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2015-05-17

教育と学習と効果と成果

最近、興味深く見たテレビのまとめ


■番組1

5月16日(土)Eテレ ETV特集

孔子がくれた夢 〜中国・格差に挑む山里の記録〜」を見る。

番組ホームページ


・中国では、20世紀は弾圧されていた儒教(「論語」)教育が大ブームになっている。

・中国では、以前貧富の格差が激しい。

この2点を組み合わせた番組


貧困家庭の子どもの就学を支援するNGOで現場責任者を務める石卿傑氏

彼らのNGOの取り組みは、貧困村落の子どもたちに「論語」を配り、暗記させ、

学習意欲を高め、いずれは論語の講師として食べていけるようになる。というプロジェクト。

2010年 彼が貴州の山奥で熱心に論語を教える光景、

都会でこのNGOの取り組みへの寄付を呼びかける光景、

そして、北京へ子どもたちを連れて行き、夢を抱かせる光景が描かれる。


社会の期待や、子どもたちの期待とは裏腹に、

計画は起動には乗らない。

・都会の子どもたちも論語を学び論語教師になろうと専門学校に通う中で、

 暗記しているだけの貧村の子どもたちが教師になることは厳しい。

・学習意欲は高まったが、経済的理由で学校へ通えない子どもたちは減らない。

(一部の極めて優秀な生徒は特待生として出世を期待されながら学び続けている)

儒教学者が貧困の問題に正面から向きあおうとしない。


石卿傑氏自身は、

生活面での困窮と構想の行き詰まり感からNGOを辞め、

儒教の塾の漢服(制服)の販売を行うビジネスを始める。

「このビジネスが成功したら、自身の工場で多くの貧しい農村の人々に

働いてもらって、彼らの役に立ちたい」と述べる。


■番組2

別次元ではあるが教育問題を扱った番組

ニッポンのジレンマ(4月26日(日)放送)

特集「大学のジレンマ?教育のジレンマ?」を録画で見る。

エラー|NHKオンライン


MC:古市憲寿、青井実アナ

ゲスト:石井英真(京都大学大学院教育学研究科准教授

岩瀬大輔ライフネット生命保険代表取締役社長)

先崎彰容(日本思想史研究者

パックン(タレント、ハーバード大卒)

藤井悠夏(Famarry代表取締役

映像での出演

小宮山宏(元東京大学総長

文部科学省2015年1月に策定した「高大接続改革実行プラン」

高大接続改革実行プラン平成27年1月16日文部科学大臣決定

の効果について論じられるが、

学力の三要素(「知識・技能」「思考力・判断力・表現力」「主体性多様性協働性」)を踏まえた評価・・」などに対して、

論者の意見は、少し冷めたものであった。


岩瀬氏の意見はシンプルにまとまっていた。


1:教師の側に教えることに対しての意欲(インセンティブ)をもっと持たせるべき。

→学びたい奴だけ学べという「学習」機関から、白熱教室のような「教育」機関への転換


2:教師を事務員が行うような雑務から解放し、教育に専念させるべき。

→事務職員の増員を制度化。家庭で学ぶべきこと・地域で学ぶべきことと分離する。


3:生徒の学ぶことへの意欲(インセンティブ動機付け)を高める。


上の3点を変えれば、学習内容を改めなくても改善されるのではないか?という意見。


また、全論者共通の意見として、

創造力などが発揮できにくい環境・調和を乱してはならないという環境が、日本の社会構造として強くあり、

そこの部分を変えなければ、その学びの場だけは創造的・主体的であれてもすぐにもとの状態に戻ってしまうのではないか?

そのような人材が増産されても、そのスキルを活かせる場がどれだけあるかは未知数。

司法制度改革後の若手弁護士の飽和状態と似た状態になるのでは・・)

そういった点では「G型大学×L型大学」の考え方は、理想的ではないが現実社会に則している。

no title

我が国の産業構造と労働市場のパラダイムシフトから見る高等教育機関の今後の方向性PDF

との意見があった。


この2つの番組の次元は、大きく異なる。

上のETV特集に関して、「論語を学べば食べていける」という発想がやはり短絡的すぎると思う。

多くの宗教がそうであるように、思想を学ぶことは、出世するためのツールではなく、

現状に満足を覚えることや自身の生活を律する効果が主であると思う。


「G型大学×L型大学」は、興味深い考え方であり、

これとともに職業の階層化(構想・指示・管理する側とそれに従い実行する側の二極化)は進む。

と私も思う。


パトリックが「クリエイティブな仕事をしたくないというアメリカ人はいない」と言っていたが、

どちら側へ回っても苦しく大変な仕事のイメージがわいてくるのが正直なところ・・である。

2015-05-16

能「葵上」を見る

4月26日(日)14:00〜16:30

第588回大槻能楽堂自主公演能 を見る。

宗教学者 山折哲雄氏によるお話のあと、

狂言「鬼ケ宿」(シテ:茂山千五郎、アド:茂山七五三

能「葵上」(古式)(シテ:多久島利之)


「葵上(あおいのうえ)」に関しては、謡本(昭和4年の第10版 定価30銭)もあり、

録画した映像(2009年3月7日放送 第23回NHK能楽鑑賞会 シテ:本田光洋)があったが、

特に注目していた作品だったというわけではない。

当日思いたち、演目も詳しく確認せずに出かけた。


どの作品をみても感じることであるが、

ストーリー・舞台装置・動きのそぎ落とし方に洗練を感じる。


源氏物語を扱った作品。

題名となっている「葵上」は、

光源氏の初めての正妻の名であるが、

彼女は、この舞台では病に臥せっており動けぬ身であるため、

舞台中央に2つ折りにされた衣のみで表現されている。


葵の上が臥せっている原因は何かを

照日の神子(てるひのみこ)という梓巫女(≒シャーマン)に調べさせたところ、

光源氏の以前の恋人であった六条御息所嫉妬心から生まれた生霊のしわざだということがわかる。

六条御息所はまだ生きており、彼女が呪いをかけているというわけでもない。

彼女が葵上に対して嫉妬心を持つあまり、彼女の意に反して自然と生霊が生じてしまったといった設定)

比叡山の修験者である横川の小聖が呼ばれ、この生霊に向けて加持祈祷が行われるが、

六条御息所の生霊は怒りをあらわにし、横川の小聖におそいかかろうとする。

最後は、横川の小聖の法力により浄化され去っていく。


山折哲雄さんが、お話の部分で指摘されたとおり、

本当に浄化されたとは思えない状態で去っていく。

何も解決されないまま、正体だけがさらされ、六条御息所が恥ずかしい思いをしただけで終わる。


紫式部源氏物語において、日本人離れしていると言ってよいくらい執拗に男女の三角関係を描いている。

彼女のこの能力はドストエフスキーバルザックスタンダールと同水準の優れたものだと思う。

同じように、夏目漱石も三角関係を執拗に描いた。

そして、源氏物語、能「葵上」同様に、三角関係の一角が崩れ対の関係になっても、

関係は不安定なまま、観客・読者はカタルシス(抑圧の解放)を得られないまま終わっていく。

能のクライマックスは、それまで穏やかだったシテ(主人公の怨霊)が、

次第に怒りを表わし、その息・動きが地唄の声と一体になるところであると思う。


悪霊が退治されるという単純な構図ではなく、

この怨霊にも共感や哀れみを覚えるからこそ、

声と音と舞とに感情移入できるのだということを改めて体感した。

観客の多くが、シテのセリフを手元冊子で追っていたが、

ストーリーの流れさえ把握していれば、特に言葉の意味は重要ではないと思う。

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(御能狂言図巻(国立能楽堂蔵)より「葵上」)

能を考える (中公叢書)

能を考える (中公叢書)

建築における意識と、住宅における無意識

先日、(2015年4月11日)京都工芸繊維大学で開催された記念シンポジウム

村野藤吾の住宅デザイン」を聴講する。

建築史家:藤森照信建築家:木原千利の基調講演

その後、村野藤吾の図面資料の調査報告会という

14時から18時、4時間渡る長丁場であったが飽きさせない講演であった。


中でも藤森照信さんの基調講演は、私自身もずっと関心を持ち続けていた要素でありながら、

うまく言葉に表せず、モヤモヤしていた部分であったので、

点と点がつながったような心地よさを覚えた。


以下、講演内容のメモを記す。

(一部、補足情報など加筆)


村野藤吾の住宅の多くが和風でごく当たり前のプラン、特別なことはしていない。 

およそ他の同時代の建築家はそんなことはしない。なぜ、そうしたのか。


■住宅と建築

20世紀以前の建築では住宅(HOUSE)と建築(Architecture)は全く別物。

ヨーロッパは建築家が民家を扱うことはなかった、扱っても王宮クラス

(今でも日本だけが異例で小さな住宅も建築家が手がけている)

コルビュジェ以降になってから、建築家の表現・主張として住宅が作られ始めた。


住宅は意識の世界を終えて、ダラーとする空間

家に帰ってきても意識の世界があると疲れてしまう。と考えるのが普通の人の考え。

20世紀以降、意識を眠らせる場所に意識を投入してしまう時代になる。

すべての建物の中で建築家が手がける建物は1%程度、

1%の意識的な人々の住まいを作ることで建築家生計を立てている。


■日本における住まい(住宅+暮らし)への関心の流れ


根本的なことに建築家が気づくことはない。たいがい学者が気づく、

住宅における無意識の世界に初めて気づいたのは柳田国男かと思われる。

宗教のレベルのものは言語化できるが、

宗教以前のレベルのものは言語化されていないので人間は意識することができない。

「民家は(宗教以前の)無意識の世界の器としてあるのではないか?」ということに柳田は気づいた。

民家を調査したいと考えたが、聞き取りとは異なり、柳田自身では調査できず、

早稲田大学建築科創設者佐藤功一の紹介で、今和次郎を連れて行った。(1917年(大正6年))

その際、「民家」という言葉も今和次郎によって生み出される。


村野藤吾は大学生時代に助教授であった今和次郎の影響を受けている。

柳田國男との調査の翌年の大正7年に村野藤吾は大学を卒業)

当時、今和次郎の自宅で読書会が開催されており、そこで「Art and Commonwill」という本を読んだという村野の記録がある。

内容は推し量るよりほか無いが、「芸術と大衆」という題からして、

ヨーロッパでは絵と彫刻が芸術として圧倒的地位を持っていたなかで、特権的でないものの芸術的価値を見直そうという、

ウィリアム・モリスのアーツアンドクラフツの流れの本ではないかと思われる。

同じ会に、村野の一学年上の山本拙郎も参加していた。

彼は、卒業後「あめりか屋」という住宅供給公社に就職したが日本で最初の住宅作家といってよい。


山本が審査を務めた婦人雑誌の住宅設計コンペに、また中学生だった吉村順三が応募し優秀賞と佳作賞に入った。

この吉村順三のプランに対して、山本は「・・なんともいえず素直です。」と評している。

この評し方からも、言語化しづらい部分を評価していることがわかる。

このことがきっかけで、吉村順三は、最初に好きになった建築家として山本拙郎の名前を挙げている。

そして、吉村順三自身も、同じような言語化しづらい部分を大切にしていた。

吉村順三へ直接(藤森さん自身が)インタビューした際、

「皇居新宮殿のあの屋根飾りの意味は何ですか?」と問うたところ、

しばらく沈黙した後「・・・気持ちがいいでしょ?」と答えられた。

これなどは、およそ理論とはいえない、まさに言語化しづらい無意識の世界にあることを示している。

言葉は殺菌力が強く、無意識の世界の発酵している状態を止めてしまう。

しかし、近代化とは「無意識の世界をどれだけ意識の世界に置き換えるか」であり、それで儲けてきた。


後年、今和次郎と同い年の藤井厚二邸(聴竹居)を吉村順三が訪れている。

藤井厚二、吉村順三堀口捨己

彼らは“近代的な自分”と“そうでない自分”を自覚していた。

例えば、多くの一般住宅で作られた中廊下式住宅を、他の建築家は嫌がったが、

彼らは積極的に用いている。


村野藤吾の中にも、“建築家としての自分”と“そうでない普通の人(無意識に通ずる人)としての自分”が共存している。

そこが、彼を分かりにくくしている。

20世紀以前の日本人建築家の多くがそうであった。

辰野金吾も和と洋を使い分けて設計をしており、洋の部分は自分でやると決めていた。

庭の世界では、ずっと無意識の世界のまま、今まで続いている。

革命的な庭は生まれなかった。

庭が大事か建築が大事かといわれると、普通の人は建物よりも庭の方を見ている。

明治政治家の多くが、立派な庭のある屋敷に住んでおり、

日常では近代的なことをしながら、家に帰って庭を見て心を鎮めた。

強い意識の世界から解放されるためには必要な要素だったと思われる。

このあと、木原さんの講演が、木原さんの実作などを映しながら行われたが、

木原さん自身がまさに藤森さんの言われる無意識の世界のを作る人のようで、

写真を見れば、その建物すばらしさはわかるが、

言葉としてそのよさを説明することは難しいと再認識させられた。

((木原千利設計工房HP



他の雄弁な現代建築家が、無意識の要素を切り捨てているというわけではない。

しかし、「語れない部分」が「語れる部分」と比べられて、どちらかの選択を迫られた時、

やはり「語れる部分」が優先され、「語れない部分」が切り捨てられてしまうというケースが多いと思われる。


民家=保存運動と結びつけてしまいがちであったが、

民家にあって、現代建築にないものをあらためて意識し、

自身の創作行為に活かしたい。


「言語化できないよさがその建物にある」ということは、

古い建物を保存する際にも、とても重要な視点だと思う。

(今は、登録有形文化財などの制度的にも言語化が強要されている)



2015-01-18

ゲニウス・ロキと道祖神

仕事が一区切りついたので、ようやく初詣をする。

恵方詣りという古風な風習を思い立ち、

今年の恵方(西南西)の方角にどの寺社仏閣が位置しているか?と調べると、

結局、地元の氏神様の方角であった。


氏神神社へ赴く途中に、しばらく通っていなかった祠のある道を通ってみようと思いたち、

足を運ぶと、祠はそこにはなく、ただいくつかの石が寄せ集められているのみであった。

f:id:molimoto21kou:20150118103901j:image

この祠のことは2年ほど前にこの日記でも取り上げ、

アノニマスなものについて - 心象図録

当時も「今の姿があるべき姿ではない気がする」という感想を持っていたが、撤去されるとは思っていなかった。


氏神である春日神社に足を運ぶと、その社殿の脇に祠は鳥居とともに移動していた。

f:id:molimoto21kou:20150118104410j:image

あらためてこの祠の経緯が記されている。

19世紀頃に作られた道祖神と記されているが、

祀られているのが単なる丸い石らしいことから、

もっともっと古い時代から何かしらの信仰は存在していたと考えている。


その足で借りていた本を返却するために府立中央図書館へ行くと、

クリスチャン・ノルベルグ=シュルツ が著した「ゲニウス・ロキ建築現象学をめざして」という本が目にとまる。

大学の研究室の教授がその分野に力を入れていたこともあり、

建築の場所性というものに少なからず興味を持っていた。

(大学の講義で具体的に場所性について教えられたわけではない)


卒業して、どんどんと関心が推移し、いつのまにかすっかり忘れていた。

しかし、すっかり忘れてはいても、関心の分野は変わらず、

関心を持ち続けていることをつなぎ合わせると、今でも建築と場所の関係性、地霊というようなことの

周辺をさまよっていることに気づく。


2007年ごろ建築史家ケネス・フランプトンのラディカル・リージョナリズムという考えを知った。

それは以下のような考え

批判的地域主義(ラディカルリージョナリズム)の概要

(K・フランプトン 「近代建築」第3部5章)

INAX出版「20世紀建築研究」より引用

1 近代化に対して批判的でありながらも、近代建築進歩的遺産を受け入れ、それを周縁的な実践に反映させること

2 場所に根ざした建築であること

3 構造的心理を重んじるテクトニックな建築であること

4 風土性を最大限に活かした建築であること

5 身体の五官そのものに訴えかける感性豊かな建築であること

6 地域性を無批判に形態として翻案するのでなく、あくまでも近代主義の実践として地域性を建築に反映させること

7 近代建築の現状に対する積極的な批判的実践としての役割を担うこと

●「場所性」の回復

その場所ならではの建築の構築法

ランドスケープも射程に入れた環境論に対する意識

●「身体性」の回復

建築の触感性に対する再認識

時間性および空間性の読み直し

●「構造の本質に対する意識」の回復

デコンの構造に対する過剰な挑戦に対する批判

建築形態をシンプルさらにはミニマルなものへと還元してゆく流れ

●「様式」に対する抵抗→誇張せず、不必要なものはつくらない

デザイン・レスの方向性


この方向性は今でも、共感する部分が多く、

ゲニウス・ロキを活かす考えも盛り込まれている。

批判的地域主義 - Wikipedia


このような考え(初詣しようとか、祠を見に行こうとか、ゲニウス・ロキに目がとまるとか)が再び頭に登ったのは、

昨日、NHKEテレの特集「日本人は何をめざしてきたのか」において石牟礼道子さんが取り上げられたからだろうと思う。

no title

彼女が生涯をかけて取り組んだ水俣の問題は、まさに土地(自然)と人間(人工物)の関わりの物語であり、

彼女自身が「不知火」という能にもしているように、地霊(ゲニウス・ロキ)とも関連している。


もう一度、このあたりの関心を関心に終わらせずに収斂させたい。

新装版 苦海浄土 (講談社文庫)

新装版 苦海浄土 (講談社文庫)

2014-11-16

あふれる

一週間でも書かない週を作ってしまうと、

どんどん書くことができなくなる。

ということを思いつつ3ヶ月近く更新を怠る。


おととい朝(11/14)、テレビを見ていたら谷川俊太郎さんの言葉に関する特集が組まれていた。

エラー|NHKオンライン

「ものすごいインフレーションですね。

実態が伴わない言葉が氾濫している。ストックにならない。全部フローになる、言語が。」



「言語はいつも、全体的なリアリティーの何分の1かくらいを、ちょこっと言っているだけという気がする。

できるだけ、言語以前の部分(心の中の思い)を感じようとすれば、だんだん感受性が復活するんじゃないか。」

何かを発さなければならないという、義務だけが先に存在して、特に発したくもない言葉を発する。

そして、同じように受け取るつもりのなかった言葉を受け取り、

その言葉に対して何かリアクションをしなければならない。


内田樹さんが昨日書かれたブログを読む。

いつも彼が書かれていることが、また記されている。

川内原発再稼働について - 内田樹の研究室

国民国家の最優先課題は「いま」収益を上げることじゃない。

これから何百年も安定的に継続することです。

株式会社の経営と国家経営はまったく別のことです。原発推進派はそれを混同してしまっている。


社会が成熟すれば経済活動は必ず停滞する。

生身の身体の欲求に基づいて経済活動がある限り、「衣食足り」れば消費は頭打ちになる。

成熟社会では人口が減り、消費活動は不活発になる。

成長しない社会において、どうやって国民資源をフェアに分配するか、

この問いに答えるためにはそのための知恵が要ります。

でも、わが国の政治家官僚も財界人も学者もメディアも、

誰一人「経済成長が終ったあとに健康で文化的な国民生活を維持する戦略」については考えてこなかった。

・・・

相変わらず「パイが膨らんでいる限り、パイの分配方法に国民は文句をつけない」

という経験則にしがみついている。

実態が伴わない言葉の氾濫と経済政策は無関係だけれど、

不本意に溢(あふ)れてしまって苦しいのに、その苦しさに自覚的になれない

という部分ではどこか共通しているように思える。


「そうではない」という人に対して、

「そうではないことはない。そうなんだ」と主張する力のある言葉を私は持たないけれども。

2014-08-31

白洲さんと新しさ

仕事のリズムが変わり、ブログを記す習慣も消えてしまいそうな状態。


以前は、その週に感じた特異なことを、

ある程度掬(すく)いあげる役割を果たせていたけれども、

その特異点が特異点のまま、記憶の隅に放置されている。


例えば7月の初め、仕事の出先の昼食後、

白洲正子さんの「私の百人一首」という本を公園のベンチで読んだ感覚も、

書こうと思いつつその機を逃してしまった。

ただ、関心事は固定されたままのようで、

昨日、本屋さんに行き、青土社の棚を眺めていたら

ユリイカ臨時増刊号「白洲正子」(1999)、「百人一首」(2012)が目に留まる。

白洲さんの本は最近出た本なのかと思い購入したけれども、

文章を寄せている人は冒頭から前登志夫、多田富雄、鶴見和子辻井喬と続くが、

皆ここ数年に亡くなられた人ばかりである。

しかし、かといってこの本が古びてしまっているわけではなく。

鬼籍に入っていることが古典としてあたりまえのように感じられることが、

白洲さんらしさである気もする。


別の書棚で

レナード・コーレンというアメリカ人によって記された「わびさびを読み解く」という本を購入する。

本国では20年近く前に出版された本であるが、日本語訳として出版されたのはつい最近今年6月末。


27ページに

モダニズム」と「侘び寂び」の差異について整理されている箇所があり興味深い。

モダニズム / わびさび


01:主として公の領域で表現される / 主として私的領域で表現される

02:論理的、合理的世界観を示唆 / 直感の世界を示唆

03:絶対的 / 相対的

04:普遍的プロトタイプ的解決策を模索 / 個人的で型破りな解決策を模索

05:大量生産・モジュール方式 / 一点もの・可変的

06:進歩への信奉を表現 / いかなる進歩もない

07:未来志向 / 即今志向

08:自然制覇を信じる / 自然が基本的に制御不能であると信じる

09:テクノロジーを美化 / 自然を美化

10:機械に順応する人々 / 自然に順応する人々

11:形の幾何学的構成 / 形の有機的構成

12:比喩的には箱(直線的・正確・ある範囲内のとどまる) / 比喩的には鉢(自由な形・先端が開いている)

13:人工素材 / 自然素材

14:滑らかな表面 / 荒い表面

15:行き届いた管理を要する / 劣化や消耗を受け入れる

16:潔癖さが表現をより豊かにする / 腐食や汚れが表現をより豊かにする

17:感覚的情報の縮小を歓迎 / 感覚的情報の拡大を歓迎

18:曖昧さや矛盾に非寛容 / 曖昧さや矛盾に違和感がない

19:冷たい / 温かい

20:概して明るく鮮明 / 概して暗く不鮮明

21:機能と使い勝手が主たる価値 / 機能と使い勝手をあまり重視しない

22:完全な物質性が理想 / 完全な非物質性が理想

23:恒久的 / あらゆるものに季節感がある


このように整理したがるのは、そもそもモダニズム的精神かもしれないが、

22番目の「完全な非物質性が理想」というのは、確かにそのとおりかもしれないと思う。


侘び寂びの復権を主張するわけではないけれども。

「進歩や新しさに強い価値を見出す時代は、もうこれくらいでいいのではないか」

という気持ちは以前からしており、全然そんなことなくても、

私個人だけでも、そこから脱してもよいのではないかと思っている。

私の百人一首 (新潮文庫)

私の百人一首 (新潮文庫)

ユリイカ1999年2月臨時増刊号 総特集=白洲正子

ユリイカ1999年2月臨時増刊号 総特集=白洲正子