高橋勝・下山田裕彦編「子どもの〈暮らし〉の社会史」(1995)

今回は「子ども論」関連の著書を取り上げる。
 これまで私が見てきた子どもに対する「地域の教育力の弱体化」論というのは、そもそもいかなる意味で「教育力」が作用していたのか、実証的側面において乏しく、更にはそのような「地域の教育力」の存在そのものが見方によっては疑わしいものであるものがほとんどだった。これについては中教審答申などにおいても頻繁に取り上げられ自明の「常套句」になってからしまったことも原因なのではないかとも思うが、まずもってその弱体化論が想定している弱体化以前の状況(理想的状況)がいつ頃の話であるのか述べられておらず、一見すると過去を脚色し、事実を曲解したものになっている、ということである(※1)。

 そのような点を踏まえれば、本書はそれとは若干異なり、具体的な議論に踏み込んでいるといえる。戦後から高度経済成長期に差しかかるにあたり、それまで家族や地域で「共同生活者」として暮らしてきた子どもではなくなり、学校における「生徒」として囲い込まれ、生活が剥奪され、その結果として消費社会への従属者となったり(cf.p100)、虚構と現実の区別がつかない状況が発生する(p125)という批判がなされている。

 ここでしなければならない論点は、
1. 過去の子どもの<暮らし>に対する見解が妥当かどうか
2. 仮にそのような<暮らし>が成立していたのならば、いつ存在していたとみなされているのか
 という2点である。

 まず、2.について見ていきたい。本書の内容をまとめれば、そのような暮らしがはっきりあったと言えるのは「戦後直後」(p28)から1950年代中頃まで(cf.p76)と位置付けられるだろう。本書で大きなポイントになっているのは「高度経済成長」であり、1960年代にはすでに子どもの<暮らし>は失われているように描かれているといえる(cf.p76,p86)。
 もっとも、60年代の位置付け方については微妙な所もある。P114の指摘はまだ60年代はそのような<暮らし>が残存しえたと読む余地がない訳ではない。これは「落ちこぼれ」という言葉が(国会図書館のデータベース等を見る限り)70年代初頭に生まれ、70年代後半に一般に言説が流通したこと、また本書でいう非行・校内暴力問題も70年代中〜後半に社会問題化したものを指していると思われること(p86)から言えることだが、一般的に「高度経済成長」はオイルショックのあった1973年までの期間を指すものとみなされることや、p76、p86を素直に読めばやはり60年代はかなりの部分子どもの<暮らし>は失われたものと見るのが妥当ではなかろうかと思う。
 もっとも、このような喪失の見方に過剰な解釈があると言える部分もある。P122などの指摘は明らかに事実と異なったことを指摘し、ことさら1973年時点の子どもが「室内遊び」に集中していることを強調しようとする。これも事実の曲解以上に、子どもの遊び自体が家の中で行うことができる空間があったのかという点からも、「外で遊ぶことが健全である」という価値ありきの議論をしているように思う。


○「ガキ大将」をどう見るか
 「戦後直後」というのも40年代はまだ終戦後の混乱が大いにあっただろうとみれば、やはり1950年代の状況が子どもの<暮らし>が確保できていた時期と言うことに、本書からは矛盾がないように思える。では、それを踏まえ1.の論点を考えてみたい。
 今回は仲間集団の議論でなされる「ガキ大将」についてみてみたい。つまり、1950年代における「ガキ大将」が本書で言われるような見方で捉えられていたのかということである。結論から言えば、決してYESとは言えない。
 国会図書館で「ガキ大将」について書かれた当時の言説を読んでみると、まずよく見かけるのは「偉人」の伝記において年少時代に「ガキ大将」であったことを指摘するものである。これはかなり好意的に読んでいるものであり、あまりマイナスイメージはなく、「リーダー」としての振舞いが示されている。これについては、本書で示されるガキ大将のイメージとも矛盾しない。
 しかし、他方でこのガキ大将を問題視している内容のものも多い。それらは総じてガキ大将の「リーダー」としての性質について全否定まではしている訳ではない。しかし、その暴力性について特に批判の的となる。

「がき大将は、人間の本来持っている「権力への意志」「力への意志」の発現である力の原理を、他の子どもに強く働かせ、力で支配しようとする傾向が特に強い子である。また、小学校の子どもたちには、目的はどうでも、力関係で自然に結合する機会も多く、それによって結ばれた集団は、連帯性が強い。いわゆるギャンググループができ上る。このように、自然に作られる仲間の間では、友だちへの思いやりや利益や全体の幸福などを考える民主的指導者よりも、自分の優越性を誇示し、首領としての権威を振りまわし、弱者に対しては、力をもって屈服させることのできる暴君的・独裁的な指導者が生れる率が多い。
このように、自然にできる集団から生れる指導者は、「げんこつ権」を振りまわし、がき大将と呼ばれ、親分・親方・頭目・棟領・首領・顔役・ワンマン・大将さらに他の個所で述べているボスの子の意味にも通じる。また、女の子は、女王・あねごと呼ばれる。」(鈴木清他編「明治図書講座・問題をもつ子の指導法2 性格と行動」1957、p63)

「がき大将は、親や教師や地域社会の人たちにとっては、かんとくや指導上から欠点が目につきやすい。また、被害をうけた印象から判断しやすい。ところが、彼には、まず、指導力・統率力・仲間の信頼感など、長たりうる能力をもち、活動力・実行力・決断力・意志力・好奇心・探索的精神・独立の精神をも持っている。このような面は、学級や学校の集団、部落の集団では、じゅうぶん発揮できる機会がある。」(同上、p64)

 また、先述した「偉人」のガキ大将像の議論も関連するようなイメージ像について次のような指摘もされている。

「私たち大人はこのガキ大将について、二通りの考え方をする。
 一つは、見失われたヒロイズムの幻影を、おおかれすくなかれこの言葉に見いだす場合である。「子どもの時にはね……」と大人たちがままにならない現実から逃避をして、オールマイティであった「ガキ大将」の時代を考える時、今を忘れて「限りない期待」をこのガキ大将という言葉によせるのである。
 それが、ガキ大将という言葉にある種の期待を感じる大きな理由である。
 ところが、もう一つの場合、自分の子供たちが小学校に入る年頃になり、外で仲間と遊ぶようになると、現実の問題としてガキ大将が現われて来る。
 かあいげのない、憎々しげなガキ大将の傘下に、どんなにいじめられ、どんなばかばかしい無理な命令を下されても、子供たちは喜んで集つていき、時には崇拝すらしているように見えるのである。
 「あれが悪いばつかしに……」「なぜあんな子と遊ぶんだろう……」困つた奴だかわい気のない困り者、これもまた、大人のみたガキ大将の一面なのである。」(辰見敏夫「私の名はガキ大将」『カリキュラム』53号、1953、p70)


 以上のように、ガキ大将の議論は両価的な価値観が与えられていながら非民主的であるという点において、「指導」を行い、そのよい部分を取り出していこう、というのがガキ大将問題に対する「教育」側のアプローチであるといえる。もっとも、ここでいう「教育」側のアプローチというのは、本書で批判されていたような「学校の論理」による議論でしかなく、<暮らし>というアプローチからすれば正当化される、という見方もできるかもしれない。
 では、ガキ大将の問題が非民主的であるという以外にどう問題とされていたのか。


「もう一つの問題は、仲間における児童の性格形成の問題であつて、ガキ大将があまりにも「げんこつ権」を主張し、そのため、これに逆らうものを仲間はづれにするということになると、仲間はづれされた者は他の子供たちとは口をきいて貰えないことになる。この年令の子供たちの仲間に参加をしたいという要求は非常に強いものであるから、仲間はづれにされた子供は無論のこと、それを見ている子供たちも、ガキ大将の弾圧のもとにその人格に歪を生じて、不安な、おどおどした子供になつたり、ただ追従をするような卑屈な子供になつたりする。」(同上、p72)

 強いリーダーのもとに集団が成立する以上は、集団規範が働くと言ってよいが、その規範自体が正しいものかどうかとは別問題であるし、ここでいうように、そこから外れてしまうという問題もありえるだろう。もっといえば、集団は一つであるとは限らず、複数の集団(複数のガキ大将の集団)がありえる訳であり、両者の闘争に巻き込まれるという問題もありえるように思える。この点については少年非行などの分析を更に行う必要があろうが、少なくとも、本書で語られている「ガキ大将」の議論というのは、このような排除性、闘争性による悪影響というものについて無視され、規範性という良い側面だけを取り上げ、肯定しているという風に言えるだろう。

○<暮らし>の論理の問題とは?
 また、<暮らし>に密着していること自体が必ずしも望ましくなかったと本書で述べられていることには注目せねばならないだろう(p84)。本書は明らかに過去の<暮らし>に密着していた方が良かったと判断しているように読むほかないと思うが、どのような比較に基づいてそれが判断されているのかほとんどわからない。つまり、p84でいう「デメリット」と高度経済成長によってもたらされたとされる「デメリット」のどちらが問題なのかの検討が全く見えてこないのである。この比較が示されていないにも関わらず、子どもの<暮らし>の型を失ったことを問題にするならば、もはや水掛け論にしかならず、生産性がない議論なのである。この比較については本書をこえて検討していくほかない。差し当たり今後1950年代の「差別」や「貧困」に関する著書をレビューしていきながら、この点について検討をしていきたい。


※1 もしくは、(本書ももしかするとそうなのかもしれないが)現状の批判を行うことだけに満足してしまい、過去の「状況」とされるものについて無意味に取り上げているという状況があたりまえになってしまっている可能性もありうる。これは竹田青嗣のいうような「ポストモダニズム相対主義」の議論とも無関係ではないように思える。まずもって両者を比較するのであれば、どのような点について評価の対象としているのか、そしてそれが評価に値するという見方が妥当なのか、の議論は必要なのではないだろうか。そのような論点に乏しいからこそ、比較の観点を考慮しようとせずに「脚色」がなされるのではなかろうか。


(読書ノート)
p4-5「こうして、子どもは、親とともに共同して営む〈暮らし〉から徐々に排除されることで、幼稚園や学校などの子どもたちだけの制度化された空間にしだいに取り込まれるようになった。おとなと子どもが、それぞれ別世界に生きるようになったということ、それは、子どもにとっては〈暮らし〉そのものを見失うことを意味していた。……おとなが、ますます生産と機能の世界に囲い込まれていったとするならば、子どもは、ますます消費と「勉強」だけの世界に追い込まれていったのではないか。産業社会に登りつめる過程で、おとなも子どももともに、〈暮らし〉という言葉の含む人間生活の相互性や豊かな全体性を喪失してきたのではないだろうか。」
※ここでの排除の議論は、結局そのような生活現実をどう評価するのか、そして、将来的な視点から見ても同じように善であるといえるのかという論点に尽きる。また、排除と学校の取り込みの因果関係もこの指摘の通り定かとは限らず、逆の関係も当然あり得る。なお、ここでいう「生産と機能の世界に囲い込み」というのは、まさに人間性の喪失という言葉で言い換えられるものだろう。なお、子どもが労働から解放されたのではなく、排除されたとみるのは、「産業の重工業化と機械化」により、子どもの労働の場所がなくなったからだとする(p4)。また、〈暮らし〉は生活世界や日常性などの言葉に含意されるものだとし、まさに高度経済成長がその解体をしたとみる(p5)。

P6「戦後史の大きな流れの中で、子どもが、しだいに「共同生活者」としての体臭を失い、無機的で従順な「生徒」として、見えざる制度のなかに囲い込まれるようになった過程を、子どもの生活世界の側から、できるだけイメージ豊かに描き出してみたいと思う。それが、本書のねらいである。」
※この前提だと、やはり大きな変化は60年代に見ていることになる。つまり、50年代は聖域とみなされている。
P11「このころ(※高度経済成長期に突入する以前)は、子ども組や若者組、娘宿などの行政組織以前のインフォーマルな通過儀礼の集団が、まだ残存していた。」
※出典は宮本常一「家郷の訓」「忘れられた日本人」。合わせて「青年」というモラトリアムな存在もなく、通過儀礼を介した「一人前」の人間はすでにおとなであり、その自覚を強く抱いたという(p11-12)。

P16「子どもは、この時期から、経済成長を担うための「人的資源」としてとらえられ、学校を中心とした能力開発の世界に囲い込まれていく。つまり、子どもは「生活者」としてではなく、もっぱら「児童」や「生徒」として扱われるようになる。そして、この時期から、子どもの「教育」とは、「人的能力」や「無限の可能性」の「開発」であり、それは、学校において教師という専門家集団が担うものである、という観念が私たちの間にひろく浸透してゆくのである。子どもは、親や地域の人びとと共に暮らす「共同生活者」ではなくなり、教師という職業集団の前に並び立つ「未熟な学習者」、「生徒」に変わってゆく。」
※どれだけの議論を断片的に取り上げているのだろう。これは天皇崇拝を強要した戦中までの学校とどう違うのか?
P20「ハーバマスのこの指摘は、ドイツにおいてばかりでなく、むしろそれ以上に、「消費集団化」の著しい日本の家族にこそあてはまる。家族の機能が、医療、福祉、教育などさまざまに社会的に分化し、家族が他の組織体に依存する度合いが強まるにしたがって、そこに内包されていた全体的な人間形成の機能は、ますます衰弱化していかざるをえない。そして、ゆき着くところ、家庭は、性的な結合と休養という完全な「消費の場」になれ果てるのである。」
※出典は「公共性の構造転換」p211-212。さて、これの何が問題だというのか。

P28「こういった子どもの暮らしが一九四三年〜四五年の極端な戦時体制下にあって押しひしがれたにもかかわらず、それは敗戦を契機に戦争直後に復活した。全員とは言えなかったが、子どもは家庭生活に復帰し、地域の共同生活は活気をおび、戦前の遊びもまた少しずつ形を変えながらもとりもどされた。戦争によって文化社会が抑圧されたとはいえ、しかし人間らしい暮らしかたの根っこは残っていたのである。」
※「子どもたちは、しばしの時をみつけて、メンコやコマで遊び、原っぱで追いかけっこをし、川に笹舟を浮かべて歌声をあげた。」にかかる。

P72大正十五年の調査で女子がならたいものは偉い人に次ぎ、「先生」。
※東京都民生局の1949年の調査で比較対象されたものだが、出典不明。民生局調査は服部克己「児童の環境調査」(1950)から。
P76「五八年には子どもの身体的早熟すら指摘されるようになる。石炭産業から石油産業にきり替わってゆくなかで、炭鉱の子どもたちの置かれた状況が社会問題化されてゆく。また日常生活のなかに石油製品が浸透してゆき、子どもたちの日用品、遊ぶ道具やその素材も、木や竹、紙、ゴム、セルロイドに代わって既成の合成樹脂商品が増えていった。子どもたちの手作りの遊びが乏しくなってゆく一方、五七〜八年には、農山村にあった農繁休暇が廃止された。春や秋に学校は一週間ほど休みになって子どもたちは田植えや養蚕、その他の手伝いをして労働に参加してきたが、この廃止は子どもたちが生産や労働の場からきり離されていく変化を象徴している。」

P81「このように、子どもたちが生きていくうえで不可欠なものが収奪され、どうでもよいものが彼らに害を及ぼすまで過剰に供給されていくところに、〈暮らし〉の型を見失った。」
※馬場宏二の「教育危機の経済学」が参照されている。
P82「ところで、高度経済成長期の直前までは、農山漁村部の子どもたちは、地域の共同体のなかで日常的に生産労働の担い手として特定の役割を担っていた。そして、都市部の企業経営者や高所得労働者など一部の富裕な階層の子弟を除くと、都市部の子どもたちもまた、職能集団のなかで自営業者や労働者の子弟として家業や家事の手伝いを担っていた。そして、子どもたちが労働し、生活する拠点としての地域共同体という空間は、地縁や血縁で結ばれた多様な人間関係のネットワークから構成されており、そこには、人と人との具体的で濃密な関係からおのずと生まれる社交的感情と相互承認に満ちあふれていた。共同体に生まれた子どもは、ごく短い乳幼児期を過ぎるとすぐさま、この多様な人間関係の網の目のなかに投げ込まれ、その結び目の一つを構成することになった。」

P84「しかしながら、「一人前」の教育として表現される、共同体での子どもたちの労働や生活は、彼らにとってかならずしも恵まれた側面ばかりではなかった。むしろ現在の第三世界に生きる子どもたちを思わせるような悲惨な側面も少なくなかった。とりわけ、貧しい農山漁村部では、子どもたちは生活の大半を労働過程のうちに組み込まれ、大人並みの激しい労働を課せられていたり、日常の生活でも前近代的な偏見や差別と貧困に苦しめられていた。」
※あまり具体的な話がない?参照もなし。
P86「ただ、学校そのものを抜本的に産業的な生産様式へと適合させる契機となったのは、一九六二年、企業と国家の連携のもとに出された経済審議会の「人的能力開発政策」、いわゆる「人づくり計画」に求められる。……それ以後、教育目標・内容レベルにおいて地域と学校との乖離は急速に大きくなっていった。大量の“落ちこぼれ”が発生し、非行や校内暴力が多発したのはこの頃である。」
※後半の教育問題はいずれも70年代後半の議論であり、時期の認識が正しいかどうか微妙。

P91「しかもそれは、親の管理下にある家の手伝いやしつけから逃げ出していくところの「アジール」——権力や管理の及ばない自由な空間、または「無縁」場所——でもあった。従来より、親は子どもにきびしいしつけを行っていたが、それが可能であった理由は、子どもによって自由空間がしつけの心理的クッション、まさに「アジール」の機能を果たしてきたことに求められる。」
※この出典は松田道雄「わが生活わが思想」p16-17。
P92-93「しかも、注目すべきなのは、仲間集団内部での小さな子どもたちに対する配慮である。兄や姉にひき連れられて集団に加わった彼らは「みそっかす」とよばれて、例えば鬼ごっこでは鬼を免除されるとか、メンコで一回負けても札を取られないとかいうぐあいに特別な配慮と待遇を受けた。子どもたちがそうしたのは、弱者はいたわられるべきであるという博愛精神を大人たちから教えられたからではなく、むしろ、そうでもしなければ遊びが続けられないし、また面白くなかったからである。
さらに、この組織のなかで、ガキ大将の果たす役割は重要であった。ガキ大将になるためには、ただからだが大きく、腕力が強いだけでは不十分であり、それに加えて、集団をとりまとめていく能力、ケンカを処理する能力、小さな子どもをいたわる能力などが必要であった。……この仲間集団には、ガキ大将をはじめ、年長の子どもが含まれていることで、遊びにともなう事故から年少の子どもを守ることができたのである。」
※出典なし?

p94「ところが、地域社会の崩壊後、「柿の実ドロボウ」は、認められるどころか、場合によっては「非行」とみなされ、家庭や学校が持ち主から訴えられるというケースも出現した。「柿の実ドロボウ」が消失した時期は、いたるところで異年齢の子どもたちが群れて遊ぶ姿が見られなくなった時期とほぼ符合する。」
※出典はない。
P100「ところが、経済の高度成長のもと、社会全体の富裕化にともなって、子どもたちは物質的豊かさと大衆娯楽型情報を過剰なまでに与えられ、その結果、ローカルな子ども文化は、衰退していったのである。」
※この辺りの議論は斎藤次郎「子どもたちの現在」に準拠しているらしい。

P114「一九六〇年代の子どもたちにとって、家業を手伝ったり新聞配達をしたりという社会的労働は日常的な活動であり、当時までの子どもは、地域社会で重要な労働力として認められていた。ところが、七〇年代以降は社会的労働だけでなく家事さえもまったくしない子どもが全体の六割を占めるようになっていった。この頃から子どもたちは、「仕事のない生活」のなかで暮らしていくことになる。」
※統一感のない議論。
P122「表2は、一九七三年に大阪市阿倍野小学校の四年生一七〇名とその親一九一名を対象に行なわれた調査の結果であるが、父親も母親も小学生時代の遊びは戸外で行なうものが上位を占めている。……
他方、子どものよくやる遊びの大半は室内遊びであり、男子は、ゲーム、本読み(マンガを含む)、テレビ、模型遊び、女子は、トランプ、本読み、ゲーム、手芸などがそれに当たる。このような遊びに使う道具は、商品化された物ばかりであり、とくに、ゲーム、トランプ、プラモデルなどは、当時テレビのコマーシャルなどでさかんに宣伝されていた流行の玩具である。」
※p123に結果が示されているが、どう見ても子どもも外遊びの方が多数である。男子は野球関連だけで67%もいるし、女子も上位のゴムとび、なわとびだけで58%もある。ここには、室内遊びが行えるだけの環境が当時の家にあったのかどうかといった議論は無視されていないか?都市部であればそのような論点はありえるはずだが。当然、このような商品化されたものは「子どもの自由な発想をひき出す可能性が小さい」と断じる(p122-123)。なお、出典は藤本浩之輔「子どもの遊び空間」

p125「以上のような状況のなかで、子どもの長時間視聴が生まれたが、その結果、さまざまな問題が発生した。なかでも深刻な事態は、テレビに描かれた虚構と自分が生活している現実の場との区別がつかなくなることである。その結果、遊びの中でテレビ番組の真似をしたために、子どもが命を落とす例もある。」
p143「戸塚は、親や社会は変わらないとして無視し、子どもだけを隔離して徹底的に関わろうとする。竹井(※孝)は逆に、子どもを徹底的に突き放すことで子どもの自覚を促そうとしている。戸塚は子ども本人にだけ非行や家庭内暴力の付けを払わせようとしているようにみえる。竹井はどうか。竹井は家庭という器で、つまり夫婦や親子の関係のなかで、問題を考えている。しかし社会のついては、「親と子の愛情は社会のルールとは別のことであることを、子どもは体で覚えさせ」ることにとどまっている。
家庭内暴力や非行の責任はもちろん本人や家庭にもあるであろう。しかし、学歴社会と受験教育、きびしい選抜制度と競争社会、拝金主義、つまり、学校化された社会のひずみの犠牲者としての子ども、このような視点が戸塚にも竹井にも鮮明ではない。この視点を欠いたがゆえに、両社の教育は成功したとはいえない結果に終わったのだと考えられる。」
※システム批判の布石。「社会、もっといえば、学校化社会の病理の問題としては捉えられていなかった」が問題とされる(p144)

p177「教育とは、本来、目的ではなく、人間形成のための手段なのである。子どもはつくり出される客体ではなく、教育によって援助され、みずから個的人格をつくり出していく主体なのである。それゆえ、教育とはプロセスにほかならないのである。それが、今日の教育においては、このプロセスを非効率的なものとして捨て去っているのである。」
※しかし、これは全人性に向いているというよりも、個性の尊重に偏っている議論である。サマーヒルの算数がまったくできない子どもの許容(p185)がそれを根拠づける。