんはあきれた調子で、「どうするんだい本当によ」と言った。


「まあ、なんとなく生きてくつもりだけど」


「なんとなく?」


「テキトーに」


「テキトーでもなんでもねえよ、おめえは」


「ひっさんいつも言ってたろ、テキトーって」


「おれの言ってたのは、そういうテキトーじゃねえよ。生きるためのテキトーさだよ。お前のは、テキトーが死んでる






ひっさんとおれ、ふたりともダメなんじゃないかって思いますけど、このシーンではふたりの生き方(人生観)の違いを読み取ることができます。



あ、ふたりの違いを言う前にまず指摘しておかねばならないのは、ふたりとも出世街道や安定した生活という道はそもそも問題にしていない、論外だってことです。彼らにその資格がないと言えばそれまでですが、いわゆるエリートというか、そういう類いの人が『ひっ』には全くでてきませんし、主人公(おれ)もそういう人を羨ましいとこれっぽっちも思いません。このあたりはあっぱれ! と素直に感心します。



それを確認した上で彼らが言い合っているのはなにかと言えば、「なんとなく生きる」と「テキトーに生きる」の違いです。主人公(おれ)は「テキトーに生きる」ことができず「なんとなく生きている」のに対して、ひっさんは「テキトーに生きている」。ここが『ひっ』の最大のポイントであることは間違いありません。それは理解できるのですが、それでも、「なんとなく生きようが、テキトーに生きようが、どっちもどっちじゃないか?」とやはり思ってしまいます。





なんとなく なんとなく




この原稿を書いているときに、頭に流れていたのが、ザ・スパイダースの『なんとなく なんとなく』でした。


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はじめ、はっぴいえんどの曲だとばっかり思い込んでいて、youtubeで探しても見つからなかったのでおかしいなーって思っていたのでした。



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ま、ぜんぜん違うかー....






○『ひっ』の見どころ




ちょっと結論を急ぎすぎました。このままでは煮詰まってしまうので違うポイントも見てみましょう。『ひっ』には、おれとひっさんの関係以外にも、たくさんの見どころがあります。先ほども言いましたが、戌井さんは人をじっくり観察して、その人の魅力に取り憑かれたように小説を書きます。『ひっ』のなかには、ひっさんのほかにも重要な人物が出てきます。



○ 気球さん


まずなんと言っても気球さんです。彼は気球に乗ってハワイまで行こうとしたら海に落ちて、気づいたらこの半島に流れ着いていたらしい。家族もあったけど、自分が何処に住んでいたのか記憶がなくなり、帰ることすらできずにいるらしい。以来、本気かどうか疑わしけど漂流物や壊れた部品で気球を作っているらしく、素っ裸のまま半島の洞窟にひとりで暮らしています。気球さんはひっさんに認められていて、おれも気球さんに興味を持っているのですが、世間一般から見れば、頭がおかしい、もう終ってる人となるでしょう。彼の生き方は世間一般の尺度から完全にズレています。しかしながら、ちゃんと生きています。気球さんは気球さんとして成立しているのです。気球さんは謎めいたことや、判断根拠がよく分からないのだけど、物事の本質をついたようなことをさらっと言ったりします。あくまでも主人公(おれ)が見た気球さんなので、気球さん自身ではないので、おれが気球さんをミステリアスな人物に仕立てて、美化し過ぎているきらいもありますが、気球さんが『ひっ』におけるキーパーソンであるのは間違いありません。気球さんは、ひっさんと同じくらいテキトーに生きているという解釈でよいと思います。



○ 風俗店で出会う二人の女性


その他に印象深い人物として風俗店で出会う二人の女性がいます。まずピンサロであった女性については、図書館で働いていそうな感じで、このような店で働いているのがまったくそぐわない雰囲気だったと書かれています。そして、やるべきことはやろうとしてくれるのだけど、おれはまったく用を足せなかったと。このミスマッチを逆説的に肯定することはできそうですが、彼女に対しては否定的なニュアンスで書かれています。「なんとなく生きている」と「テキトーに生きている」の比較で言えば、彼女は「なんとなく生きている」方だと思います。少なくとも「テキトーに生きている」とは言えません。



対して、おれの知り合いがファッションヘルスで働いていて、指名するという後半に出てくる話。このシーンで登場する女性については肯定的に書かれています。作中で唯一おれが恋心を抱くシーンであり、彼女が相手だとおれはすぐに用を足してしまいます。ただ単におれのタイプの女性だったというだけの話かもしれませんが、彼女の自然な身振りや応答がおれにそうさせたのでしょう。ふたりの出会いのシーンが興味深いので引用します。




「ちょっとやだぁ、ビックリした!」


「ビックリするよね」


「そうだよ、ちょっと、やだぁ、なんでぇ?」


「いや本当に偶然で偶然なんだけどさ」


「昨日、あたしここで働いてるって話したっけ?」


「横浜でサービス業ってのは聞いてたけど」


「そうだよね、地元の人には、こういうところで働いてるって話してないもん」


「うん。だから偶然なんだよね」


「そうか偶然か。偶然凄いね」


「偶然凄いです。指名は偶然じゃないけど」




彼女について、また彼女に抱いた恋心については、「なんとなく生きる」と「テキトーに生きる」の比較で言えば、「テキトーに生きる」になると思います。その際に、ふたりの出会いが偶然かなのか? 必然なのか? このあたりが微妙なバランスで絡んできます。



○ミミズ


他にも取り上げたい魅力的な人物がいるのですが、人物についてはこのあたりに留めて、あとは小説の冒頭からでてくる「ミミズ」にまつわるエピソードを紹介したいと思います。一箇所だけ引用します。




切れた状態でもミミズは、両方とも激しくのたうちまわっている。いったいどちらに意思があるのだろうか、どちらが頭で尻なのかわからない。主体性はどっちにあるのか。しばらく眺めていたらもともと二匹だったように思えてきて、勝手ながら二つになってもせめて片方だけでも生き延びて欲しいと両方のミミズを丁寧にシャベルですくい上げ、土と一緒に「エイヤッ」と宙に飛ばした。




ミミズについては、ひっさんが「ミミズは瞬間移動する」など変なことをよく語っていたことから、ひっさんとの関連が強く、「テキトーに生きる」ことの隠喩になっていると思われます。ミミズについてのこの描写で気になるのは「意思」と「主体性」という言葉です。これがやはりキーワードとして「テキトーに生きる」ことにも関わってくるのでしょう。




自由と自堕落



このように見どころがたくさんあって、いろんな読み方もできますが、やはり今回は、「なんとなく生きる」と「テキトーに生きる」との違いについて、またこれらに加えて、僕が冒頭で書いた『ひっ』を読んだ第一印象「真面目に書きすぎている」についても考えを深めたいと思います。この問題を考える上でヒントとなるフレーズが、なんと『ひっ』の帯に書かれています。引用します。



自由と自堕落、人の生き死にをとことん描く、天衣無縫の傑作長篇



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戌井さん本人が書いたのではないと思いますが、核心的な言葉です。この「自由」と「自堕落」というのが、「なんとなく生きる」と「テキトーに生きる」の違いの言い換えとなっています。「なんとなく生きる」=「自堕落」、「テキトーに生きる」=「自由」です。これらに加えて「真面目に生きる」については、「真面目に生きる」=「不自由」と言い換えられると思います。整理します。




なんとなく生きる・・・自堕落


テキトーに生きる・・・自由


真面目に生きる ・・・不自由




こう言い換えるとかなり真っ当な問いになったような気がします。いわゆる自由論です。哲学的なテーマでもありますね。自由をテーマにした書物と言えば、J.S.ミルの『自由論』をはじめ、参考になるものが無数にありますが、ここで私が紹介したいのは、國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』という本です。




○國分功一郎『暇と退屈の倫理学』




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「えっ、暇と退屈?」という感じで唐突に思うかもしれませんが、これらは自由と強く関わったテーマであり、國分さんの著書は自由について考える上でも示唆に富んでいます。そのなかでもとりわけ興味深いのが、第五章「暇と退屈の哲学」の議論です。




○ハイデッガーの退屈論




ここで國分さんは、ハイデッガーの退屈論『形而上学の根本諸概念』を取り上げます。ハイデッガーはまず退屈を二つに分けて考えます。



(1) 何かによって退屈させられること


(2) 何かに際して退屈すること




(1)は受動形であり、はっきりと退屈なものがあって、それが人を退屈という気分のなかに引きずり込んでいる。ハイデッガーはこの事例として、片田舎の小さなローカル線の、ある無趣味な駅舎で腰掛けて4時間後に来る次の列車を待っている時のことを綴っています。



対して(2)は何か特定の退屈なものによって退屈させられるのではなく、何かに立ち会っているとき、よく分からないのだけど、そこで自分が退屈してしまう。事例として、あるパーティーに招待されて参加した時のことが綴られています。料理は美味しいし、趣味もなかなかいい。食卓を囲んで会話もしたし、食事後、楽しく一緒に腰掛け、音楽を聴き、談笑し、面白く愉快であった。このパーティで退屈なものは何もない。にもかかわらず、家に帰って、私は本当は退屈していたと気づいたのだと。つまり私は何かに退屈していたのではなく、パーティに際して退屈していたのだと。



ハイデッガーは、このように「何かによって退屈させられること」と「何かに際して退屈すること」の二つの退屈を挙げ、それぞれを退屈の第一形式、第二形式とします。そして、その後三つ目の退屈、退屈の第三形式について語ります。




(3) なんとなく退屈




これはどういうことかと言えば、日曜日の午後、大都会の大通りを歩いている。するとふと感じる、「なんとなく退屈だ」と。ハイデッガーはこれを(1)や(2)よりも「深い」退屈として重要視します。(1)や(2)は何らかの具体的な状況と関連しています。しかし、最も深い(3)の退屈は状況に関わらず、突発的に現れます。だれがとか、どこでとか、どんなときにといったことに関わりません。ハイデッガーはこのようにより深い方へ(より純粋な方へと言い換えてもよいでしょう)思考を進めてゆきます。



そして第三形式において、ハイデッガーは一つの反転の論理を展開します。「なんとなく退屈だ」と感じる私たちは、あらゆる可能性を拒絶されている。すべてがどうでもよくなっているのだから。だが、むしろあらゆる可能性を拒絶されているが故に、自らが有する可能性に目を向けるよう仕向けられている、とハイデッガーは言うわけです。



ハイデッガーの思考に即して自由について考えれば次のように整理できるでしょう。




退屈の第一形式・・・不自由


退屈の第二形式・・・不自由


退屈の第三形式・・・自由の可能性がある






○國分功一郎の退屈論




対して、國分さんの思考はどうか。國分さんはまず第三形式において、人間が決断を強制されることを確認した上で、ハイデッガーの思考の問題点を次のように端的に指摘します。引用します。




決断した者は決断によって「なんとなく退屈だ」の声から逃げることができた。だから彼はいま快適である、やることは決まっていて、ただひたすらそれを実行すればいい。


さて、ここで第一形式のことを思い出そう。第一形式において人間は日常の仕事の奴隷になっていた。なぜわざわざ奴隷になっていたのかと言えば、その方が快適だからだ。「なんとなく退屈だ」という声を聴かなくてすむからだ。


そうすると思いがけない関係がここに現れる。そう、第三形式の退屈を経て決断した人間と、第一形式の退屈のなかにある人間はそっくりなのだ。彼らは何かに絶対的に従うことで、「なんとなく退屈だ」の声から逃れることができているのだから。




國分さんが着目したのが第三形式において決断を下した後の人間についてです。ハイデッガーに即して考えれば、決断を下した人間は何にも束縛されない自由を獲得した人間となります。ニュアンスとしては、他の人間とは違う、人間中の人間という感じで、覚醒したというか、何かを悟った仙人のようなものと言えるでしょう。



このハイデッガーの考え方を國分さんは批判します。我々は例え決断を下したとしても以前と変わらない日常を生きるのだと。決断を下したからと言って、「なんとなく退屈だ」の声から逃れることはできない、日常の煩わしい問題を免除される訳でもない。にもかかわらず、ハイデッガーはこのように決断を下すことを何か一大事のように位置づけて、人間に決断を下すことを強要するのです。対して、國分さんはハイデッガーと異なり、第二形式の特殊性を主張します。引用します。




ハイデッガーが述べていた通り、あの第二形式には「現存在〔人間〕のより大きな均整と安定」がある。それは「正気であることの一種」であった。


付和雷同、周囲に話を合わせること  ハイデッガーは極めて否定的に第二形式の退屈のなかにある人間の有り様を描いていた。だが、第三形式=第一形式に比べるならば、人間の生はそこでは穏やかである。何しろ第三形式=第一形式において人間は奴隷なのだから。


第二形式において何かが心の底から楽しい訳ではない。たしかにぼんやりと退屈してはいる。だが、楽しいこともある。そこにもハイデッガーの言う「自己喪失」はあるかもしれない。だが大切なのは、第二形式では自分に向き合う余裕があるということだ。


ならばこうは言えないか? この第二形式こそは、退屈と切り離せない生を生きる人間の姿そのものである、と。




このように國分さんはハイデッガーが第三形式に自由の可能性を見出したのに対して、第二形式に自由の可能性を見い出します。國分功一郎の思考に即して自由について考えれば次のように整理できるでしょう。




退屈の第一形式・・・不自由


退屈の第二形式・・・自由の可能性がある


退屈の第三形式・・・不自由





○ 退屈論と『ひっ』




さて、國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』における議論を簡単に紹介しましたが、これだけでも大きなヒントを得ましたね。それでは『ひっ』に話を戻しましょう。



『ひっ』における「なんとなく生きる」と「テキトーに生きる」と「真面目に生きる」は、ハイデッガーの退屈論において、それぞれどう対応するでしょうか。まず「生きる」上で「退屈」は避けられない密接な問題ですから、その違いについては敏感になることなく、そのまま置き換えてしまってよいでしょう。




退屈の第一形式 ⇔ 真面目に生きる


退屈の第二形式 ⇔ テキトーに生きる


退屈の第三形式 ⇔ なんとなく生きる




次に、それぞれの意味付けですが、退屈の第三形式「なんとなく退屈(生きる)」を重要視したハイデッガーに対して、國分さんは退屈の第二形式を重要視しました。戌井さんはどうかと言えば、國分さんのように明確に論じていませんが、「なんとなく生きる」ではダメで、「テキトーに生きる」を重要視しています。なので戌井さんと國分さんを繋いで各形式の性質を整理すると次のようになります。




退屈の第一形式 ⇔ 真面目に生きる(不自由、奴隷)


退屈の第二形式 ⇔ テキトーに生きる(自由の可能性がある)


退屈の第三形式 ⇔ なんとなく生きる(自堕落、奴隷)





○ハイデッガーの退屈論の問題点




このように整理してみるとハイデッガーが退屈の第三形式に可能性を見出したことはかなり危険なことだと分かります。『ひっ』において自堕落と捉えられた「なんとなく生きる(退屈)」に可能性を見出すということは、九割九分終っているというか、一縷の望み、火事場のクソ力に賭けるということなので、積極的に求めるものではありません。どうしようもない状況で自らがやるというならまだしも、他人に強要するような方向で利用されると危険極まりない。



また第三形式において決断を下すこと、覚醒すること、何かを悟ることについて、國分さんが肯定しなかったのと同様に、戌井さんも積極的に肯定しようとはしません。



例えば戌井さんは『ひっ』のなかでいくつかのエピソードを語ります。実体験に基づいているのか否かは分かりませんが読んでいて実感が沸く、非常に優れたものです。そのなかに、登山の話とインド・ネパールを旅した話が出てきます。ま、有りがちというか、いかにも「あの時の経験があるから今の自分がいるのだ」とか、「あれで人生が変わった」とか言いそうなエピソードなのですが、それを戌井さんは実感を込めて綴りつつ、「何にも変わらなかった」とさらっと書いて無化してしまうのです。




○結果の良し悪しが問題なのではない




あと一点指摘しておきます。「なんとなく生きて」うまくいく場合もあれば、うまくいかない場合もあります。また「テキトーに生きて」うまくいく場合もあれば、うまくいかない場合もあります。しかし、作中のおれはそのような点を考えるまでもなく、「なんとなく生きて」いて明らかにうまくいっていません。だから「なんとなく生きる」=「自堕落」とすぐに結びつきますが、これが安易だとかそういう批判は不要だと思います。なぜなら「なんとなく生きる」と「テキトーに生きる」の違いとは、結果がうまくいくか否かを判断の基準にしているのではなく、もっと別の理由によるからです。それは何か? 國分さんが『暇と退屈の倫理学』の最後でこのように述べています。




何かおかしいと感じさせるもの、こういうことがあってはいけないと感じさせるもの、そうしたものに人は時折出会う。(中略)何かおかしいと感じさせるものを受け取り、それについて思考し続けることができるかもしれない。そして、そのおかしなことを変えていこうと思うことができるかもしれない。




今回取り上げなかったキーワードを外して引用したので、なんだか抽象的な書き方になってしまいましたが具体的に考えると分かりやすい。例えば、原発問題がそうでしょう。昨年の事故で避難余儀なくされたり、損害を被った人でなければ、この問題はすぐに忘れ去ってしまうことでしょう。利害関係損得勘定で考える人が大半でしょうが、それで良いのでしょうか? この問題は「自由とは何か」という問いと深く関わっていると思います。今回はこれ以上突っ込んで書きませんが。




○『ひっ』を読んだ第一印象を再考




最後にもう1点補足します。冒頭で『ひっ』を読んだときの意外な第一印象として、「あれ? これ、うまく書けてない。僕からみたらテキトー極まりない戌井さんが全然テキトーに書けてない!」と書いて、これを「真面目に書きすぎている」→「真面目に生きる」→「不自由」というように論を展開しましたが、これは間違えだったかもしれません。



確かに、今でも「真面目に生きる」ことを僕は肯定しません。不自由だと思っています。何かに縛られているというか、例え「根っからの真面目」ということであったとしても肯定はしません。しかし、『ひっ』がいつもの戌井さんと違って真面目に感じられたことについては考え直そうと思います。



『ひっ』において主人公(おれ)は「なんとなく生きている」のであって、ひっさんのように「テキトーに生きる」ことはできていません。また作中に出てくるひっさんは、ひっさん自身ではなく、あくまでもおれが見たひっさんに過ぎません。また「テキトーに生きるとは何か?」は最後まで分かりません。しかし分からなくとも、ひっさんや気球さんを見つめながら、おれは「テキトーに生きよう」とします。なんせ「テキトー」ですから、ここで必死という言葉が相応しいかどうかは分かりませんが(おそらく不適切なのですが)、ニュアンス的には、おれは必死に「テキトーに生きよう」としています。だから「真面目=不自由」、何かに縛られているというのではなく、力がコントロールしきれず過剰になってしまって、結果として真面目に感じられたのではないかと推測します。



そもそも「テキトーに生きる」というのは目的化すべきものではなく、あくまでも日常と向き合って生きることであり、習慣的に身につけてゆくのです。また「テキトーに生きている」人が悟りを開くように語るというのもおかしい。だから、『ひっ』のように「テキトーに生きよう」とするおれを見ながら、読者も少しずつ「テキトーに生きる」ようになってゆくというのが道理にかなっていると言えるでしょう。『ひっ』を読めば、少なくとも結果がどうだこうだと気にすることはもうありません。



まだまだ話したりませんが、今回はこの辺でお開きとしましょう。自分で言うのも何ですが、充実した話ができたと思います。小説って本当にいいもんですね。ご清読ありがとうございました。





求ム! 《トークイベント》戌井昭人(表現者)× 國分功一郎(哲学者)開催




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【参考文献】

戌井昭人『ひっ』(新潮社)

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社)→(太田出版)






《追記》 幸せな結末




この原稿を書きながら『なんとなく なんとなく』ではなく、『幸せな結末』もいい曲だなと思うようになったのでした。はっぴいえんど つながりで...



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 日記Z2018年11月


















 阪根Jr.タイガース







 阪根タイガース



2018-11-01 日記

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11月11日(日)

思考のモノサシ




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久しぶりにゴルフの朝練を再開した。半年ほどブランクがあったのだけど、そこそこ打てた。ただフェアウェイウッドだけはどうしても打てない。練習を続ければ、いずれ打てるようになるだろうと思っていたけれど、さすがに「こりゃ、ダメだ」と思って、仕方ないからティーアップして打ってみることにした。打てた。ふつうに打てた。ゴルフは下手だけど、日々《気づき》があって面白い。つづけよう。



ただ、過度に練習するのは控えようと思う。長らく運動ができなかったので、いまの自分の体の状態がよくわからない。先日受けた健康診断の結果は良かったけれど、あれは昨年、週3〜4回ジムに通い続けたからだろう。しばらく運動はゴルフの朝練とジムのレッスンと軽めのランニングに留めよう。






休みの日は、運動を済ませれば、他にやることはないし、スケジュールをあまり入れないでぼーっとして過ごそうと思っているのだけど、先日、かつて一緒に書店で働いていた同僚からメールがきた。彼女は地元の福岡に戻って、いまでも書店で働いている。




福岡に来たときは、イベントもできないし、映画や演劇も東京みたいには見られない、それを超える経験っていうのは出来ないなと思っていました。あきらめていた部分が多かったです。でもこちらにきて、漢詩とか、アイヌ語、語学書を詳しい先生に教えてもらいました。毎日、語学の勉強をしています。


多和田葉子さんに、「文字移植」って翻訳の話があります。円城塔さんも、最近「文字渦」って漢詩にからんだ本を出しました。私は普通の小説より、そんな言葉に関する本のほうが、頭に入りやすいことがわかりました。


教えてもらう先生は、政治や哲学書もひととおり読まれてるのですが、般若心経スペイン語に訳したりして遊ぶ人です。なので影響されて、読書傾向は、まるっきり変わりました。


でも、佐々木敦さんの古川日出男論、あれは素晴らしかったです!大久保潤さんの、再始動、最高のお仕事でした。




「地元に帰っても、相変わらず活発に動いているなー」って、彼女のメールを読んで元気が出たし、「久しぶりに本を読める人と話したなー」って気分になった。



ここに出てくる多和田葉子さんというのは、日本語とドイツ語で小説を書いている人で、言語感覚が非常に研ぎ澄まされている作家。いま、日本でノーベル文学賞に一番近い人だと思う。 円城塔さんも小説家だけど、もともと物理の研究者で、小説家デビューする前はプログラマーか何かをやっていたという文系と理系の垣根を越える作家。作風も文体も独特。 佐々木敦さんは、音楽から映画から小説から演劇から何から何まで、表現ジャンルを貫通した批評活動を行なっている人。僕も多大なる影響を受けた。ちなみに、メールをくれた同僚と企画した佐々木さんの連続トークイベントは、立派な本になった。うれしかった。大久保潤さんは、この本の編集者であり、バンドマン。実際のところ、何者かよくわからない.....



文字移植 (河出文庫文芸コレクション)

文字移植 (河出文庫文芸コレクション)


文字渦

文字渦



小説家の饒舌

小説家の饒舌




とにかく、面白い人がたくさんいた(笑)。そんな面白い人たちのことを思い出して、元気が出た。それもあって、先週と今週で、久しぶりに本をどっさり買った。読む時間があるかどうかは別として、読みたいなーって思った本をテキトーに買い漁った。



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さて、「どの本に喰いつくかなー」って、自分で自分を試すようにして手に取った。歴史関係の本が多いのは、ここ最近の関心事だからで、日本史に関しては戦前まで読んだから戦後は、まぁ、もういいかなって感じで喰いつかず、歴史の関心は世界史のほうに移っていて、「ヨーロッパは、なんであんなに戦争ばっかりやってきたんだ?」という経緯を探ろうと思って、ヨーロッパ史の概要から抑えようと。



ただ今回、意外にも一番喰いついたのは哲学の本だった。國分功一郎さんの『中動態の世界』






哲学書というのは、扱っているテーマが大きすぎて、いま会社で働いている自分との距離がなかなかうまく取れなくて、読みづらいのだけど、國分さんの思考は、今のぼくの関心事と非常に近い軌道を描いていた。



どちらかと言えば、前作『暇と退屈の倫理学』の方が、「働く」ということについて問うていたので、僕の関心事により近かったのだけど、その際に問われていた「自由」という概念

が、本作『中動態の世界』では「意志」についての探究へと、思考がさらに一歩も二歩も前へ進められており、非常に興味深い内容になっている。そして何よりも、



頭のいい人の文章を読むというのは、気持ちがいい。








僕にもお手本にしている人、



思考を展開する上で《モノサシ》にしている人



が何人かいる。



僕の読書経験でいえば、まず浪人時代に予備校のテキストで小林秀雄や外山滋比古らの文章の一部を読まされて、「面白い文章もあるんだなー」って知って、大学に入ってから勉強会に顔を出したり、本屋に入り浸ったりして、哲学の本に手を出して、そこで初めて浅田彰や柄谷行人や蓮實重彦らの文章と出会った。



彼らの文章は基本的に難しくて読めない。ただ当初は内容についていけなくて読めないという感じだったのだけど、読書経験を積むうちに分かってきたのは、思考のタイプが自分と違うので読めないという文章が多々あることだった。ちなみに浅田彰さんの『構造と力』と蓮實重彦さんの『表層批評宣言』は今でも読めない。



そんななか、あるとき読めるようになり、感銘を受けたのが柄谷行人さんだった。



差異としての場所 (講談社学術文庫)

差異としての場所 (講談社学術文庫)



「こんなに分かりやすい文章があるのか!」



と思ったほどで、自分が書ける書けないは別にして、お手本として定期的に読んでいた。



拙文




柄谷行人『初期批評集成』





柄谷さん以外にも大江健三郎さん、保坂和志さん、あと建築家の難波和彦先生の文章は定期的に読んでいた(読んでいると書きたいが最近は読めていない)。さらに僕と同世代や僕よりも下の世代の哲学者や研究者が出てきたので、そちらもちょいちょい読んでいる。東浩紀さんをはじめ、宇野常寛さん、千葉雅也さん、中野剛志さん、最近では落合陽一さんかな...



そのなかでも、ぼくがもっともお手本にしており、



《思考のモノサシ》としているのが、國分功一郎さんなのだ。



僕のなかで、文系と理系の定義があって、それは、




文系・・・言葉で思考できる人


理系・・・数式で思考できる人




僕の場合は、大学は理系だけど、そもそも理系への進学の動機が、英語と国語ができないからで、しかも、いざ受験勉強を始めたら物理と数学ができなくて苦しんで、最後は公式を暗記してなんとか大学に引っ掛かったという感じだから、実際のところ理系でも文系でも何でもない。ま、大半の人が似たような感じじゃねーの。



そんななか、本当に文系、理系と言える人がわずかにいて、僕のいまの職場にも理系と言える人が数人いる。彼らと話していると面白いし、なんと言っても実際に仕事ができるよね。



そして、文系といえる人についてだけど、僕が忘れられないエピソードがあって、それは出版関係者の勉強会に出たあとの飲み会で、



第二外国語は何?」



って、しょっぱなに聞かれたことだ。



「はっ? 第一外国語もろくに話せないのに、第二外国語もくそもねーよ!」



と心のなかで叫んだし、



「いや〜、僕、理系なんで、強いて言えば、数学かなー」



なんて、答えられれば良かったのだけど、数学できないし、絶句してしまった。



それは置いといて、國分功一郎さんという人は、文系のなかの文系といえる人で、語学に長けている。世間一般で言われるTOEICで満点とかそういうレベルではなくて、英語はもちろん、フランス語の文献の翻訳も多数こなしているし、文法オタクというか、文法が好きで好きでたまらなくて、文法書をまるごと暗記しているような変人だ。



「英語で話しているときと日本語で話しているときは別人になる」



というのを英語が話せる人に聞いたことがあるけれど、それはわかる気がする。言葉の構造が違うから思考も変わってくるだろう。また英語と日本語の比較だけではなく、ヨーロッパやアフリカといった地域や言語の違いによっても思考が異なると思われるし、さらにラテン語や古典ギリシア語といった時代の違いによっても思考が異なってくると思われる。誰か、こういった観点で思考を展開してくれないかなーって思っていたら、國分さんが『中動態の世界』でやってくれた。國分さんは次のように語っている。




本書のテーマに取り組むにあたって大きなハードルが二つあった。一つはギリシア語である。哲学の観点から中動態に取り組むためにはギリシア語の知識は不可欠であった。私は覚悟を決めて、毎週、東京神田のアテネフランセに通った。古典ギリシア語の手ほどきをしてくださった島崎貴則先生の授業は、自分が忘れてしまっていた、語学を学ぶことの喜びを思い起こさせてくれるものだった。授業を受けるなかで私は何度も言語そのものについて考える機会を与えられた。そうして得られた知見は直接本文に生かされている。


もう一つはスピノザ哲学であった。中動態の概念的イメージは積極的なものでなければならなかった。「能動態でも受動態でもない」にとどまる説明に私はうんざりしていたし、実際、本文でも書いたようにそこに安住するのではかえって能動と受動の対立を強化することになってしまう。スピノザ哲学が中動態的なるものであることはすでに分かっていた。だから、そのなかで最も積極的な意味をもつ「自由」の概念を定式化することで、中動態の概念的イメージを積極的なものにできるだろうと考えたわけである。


だがこれには実に難儀した。そもそもスピノザ哲学を勉強しながら、ずっと腑に落ちずにいたのがスピノザにおける「能動」と「自由」の概念であった。中動態というテーマに取り組みながら、私は十数年来の自分の課題に正面から突き当たることになった。


手助けは思わぬところからやってきた。2015年4月から1年間、私は研究休暇でロンドンに滞在していたのだが、その間、イタリアのグラードという小さな町で行われる哲学のサマースクールを見つけて、それに参加することにした。イタリアの哲学者、ジョルジョ・アガンベンの講義を聴くためである。


「行為の批判」と題されたその講義を聴きながら、私はアガンベンの関心が自分の関心と大きく重なっていることを知って非常に驚いた。興奮した私は、自分は中動態の概念に取り組んでおり、いまそれについて本を書いていると話しかけた。するとアガンベンは自分の本のここを参照してみなさいと親切な指示を与えてくれるとともに、励ましの言葉までかけてくれた。


スピノザ哲学を中動態の観点から論ずるアガンベンの視点はスピノザについての私の理解を深めてくれるものだった。「中動態の概念についてはまだまだたくさんやるべきことがある」というアガンベンの言葉はその後、強い心の支えになった。


もう一つ、ロンドンではフランス留学時代の恩師、エティエンヌ・バリバール先生の講義を受けるつもりだったのだが、何という幸運であろうか、その講義はスピノザの『エチカ』についてのものだった。


口頭であるにもかかわらず尋常ではない長さのフレーズを扱う先生の語り口は健在であったがそれを懐かしく思い出す一方、私はバリバール先生が『エチカ』のラテン語原文をスラスラと暗唱する姿に本当にしびれてしまった。格好よかった。


これは何としてでもまねしなければならない。家に帰ると、早速私は、『エチカ』のラテン語原文をノートに写しながらキーフレーズの暗記を始めた(さほど身についてはいないのだが)。もちろん、机の前に座って先生のまねをしながら、"Veritas norma sui et falsi est"などと一人で台詞のように語るのである。


こんなことがきっかけだったのだが、ラテン語原文の暗記を続けながら私は、『エチカ』をラテン語で読むことの重要性に再度気づかされたのだった。ラテン語原文を何度も読むことで、それまでどうしてもうまく理解できなかった論点を突破することが可能になった。翻訳で読んでいたならば、ラテン語の動詞の態のことなど気づかなかっただろう。やはり、


「読めよ。さらば救われん」


こそが研究における真理である。



國分功一郎『中動態の世界』(医学書院)pp.331-333. 「あとがき」から引用. 太赤字化は拙者による.




大変な労作。心して、読み続けよう。







11月4日(日)

人間力のリハビリ




今日は本当はゴルフのラウンドに行きたかったのだけど、今日休めるかどうかが事前にわからなかったし、ゴールデンウィークから仕事が忙しくなって、以来ほとんど休んでなくて、週末のゴルフの朝練もながらくやっていなくて、先週やっと再開したというところだったのでやめた。



ゴルフでドタキャンしたら友だちを失うし.....



ラウンドはキャンセルしたけど、結果的に今日は休めることになった。そして今月は土日は休むことに決めた。会社の方針でもあるし、自分自身ちょっと休んだほうがいいという気持ちでもあるから。



今まで休んでないといっても、1日も休んでないというわけではなく、1日24時間働いているわけでもないので死にはしないけど、いろいろとバランスがおかしくなっている。仕事だけしていて、ほかのことはほとんど何もやっていない。掃除したり、洗濯したり、ご飯つくったり、運動したり、本を読んだり、人と会ったりしていないとだんだん人間っぽくなくなってくる。生ける屍というか.....



というわけで、



土日は人間力を取り戻すためのリハビリに専念。





(1) 映画




まずはDVDを鑑賞。ここ最近聴いている音楽の流れで、キャロル・キングからのアレサ・フランクリンからの



ブルース・ブラザーズ!



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よくもまあ、こんなデタラメなストーリーの作品に、あれだけのキャストが集結したものだ。



アメリカのこういうバカなところが好き!





(2) 演劇




ブルース・ブラザーズを観ていたら、なんだか演劇を観たくなったので調べてみたら、ちょうど、あっ! ケラさん!



ケラさん、紫綬褒章受賞おめでとうございます!



そう、ケラリーノ・サンドロヴィッチさんの作品が公演中だったので、当日券を求めて、



いざ下北沢!



以前2時間前に行って当日券を取り損ねたことがあったので、今回は配布の2時間30分前に劇場へ。2番目だった。チケットをゲットするまでの時間、本を読みながら、時々うとうとしながら階段に座って過ごす。久しぶりに、ぼーっとできて、いい時間だった。



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今回の作品は『修道女たち』というタイトルで、その名のとおり、女性陣がメインで構成されていて、男性陣はほとんど出演していなかった。ちょうど《ナイロン100℃》の三宅弘城さんと大倉孝二さんがブルース・ブラザーズみたいな感じで、久しぶりに観たいなって思ったのだけど、今回は出ていなかった。残念。それで、男性陣ではみのすけさんが出ていたけど、彼はブルース・ブラザーズでいえば、ナチ党役のヘンリー・ギブソンって感じかな(笑)



ま、《ナイロン100℃》は、松永玲子さんが出演してさえいれば、男性陣はどうでもいいのだけど、今回の女優陣は、みんなよかった。なんというか、犬山イヌコさんにしろ、伊勢志摩さんにしろ、語る間合いが絶妙だった。



お笑いなんかが特にそうだけど、同じ内容を語るにしても、間合いや口調によって、笑えたり笑えなかったり、心に響いたり響かなかったり、ぜんぜん変わってくるから、やっぱり俳優ってすごいなって改めて思った。



あ、それから高橋ひとみさんが舞台に出ているのを久しぶりにみたけれど、



なんで女優さんは、テレビで観るよりも舞台で観るほうが全然いいんだろう?



緒川たまきさんにしろ、鈴木杏さんにしろ、伊藤梨沙子さんにしろ....




作品について




『修道女たち』という作品は、実は修道女が出てこない! なんてことはなくて、修道女たちを取り巻く群像劇なのだけど、その修道女たちの存在がふわんとしているというか、ふわんというのは表現が悪くて言い得てないのだけど、彼女たちの実態がよくわからない。



彼女たちは、カソリックなのか? プロテスタントなのか?そもそもキリスト教徒なのか? だとしても宗派としては異端だよなー?っていうか、ここはいつのどこよ? 国王がいるようで、魔女狩りっぽいことをしているふうなので、ヨーロッパの中世かな? でも中世に列車はないしなー



???



と言っといてなんですけど、とても不思議なことに、観劇していてまったく違和感がありませんでした。舞台で演じられている世界をごく自然に受け入れていました。



なぜだ?



作品をつくる上で、2つのアプローチがあると思うのだけど、1つは史実を詳細に調べて、時代や場所や人物をほぼ特定できるような形で提示するもの。もう1つは、史実等はまったく関係なく、想像だけでつくってしまうもの。



『修道女たち』は前者でも後者でもなかった。



だからこそ、前者以上にヨーロッパの中世ってどんな感じだったっけ? また後者以上に想像力を掻き立てられて、彼女たちはアイドルグループみたいだなー、あのグループのあの子とあの子が実はできてたりしてとか、よからぬ想像を勝手にしてしまった...



申し訳ございません。悔い改めます。






観劇後、本屋に行って、世界史の本を購入。









(3) 漫画




続いて漫画も購入。



堀尾省太『ゴールデンゴールド』(1)〜(4)巻



友だちに勧められて読んだ前作『刻刻』が面白かったので買ってみたら、これも止まらなくなった。



堀尾省太さんの物語力はネ申ってる。



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 日記Z2018年10月


















 阪根Jr.タイガース







 阪根タイガース



2018-10-01 日記

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10月28日(日)



みなさん、愛してます。



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10月20日(土)

国や組織に、なぜ多様性が必要なのか




今日は休むことにした。本当は明日に予定があったので休みたかったのだけど、チームの足並みを揃えるということで、予定をキャンセルして、今日休むことにした。日頃の疲れがたまっているので朝早く起きることはできず、ゴルフの朝練はあきらめて、ゆっくりとした1日のスタート。近所の喫茶店で朝刊を読みながらモーニングを食す。リラックスしたひととき。



ああ〜 男のやすらぎ ♪



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そういえば、以前、日曜日の朝だけは新聞を読んでいた。別に投資をやっているわけではないので、新聞なんて読まなくてもなんの支障もないのだけど、日経新聞の日曜日の文化欄は内容が充実していて良かったので、日曜の朝だけは読んでいた。



ところが昨年だったか一昨年だったか? 日経新聞の日曜版がリニューアルされて、なんだか機内誌のようなスカスカの内容になってしまって、読むに値しなくなったのでやめた。



「日経も終わったな」と思ったのだけど、どうやら今までの日曜版が土曜日にスライドされていたようで、日曜日は実質的に休刊になるということだった。とはいえ、出さないわけにはいかないので、たぶん外注かなんかに書かせているのだろう。



これは、記者の負担を軽減させるホワイト化の一環だろう。新聞社の労働環境もおそらくブラックだろうから。このあたりは読者への背信行為にもなりかねないので難しい判断だけど、良い判断だと思う。ま、日曜日の朝なんて誰も新聞読まないし、読むのはせいぜいアメリカの暇なじいさん連中だけだろうから、日本でわざわざ無理して出す必要なんてないよ。これまでが頑張りすぎなんだよ!



企業のコンプラを推し進める上でいい事例だと思う。






という訳で、日曜日はやめて、土曜日の朝だけ新聞を読むようになったのだけど、今朝は浅田彰氏がいい文章を書いていた。




支持される「露悪」に抗するには現実的な「再分配の政治」を



去る8月、アレサ・フランクリンの訃報を伝えるアメリカのTVは、2015年のケネディ・センター名誉賞授賞式でアレサが受賞者キャロル・キングのつくった「ナチュラル・ウーマン」を歌い、貴賓席のオバマ大統領(当時)が思わず涙を拭うシーンを競って再放送した。


黒人解放運動の同伴者としてアンジェラ・デイヴィス(ブラック・パンサー党)の保釈金支払いを申し出る一方、男が女に敬意を求める歌「リスペクト」を女が男に敬意を求める歌に変えたフェミニストでもあったアレサ。この「ソウルの女王」が史上初の黒人大統領の前で「あなたのおかげでありのままの女と感じられる」と熱唱し、礼装の聴衆が総立ちで喝采する光景は、黒人や女性の解放運動の結果、すべてのマイノリティーの存在と権利の承認が求められるところまで来た、輝かしい勝利の証だったのかもしれない。翌年の大統領選でヒラリー・クリントンがビヨンセやJAY Zを集会に招いて再現しようとしたこの光景こそ、ドナルド・トランプとその支持者が何よりも憎むものだったのではないか。



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アメリカのN.フレイザーとドイツのA.ホネットが『再分配か承認か?』(加藤泰史監訳、法政大学出版局)で議論するように、政治経済的な所得の再分配のみならず、マイノリティーの存在と権利を認める社会文化的な承認が重要性を増している。むろん富裕層や大企業の減税を求める共和党と富裕層から貧困層への再分配を求める民主党は明確に対立するが、たとえばウォール街との距離ではいまや五十歩百歩に見えてしまう。


その分、民主党はマイノリティーの承認とその成果としての多分化主義を強調し、共和党、とくにトランプが時代遅れの醜く愚かな人種差別や女性差別を匂わせてそれと対決するという「承認の政治」の前景化が生じたのだ。そこでは明らかに民主党が進歩派、共和党が反動派なのだが、だからこそトランプが醜く愚かであればあるほど支持者たちが彼の下に集結するという困った状況になっている。


しかし、民主党側にも問題はある。オバマやクリントンが社会文化面でマイノリティーの承認を強調しながら政治経済面ではウォール街べったりに見えるとき、彼らの姿勢は「偽善」と映り、対するトランプの「露悪」が逆に多文化主義の波に乗り遅れた大衆を惹きつけてしまうのだ。この「露悪」の大波に抗するには、リベラル派は多文化主義の自画自賛を超え、現実的な「再分配の政治」を再構築する必要がある。


(批評家・浅田彰)



日経新聞2018年10月20日(土)朝刊より




浅田氏が言うように、誰が見ても大統領にふさわしくない人物が大統領でいるという現実は、熟考に値する問題だ。再分配政策が、よのなかを停滞に陥らせず、活力を生み出せるか否かは疑問だけれども、昨今のアップル、アマゾン、グーグルといった、国家の枠組みの再編を目論むソフト・インペリアリズム企業統治を野放しにしていて果たして良いものか? 進歩派か反動派かという対立ではなく、世界の動的メカニズムを形成してゆく上で、なんらかのルール作りが必要ではないかという問題も踏まえて、今後議論が必要であろう。



この記事の影響からか、昼過ぎにふらっと立ちよった本屋で、この本を買った。





《本の紹介文》



ハーバード大学客員教授として1年間、ライシャワー日本研究所に滞在した著者が、アメリカ社会を中心近くの崖っぷちから観察した記録。非日常が日常化した異様な政権下、この国の抱える深い暗部とそれに対抗する人々の動きをリアルタイムで追う。黄昏の「アメリカの世紀」の現実とその未来について考察する。






吉見俊哉先生には、以前書店員をしていた頃にお世話になった。日本がアメリカ文化から受けた影響、六本木や原宿を発祥とするトレンドがいかにして形成され、日本のカルチャーシーンに内面化していったのか、このあたりの吉見先生の分析は秀逸で、非常に勉強になった。



田仲康博×吉見俊哉トークセッション



 『今、沖縄問題で問われていること








午後は、のんびり読書。



ここ数ヶ月間の激務のためか、すっかり本が読めない体質になってしまった。例えば、まえまえから好んで読んでいた保坂和志さんや柴崎友香さんの小説も、以前のようには入り込めなくなってしまった。仕事しかしていないので、現代小説の世界との距離がうまく測れなくなってしまったのだ。ならば、「古典だ!」というわけで、ドストエフスキーや漱石を手にとってみたのだけど、読むには読めるのだけど、読むか寝るかの選択を迫られれば、寝るほうを選んでしまう。



一方、書店員時代担当してた哲学・思想の本はどうかといえば、これまた距離感がうまくつかめない。今、ぼくが現実で直面している問題と書物のなかで問うている問題との距離がひらきすぎていて、頭が働かない。こちらは迷わず寝てしまう。



そんななか、意外にも読めたのが、これまでほとんど読んでいなかった歴史本だ。よく言われることだけど、歴史上の問題はビジネスの問題と直結している。単なる知識として摂取するのではなく、歴史上の人物がどのような状況に立たされて、どのような判断を行ったのかが非常に勉強になる。歴史上の人物も大概判断ミスをしているのだけれども、過去に起こったことがことごとく、21世紀の昨今のあらゆる場面においても同様のミスとして繰り返されているという、決して笑えない問題ばかりなのだ。



昭和史-1945 (平凡社ライブラリー)

昭和史-1945 (平凡社ライブラリー)


昭和史戦後篇 (平凡社ライブラリー)

昭和史戦後篇 (平凡社ライブラリー)




今日読んでいた半藤一利氏の『昭和史』で、もっとも印象深かったのは、日本が第二次世界大戦に突入する以前、泥沼化させて足を抜け出せなくなった日中戦争、そしてノモンハンの悲劇のくだりだ。



戦争は意志の強い方が勝つ?(※ ?は拙者加筆)



昭和14年(1939)に入ると、国家総動員法も強化され、英米としばしば衝突する時代がやってきます。一方、ヨーロッパでは、ヒトラーが新秩序をつくるという大方針のもと、東にあるチェコスロバキア、ポーランドなどいわゆる東欧諸国へと勢力を広げつつありました。こういう世界変動の急速にして激しい状況下で起きたのが、ノモンハン事件です。昭和14年5月中旬から8月末、満州西北部のノモンハンを中心とする広大なホロンバイル草原で、関東軍プラス満州国軍と、極東ソ連軍プラス蒙古(モンゴル)軍とが大激戦をやったのです。


(中略)


戦闘は日増しに大きくなっていきました。陸軍中央が止めるのも聞かずに関東軍は勝手に突っ込んで行きます。ソ連は戦車や大口径砲をつぎ込む。凄惨な戦いとなりました。結果的には日本側は58,925人が出動して戦死7,720人、戦傷8,664人、その他を含め計19,768人と、33%つまり1/3が死傷しました。ふつう軍隊は30%やられれば潰滅という感じです。それほどの大損害を受けたのです。ソ連軍も蒙古軍も含めるとたいへんな死傷者を出していて、24,992人といいますから日本よりも多いんです。それで近頃、うわついた評論家など「ノモンハンは日本が勝ったのだ」と言う人が少なくありません。そりゃ死傷者数だけみれば、日本の兵隊さんが本気になってよくぞ戦ったというところもありますが、結果として国境線は相手の言う通りになったのです。ハルハ川ではなくノモンハンまで出っぱったところ、ホロンバイル草原までが全部モンゴルの領土になったのですから、日本軍が勝ったなどとても言えません。ジューコフの指揮のもと、最新鋭の戦車、重砲、飛行機を次々に投入してくるソ連軍に対して、日本軍は剣銃と肉体をもって白兵攻撃でこれに応戦したわけで、まことに惨憺たる結果となりました。


(中略)


この戦いを指揮した関東軍の作戦参謀が、服部卓四郎中佐と辻政信少佐でした。服部曰く、


「失敗の根本原因は、中央と現地部隊との意見の不一致にあると思う。両者それぞれの立場に立って判断したものであり、いずれにも理由は存在する。要は意志不統一のままずるずると拡大につながった点に最大の誤謬がある」


また、辻は、


「戦争は指導者相互の意志と意志との戦いである。もう少し日本が頑張っていれば、おそらくソ連軍側から停戦の申し入れがあったであろう。とにかく戦争というものは、意志の強い方が勝つ」


二人とものほほんとしたことを言っていますが、そこからは責任のセの字も読み取れません。まことにひどい話です。


戦争が終わってから「ノモンハン事件研究委員会」が設置され、軍による反省が行われました。


「戦闘の実相は、わが軍の必勝の信念および旺盛なる攻撃精神と、ソ連軍の優勢なる飛行機、戦車、砲兵、機械化された各機関、補給の潤沢との白熱的衝突である。国軍伝統の精神威力を発揮せしめ、ソ連軍もまた近代火力戦の効果を発揮せり」


いいですか、こちら側は必勝の信念および旺盛なる攻撃精神でありまして、向こう側は戦車、砲兵、機械化された各機関、十分に潤沢な補給、それが白熱的に衝突したものである、というのが結論で、従って、


「ノモンハン事件の最大の教訓は、国軍伝統の精神威力をますます拡充するとともに、低水準にある火力戦能力を速やかに向上せしむるにあり」


要するに、これからますます精神力を鍛える必要がある、ついてはもう一つ水準の低い火力戦の能力を向上させたほうがいいことがわかった、というわけです。


火力戦の能力向上については、これが勝利の戦いであったなら付け加えなかったでしょうね、言い訳めくから。


昭和14年8月にこの戦いが終わって2年半がたたないうちに、太平洋戦争がはじまります。低水準の火力戦能力がわずか2年半で向上するはずはありません。ノモンハン事件の本当の教訓がまったくかえりみられなかったと言っていいと思います。その影響はどこにもなかったのか。たった一つあるとすれば、服部卓四郎と辻政信の心の内にありました。


「これからは北に手を出すな。今度は南だ」


二人はそう確信したのです。そうとしか考えられない。


事件後、軍司令官や師団長は軍を去りますが、参謀たちは少し左遷されただけで罪は問われませんでした。服部卓四郎は昭和15年10月には参謀本部に戻って作戦班長に、翌16年7月には作戦課長となります。また辻政信は昭和16年7月に作戦課に戻り、戦力班長になります。つまりノモンハン事件で膨大な被害を被らせたはずの二人が再び参謀本部の作戦課に戻って「今度は南だ」と南進政策    これはイギリス、アメリカとの正面衝突を意味します    を、「こんどこそ大丈夫」と言わんばかりに推進したのです。なお、参謀にはお咎めなし、というのは陸軍の伝統でもありました。


後の話になりますが、ご存じのように、太平洋戦争では日本は見る影もなく撃ち破られるのです。昭和19年(1944)7月にサイパン島が陥落し、もはや太平洋戦争に勝利はないと確定した時、作戦課長であった服部卓四郎はこう言ったといいます。


「サイパンの戦闘でわが陸軍の装備の悪いことがほんとうによくわかったが、今からとりかかってももう間に合わない」


何たることか、ノモンハンの時にすでにわかっていたではないか、と言いたくなるのですが、いずれにしろ日本陸軍はこれだけの多くの人をホロンバイルの草原で犠牲にしながら何も学びませんでした。昭和史の流れのなかで、ノモンハン事件そのものは転換点的な、大きな何かがあるわけではないのですが、ただこの結果をもう少し本気になって考え反省していれば、対米英戦争という敗けるに決まっている、と後世のわれわれが批評するようなアホな戦争に突入するようなことはなかったんじゃないでしょうか。でも残念ながら、日本人は歴史に何も学ばなかった。いや、今も学ぼうとはしていない。



半藤一利『昭和史 1926-1945』(平凡社ライブラリー)pp.230-239. 部分的に省略して引用




国家総動員法を可決し、軍部、新聞メディアがこぞって戦争を煽り、国民を鼓舞する。この国は、のちにバブル経済の崩壊という過ちを繰り返し演じてみせるのだが、この歴史上の事実は、全体主義化させてしまった国や組織の欠陥を浮き彫りにしている。全体主義は、一つの目的を短期間で達成させるためには有効かもしれないが、盲目的で変化に弱く、苦境に立たされたとき、あるいは逆に好況に立ったときに歯止めがかけられない。明らかな敗北、失敗が事前にわかっていても止められない。



国や組織に多様性が求められる所以である。


















 日記Z2018年9月


















 阪根Jr.タイガース







 阪根タイガース



2018-09-01 日記

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9月24日(月)

アゲアゲのはずが....




会社の掃除はしているのに、自分の家の掃除をしていないというのはおかしな話だとは思う。



しかし、そもそもほとんど家にいないし、最近は会社に泊まって明け方まで検証作業を続けるというようになってきて、朝、家に帰って仮眠をとって、昼にまた会社に出るというような生活をするようになると、いよいよどちらが自分の家なのかわからなくなってくる。



夜を明かしての作業と言えば、マンガ喫茶に通いつめて「ジョジョの奇妙な冒険」や「SLAM DUNK」を読みふけっていた若かれしころが思い起こされる。自らをかえりみず、健康を案ずることもなく、興味の赴くままに、ただただ生きていた。



あの頃、じぶんをあれほど熱中させて突き動かしていたものとはいったい何だったのか? 当時はむさぼるように読んでいた本やマンガも、今はほとんど読まなくなった。実際、当時読んでたマンガの内容も、今はほとんど覚えていない。



ナチスの科学は世界一!!!



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覚えていると言えば、このフレーズくらいだ。



はて、何の話だったっけ....?



ま、どうでもよい。



受験勉強知識整備と異なり、読書というのは、忘れるために書を読むのだから、それでよい。






さてさて、何の話をしてたっけ?



そうそう、そうじ!



自分の部屋の掃除を済ませて、今度は自分のカラダのお掃除。余分な脂肪を落とすためにジムへ。






ハレルヤ

ハレルヤ



最近読んだ保坂和志さんの小説のなかにジャニス・ジョプリンとならんでキャロル・キングが出てきて、これがなかなか良い。



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Janis Joplin




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Carole King




ジャニスとは対照的に、「えっ、こんな歌い方あるの?」と思うくらい静かに歌うキャロル・キングに衝撃を受けたことが、この小説には書かれていて、彼女のライブ・コンサートの会場には、編み物をしながら歌を聴いている少女がいたのだという。



その女の子のことが僕も忘れられなくなって、じゃ、僕は「ランニングをしながらキャロル・キングを聴く男の子」を演じてみようと思い、彼女を聴きながら走り始めた。



そう言えば、最近はライブのステージで走っているアーティストをよく見かけるけれど、走っているといえば、一番に思い浮かぶのは、デヴィット・バーンだろうか。



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Talking Heads




やっぱり、この頃のアメリカが一番好き!



パワーが違うよね!アーティストの独創性もさることながら、正気と狂気が入り混じっていて、「なんじゃ、こりゃ?」という感じで、



“純粋”に楽しい!



そのデヴィット・バーンよろしく、キャロル・キングを聴きながら軽快に走ろうと思ったのだけど、とてもじゃないけど無理だった。呼吸は乱れるし、心臓はバクバクするし、



絶対無理!!






という訳で、キャロル・キングは早々にあきらめて、いつもフィットネスクラブのレッスンで流れているダンス・ミュージッックにスイッチ!



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↑↑↑↑↑↑




テンション上がる〜!!!




が、しっかし、、、




いつもなら1時間軽く走りきれるのに、きょうは30分で失速。その後は無理をせずにウォーキングに切り替えて、最後はプールで軽く泳いで終了。



平日はまったくジムに行けてないし、土日のゴルフの朝練もできていないから、ある程度は予想していたものの、想像以上に体力が落ちている。



ちょっと考えないとダメかもなー








9月9日(日)

プロ野球がつまらない




最近のプロ野球がつまらない。



殊に贔屓のタイガースに至っては超がつくほどつまらない。




僕がタイガースを応援するようになったのは東京に出てきてからで、ま、言うなれば、にわか阪神ファンであって、生粋の阪神ファンではないけれど、僕が阪神を応援しだしたのは、ちょうど野村克也さんが監督になった頃だった。



野村ノート (小学館文庫)

野村ノート (小学館文庫)



野村監督はタイガースにフィットしなくて、毎年前半はなんとか健闘するけど、8月頃から失速してグダグダになるというのを繰り返して終わったけれど、それでも毎年、



「あっ、配球の意識が変わった」


「あっ、走塁の意識が変わった」



という《気づき》があった。



最後は野村監督のぼやき、負の面がチームを支配するようになってきて、今岡選手が腐りだしたころから、「これはもう辞めたほうがいいな」と思って、実際にサッチーのスキャンダルかなんかで早々に辞めてしまったけれど、その後の星野タイガースの躍進の礎を築いたのは確かに野村監督だった。






星野仙一監督時代のタイガースは選手の躍動感が観ていても伝わってきたし、実際に強かった。カープになんか負ける気がしなかったし、実際に負けなかった。あの時はすべてがうまくいっていて、出来過ぎだったけど、その後の岡田彰布監督時代も良かった。特に、あの試合は絶対に忘れない。




《9.7 ナゴヤドーム》


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今みても鳥肌が立つ。




当時の中日ドラゴンズというのは落合博満さんが監督をしていて、本当にいやらしいチームで、どれだけゲーム差をつけても優勝できる気がしなかった。何かやってくるんじゃないかと、常に相手チームを不安に陥れてきた。



コーチング―言葉と信念の魔術

コーチング―言葉と信念の魔術

それが、この映像を見てもわかるけど、その中日の、あの落合博満監督の目を見たらわかるけど、あれは本当に負けを認めてる。この1試合の負けではなく、この長いシーズンの負けを本心で認めている。それくらい凄い試合をタイガースの選手、コーチ、監督は、一丸となってやってのけたのだ。



しかし、残念ながら、これがピークだった。その後、これ以上の試合を観ることはできず、タイガースの試合を観て面白いと思ったことは、正直一度もない。








僕が仕事でもなく、自らプレーすることもない野球をなぜ観に行くかと言えば、それは勝ち負けは確かにあるけれど、それ以上に選手の成長する姿を観たり、「ああ、いい守備だな」「ああ、いい配球だな」という監督、コーチ、選手、スコアラーなどのスタッフの力、努力が噛み合っているという姿を観て、学ぶためだ。



例えば、先日、甲子園球場で開催された全国高校野球大会。大阪桐蔭高校の藤原恭大選手のバッティングを観ただろうか。



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あんな高校生、今までに観たことないよ。あんなハイレベルなスイングができる選手なんて、プロでも数えるほどしかいない。浦和学院の好投手・渡邉勇太朗投手の内角の難しい球。確かに球が走ってなくてやや高いけど、あのボールをフェアゾーンに完璧に打ち返す技術を持ってる選手なんて、プロでもいないよ。



こういう選手を観たら、「彼はどういった練習をしているのだろう。どのような姿勢で野球に取り組んでいるのだろう」「大阪桐蔭高校の西谷浩一監督は選手に対して、どのような指導をしているだろう」と当然興味が湧くし、実際に調べるし、彼らがやっていることは、まったく違う仕事をしている僕にも役立つ。



《NumberWeb》氏原英明



一度チームワークを捨て、その後に。大阪桐蔭を支える個と団結力の哲学。








今のタイガースにも実は楽しみな選手がたくさんいる。



中谷将大選手

高山俊選手

陽川尚将選手

大山悠輔選手

江越大賀選手

植田海選手

板山祐太郎選手,etc.



特に中谷選手の昨シーズンの打球の上がり方を観たら、これはもうホームランバッターの素質を開花させたというレベルに到達していたし、今年はシーズンを通してスタメンで成績を残していなければならない。また高山選手は入団当時のレベルからして、一軍の試合をさぼって、今頃二軍にいるような選手ではない。投手で言えば、やっぱり



藤浪晋太郎投手の復活



は必須。



これだけの選手がいながら、自ら誰も伸びてこないし、誰もよう育てない。



みんな、なにやっとんねん???



試合観てても、相手チームのデータを緻密に分析している様子もないし、ポカが多いし、戦術もないし、勝利を目指すというチームの営みがまったく感じられない。



今のタイガースは、ベテランの福留孝介選手のセンスだけでなんとか成り立っているようなもので、こんなチームの試合を何千円も出して、わざわざ観に行くやつなんておらんよ。



今日の試合だって、球場が一番盛り上がったのは、阪神園芸さんが、手際のいい仕事で、精魂込めてつくりあげたグランドを観た時やもん。みんな拍手やったもん。誰も選手になんか期待してへんもん。



それでも何万人もの人がなぜ観に来てるかって?



ふつうイベントで5ケタの人を集めようと思ったら、ホンマ大変やからなー。あれは野球人気の恩恵以外のなにものでもないですわ。



あるいは、ぶっちゃけ、みんな野球を観に行ってるんじゃなくて、お酒を飲みに行ってるねん。今の甲子園はチャージ料の高い居酒屋みたいなもんやわ。それで興行が成立するならええやんっていう考えもあるけど、酒飲むんやったら駅前の居酒屋で十分やし、最近では日高屋でも王将でも酒飲めるし、吉野家だって飲めるから、高コストの野球場なんて分が悪すぎる。客がこなくなるのも時間の問題やわ。ホンマに。






本当は、プロ野球の愚痴はほどほどにして、昨日観に行った演劇の話をしたかった。その演劇がすごく丁寧に作られていて感心したから、「こういうものづくりをみたいんや」「こういうものづくりなら学べるところがたくさんあるんや」っていう話をしようと思ったのだけど、もうお腹いっぱいやな。



タイガース、ほんまに頑張ってくれ!!



















 日記Z2018年8月


















 阪根Jr.タイガース







 阪根タイガース



2018-08-01 日記

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8月18日(土)

公園へ行かないか?火曜日に




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ベンチャー企業にはゴールデンウィークお盆もないとはよく言ったもので、実際に僕の視界にあるのは単なるふつうのウィークで、お盆はオフィスにあるけれど、ポットの横に置いてあるただのアレで、ま、要するにどこにも行けないから、ここぞとばかりに最近はやりのVRなんて代物を使うまでもなく、会社帰りの電車のなかで、淡々と小説を読んだ。柴崎友香さんの『公園へ行かないか? 火曜日に』。



この小説は柴崎さんがアメリカのアイオワ大学でのインターナショナルライティングプログラム(IWP)に参加した時の滞在記で、IWPというとなんだかプロレス団体みたいで強そうなイメージだけど逆で、草食系というか、世界各国から作家(小説家、詩人、脚本家、劇作家)が三十数人集まって十週間過ごすというものらしい。



「アイオワってどこにあるの?」



「アメリカの中西部と言われてもピンとこんわ!」



日本人が知ってるアメリカは西海岸と東海岸だけやし、中西部なんて知らんし、唯一わかるのは、アイオワっていうのは映画『フィールド・オブ・ドリームズ』の舞台となったところだってことで、



「そうか! 要するに、とうもろこし畑ばっかりの田舎町やな!」




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ちなみに僕は、カレッジフットボールが好きなのだけど、もちろん知っている。



アイオワ大学ホークアイ



強豪がひしめく「BIG10」リーグに所属していて、1部にいるから強豪と言えば強豪で、昨シーズンはランキング上位校のオハイオ州立大学に勝つという番狂わせも演じてみせた。NFLのスティーラーズみたい。



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アイオワ大学ホークアイズ



カッコいい!








それともうひとつ繋がったのは、最近読んでた『ガープの世界』を書いた



ジョン・アーヴィング



彼が創作を学び、自らも教えていたのがアイオワ大学で、日本人には馴染みのない大学だけど、ここは作家にとって聖地のような場所なのだ。



それにつけても、『ガープの世界』というのは変な小説だ。



冒頭からガープの母親であるところのジェニー・フィールズエピソードばかりが延々と続き、主人公のガープがなかなか出てこないので、これはもしやして、



『トリストラム・シャンディ』の悪夢ふたたびか!



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トリストラム・シャンディ




という嫌な予感がよぎったのだが、そこまで酷いことはなく、ほどなくして主人公のガープが無事に出てきた。



無事に?



なんというか、特に序盤がよくわからないというか、この小説はシリアスなのか、コメディーなのか、どっちに転ぶんだ? という感じでかなり警戒して読み進めていた。



ガープの父親は瀕死の状態の帰還兵だ。



アメリカで帰還兵というといい話をきかない。



ヴェトナム戦争は特に。



ガープの父親はそれよりも前の時代で、彼が従事していたのは太平洋戦争、第二次世界大戦だけど、帰還兵というのは英雄というイメージとは程遠く、体も精神もやられていていい感じがしない。また彼が負傷したのはフランス上空ということだったが、作中に直接的な記述はあまりないのだけど、ジャップといった差別用語も出てきて、太平洋戦争をアメリカ側から見た複雑な感情が暗に感じられ、こちら側からすれば、警戒して読まざるを得なかった。



とは言え、読み進めてゆくうちに少し見方が変わってきて、「この小説はガープという少年がいろいろなことを経験しながら成長していく、その姿や、ガープの視点からとらえた世界を描くというものだな」と分かりだして、



「ああ、これは『フォレスト・ガンプ』のような話だな」



と思えるようになってからは、少し気楽に読めるようになった。



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フォレスト・ガンプ




それでインターネットでググって調べてみたら、どうやら逆で、『フォレスト・ガンプ』の方が『ガープの世界』をお手本にして書かれたようだ。また、もう少し調べてみると『ガープの世界』もすでに映画化されているようで、主演がなんとロビン・ウィリアムズ。僕が大好きな俳優のひとりなので、これは見ないわけにはいかない。ということで小説は途中で打ち切って、DVDで。



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ガープの世界




う〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん



正直、これはどうかなー?



なんだかなー、なんだかなー



っていうお話だ。



『フォレスト・ガンプ』は観を終わったときに幸せな感じがしたけれど、『ガープの世界』は、「えーーー???」って感じで、幸せとは程遠い。これって、どちらかと言えば、



コーエン兄弟の作品



なんかに近い読後感じゃないか。



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ファーゴ




でも、コーエン兄弟の作品は、構造がもっと緻密に描かれている。例えば、映画評論家の大場正明さんが言うように、



ユダヤ文学でいうシュレミール(schlemiel)やシュリマゼル(schlemazel)



に通じる人物、なにをやっても裏目に出るドジな人物や災いばかりが降りかかるどうにもついてない人物が出てきたり、絶対悪の存在や、運命論に支配された世界、神話っぽいというのかな? 構造がしっかりとしている。



対して、アーヴィングの作品は、コーエン兄弟ほど構造的ではない。ただ、彼の世界を捉える眼は確かで、社会情勢や、家系の因縁、人間の欲や性といった要素から世界の本質を描くという独自性があり、そこには物語の力が沸々と感じられる。







物語の復権



最近、アメリカの作家が再び構造を明確に描くようになったという感がある。



例えば、大ヒットした作品、



『ラ・ラ・ランド』



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ラ・ラ・ランド




有名になったオープニングのシーンだけど、これって完全にプッサンだよね。




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プッサン




僕らが創作をやっていた頃というのは、プッサンを参照するということはなかった。確かにメトロポリタンミュージアムでプッサンを観て、



「歴史画も悪くない」



とか思ったけれど、友達のあいだで話題にするといえば、



ピカソやマチス以後の作品



影響を受けたのもいわゆるモダン・アートやコンテンポラリー・アートと言われる作品群だよね。



『ラ・ラ・ランド』の監督のデイミアン・チャゼルはハーバード出身だし、コーエン兄弟も高学歴で教養もあるから、デヴィッド・リンチのようなわけのわからん作品も作ろうと思えば作れると思うけど、そういう描き方をしないよね。



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マルホランド・ドライブ







あ、そうそう、柴崎さんの小説のなかで、ハンバーガーのくだりが好き。




と、言いつつも、並ぶのが嫌いだから東京のシェイクシャックには行っていなかったので、食べてみたい気持ちはあった。


シェイクシャックの前まで行ってみると、アリスが店の前に出てきていた。超満員の店内では隅のカウンターに二人分、ハオが席を確保してくれているらしい。アリスは、並んでいる間に空くといいんだけどね、と話しつつ、わたしやガリートの注文を聞いて、ウラディミルとレジに並んでくれた。行列の横から中に入ると、木製のテーブルに緑色の表示板で、ファストフードのプラスチック感とは一線を画しています、とアピールするようなシンプルな内装だった。たしかテーブルの木はボウリングレーンを再利用して作ったものだ。つまり、物語。ホルモン剤を使用しないアンガスビーフ100%、オリジナルのレモネード、トレーの印刷に使ったのはソイインク、ミネラルウォーターの売り上げの1%は自然保護に寄付、椅子もビールもブルックリンで作られ、その物語に、わたしたちは並び、マクドナルドの3倍の金額を払う。


(中略)


四人用のテーブルに、荷物の多い五人で詰めて座った。シェイクシャックのハンバーガーは、おいしかったが、行列して、日本円で約700円だと考えると、そこまで感動するような味ではなかった。わたしはもともと味覚がジャンク寄りなので、カリフォルニアに行ったときに誰もが勧めたイン・アンド・アウトも、他のハンバーガーチェーンとそんなに違うとは思えなかった。それよりも、カールスJr.やウェンディーズのほうが自分にとってのアメリカのイメージだし、好きだった。それか、24時間パンケーキが食べられるIHOPとか(中略)International House Of Pancakesの略称という馬鹿げた名前も素敵だ。





ウィットの効いた文章で、ここらへんを読んでるときにクスッと笑ってしまったのだが、ここで触れられている



「イン・アンド・アウト(In-N-Out)」



この店には、僕も思い入れがあって、



「ああ、ここって、アメリカですごく評価されそうな店だな」



って思った。



なんでかというと、確かにIn-N-Outも所詮ジャンクフードのハンバーガーだから、マクドナルドと大して味が違うとは思わないのだけど、構造というか、構成がしっかりしているんだよね。



バンズ、パティ、チーズ、レタスが、くっきりしている。



対して、マクドナルドは、全体的になんか曖昧な感じ。



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In-N-Out



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マクドナルド









なんて、ことを柴崎さんの小説を読みながら考えていた。そして、あともう1つ。作家の藤野可織さんが、この小説の書評を書いていたので読んだのだけど、「えっ!、そう?」と意外な感じがした。




藤野可織



特別な時間から新しい特別な時間へ




このなかのここ!




なかでももっとも読む者を激しく揺さぶるのは、この作家の、知りたい、理解したい、感じ取りたいという切実な欲望である。作家を行動させ、考え続けることを強いるその欲望は、知ること、理解すること、感じ取ることができる範疇をやすやすと突き破る。決して知ることができない、理解することができない、感じ取ることができないということそれ自体を、この作家は知り、理解し、感じ取ろうとしている。





「えっ!、そう?」



確かに、藤野さんの言う通りと言えばその通りなのだけど、この小説を読んでいても、それほど強い欲望を感じることはなく、どちらかと言えば、わきあいあいというか、すごくゆるい感じがした。日本にいるのと何にも変わらないとさえ感じた。



ふつうアメリカの大学と言えば、スケジュールがびっしりと組まれていて、留学から帰ってきた人は必ず「人生で一番勉強した」と言うし、「学校の敷地から出たことがなかった」という人もいるくらい。特にアメリカの大学院は厳しくて、日本の詰め込み教育なんて比じゃないくらい大変だと聞く。



ところが、柴崎さんが参加したインターナショナル・ライティング・プログラム(IWP)というのは、そもそも学生向けのコースではなく、大学がプロの作家を招待するワークショップだから、参加者を縛りつけるようなことはさすがにないし、すごく楽しそうな集いという感じで、あくせくした感じがほとんど見うけられなかった。



いつもの柴崎さんの小説となんら変わらない



柴崎さんの小説に出てくる子は、いつも何を考えているのかよくわからない。ふわふわとしていて曖昧な感じで、この小説の主人公も自らの意思でどうするという感じではなく、友だちが公園に行こうって誘ってくれたから行こうかなー、って感じの子だった。



しかし、ただ1つ違うなって感じられたのは、



トランプへの嫌悪感



を、この小説に出てくる子は、はっきりとくっきりと現していたということだった。



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8月7日(火)

勝利のビール




メンバーとサポートしてくれたスタッフたちで祝勝会。



面と向かってはなかなか言えない感謝の気持ちを伝えられてよかった。



ベンチャー企業だから、色々な出自の人がいる。おのおの仕事のスタイルが違うし、一長一短があって、多国籍軍という感じで面白い。僕自身も畠違いの出自の人間だから、彼らの目にはかなり異色に映っていることだろう。



それもよし!



建築でもJVジョイントベンチャー)というのがあるけど、あれは異なる企業文化のぶつかり合いというよりも、政治的に等しく分配されたという感じだから、わりかし予定調和な組織で、思ったほど面白くない。



対して、いまの現場は東西を代表する某メーカー出身の人たちがお互いのプライドをかけてしのぎを削っているという感じが随所に見られて面白いし、勉強になる。



さて、これまでは製品化されるかどうかもわからなかったので、ひらめきやアイデアを求められるケースが多かったけれど、製品化がほぼ確定したこれからの仕事はやや趣が異なる。



建築で言えば、ちょうど、アイデア重視の基本設計から実用性重視の実施設計に移っていくターンンニングポイントに相当すると思う。



建築現場に数ヶ月間、毎週休むことなく通い続けたあの日々を思い出せばよい。



「図面に承認印を押さない限り、現場は一切動きません。今日は返しません!」



と現場事務所に深夜まで軟禁されたあの日々を思い出せばよい。



細部に目を行き届かせて、粘り強く、粘り強く



そして、



各方面からスペシャリストが集まった、このチームを楽しもう!



気分は、オーシャンズ11



D







8月4日(土)

勉強時間・仕事時間




起きたら午後2時だった。いわゆる爆睡というやつだ。この2週間けっこうきつかった。会社にも何日か泊まったし、家に帰ってもシャワーを浴びて仮眠をとってすぐに出て行くという感じだったから、ま、さすがに疲れるわな。



何があったかというと、たずさわっている開発プロジェクトのチェックポイントというやつで、これはどの業界にいる人も経験していることだと思うけど、このチェックポイントをクリアしなければ、どれだけ力を注ぎ込んだプロジェクトであっても商品化されることはなく、日の目を見る前に消えていってしまう。



僕が以前いた建築業界で言えば、オープンコンペや社内コンペというのがあって、複数の設計事務所や設計チームが競いあって、みんな何日も徹夜して作品を創り上げるのだけど、コンペで負けたら全て終わり。出版業界で言えば、どれほど惚れ込んだ書き手の渾身の作品であっても、編集会議で落ちたら終わり。自動車や家電製品やお菓子もみんな同じようなものだと思う。負けたら終わり。が、しかし、



幸い、今回は勝つことができた!



勝因は、指導者の度胸とエースストライカーが最後しっかりゴールを決めたことに尽きる。ただ、この3ヶ月間じっと現場で観ていると中盤の選手がけっこう頑張ったというのも大きい。実際に中盤でキラーパスを何本も出した選手がいて、最後のゴールよりもこのキラーパスの方が「すげぇー!」って思ったりするのだけど、ま、上の人間にはわからねーよな、その点がちょっと悔しい。



また、今回の成功体験を通じて、学ばねばならないこともある。それは仕事のペースだ。やはり最後に負荷がかかりすぎた。我々は学生ではなく社会人だし、開発はお祭りではないのだから、一発勝負ではなく、持続可能なスタイルを追求せねばならない。



端的に言って、ここは素直にトヨタに学ぶべきだ。



「ムリ・ムリ・ムリ」



でぐいぐい行くのではなく、



「ムリ・ムラ・ムダ」



をいかに省くか。



これを常日頃から考えて行動すること。そして、この行動を社風に育てあげること。



確かに、よのなかには色々なタイプの人がいる。朝型の人がいれば、夜型の人もいるし、3,4時間の睡眠で大丈夫な人もいれば、7,8時間寝ないとダメな人もいる。そういう個人差は確かにあるが、一般化して言える限界値や適正値はある。



例えば完徹で何時間働けるか? 定性的な話になるけれども、僕の場合は48時間。あるいは、1,2時間の睡眠で何日働けるか? 僕の経験では5日間。ただ、これも不確定要素や頭を使う要素を全てクリアして最後、成果をレポートにまとめきるという決め打ちの作業で5日間突っ走ったというもの。じゃ、ずっと3,4時間の睡眠で何日働けるか? これは経験したことはないけど、せいぜい3ヶ月じゃないかなー。



実際、徹夜したらすごくやった気になるけど、頑張ってもせいぜい1週間だよ。例えば、1週間毎日24時間頑張って働いて倒れて3週間休んだら、その人は1ヶ月で168時間しか働かないで終わってしまうことになる。毎日8時間働く人となんら変わらないし、後遺症が残るから、その後のパフォーマンスも下がってしまう。



じゃ、何時間がベストか?



大学受験で東大京大に合格した人、社会人になって資格試験の勉強をした人と話していて、だいたいみんな言う勉強時間があって、それは、



1日12〜13時間。



僕も1級建築士の勉強をしたことがあって、製図の一発アウトのミスをして落ちて、その後転職したから勉強をやめてしまったけど、一応学科試験は通っていて、1級の学科試験は500時間勉強したら通ると言われていて、ちょうど設計事務所をやめた後、仕事をしないで試験勉強だけをしていた時期があるのだけど、その時やっていた勉強時間が1日13時間。実際にその勉強スタイルを40日間続けたあたりから模擬試験でも合格点が出るようになってきた。建築士以外で言えば、公認会計士も同じような感じで、こちらは勉強する絶対時間がもっと長いのだけど、受験した人に聞いたら、やはり1日13時間勉強したと言っていた。



ここなんだよ!



1日8時間は誰でも働く。人と同じことをやってたらダメだけど、じゃ、その競争に勝つために何時間働くか?



世の中の風潮としては作業を効率化して働く時間を短くするという感じだけど、ビジネスプラン、いわゆる儲かる仕組みをつくるというのであれば、1日5,6時間働くだけでやっていけるプランも作れる。自分は働かないで、安い時給で人を雇って働かせればいい。けど自分がプレイヤーとしてやるのであれば、それなりに働かないとダメだよ。特に僕がいま携わっているものづくりは、受験勉強と似ていて、やらねば次の工程に進めない作業がけっこうあって、成果をあげるためには、やはり実働時間がそれなりに必要になってくる。そこで、



最大のパフォーマンスを出せる仕事時間は何時間かと言えば、8時間でも24時間でもなく、1日13時間。



朝7時から働いて昼に1時間休んで夜21時まで。



これ以上やろうとしたら、疲れて続かないし、倒れてしまうリスクもある。だから

、これ以上やらねばこなせない仕事を抱えたらダメだし、計画してもダメ。また、これはあくまでも自分がやると決めてやることだから、他人に同じパフォーマンスを要求してはいけない。



今後の課題は、



必要な工数を計算して、いかに計画的にプロジェクトを推進するか



だな。


















 日記Z2018年7月


















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