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鍵っ子もここまでくると致命的ですね(褒め言葉)

競馬サブカルチャー論・第15回:馬と『CLANNAD』MilkyHorse.comの馬法学研究会
なぜかインスパイアされたようですが、ONE(通常版)、Kanon(PC版)、AIR(PC版)をプレイ済/KanonAIRアニメを閲覧済で肝心のCLANNADをプレイしていない状況なんで、CLANNADそのものの解釈に踏み込めないのが残念だな…公称80時間(えー)で思考停止してしまったもんでなんとも。そもそも、そこまでしないと語りつくせない世界を、PCゲームという媒体で演出する必要があるのかというのはどこかにあります。

激しい長文でこれ書くのにどれくらいの時間を費やしたんだ?とも思いますが(笑)、やや強引に家族というものへ引き釣りこんでいく論調は、ちょっと強引かもしれないかもと思いました。要所要所でツボを押さえつつも、どうしてもエントリー全体がやや無理のある展開のように見えるのは、全部が全部id:milkyhorseさんが同意できる意見ではないというのもあるのではないでしょうか。さすがに注釈のリンク先まで読みきれない、というのもあります。

本作をやっていない以上、核心に触れられないというのはある意味で致命的ですが、以下いくつか気づいた点を。

  • elfからLeafそしてkeyへ…っていうのは、時系列として並べられるとそうでしょうが、どうもしっくりこないかなと。少なくとも、To Heartっていう作品は痕、雫と相当異なるものだと思いますし、Leafの流れからみてもちょっと毛色が違うかなと。
  • 性的描写の存在意義ですが、すでに確立されていた18禁ゲームの販路でもって、Keyは作品を売り出そうとしていたというエントリーをどこかで見た記憶があります。全年齢版でもなお揺らがないストーリーは、はじめからそんなものはいらないということを裏付けるものでもあります。key作品は本質的にその意味での性的要素がいらないと。
  • 恋愛と家族愛ですが、恋の延長線上に家族があるのかというと、ちょっと違う気もします。恋愛と家族愛は同じ好きでも異なる感情なわけですから、どこかで断絶があるともいえ、決して連続的なものではないと思います。恋愛は盲目的なもので、家族は排他的なものといえますが、恋愛を発展させて家族へ…というのはそれだけが家族への道ではないはずです。家族を表現したいのなら、それ以外の道(しかしそうなると、そもそもギャルゲである必要がなくなってくるけれど)もあるはず。
  • と考えると、ONE、kanonAIRCLANNADを一続きなものと見ていいのか?という疑問もあります。三作品は非日常を浮かび上がらせた上で(えいえんはあるよ、夢を見ていた、the 1000th summer)日常を描き出すというような手法をとっていますが、CLANNADもそうなんですかねえ、とか。
  • 注釈にある堀江由衣に反応してしまうのもどうかと思いますが、key作品自体にはそもそも(CLANNADも)声がないはずです。「はわわ」と「うぐぅ」はそもそも別のレーベルですし、それなら「にはは」はどうなるんだ、なんていうおとぼけ的展開もありですが、エロゲ・ギャルゲにおける声を考えるという意味では、別作品でもって持ち出すほうがよろしいかと。あくまでアニメにおいて堀江由衣という存在にスポットが当たるわけですから、それはそれで別次元のお話です。(だから注釈にあるんじゃないのか-;)

と、つっこんでみましたが、やはりつっこませるにいたった最大の要因は馬と強引に結びつける妄想を展開し切れなかったことに尽きるのではないかと(えー)。ただ、想いはきっちり受け取りました。ごちそうさまでした(えーえー)。


ところで、KanonAIRの主題歌となると(もはや古典的な)I'veサウンドへの1つの入門*1でもあったわけですが、川田まみやらKOTOKOなんかがアニメ主題歌として(灼眼のシャナでは高橋洋子石田燿子をEDに追いやって)存在している昨今こちらの方がもはや入門ともいえるわけで、I'veの商業戦略はある意味で成功してるわけですが、ただその先にあるものは?なんていうのはあったりなかったり。そういやえい子先生がひぐらしのなく頃にOPだったか。誰がこんな展開予想したよ。

*1:厳密にはちょっと違うというのはさておき