築島 渉 (つきしま わたる)



両親が映画好きなのと、有楽町界隈の育ちだったため、子供のころから映画は空気のようなもの。

元来の専門は、アメリ現代文学、思想。
批評理論や思想(特に現象学)から文学を読んでいたのを、手を伸ばし映画批評を書くにいたる。

映画の意図を汲み取る、がコンセプト。


ちなみに、idは飼い猫の名から。

原稿のご依頼、および批評のリクエストは
mailto: driedfish@hotmail.co.jp
まで




お知らせです

 このサイトに今まで来てくださっていた方々へのお知らせです

もしも私めの書きものに まだ興味をお持ちでしたらどうぞmixiのほうに来ていただけたらと思います。

http://mixi.jp/show_friend.pl?id=22197177

こちらではニュースからのエッセイをかいております。

また、もしいらっしゃいましたら どうぞ映画観覚から来たとひとことおっしゃってください。歓待いたします。

お知らせでした。

レディ・イン・ザ・ウォーター

 私はシャマランに甘い。それは、彼が短編小説として映画を扱っているからだ。

 「短編小説とは、暗闇でのキスのようなものだ。」−ホラーの帝王スティーブン・キングは、いくつものすばらしい短編を発表しているが、その彼の言葉である。暗闇でのキスはもちろん驚くものであるのと同時に、その暗闇の中に誰がいるのかを探り当てていかねばならない。

シャマラン映画はいわゆるラストでのどんでん返し(暗闇のキス)で知られ、それを期待した観客や批評家と、そこにとらわれながら抜け出そうとあがくシャマランの姿勢がどうにもかみ合わず、前作「ヴィレッジ」でも賛否両論を、その前作「サイン」ではとりわけ期待を裏切ったと言われてきた。
 さてではこの新作はどうかといえば、「シックス・センス」のシャラマンという目から抜けきらない観客には、まさにとるにたらない作品に見えるだろう。少なくとも「ヴィレッジ」や不評作「サイン」にすらあった「どんでん返し」はほとんど無く、物語もおとぎ話の色が濃い。

しかし、暗闇の中にいる何か、を探らずにキスだけを楽しもうとするのは間違いというものだ。この映画にはいくつかの暗闇の層がある。

第一の層は、レディ・イン・ザ・ウォーターとして現れる彼女の名が「ストーリー」ということに現れている。もちろんその意味は「物語」だ。

これはクリエーターの中から湧き出たストーリー=物語の昇華の物語である。

「ストーリー=物語」はプールサイドに残された様々なものを水の中に蓄えながら、姿を現す「そのとき」を待ち、そして空からの迎えを仰ぐ。物語をつむぐものは、心の中に様々な日常を取り込み、それを暖める。そしてそれはやがて一つの美しいストーリー=物語となり心の泉からおずおずと顔を覗かせる。

 さて作品中の水の精ナーフ・ストーリーが空へ飛び立つために必要とするのは記号論者(シンボリスト)・守護者(ガーディアン)・職人(ギルド)・治癒者(ヒーラー)・器であるが、ストーリー=物語にとって最初に必要となるのは言葉という記号だ。心を物語にするにはまず言葉へと変換せねばならないからである。
 シンボリストがストーリー=物語を言葉にし、傷を受けるたび(それは校正のようなものを表しているのかもしれない)ギルド(技術を持つ人々)の手助けのもとヒーラー(主人公であり、このプールの管理者、つまり物語をつむぐもの本人)が癒すことで、ストーリー=物語は本来の、ないしそれ以上のものへと再生していく。
また、彼女を受け入れる「器」を演じているのが監督本人であることも興味深い。物語が生まれる泉の器を、シャマラン本人が演じているのだ。そしてストーリー=物語を守る者の目の前で、ストーリーに傷を負わせたものは、他の同じ側の者に捕食され消え、ストーリー=物語は鷹とともに飛翔していくのである。

 一方、主人公クリーブランドがアパート内での「役割」の人物を探す際、彼は初め自称「映画評論家」の男にアドバイスをうける。が、それぞれの役割の「映画の展開的」ステレオタイプに凝り固まったこのアドバイスは、後に全くの決めつけにしかすぎないことが明らかになり、この「映画評論家」は「映画的展開」に目を曇らせたまま、作品唯一の犠牲者になる。彼のにごった目では、ストーリー=物語の真実を見極めることはできなかったのである。
「映画評論家」のくだりに関しては実にまっすぐではあるものの、「ストーリー」がつむがれ、出来上がっていく過程をおとぎ話として描き出すというのは、まさに「短編小説」さながらである。

 この映画の第二の層、それは主人公の過去にヒントがある。クリーブランドは妻子を強盗に殺されたという過去を抱えた元医師(=ヒーラー)であるが、その彼を中心として、ストーリーを空へと「帰す」ためにアパートの住人全体が共同体を作っていく。住人たちがお互いを知り、協力し合うことでまるで子供のように弱く純粋なナーフ・ストーリーは守られ、元の世界へと帰っていくことができる。それは、クリーブランドの妻子が彼の留守中に惨殺されたのとはまさに対照的だ。
共同体が作られることで、子供(のような存在)は守られ、癒され、受け入れられ、そして汚されること無く帰り着くことができる―多種多様な人種、年齢の住民たちの共同体の中で純真無垢な存在が守られるという構図は、言わずもがな現代に必要とされている最も理想的な社会である。
ガーディアンが半身のみの力を蓄えているのは、残りの半身に弱者を理解する力を同時に持っていることを象徴しているからなのかもしれない。共同体の外の小さな草むらにさえ、狼たちは潜んでいるのだ。

 このストーリーという名の水の精を住民たちが空の(妖精の)世界へ帰す、という単純なおとぎ話の中で、シャマランは「物語の創造と昇華」というクリエイターとしての内面を描き、同時に彼の住んでいる現代社会への小さな提案をしてみせている。

 アジアの老女が語る民話は、ユングが語る全ての人類に共通する普遍的無意識であり、創造はそこから湧き上がる。そしてその無意識の中で、人は皆つながっているのだ。
 

インサイド・マン

インサイドマン

かのスパイク・リー監督のもと、「クローサー」での名演が印象深いクライブ・オーウェンを筆頭に、ジョディ・フォスターデンゼル・ワシントンといった演技派が名前を連ね、話題となった作品である。


 ニューヨーク。ある大手銀行の本店で銀行強盗が発生した。人質をいとも簡単に拘束、まさに計画通りといった動きを見せる犯人グループたちに対して、交渉人として呼ばれたのは市警の敏腕刑事フレイザーデンゼル・ワシントン)。が、リーダー格の男(クライブ・オーウェン)と会話を取り付けるも、男は冷静沈着で何を考えているのか読むことができない。
 一方銀行の取締役会長ケイス(クリストファー・プラマー)は、極秘裏に凄腕と名高い弁護士ホワイト(ジョディ・フォスター)にある依頼をしていた・・・。


 「インサイド・マン」は明らかに、俳優陣の演技と、脚本から来る小粋な会話を楽しむ映画である。この映画を「クライムアクション」であるとか「あっと驚く大どんでんがえしが・・」といった説明を鵜呑みにしてしまうと、無いとは言い切れないストーリーの粗のせいで逆にこの映画の面白みは半減してしまうし、作品に見え隠れする意図は汲み取れない。
 
 最大のおもしろみはその「銀行強奪の様子と顛末」ではなく、犯人と交渉人、犯人と弁護士、弁護士と交渉人、といった芸達者同士の会話(英語で言わせてもらえるのなら、verbal fencing match 会話でのフェンシングの試合 という表現が最も適切だと思う)と、演技合戦である。
 話し方から「インテリ」のイメージの強いデンゼル・ワシントンが、この映画ではまさに「ブラザー」を地で行くしゃべりと演技でたたき上げの刑事をリアルに演じているし、一方ジョディ・フォスターは高慢で頭の切れる弁護士という設定を、ただスーツを着て歩いている姿だけで観客に印象付ける。クライブ・オーウェンは表情を崩さない冷静な役柄だが、人質の子供との絡みや刑事との会話などで表情の見えない中に人情味を出すのに成功している。

 三者の会話は駆け引きに継ぐ駆け引きで、いわゆる「狐と狸の化かしあい」の知的なバージョンだし、時節はさまれる犯人特定のための、人質を含む容疑者たちへの尋問シーンはなんともニヤリとさせる。脚本はまさにどこをとっても「粋」の一言に尽きる。(特に犯人が出すなぞなぞの場面は必見!)

 さてこの映画がただの銀行強盗映画でないことを最もわかりやすく示しているのは、登場する人物たちの年齢、人種・国籍の豊富さである。人質の中にアジア人、ユダヤ人(ラビ)、アラブ系(テロ以降の差別についての言及ももちろんある)、鍵となる盗聴を解き明かすのはアルメニア人(その探し方はまさに爆笑もの)、主人公たちは特権階級の白人と労働者風色合いの黒人(だが、同時に交渉人としての地位も備えている)、教育があると思われる「犯罪者」といったハリウッド的ステレオタイプでありながら、部下の頭の上がらない警官には白人(ウィレム・デフォー)を配するといった、脚本のもとからの意図と監督の意図−アメリカが多民族国家であり、民主主義であること―がこの多用な人種配置で表されている。

 また映画最大の秘密を知ると(ご覧になっていないかたのためにあえて伏せておくが)、「拝金教」としての資本主義を民主主義は許さない、という明確なテーマも浮かび上がる。多民族国家的民主主義を象徴する主人公たちの、刑事、弁護士、犯罪者、という構図が実はアメリカの司法・立法・行政という三権をも同時に象徴しているといえなくも無い。そしてこの「拝金教」はその三人によってしっかりと糾弾されるのである。

 かの9.11は事前に情報が入っていながら、政府と大企業、そして中東との結びつきのために公に阻止できなかった、という根も葉も「ある」噂が聞かれて久しい。そうそう、あのテロ後暴落した株を尻目に、金やダイヤモンドといった現物取引の投資家たちは、大もうけをしたのだったけ―。

この映画の根底は、そんな行き過ぎた資本主義国、アメリカへのスパイク・リー流の小粋な風刺なのかもしれない。

ヒストリー・オブ・バイオレンス

ザ・フライ」で知られるカナダ人監督デビッド・クローネンバーグによる、グラッフィックノベル原作のクライム・ムービーである。


 アメリカ、インディアナ州。平和な田舎町でダイナーを営み、家族と平和な暮らしを営むトム(ヴィゴ・モーティセン)。彼の店に強盗が押し入るが、トムはそれをあざやかな手さばきで始末する―まるでプロの仕業のように。
 一躍英雄としてマスメディアの寵児となった彼のもとに現れたのは不気味な男、フォガティ(エド・ハリス)。町に出入りし始めるマフィアの姿と、トムの別の顔を知るというフォガティがトムの平和な毎日に影を落とし始める・・。


 「ヒストリー・オブ・バイオレンス」−このタイトルは、そもそもは犯罪の前科や前歴などを示す。
舞台はインディアナ州アメリカでもっとも平和でアメリカ的だといわれる州であり、そして主人公の名前トム、は平凡であるのと同時に、トム・ソウヤーや「怒りの葡萄」のトムとして、アメリカの善意を示す名前である。
この「インディアナ州」の「トム」の店に訪れた「暴力」−強盗―から、新たな「ヒストリー・オブ・バイオレンス」暴力の歴史と、トム本人の「前科」としての暴力の歴史が幕をあける。

 そもそもこの映画の始まりは、監督の手腕がさえる長回しによる二人の強盗(というより無情な殺人犯と呼んだほうが妥当であるが)の犯罪シーンに始まる。金を奪うための殺しよりももっと根源的なもの―水を奪う、という行為の中で小さな子供まで情け容赦なく手にかけるこの冒頭のシーンは、内容と関係がないように一見見えるが実はその全くの逆である。この冒頭の場面こそ、「ヒストリー・オブ・バイオレンス」の始まりであり終わりである。

 ダイナーで起こった強盗に対し、他者を守るための正義の鉄槌として下されたトムの暴力は、彼の「ヒストリー・オブ・バイオレンス」を呼び覚まし、ひきつける。彼がかつて究極の暴力として目玉をえぐりだした男フォガティの復讐心は、彼の家族にまで危険を及ぼすが、トムが家族を「守るため」に始めた暴力はいつのまにかたがを外し、ただの「バイオレンス」となりはてる。彼の過去の「ヒストリー」は彼の現在となったのである。
 
 さて主人公が全ての「暴力」を終結させるために行うのは、全ての殺人の始まり―聖書に描かれたカインとアベルそのままの「兄弟殺し」である。ダイナーの客たちを守るために行ったあの正当防衛からは遠くかけ離れた大量殺戮の挙句、兄殺しはあっけなく完了する。主人公の過去は抹殺され、彼の「バイオレンス」もまた、暴力の完全体となって終了する。正当防衛−それは許された暴力として知られている−は、もっとも許されない暴力−人類最初の殺人であり最も忌まわしい肉親殺し−と形を変えて、この映画の「ヒストリー・オブ・バイオレンス」は幕を閉じるのである。

 一方家族のものたちの暴力への反応もまた、見逃してはならない。高校の悪童たちの挑発に知性で応対していた平和主義者の息子にもこの「バイオレンス」は飛び火する。「バイオレンス」はこともなげに思春期の青年へと感染し、広まっていく。

 妻は夫の過去に怒りをあらわにし、夫をまっこうから拒絶しようとするが、夫からのレイプじみた性行為は受け入れてしまう。いわゆる「愛の行為」を獣じみた暴力としても受け入れてしまうのは、もちろん妻側にも潜在的なバイオレンスが眠っているからだ。クローネンバーグはこの唐突に見えるラブシーンで、妻側の暴力への反発と受容を象徴的に描き出す。

 全ての暴力を「完了」させ、食卓に戻るトムを、最も小さな娘がはじめに受けいれ(彼女にとっては暴力は小さなときからの日常となった)、暴力という新たな手段を知った息子が、そしてその潜在的な存在を認識した妻が受け入れる。作品のラストは静かでありながら、実は一番恐ろしい場面であるかもしれない。家族全員が、トムという名の「バイオレンス」を、食卓という日常に受け入れてしまったのである。

 こうして暴力は当初の拒絶反応を沈静化し、日常の一部としてとして沈んでいく。
そして食卓でトムという名の暴力を受け入れた小さな娘が、また別のどこかで、水を手に入れるために何の容赦もなく撃ち殺されるのである。

それが、クローネンバーグの描いた、終わることのない「ヒストリー・オブ・バイオレンス」なのだ。

キングダム・オブ・ヘブン

キングダム・オブ・ヘブン―Showin’ You How to Rule the Land

「グラディエイター」でオスカーを逃した、かのリドリー・スコット監督の超大作歴史作品である。

 時は、12世紀。世界は、「異教は邪教」とばかりに聖地エルサレムイスラム人から奪回し、「エルサレム王国」を築く礎となった十字軍が、ここそこで活躍を続けていた―が、時に、それは「奢り」となり、十字軍当初の宗教的意図が薄れつつあった―そんな時代である。
 フランス。子を病で亡くし、ついでキリスト教者には地獄に落ちるとの理由で禁じられている自死で妻を亡くしたバリアン(オーランド・ブルーム)は、腕の良い、しかし無愛想な鍛冶屋であった。
 そこに「お前の実の父だ」と現れたのが、十字軍騎士で、エルサレムの領主だというゴッドフリー(リーアム・ニーソン)。十字軍に加わり聖地に行こうと誘うゴッドフリーを初めこそ冷たくあしらったものの、エルサレムに行けば全ての罪―自分の罪も、そして妻の自死の罪も―が許されるかもしれないという一心から、バリアンは同行を決める。
 エルサレム王国は宗教的に開かれた素晴らしい国で、隣国のイスラム・サラセン帝国とも和平を保っていた。が、賢明な王ボードワン四世(エドワード・ノートン)の妹で皇女の夫は、狂信的なテンプル騎士団であり、その権力を利用し、サラセンをことがあることに挑発し始める。
 そして、均衡が崩れ、戦争の時代が始まる・・・。


 十字軍については、おおまかな知識があればこの映画は難しくないであろう。エルサレムは、キリスト教ユダヤ教イスラム教という三つの宗教の聖地(著者の院時代の教授は、実際にエルサレムを訪れると、なぜその地が宗教を生み出すのかがわかると言っていた)であり、その聖地を巡っての戦いは、この二千年ずっと続けられているものだ。十字軍は、かつてその信仰心からエルサレムイスラムから奪回、そこで生まれたテンプル騎士団も(エルサレムのソロモン「寺院」がその名の由来である)、白地に赤の十字もまぶしく、治安を維持するために活躍し、イスラムキリスト教の均衡を保つ稀有なエルサレム王国を築き上げた。
 が、後期十字軍は商業的意味合いが強くなり、十字軍を利用した人身売買なども行われたりと、好戦的で、その宗教的意味合いはすっかり薄れていく。
 この映画の背景は、どうやら前期から後期にさしかかるころであるかと思う。

 十字軍は、あえて平たく言わせてもらえるのなら「邪教を排除し、世界をキリスト教にするための」軍隊であった。大義名分となった宗教は、戒律で禁じられているはずの「人を殺すこと」すら可能にする。そして、この作品の中の「邪教=異教」は、もちろん「イスラム教世界」である。

 さて、主人公のバリアンは鍛冶屋―火をつかさどり、武器を作る仕事として、神(ギリシア神)の手下としてや、何かを作り上げるものとしてのイメージを持つ―であるが、彼の人生は一変する。彼の父親ゴッドフリー卿は聡明な騎士で、死に際してバリアンに誓いをたたせる。
恐れず、敵に立ち向かえ。 勇気を示せ。 死を恐れず、真実を語れ。 弱者を守り正義に生きよ
これが騎士として、そして領主としての父の言葉であった。バリアンはこの言葉に忠実に、父の後を告ぐこととなる。
 
 では、十字軍に父とともに加わったバリアンが、先に述べた「邪教撤廃の十字軍」にしたがって生きているかといえば、そうではない。父親の言葉を忠実に守るバリアンは、「キリスト教」を大義名分にせず、常に「自分の魂」−「正しい行いをしようと努力する魂を信じる」というセリフが何度か繰り返される―に従い、「信仰は言葉に過ぎない」と、自分の信念に基づいて行動をする。

     間違った行いにはしたがってはならない 魂は自分自身のものだ

と、和平を重んじるボードワン4世がバリアンに説く場面があるが、この言葉は、バリアン本人が後に繰り返すことともなる、この作品の要の一つである。
バリアンは領主としても、民衆の中に入り、民が本当に必要なものをその身になって考えると、民衆とともに土を掘って水を探す、「民衆のための」領主であった。
 そしてまた、軍を率いる首領としても、攻めることよりも、むしろ「守ること」に知恵を絞り、民衆のことを第一に考える「弱者を守り正義に生きよ」の言葉どおりであった。

 こう見ると、まさに、バリアンは「完璧な領主であり、完璧な軍の指揮者」であった。「真実」を語り、「正義」を行い、常に「民のために」戦うバリアンは、まさに、完璧な「指導者」として描かれているのである。

 一方、バリアンと対照的に描かれている存在もある。宗教を大義名分に、意味のない戦争を仕掛け、最終的にエルサレム王国を壊滅に追いやってしまう、皇女の夫と、その父親である。

キリスト教者であること」を強いる「十字軍」が荒涼とした土地を闊歩し、考えの無い権力者の父と息子が、イスラム社会を「キリスト教」を大義名分に刺激する。

 これほどはっきりと、ストレートに現代アメリカへの風刺を描くと、かえって、監督の意図がわからなくなるのが、この映画の欠点であり、すごいところでもある。あまりにもクリアーな風刺は、かえってその意図が薄れ、ただの「戦国スペクタクル」にしか見えなくなってしまうからだ。しかし、原作の無いこの映画が、監督の手によってこの時代を選ばれたこと、バリアンが「完璧な指導者」であることなどを考えれば、これは、確かに、何らかの風刺の意味が込められているといえよう。
 「人間は神がデザインしたもの」という説を支持し、ダーウィンの進化論を学校の理科の教科書から押し出してまで掲載するほどの「狂信ぶり」を発揮するほどの現アメリカ大統領の片鱗は、「十字軍」そのものにも、そして先の親子にでも、バリアンと対立するあらゆるものに見て取れるであろう。

 一方、イスラム社会やその指導者たちが「悪者」に描かれていないのも、この映画の着目すべき点であろう。彼らは好戦的ではあるが、賢く、その指導者たちは冷静で、その戦いはむしろ復讐の色合いが濃い。双方の指導者が冷静に和平を望むとき、この映画では平和が、双方の宗教が、そして民衆の安全が守られているのだ。
 
 この映画は、監督に言わせれば、現代のみならず、常に絡まってきた、宗教と戦争の糸を普遍的に描いた作品であるのかもしれない。そして、そこでのヒーローは、真に正しく公平で、和平を望み、民衆のために尽力する指導者なのだ。
 しかし、それはまるで、どこかの国の狂信的な指導者に、正しい「国の治め方」、真実の「神の王国」を示しているかのように、私には思えるのであるが―。

 ところで一方、主人公バリアンのあまりに立派な指導者ぶりが、この映画をアンリアルにしているのも確かである。「グラディエイター」の主人公には決定的な苦悩というものがあり、それをラッセル・クロウが男くさく演じて見せたのが見事であったが、バリアンの苦悩―妻の自殺―はとっととエルサレムでの祈りで消えてしまい、その後苦悩する場面も無く、簡単に皇女と恋に落ちてしまう。(これは思い切り「姦淫」の罪であるのだが)バリアンは素晴らしい指導者として描かれているが、その指導者としても苦悩も、あまりにも描かれていない。

 物語を素晴らしいものに、特にそこに主人公の成長物語の意味合いが含まれる場合、「葛藤」はなくてはなくてはならないものである。葛藤をかかえながら、英雄は旅をし、人々を助け、時に恋に落ちるのは、ギルガメシュ叙事詩以来の物語の基本であるのだが、リドリー・スコットの今回の誤算は、「正しい国の治め方」を示し、「スペクタクル」を強調するあまり、バリアンの内面の葛藤を描くのをおろそかにした点であろう。オーランド・ブルームが、どちらかといえば静の役者であることも、彼の演技力とは別に、マイナスとなってしまったのかもしれない。この映画最大の残念なところは、そこであった。

 競演陣の演技は見事に尽きる。ゴッドフリー卿のリーアム・ニーソン、王の右腕ジェレミー・アイアンズとも、賢者である騎士を凛と演じているし、ライ病で顔が見えないながら、病に苦しみながらも高貴な魂を失わない王を演じるエドワード・ノートンの演技も見事である。
 時代考証を綿密にしたという衣装やセット、また、戦闘シーン(バリアンの戦略は非常に見事で、目を見張る!)は、「ロード・オブ・ザ・リング」に匹敵するほどのできばえである。

だからこそ、バリアンの薄さが悔やまれる、作品であるのだが・・。

リドリー・スコットが、これでオスカーを狙えると信じていないことを、祈るのみである。

映画として 7
How to Rule the Land ものとして  100

ライフ・アクアティック

アメリカ版「家族の肖像」

ティーブ・ズィスー(ビル・マーレー)は、名の知れた海洋冒険家だが、大の親友を未知の鮫の餌食として失った上、ドキュメンタリー映画も大コケ、落ち目すぎて新作を作ろうにも出資者も見つけられない状態である。その上妻(アンジェリカ・ヒューストン)とも不仲、まさに「中高年の危機」的状況に陥っていた。
 そこに現れたのが、かつて別れた女性の息子、30歳のネッドである。自分の息子では、と戸惑いながら喜ぶスティーブは、彼を早速冒険家集団「チーム・ズィスー」に迎え入れ、特集記事を組むという妊娠中の記者(ケイト・ブランシェット)までひきつれて、親友の敵討ちをかねた撮影の旅にでるが・・・


 全編をセウ・ジェルジ(シティ・オブ・ゴッド)のギター弾き語りによるデビッド・ボウイーのカバーと、キッチュなポップスを彩り、実際には存在しない(であろう)これまたキッチュな海洋生物(シュガー蟹やクレヨンタツノオトシゴなど!)をところどころに登場させながら描くこの物語は、どこまも「不思議な」物語だ。ウェス・アンダーソンの持ち味は(それは、一般大衆よりも批評家に受ける、短編小説的な持ち味とも言える)「ロイヤルテネンバウムズ」で見られるような、そののんべんだらりとした展開と、奇妙な登場人物たちの奇妙なやり取り、フランス映画に少し似たこじゃれた感じの色使いやセット―といったものだが、今回はその特徴が輪をかけて強調されているといっても良いだろう。

 ズィスーのダメ人間ぶりや、右腕であるドイツ人カール(ウィレム・デフォー)の大人子供ぶり、表情のない妻といったエキセントリックな人物たちが、舞台臭くおしゃれな船のセットの中で不思議な海洋冒険を繰り広げ、展開ものんべんだらりとしているのに、なぜか次に何が起こるのかは全く想像がつかない(!)。退屈なのに、退屈ではない―そんな表現が最も当てはまる映画といえるだろう。

 しかし、さりげなくちりばめられている「イタリア」の象徴―映画はさもヴィスコンティ然としたイタリアの映画祭から始まる―は、実はこれが「家族の肖像」であることを如実に表してもいる。

 ヴィスコンティの「家族の肖像」においては、「家族の肖像画」を集めている孤独な教授が、二階にいついた居候たちとつかの間の家族気分を味わい、(同性愛の匂いを漂わせながらではあるが)その中の青年の一人と親子のような関係を結ぶことになる。

 「ライフ・アクアティック」では、ズィスーと、実の息子であるかはっきりしないネッドが、そして、ズィスーの取り巻きのチーム・ズィスーが、まさにアメリカ版「家族の肖像」−血のつながらない家族関係−を描き出し、それは時に「得体の知れない何か」にそのメンバーを奪われたり、ついたりまた離れたりを繰り返しながらも、時に人知以上の美しいものに出会いながら、いわゆる「人生の航海」−ライフ・アクアティック―を続けていく。(フランス人ならセ・ラ・ヴィ!とでもいうところだろうか) 「家族の肖像」を、ある意味ウェス・アンダーソン風に焼き直したのが本作であるとも、言えるのかもしれない。

 さて一方で、この映画は「ドキュメンタリー映画の裏側」も見せてくれる。世界中でドキュメンタリー映画と銘打ったものに話題が集まっているが(最近ではさしずめ「ディープ・ブルー」などだろうか)、ドキュメンタリーと名がついているものでも、所詮作られたものでしかない―という事実をちらりとブラックに示してみせる。そもそも、この映画そのものが観客にとって死ぬほどうそ臭い!のに(潜水服を着て海賊の基地に乗り込む場面など、今はなつかしドクター・ノオのようだ)、その冒頭などで差し挟まれる「ズィスー」の記録映画―もちろんその背景に映るセットは同じである―は、やけにそこだけがドキュメンタリーのようなリアルさなのだ。その逆説的なアイロニーは、監督によって計算し尽くされたブラックな笑いのひとつであろう。

 ラストの、カールと同じ半ズボンをはいたいかにもドイツ人の少年を肩に乗せて去っていくズィスーの後姿に、ヴィスコンティの「家族の肖像」と、違った意味で、しかしなぜか同じ「変な話だけれど、妙に心が温まる」感を持たせてくれるこの映画は、やっぱり不思議としか言いようがないのである。


映画として 7.2/10
デフォー 10/10