「嗤う伊右衛門 」  (2) ズレと日本と

 まずこの作品で最初に確認しておきたいのは、これが、広くしられた物語を再構築したものであることだ。
本来の四谷怪談は、伊右衛門が出世欲と(色?)欲に目がくらみ、妻のお岩を薬で毒殺、梅と結婚するが、彼女ともども岩に呪い殺されるという話である。
 が、この伊右衛門では、伊右衛門は一人身から、宅悦らの紹介によって、すでに病気によって顔のただれた岩と夫婦になり、その後いやいやながら別離、伊藤の策略で梅と結婚する。そして、岩は、のろい殺すも何もしない。周囲の人々を殺すのは、伊右衛門本人。死した人間でなく、生きた人間である。
 この「再構築」−すなわち、元の話との構図のズレーというのが案外ラストとつながってくるのではないかと思っている。

さて、岩は、「正しい女」として描かれている。何かと「お家のため」と言い、また岩の顔を恥ずべきものとして捉える父親に憤慨する彼女は、自己を主張する、この時代の女性としては特異な存在である。彼女の行き方は「正義」であり、それは社会制度にことごとく対立する。そして、彼女の言い分は、確かにことごとく正しい。
 が、彼女の悲劇は、そこにある。正しいから、なぜ世の中が正しくすすまないのかがわからない。伊右衛門のために身を引いて離縁をしたはずなのに、なぜ彼が幸せになっていないのかが分からない。正しい行いをしたのに、正しい方向に物事が進まないのが、理解できない。彼女の狂乱の理由は、そこにある。

一方、伊右衛門は少年時代に、父親の介錯をしたということが心の傷となり、真剣を持たない、「人を切るつもりはない」と明言する侍である。彼はけして「笑わない」のが特徴であるのだが、その人生は流されるまま、が身上だ。多くを語らず、多くを望まず。流されるままにお岩と結婚し、民谷家を継いだ。

この二人が、夫婦となり、互いを愛し合うようになる。岩は伊右衛門の優しさに幸せを見出すし(それは初夜の次の日の朝の彼女の顔色さえ変える)、伊右衛門は彼女の「正しさ」と、おそらくその「激しさ」−彼が当の昔に捨て去ったものであるーに惹かれた。映画は伊右衛門がぼろぼろの、穴の開いた蚊帳で休んでいるところからはじまるが、この彼の「結界」−傷つき、ボロボロとなりながらかろうじてはった結界であるーの中に入ることが出来たのは岩だけであった。二人は正真正銘の夫婦であった。
 が、それをねたむのが伊藤であった。彼は街中から若い娘をさらってきては犯し、義理の妹に当たるお梅をたびたび犯してはらませるなど、非人間として描かれているが、彼にはこの、お互いを補い合って完璧となった夫婦の存在が面白くない。うそを駆使し二人を離縁に追い込む。岩は後にこの事実を知るが、「正しい」岩はこの意味のない悪意が理解できなかった。意味のない悪意によって自分の正しい行いが、伊右衛門のすすむべき正しい道へとつながらなかったのが、理解できなかったのだ。

さて、岩と離縁した後の伊右衛門は、彼を切望する梅には情けだけをかけ、彼女と伊藤喜兵衛の子を、その純粋さゆえ、そして唯一の民谷の跡取りとして愛することで日々を過ごしていたが、岩の狂乱を見て全てを知り、そして、子の死ーそれは彼が岩の父親から請け負った「責任」が全て終わったことを意味するーによって、全ての決着をつけることを決意する。

彼はまず刀を買い、菊の文様の櫛を(岩に)買う。
そして、伊藤喜兵衛が梅を抱きにきたその日、きれいな蚊帳の中に置かれたきりの箱に座した伊右衛門は、直助と喜兵衛の対決を静観し(これについては語らないが、この二人の対決はエゴそのもの、と表面化した無意識のエゴの世界である)、梅に成敗の刃を振り下ろした後、結界である蚊帳の中から姿を現す。向かうは喜兵衛。結界から出た伊右衛門は饒舌である。伊右衛門が自分の感情を口にするのはこの場面だけだ。そして喜兵衛を斬り捨て、血まみれの部屋のなかで、この顛末を導いたのはもとをただせば岩の父親だったことを又市に聞き、うなづいて言う。「岩を渡したくなかったか。俺が、もらった」そして、わらう。

しばらくして見つけられるのは、解体された民谷家の中の桐の箱に眠る岩と伊右衛門、そしてそこにおかれた岩の櫛と、伊右衛門の刀であった。

さて、長々とストーリーをなぞったが、この、二人と共に残った、菊の櫛と、刀にこそ、私はなにか意味があるのではないかと思ったのである。

桐の箱の中に残ったのが、「菊」の櫛と「刀」であったなどというのが、偶然の産物であるとは到底思えないのだ。(3)へ