砂と霧の家  

砂と霧の家  アメリカが砂の国を覆い尽くす

 アンドレ・デュバス三世原作による、ひとつの家を巡る物語である。

 キャシー(ジェニファー・コネリー)は、夫が出て行った精神的ショックからうつ状態に陥り郵便物を放置した結果、ささいな税金滞納で亡き父の唯一の財産を郡から差し押さえられ、競売に掛けられてしまう。

 物件を手に入れたのは、イランからの政治亡命者、ベリーニ(ベン・キングスレー)。軍の幹部であった祖国での暮らしを捨てきれない妻と思春期の息子のために、家族に隠れて昼夜肉体労働をしている彼は、この昔持っていた別荘に似た家を元手に、転売で資金を得ようと考えていた。
 ひとつの家に、二人の思いが交差したそのとき、悲劇のストーリーが始まった・・。

 
舞台はサンフランシスコ、そう、霧のサンフランシスコ、である。キャシーはそこで生まれ育った。
一方、ベリーニはイランからの亡命者である―その祖国は砂の国、だ。

霧は、キャシーを、そしてアメリカを意味し、砂は、ベリーニを、そしてアメリカの他の国(それはアメリカが侵攻し続ける砂の土地といえるかもしれない)を意味する。

霧と砂の家とは、キャシーとベリーニの家であり、そしてそのどちらも、くずれやすくもろいのだ。

以下批評となりますので、ネタバレがふくまれます。また、ストーリーの結末も含まれますので、ご注意ください。

「霧」であるキャシーはアルコール中毒で、精神が不安定であり、夫に捨てられ、家を失った傷を、他人の夫で、そしてアルコールで癒そうとする。彼女の家への執着もまた、父親への思い出のみならず、離れて暮らす母親へ事実を話すことが出来ないという「事実」を隠そうとする結果でもある。彼女は実体のない「霧」の中で自分を保とうとする。それは彼女がいつもタバコの煙の向こうで話をすることにも、あらわれている。彼女が「家」を訪れるとき―そこには深い「霧」がたちこめているのだ。

「砂」であるベリーニは、日雇い労働の中で「砂」にまみれながらも、それを駐車場のトイレで洗い流すと、スーツを着て我が家に戻るーという生活を送っている。妻はイラン時代と同じ暮らしを送ろうとし、彼もまたそれを支えようとするが、嘘の上に成り立った家庭は、足元から崩れていく海岸の「砂」の城のようなものだ。妻を承諾させ、かつて持っていたビーチ沿いの別荘に良く似た家を安く手に入れ転売することで資金を得ようとするその発想自体も「砂」のようにもろく、景気の動向もあり上手くいかない。 郡から家の返還命令が来ていることも家族に隠す彼の「砂」の「家」に飾られるのは、「砂」の国での要人たちとの写真だ。アメリカに住みながら、アメリカに暮らしていない―それがベリーニである。

 互いが互いの理由のためにひとつの家に執着するとき、そしてその「理由」がどちらも実体のない、もろくくずれやすいものであるとき、失われるのは、本当に大切な「実体」、魂の家たる「血肉」である。そしてこの映画では、本当に失われる「血肉」は、ベリーニ側だ。

 失われる瞬間になって初めてベリーニは「砂」よりも「血肉」が大事であることに気づくが、時はすでに遅い。そしてもっとも大切なものを失った彼は、妻も、そして彼自身も「砂」のまま死ぬことを選ぶのである。なぜなら彼の生きる世界にはもう、本当に大切な「家=血肉=家族」はいないからだ。

 一方最後の一連の悲劇をひきおこす原因は不安定なキャシーの言動にある。キャシーの「霧」はベリーニ一家を覆いつくし、そして結局は彼らを皆破滅させてしまうのである。ラストシーンで遺体を引き取りに来た警察に「あなたの家ですか?」と聞かれた彼女は、「いいえ」と応える。彼女の涙とも言える雨の中で、けれどいつものようにタバコの煙の向こうで。

 これは、実体のないものに突き動かされる二組の現代人たちの話であるのと同時に、アメリカのマジョリティーたちとマイノリティー(移民たち)の寓話のようにも私には思える。

 弁護士事務所でベリーニが見かける差別に関するポスターや、キャシーの恋人の副保安官による移民に対する暴言や偏見、そういったものがしっかりと描きこまれているからだ。
 典型的なアメリカ白人であるキャシーと、政治難民であり、アメリカに馴染めない存在であるベリーニ一家。そのベリーニ一家はキャシーというアメリカの「霧」におおわれて破滅してしまう。双方が納得のいく方法もあったのに、そうはならないのだ。※1

 ひとつの「家」をマジョリティーとマイノリティー(しかも「砂」の国からきたというのもまた示唆的だ)がとりあい、法がからみ、銃が絡み、そしてマイノリティーが破滅する。その破滅を引き起こしたのを目の当たりにして初めて、「私の家ではありません」というキャシーは本当に何かを悟ったのか―彼女のタバコの「霧」の中では、その答えは謎のままだというほかないのである。

映画として 10/10 (原作の意図を非常に上手く抽出し映像化していると思われる)
演技 10/10


※1納得のいく解決策をつぶしてしまうのは、直接的に保安官が脅しに使う「銃」であることは、興味深い。映画の中には「銃を使うものは弱者だ」というセリフまである。