お話おじさん′終活記

はや人生はラストステージ、いつのまにか年が過ぎ、いまがいちばん自由で、楽しい。

自分史9

母の記憶は、単にあったというより、そのシーンが今でも目に浮かんでくる映像として、その顔が眼底に残っている。

学童疎開で一人家族と離れて旅立ち、母と分かれた渋谷駅の改札口のシーン、そして疎開先から家に帰ってきたとき、台所から母が現れたシーン、最後に兄と二人して、棺を上げ、その冷たい額にふれて、死顔に涙したシーン・・・いつまでも忘れないのは、どうしてか。

集団疎開先は富山県の金山村(現射水市)の応称寺(写真)で、本堂の広間に5年生と3年生が雑居して5月から10月まで集団生活を送った。この半年の生活は、幼い私にとって、その後の人生を送る上での貴重な体験となった。
その第一は、飢餓・・・いつも腹を空かせていて、それに慣れて耐えたこと。戦後の食糧難時代もつらかったが、疎開では栄養失調を経験した。
そして、虱(しらみ)・・・不衛生を経験したこと。それに、子ども集団にあるいじめ。

先年、その応称寺と通った金山小学校を再び訪ねた。食事の世話を地元の女性がしてくれたが、その一人、青山タマ子さんの手記を読む機会があり、子どもたちに食べさせるため、食糧集めに奔走したことを知り、感無量だった。

多難な時代をよく今日まで生きて来れたと思うが、それは母をはじめ、支えてくれた人々のお蔭・・・