「ソーシャル・ネットワーク」/10年後の「ファイト・クラブ」

2011年最初の大物、「ソーシャル・ネットワーク」を観ました。2回観ました。以下感想をごちゃごちゃと書きますが、本作品および「ファイト・クラブ」のラストに触れておりますのでご注意。

監督:デヴィッド・フィンチャー 脚本:アーロン・ソーキン 出演:ジェシー・アイゼンバーグアンドリュー・ガーフィールドジャスティン・ティンバーレイク ほか

一度目の観賞のときエンドロールを眺めながらまず真っ先に思ったのは、「『ファイト・クラブ』の10年後にこれを撮るフィンチャーまじヤベエ!」ということだった。「ファイト・クラブ」が2000年前後の「時代の感覚」を見事に映像化した作品と言われるように、「ソーシャル・ネットワーク」もまたまさしく「今」を描き出した作品。「ファイト・クラブ」と共通する部分を含みつつ、しかしあの作品が捉えた時代の空気とは紛れもなく異なる新しい時代の空気を映し出している。フィンチャーは「ファイト・クラブ」から10年分しっかり時代を更新してしまった。このことは、「ファイト・クラブ」が時代の映画になったのは偶然ではなくまさしくフィンチャーの手腕によるものだったという証明でもあるし、何より50歳近い彼の「時代を捉える目」は衰えるどころかより一層シャープに研ぎ澄まされているという驚きの事実をまざまざと見せつけているように思う。「ファイト・クラブ」の10年後にこれができてしまうからすごい。やっぱり「ソーシャル・ネットワーク」は10年後の「ファイト・クラブ」だ。

ソーシャル・ネットワーク」も「ファイト・クラブ」もその時代にぴったりフィットした青春映画だと思う。かたや世界最大のSNSを「創造」した男の物語で、かたや消費文化に蝕まれた社会を根底から「破壊」しようとした男の物語であるが、熱狂と喧騒をくぐりぬけ最後に二人が立っている場所は同じであるように感じられる。つまりどちらも青春の終焉というか、大人あるいは独立した一人の市民としてフラットな地点に降り立つまでを描いているんじゃないかと思う。「ファイト・クラブ」で主人公が崩れ落ちていくビル群を眺めながら、マーラの手をとりようやく彼女と向き合ったように、「ソーシャル・ネットワーク」のマーク・ザッカーバーグもさながらロックバンドの伝記のような慌ただしい物語を駆け抜けて、ようやくエリカとコミュニケートしようとする。しかしこのときマークは、彼女に会うためにビルを飛び出したわけでも、電話をかけたわけでもなく、自らが創り上げたFacebookで友達リクエストを送るのだった。ここで、「ネット世代の若者のコミュニケーションはここまで空虚なものになってしまったという皮肉だ」と分析するのはあまりに安易で退屈。注目すべきはようやく主人公が一個人として一人の女性と向き合おうとする点だと思う。しかしここでコミュニケーションの手段がインターネットになっている、というのも忘れてはならない点で、このラストシーンこそ「ソーシャル・ネットワーク」が10年後の「ファイト・クラブ」であることを端的に示していると私は思う。「ファイト・クラブ」の主人公と同じ地平に立ち、同時にこの時代だからこその手段でコミュニケーションをとろうとする。このラストシーンが終わってエンドロールに入る瞬間、私はゾワッとした。なんて秀逸で素晴らしいラストシーンだろうと思って。

ソーシャル・ネットワーク」は基本的には非常にオーソドックスな人間ドラマを描いた作品で、数々のロックバンドの伝記や「ロード・オブ・ドッグタウン」のような青春映画と似た雰囲気をもつ。しかし主人公が選んだのは、バンドを組むことでも、スケートボードを練習することでもなく、ウェブサイトを立ち上げることだった。この作品が描くのは「ネットならでは」の物語ではないけれど、しかしインターネットがこの作品にとって重要な要素であるのも間違いない。このシンプルな青春ドラマを現代のフォーマットで描いたアーロン・ソーキンの脚本がまた素晴らしかった。圧倒的なセリフ量と緻密な構成で「時代の感覚」を会話劇として見事に立ち上げている。それをフィンチャーはあの彼らしい疾走感で一瞬もたゆませることなく最後まで一気に魅せきってしまう。ソーキンの脚本に書かれた一つ一つのセリフ、動作がひたすらかっこよく気がきいていて、それをフィンチャーがひたすらシャープにビシッときめてしまうから、とにかく気持ちがいい。ほぼ全てのシーンで唸り、ゾクゾクしてしまった。そしてフィンチャーは、この時代の喧騒とも言うべき活気までも完璧に映像化してしまったように思う。新しいことがたくさん起きていて、非常にエキサイティングで、しかしその熱気がいったいどこへ向かうのかはまだよくわからない、そんな時代の空気がこの作品を観ていると感覚的に伝わってくる。だから私は1回目の観賞のとき時代のざわめきのようなものを感じて、この作品をうまく飲み込めなかった。このザワザワした感覚は何だろうか、と。しかしその後作品を振り返ると、この作品をこの世代の若者としてリアルタイムで観ることができて心底嬉しいと感じるようになった。だって「ファイト・クラブ」をリアルタイムに観ることができなかったのは本当に悔しいのだから。

なぜフィンチャーは空気のように目に見えない「時代の感覚」なるものをかくも見事に映像化できてしまうのか。それは私なんかにはわからないことだけれど、一つ思うのは、フィンチャー現代社会を鋭く射抜いた作品を撮る一方で、皮肉や社会批判といったものからはたいへん遠くにいるように見えるということ。この作品を「バーチャルに依存したネット世代の空虚な人間関係に対する皮肉」と評する、半ばネット世代への偏見ではないかと思うレビューがいくつか散見されるけれど、フィンチャーはまったくそんなふうにこの時代を捉えてはいないと思うのだ。彼はいつだってフラットな視点で時代を眺めているんじゃないだろうか。この作品ではムーブメントの熱狂を描きつつ、彼自身はこれっぽっちも熱狂していない。ひたすら冷静に、というと少しお仕事的、事務的だから、ひたすら「クール」に膨大な情報をさばいている。だから時代の熱気を映し出すと同時にどこかひんやりとした感触も残す。フィンチャーは本当にクールな監督だ。「クール」であることがかくも重要であったFacebookの創設期を描いた作品が、フィンチャーによって撮られたのは必然だったのかもしれないと思うほどに。

だから私は10年後のフィンチャーに今から期待してしまう。彼の時代を見る目とそれを映像化する手腕は年齢によって衰えるものではない、ということが「ソーシャル・ネットワーク」を観てわかった。10年後も映画を撮っていれば、彼はきっと「10年後の『ソーシャル・ネットワーク』」を撮るだろうと思う。そのときも私はこんなふうに時代のざわめきを感じられるだろうか。フィンチャーについていけるだろうか。