デボラ・ウィンガーを探して

「デボラ・ウィンガーを探して」    自己探索でハリウッド批判

 TOTOという1980年代を風靡したアメリカのバンドがいる。彼らの代表曲は「ロザーナ」で、当時TOTOファンだった私は、それが、キーボードのメンバーの彼女の名前から取られた歌だと知っていた。ロサンゼルスの新進女優で、ロザーナ・アークエット、という名前だと。
 その後彼女は「アフター・アワーズ」「マドンナのスーザンを探して」などでコケティッシュな魅力を振りまいたものの、なんだかパっとせず、「グラン・ブルー」で、「Go, go and see my love"なんてセリフを聞くまでは、彼女が力のある女優だということすら忘れてしまっていたほどだった。
 その彼女もいつのまにか40代になり、ドキュメンタリー映画のメガホンを撮ったと聞いたときには、びっくりしたものだ。そしてそれが、この映画「デボラ・ウィンガーを探して」である。

 女優は40代になるとハリウッドで急に仕事がなくなる、という。子供にも、パートナーにも、もちろん時間は割きたい。けれど、いい仕事はしたい。ここで仕事を捨てれば、平穏な暮らしが待っているけれど、今まで築いたものも失いたくない。けれど、何の仕事でも、というまでには気持ちを持っていけない−デボラ・ウィンガーは、ある日急に女優を引退した。彼女はなにを捨て、なにを選んだのかー

それを、総勢35人の女優たちの生の声とともに探って行く。それがこの映画でのロザナ・アークエットの「旅」だ。

 登場する女優達は、もちろんデボラ・ウィンガー(「愛と青春の旅立ち」のヒロイン役で一世を風靡した)をはじめとして、メグ・ライアンホリー・ハンター(「ピアノ・レッスン」)、メラニー・グリフィスやグイネス・パルトロウに、妹のパトリシア・アークエット(「トゥルー・ロマンス」)、ジェーン・フォンダシャロン・ストーンなど、主役級の女優たちに加え、どこかで見たことのある準主役級の女優たち(個人的には、テリー・ガーやテレサ・ラッセルを見て声を上げてしまったが)など、とにかく豪華である。女優業を長く続けているからこそ、彼女たちから生の声を聞くことが出来た(そして、それを映画とする許可を得ることが出来た・・こちらのほうの功績が大きいのかもしれない)のであろう。

 これは、たとえば、リンダ・マッカートニー(ポール・マッカートニーの故妻で、写真家)の写真が、イギリス音楽陣のそうそうたる顔ぶれの素顔をとらえていることで評価が高いこと、リー・ミラー(写真家)の初期の写真がシュールリアリスムを語る上での大切な資料となっていること、などと同じ、その場にともにいることの出来る人間(この場合は同じ女優であること、だ)の特権を最大限に利用した芸術作品である。

 われわれが女優たちの生の声を聞くとき−特にそれが女性であればあるほど、彼女たちがハリウッドをしょって立つ存在でありながら、まるで日本に住んでいる普通の女性と同じ悩みをかかえていることがわかる。そして同時に、女性が男性に「こうあってほしい」と投影されるのと同種でもっと強力なもの−スターであるために投影されるイメージーとの狭間にも苦しんでいるのだ、と。アークエットは、自分という一女優の悩みが、実は全ての女性に共通の悩みであることを暴き出していく。「全ての女性は女優だ」・・「オール・アバウト・マイ・マザー」のアルモドヴァルの言葉が、新たな意味を持つ瞬間だ。

 これは、アークエットの自分探しの旅であり、われわれ観客の自分探しであり、そして同時に、「自分探しの旅」の形を借りた、一方的に女性のイメージを決め付けて映画を製作しようとする(女性は若い、か年寄りか、の二つの範疇でしか描かれない)ハリウッドへの、そして社会への、痛烈な批判映画でもある。

 ねぇねぇ、あの有名女優さんが、私生活を語ってるー!

そういった視点のみではなく、女性全体に共通する問題と、そのさりげなくも痛烈な社会批判のほうに、是非耳を傾けてみてほしい映画である。