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2018-04-01 日記

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4月29日(


ひっさしぶりのジム。筋トレ系のレッスンと格闘技系のレッスンに参加。きょうは二の腕の筋肉と腹筋が笑っているのではなく、明らかに悲鳴をあげていた。筋肉痛ウェルカム!!






4月28日(土)

世界は笑いで満たされている




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昨日は不完全燃焼だった。一晩寝てもムシャクシャする気持ちを抑えきれなかったので、井の頭公園までランニングすることにした。今日はいい天気で走っていて気持ちよかった。しかしながら、10km以上走るのは久しぶりだったので、さすがに復路はひざが笑っていた。今朝まで、じぶんを支配していた憤りの気持ちが徐々に消えてゆき、からだじゅうが笑いで満たされてゆくのであった。




僕はそこにある道を  あるいは道に似たものを  口を閉ざしたままたどりつづける。道はずっとのぼりだが、今のところそれほど激しい傾斜はない。息が切れるような坂もない。ときおり道は羊歯の海や、刺のある灌木の中にうしなわれそうになるが、見当をつけて進んでいくと、そこにはまた道らしきものがあらわれる。僕はもう森に対して恐怖を感じてはいない。そこにはルールのようなものがある。あるいはパターンのようなものがある。いったん恐れることをやめると、そういうものがだんだん目に見えるようになってくる。僕はその反復性を呑みこんで、自分の一部のようにしていく。


僕はもうなにももっていない。さっきまで大事に手にしていた黄色いスプレー・ペイントも、研いだばかりの鉈も、もうそこにはない。デイパックも背負っていない。水筒も食料もない。コンパスもない。なにもかも途中途中の道筋に置いて残してきた。そうすることによって僕は、自分がもう怯えてはいないし、だからこそ無防備になることを選んだんだということを、目に見えるかたちで森につたえようとしている。あるいは僕自身につたえようとしている。僕は硬い殻を捨てた生身の僕として、ひとりで迷宮の中心に向かっている。そしてそこにある空白に身をまかせようとしている。




というのは村上春樹の小説の一節だが、ともあれ、いい気分転換となった。






今日と明日は会社に行かないことにした。働くこと自体は全く苦ではないのだけど、一度頭をリフレッシュした方がいいと思うからだ。



そして、書を読む。



村上春樹『海辺のカフカ』を読了。僕がこの作品にタイトルをつけるとすれば、『星野ちゃん』だろう。なぜなら作中に出てくる星野ちゃんが、この物語を動かす主体(モチーフ)であるからだ。対して、主人公のカフカ少年には、15歳という年齢に込められた意図以外、まったく魅力を感じない。そんな彼の生が、ここまで肯定されるのはなぜなのか?



さて、次に読む本はこれだ。




 世界革命はこれまで二度おこっている、一度目は一八四八年であり、二回目は一九六八年のことだった、と言われます。I.ウォーラーステインのことばです。

 ほぼヨーロッパ全土を席巻した四八年革命が、とはいえ世界革命であったかをめぐっては、見かたがわかれるところでしょう。先進諸国で同時多発的に勃発して、この国のキャンパスと街頭もその波に揺れた六八/六九年の学生叛乱を、世界革命と呼ぶことができるのかについても同様です。けれどもそのふたつの変動が、それ以降の世界の枠組みに大きな影響を与えた、それぞれの劃期であったことにかんしては、ほとんどの歴史家が同意するところであると思います。その意味ではやはり、一九世紀の中葉と二〇世紀の後半に、世界革命はたしかに生起しているのです。

 一回目の世界革命は、マルクスがじかに経験した革命でした。二度目の世界革命のさなか、マルクスの著作がひろく読まれ、そして奇しくもマルクス生誕二百周年をむかえた本年、この国ではすくなくとも、マルクスのなまえはもしかすると忘れられかけています。

熊野純彦『マルクス資本論哲学岩波新書より)




村上春樹の作品を支配しているのは、六八年以降の虚無感であり、また彼が主題としているのは、せかいの動的メカニズムであり、翻って、生への肯定である。



マルクスとつながっている。




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4月22日(日)

体のつかい方




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仕事が忙しいのだけど、休日のゴルフの朝練だけは続けている。



今まで体重移動がうまくできないので左足に重心を置いたままスイングしていたのだけど、骨盤のあたりに力を入れる感覚が身についてきたので、スイングに体重移動を組み入れてみたのだけど、これがどうもうまくいっていないらしい。いい当たりがでなくなったし、今日一緒に練習していた会社の上司に言わせれば、「最近忙しくて練習していないから仕方ないな。体が流れちゃってるね。ちょっと下手になったけど、久しぶりだから仕方ない」とのこと。毎週末の練習だけは続けていたから久しぶりではないのだけど、打ち方を変えるとやはりわかるようだ。



スイングが悪くなった原因は、ジムに通えなくなって筋トレをしていないので筋力が衰えていることと走っていないので下半身の安定性が失われていること。これまでデタラメなスイングでもそこそこ打てたのは、フィジカル面でカバーしていたのだろう。このバランスが崩れてしまったのだ。なんとか新たなバランスを見つけねばならない。



僕はスイングの時に腕を引いてしまう癖があるのだけど、今日、とある人から教わったのは、スイング時の回転の動作に肩がちゃんとついてきているかどうかをチェックすること。




・バックスイングの時に左肩がちゃんと回転の動きについてきているか


・フォロースイングの時に右肩がちゃと回転の動きについてきているか




体の使い方にも意識を向けよう。







4月15日(日)

単純に物語を欲している



レビューの資料の僕のパートが一通り書けたところで今日は仕事を打ち切った。もちろん、まだまだ赤を入れて修正せねばならないのだけど、18:00を過ぎていたので、今日は潔く帰ることにした。


帰りにジムに寄って、とはいえ、本当はランニングマシンで走りたかったのだけど、閉館時間間際だったのでサウナだけ。最近はほとんどこんな感じ。フロアで体を動かす時間を取れないので、疲れを取る目的でサウナだけ利用。


パソコンは持ち帰らないことにしているので、家に帰って息抜きに読書。村上春樹の『海辺のカフカ』を読み進める。仕事が忙しくて疲れていて、難しい本を読もうという気持ちにはなれない。また日常生活でじゅうぶんに鬼気迫る体験をしているので、小説にリアリティを求めるという訳ではなく、得体の知れないなにものかを求めるという過度な期待をする訳でもなく、単純に物語を欲している、という訳で村上春樹。ちょうど3月に四国に行ったので、たしか四国の話だったよな、という訳で『海辺のカフカ』。


物語のはじめの方で、カフカ少年が四国に行くシーンがあるのだけど、彼は夜行バスを利用していて、僕も四国に行くときに夜行バスを利用したので、その描写が僕の体験と思いっきりシンクロした。「そうそう、橋を渡るときはその景色を見たい」と思っていたのだけど、バスに乗って2時間くらいすると消灯になって、室内は真っ暗だし、窓はカーテンがピタッと貼り付けられていて外からの光が一切入らないようになっているし、逆に中から窓の外を見ることができなかった。体が椅子に馴染まず、熟睡という訳ではなかったのだけど、バスが今どこを走っているという感覚がまったくなく、気がついたらすでに四国に着いていた、すでに橋は渡り終えていたという、まさに、そういう感じだった。


ところで、村上春樹の作品が持っていた、あのニヒルな感じと乾いた空気というのはいつくらいから消えてしまったのだろう? 『海辺のカフカ』の空気も、どちらかと言えば、湿った感じがする。


物語は上巻のとちゅうあたりから一気に動き出す。



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4月7日(土)

読書のすすめ



大学時代の友人が家族旅行でハワイに行っている写真をインスタに上げているのをみて、「いいなー、オレもハワイ行きたいなー」って思うと同時に、「えらいなー」って思った。年に1,2回しっかり休みをとって、しっかり家族サービスをするっていうのはえらいなーって思った。僕はけっこうワーカホリック的なところがあるからどうしても働いてしまう。ハワイに行こうという発想がそもそもないんだよなー....


さてさて、4月になって、新年度になって異動した。4年ぶりに開発プロジェクトをやることになった。開発プロジェクトをやるということは、簡単に言えば、休めなくなる、もっと簡単に言えば、家に帰れなくなるということだ。前回の開発は2013年9月から最後決着をつけたのが2014年4月29日だから約8ヶ月。夜は工場のカット台の下にプチプチを敷いて寝ていた。朝4時に起きて材料をカットして、8時に作業員が出社するときに作業がスタートできるように、それまでに準備を整えるという生活。非常にきつい。今回はもう少し長くて約1年。体力持つかな。牛乳を毎日飲もう!


ただ、1年間ずっとこういう生活をしていると倒れるので、きつい中でもメリハリはつける。山場は会社に泊まる。そうでないところでは連続運転可能なキャパで働く。僕の場合朝7時〜夜9時なら連続運転できるから、平時はこのキャパで連続走行する。それに加えて、ON/OFFも考えていて、さすがにハワイには行けないし、ジムにもなかなか行けないと思うので、OFFの時間に読書を再開しようと思っている。もちろん、読むペースはちびちびでいいと思っている。


最近読んでよかった本は、半藤一利さんの『幕末史』。僕が書店で働いていたときによく売れていた本だ。僕は哲学・思想の棚を担当していて、歴史の棚の本をあまりチェックしていなかったので、今まで読んでいなかった。当時は四六判ハードカバーだったけど、先日書店で文庫になっているのをたまたま見つけて、「おお!」って感じで買って読み始めたら、けっこう読みやすくてすらすら読めた。


ちょうど大河ドラマで「西郷どん(せごどん)」をやっているので、西郷隆盛について知りたいと思って、いくつか本をあさったのだけど、いまいちピンとこなかった。それがこの『幕末史』を読んでしっくりきた。


最近、幕末において、坂本龍馬や西郷隆盛は大したことをしていないという論調が流行ってるらしいが、それもどうかと僕は思っている。それに対して、半藤さんはどうかと言えば、彼らの功績もちゃんと認めて記述していた。例えば、西郷隆盛と大久保利通はよく比較されて、米国の学者は後者を評価する傾向が強い。なぜならば大久保は近代合理主義的な思考の持ち主だからだ。これは確かに評価すべき点で、当時は、近代という概念も、合理主義という概念もない時代だから、そのなかでこのような思考ができるというのはすごいことだ。しかもまだ形もない国において、来るべき国家のビジョンをちゃんと持っていたというのは端的にすごい! 対して西郷はどうかと言えば、これもまたすごい。今でいうカリスマ性が非常に強かったということだろうが、あれだけの人を動かしたというのは彼だからできたこと。また戊辰戦争において、奥羽の戦争にけりをつけたら、さっさと薩摩に帰ってしまったというのが興味深い。近代合理主義者ならば、新たな国の要職を抑えることをまず第一に考えるはずで、西郷のこの行動はありえない。



西郷さんは藩政を指導し、しかも戊辰戦争が終結して勝利者でありながら使い捨てになりつつある下級武士たちの救済に、もっぱら力をそそいでいるのです。この西郷さんの恩情は、不平不満を抱きがちになる全国の士族たちの胸を打ちます。自然と西郷さんを彼ら不平士族は仰ぎみるようになるのですね」(半藤一利『幕末史』P.387.)



なるほど、なるほど。



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 日記Z2018年3月


















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