三木清:獄死前後9

 少し遡らなければならない。細かい詮索など意味がないのだが、ただの個人的な整理である。
 といっても、私は「歴史探偵」などとは程遠い、ただの素人である。例えば、「分からない」と私が書くのは、「史料がない」という意味ではなく、ただ私が「知らない」というだけのことであるのでご注意を。
 なお、先に「市川氏」などと書いたが、以下では敬称を略させて頂く。心理的には敬称なしでは書きにくい場合もあるのだが、全略で失礼する。
 さて、26日の午後、三木清が豊多摩拘置所で獄死した。これは間違いない。
 27日の早朝、東畑精一宅に拘置所から電文が届く。
 多分28日の夕方、東畑が岩波の布川角左衛門を伴って遺骸を引き取りに行き、荷車で高円寺の自宅に戻る。自宅といっても、前年に妻を亡くして埼玉に疎開していたから、留守宅である。
 疎開は森宏一の世話で、空襲火災から守るために本を疎開させ、妻の死後、親子も移れる家を探してもらい、農家の納屋の2階(元蚕部屋)に落ち着いた。食事は、農家の人々と一緒に母屋で摂っていたので、3月の終りに三木が上京して逮捕された以後も、娘洋子は一人で空襲の東京へ帰ることなく、埼玉に残って学校に通っていたのだろう。推測であるが。
 留守宅は、囲碁仲間の野上彰に頼んでいたらしいが、多分住んでいたのではないだろう。関連するが、前妻の喜美子は、結婚にあたって、実家の東畑家から老家政婦を連れて嫁入りしたが、三木が再婚後までは残っていなかっただろう。2度目に妻を亡くしてから疎開までは短期間であるが、頼んだ老家政婦が食料一切を持ち逃げしたという事件もあり、いずれにしても、疎開後は誰か家政婦が残ったというようなことはなく空き家になるので、野上彰に管理を頼んで疎開したのだろうと思われる。もちろんこれらも全て推測である。(なお、「家政婦」は当時の用語ではない)。