2012-01-20
梅の香のトライアド
あけましておめでとうございます。
年末年始は京都に行ったり、鍋をつつきながらウノをしたり、南仏料理を食べ、映画を観たりして過ごしました。実家に帰っておせち料理を食べ、靴を新調して、水と塩を注文し、たくさん本を買った。
周りのひとたちが「今年の抱負」を語っているのをみて、あわてて今年の戦略をと思ったけれど、一年間の青写真というとスパンが長すぎて上手くスキームを立てられない。ぼくの場合三ヶ月くらい先の見通しが限度で、100日以降の未来と言われても想像の他みたいだ。なので春先までの計画を手短に書きます。これらは自分の備忘のためであって告知ではないのであしからず。
まず今月は、じゃぶじゃぶと新曲を書く。これはファーストプライオリティー。録音をして、編曲やサウンドクリエイションをどうするか、どんな楽器を使うか、あるいは誰に依頼するかを決める。来月以降の作品作りのマスタープランみたいなものですね。それと、そうだ。デュシャンの展示に行って、ブレッソン特集を観に行く。この二つは何が何でも成し遂げなければなるまい。それから、友人の展示に行って、新年会に行き、迎春会を開く。ピアノを練習し、カレーパーティーもする。
来月は、、、止めよう、二ヶ月分の計画を遂行できる自信がない・・・。
ともあれ、今年もみなさんに万福がありますように。
■
http://blog.tatsuru.com/2011/12/29_1301.php
―ある語を書き付けると、それに続く可能性のある語群が脳内に浮かぶ。
原理的には、文法的にそれに続いても破綻しないすべての語が浮かぶ(ことになっている)。(中略)
自分の思考はあたかも一直線を進行しているかのように思える。
ふりかえると、たしかに一直線に見える―
これは文章を書くときに起こる「パラダイム」についての考察だけれど、このテキストの「語」を「音符」に、「思考」を「音楽」に置き換えると、ぼくにとっての作曲行為・経験的な作曲において、もっとも枢要なことがらを言い得た文章になる。
五線譜にドの音を置き、その上に、あるいはその次の余白に何の音を配置するか、あるいは配置しないかを考え、またその次の音を紡いでゆく繰り返しにおいて12平均律の作曲は達成される。あらゆる可能性を吟味し、何を優先的に配慮するかを考え続けることこそ、作曲の本質だ。(たぶん)
―例えば、「梅の香が」と書いたあとには、「する」でも「匂う」でも「香る」でも「薫ずる」でも「聞える」でも、いろいろな語が可能性としては配列される。私たちはそのうちの一つを選ぶ。だが、「梅の香がする」を選んだ場合と、「梅の香が薫ずる」を選んだ場合では、そのあとに続く文章全体の「トーン」が変わる。「トーン」どころか「コンテンツ」まで変わる。うっかりすると文章全体の「結論」まで変わる。―
このテキスト自体もともと音楽的な表現で書かれているけれど、上記の文章の「語群」を「音名」に交換するとこうなる。
―例えば、「ドとミ」と書いたあとには、「ファ♯」でも「ソ」でも「ラ」でも「シ」でも「レ」でも、いろいろな音が可能性としては配列される。私たちはそのうちの一つを選ぶ。だが、「ドとミとソ」を選んだ場合と、「ドとミとシ」を選んだ場合では、そのあとに続く文章全体の「トーン」が変わる。「トーン」どころか「コンテンツ」まで変わる。うっかりすると文章全体の「結論」まで変わる。―
恥ずかしいからといって、単純な和音・和声進行を避けていると、力強さに欠ける、あるいは下手したら何も語らないまま終わってしまうというのは、自らへの苦言として、ある。あるいはいつも自戒している。「梅の香が」のあとに、「聞える」と続けたら、詩的ではあるけれど奇を衒った感じがしますよね。「詩的ではあるけれど、奇を衒った」音、協和しない音列をいかに「トーン」を保ったまま採用するか。これは今までの作曲でぼくが常に考えていたことだ。スカルラッティやスクリャービンは、そのへんのバランス感覚が非常に優れているんだよな。
閑話休題・・・、この文章は最後に次のようにまとめられている。
―でも、実際は無数の転轍点があり、無数の分岐があり、それぞれに「私が採用しなかった推論のプロセスと、そこから導かれる結論」がある。分岐点にまで戻って、その「違うプロセスをたどって深化したアイディア」の背中を追いかけるというのは、ものを考える上でたいせつな仕事だ。―
2011-12-04
傾向と対策
血液型による性格分析というのは「アジアのごく一部における根拠のない奇習」と批判されることが多いけれど、ぼくは結 構信じている。信仰というほどではないが、一定の「偏り」くらいはあるのではないかと密かに思っている。
ごく個人的な範疇ではあるけれど、血液型と性格の間に相関を感じることはあるし、彼(彼女)は何型だろうと思って尋ねると予想通りだった、 ということが少なからずあるからだ。
もちろんそのような経験的な「傾向」を拠り所にして「科学的に根拠がない」事象を証明できるほど、ぼくは血液について、あるいは性格の分類法についての見聞を持っていないので、ソレって占いと同じで心理誘導の類でしょと言われれば、そうかもしれないと肩をすくめるしかないのだけれど。
しかし、奇習と言われようが、ぼくはこのデタラメで信憑性のない「物差し」を簡単には手放せない。
現時点では血液型性格分析というのは科学的に非常識ということになっているけれど、ひょっとしたら今の科学技術では認識できない素粒子が、人間の人格を規定しうる物質が、血液中に存在するかもしれないではないか。または現在の人格の分類方法に致命的な誤謬がある可能性だってないとは言い切れない。
そもそも、従来のエビデンスによって基礎付けらていない尺度を「疑似科学」というふうに断罪するのは、科学の歴史を俯瞰しても決して実りのある振舞いではないだろう。
そこにささやかでも「偏り」が存在するとき、ひとは何らかの因果関係を見つけることができるし、仮にその仮説を否定するならば、「人格に影響を与える物質は血液中に存在しない」ことについての反証が不可欠だ。 けれどそのような証明がされたことをぼくは寡聞にして知らないので(おそらく「ないこと」を証明するのは難しい。)ぼくは「偏り」への否定論にも与することが出来ない。ぜんぜん。
というわけで、ぼくは初対面のひとに会えば否応なく血液型を尋ね、卑しい偏見をもって構えることにしている。特に女の子には、書架を覗くのと同じように恐る恐る血液型を聞き出しては、一喜一憂してる。ちなみにぼくは自分 自身の血液型を知らないのだけれど、みなさんがここまで読んで想像されている通り、たぶんA型です。
2011-11-02
菜園を耕し、女子会をひらく。
何ヶ月ぶりかの更新です。忙しくて書けなかったわけではないのだけど、
なんとなく遠のいてしまった。
TPPについて書く。
ぐっすり三日三晩寝ずの熟考を経た結果、ぼくはTPPの是非について、わりとどうでもいいのだと思うようになりました。
推進派が主張するほど貿易市場の活性化もないだろうし、反対派が鼻息を荒げるほどには第一次産業においての雇用に大きな変化はないだろう。
どちらにせよ、局所には痛みを被るセクターも顕れるだろうが、現在の社会制度、あるいは既得権益層が外圧によって破壊されるのは、資本主義社会の一員として痛快ですらある。
無責任ではあるけれど、「かってにしろよもう」と思う。だいたい、「日本終わりますよ」というレトリックが気持ち悪い。終わる終わらないは別として、その発言者の鳥瞰的な態度が気に入らない。
日本は終わっても、自分は終わらないと信じている態度が。
というのが、はらわた煮えくりかえっている市民としての感想なのだが、
そんなことよりも、TPP参加によって、日本はアメリカのアジア戦略にひょいひょい加担して良いのか、というのがより本質的なトピックだろう。
国内の第一次産業の行く末だけを憂慮する人々はあまりにナイーブに過ぎるし、
知識人たちが口を揃えて言うように、TPPはアメリカのアジア戦略の一環だと考えるのが妥当なスタート地点だ。
さて、ぼくらはアメリカに胡麻をすっていて良いのか。
個人的にはある程度は良いとおもう。少なくとも中国の経済的台等を牽制する意味では、良いとおもう。
かの国の価値基準が世界のスタンダードとなり、隣国における軍事的な脅威が増し、わが国の気鋭のストライカーが悪質なファウルで削られる・・・、(気鋭のストライカーいないけど)ことを考えると、あたまのわるいアメリカのえらそーな態度を容認するほうが"まだまし"である。
アメリカはあたまが悪い国なので、農作物を輸出し、知性を輸入するという仕方でしか21世紀をサバイブできないでいる。
彼らは必死だ。
焦燥感の漂うバカな巨人にへらへらしてついていくか、常識に欠けたこわい若人と仲良くするか。
ぼくは前者をとる、と結論付けようと思ったけれど、うーん、こうやって並べるとどっちも嫌だな。
そういうわけで、TPPに参加するならばしたらいいよもう、というのが現時点でのぼくの立場です。
現在困窮に耐えかねている人はカルフォルニア米を買えばいいし、現状に不満のない層は、国産を重宝すればいい。
そうやって、老若貧富がそれぞれ持ち場を支えて、世界はくるくる回っている。
大きな声では言えないけれど、主夫として乳製品の関税撤廃は大いに言祝ぐべきことなのだ。
そして、国内の第一次産業壊滅後来る、食糧危機に備えて、ぼくは庭で菜園を耕し、ハーブ各種を愛でながら、狛江全域を放牧地にする計画を立てています。
以下は、備忘のための箇条書き。
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先日発売された、Pawnくんの『Tone Sketch』 track.1 "morning tone"にてピアノを弾きました。Pawnさんらしい涼やかで心地良い音楽です。
http://www.amazon.co.jp/Tone-Sketch-Pawn/dp/B005MNYTUM
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CALF夏の短編際@ユーロスペース、TOKYO ANIMA@国立新美術館にて上映された、橋本新監督の『ベルーガ』が名古屋でも上映されるようです。
http://empowermentfilms.jp/eff2011TOKYOANIMA!2011inNAGOYA.html
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年末年始?発売の諸々にNgatariが参加します。
新曲地道に書いています。なかなかやる気です。
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iphone4S買いました。siri機能にわたしは驚愕している。
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先日、二子玉川のケーキ屋さんにケーキを食べにいったとき、そこで働く女の子がとても暖かく活きた表情をしていて、エッセイだったか小説だったか忘れたけれど、
村上春樹の「仕事というのは本来愛の行為であるべきだ。」という言葉をしみじみ思い返した。美味しかった。
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定期的に女子会やってます。
2011-06-29
沈黙の強度
大地震以来、ぜんっぜん更新されていなかったJessica Diaryが、最近アクティブになっています。
なかなかうまいんだな、文章が。ぼくが言うのもアレなんですけど。
少なくともぼくのゴミクズのような文章よりはよっぽどおもしろいです。
ここ数ヶ月間、地震や原発問題について、皆が盲滅法に主張を繰り返すなか、それらの論件については黙して語らず、いずれの主張にも与さなかったことは、本間くんの言うようにある種の敬意に値するように思う。ぼくが言うのもアレなんですけどね。
だれもが自らの立場や欲望というバイアスを通して語る。どんなに知的な人であろうと、あれほどの惨劇の後ではクールで客観的な意見を述べることは難しい。いったいどれだけのひとが自分の見えたもの、自分の主張に懐疑の念を持っただろうか。誰もが自説を喚き散らしていたし、堅牢な私的感情を省みることはしなかった。
もちろん正しい主張もあっただろう。けれど、その正しさを他人と共有したいという欲望を自覚し自制したひとはいなかったように思う。
他者と何かを共有したいという欲望は、人間の持ってしかるべき性質のひとつだし、愛情でさえその欲望の変形なのだろうが、
ひとを愛し、正しいことを説き、道を照らすつもりで狭い一本道に導くような、あるいは他人との心地良い「距離」を節度なしに踏み越えるような「正しさ」はだいたいにおいて不愉快だ。宗教だって、愛情だって。
話がへんな方向に行ってしまいました。
語らないことへの敬意について書いていたのであった。
黙ることの重要性を説くために、ひたすら饒舌に話さなければならないのは、ぼくの頭が悪いからだろうが、
仮に沈黙の強度というものがあるとしたら、このような文脈のなかでこそ語られるべきだと思う。
尻切れな日記になってしまったので、
6/26 PROGRESSIVE FOrM 10th の写真を貼ります。
楽屋にしこたまビールが冷やされていたので、イベントの終盤の記憶は曖昧なのだけれど、
とにかく、出演者のみなさん格好よかった。
mergrim × Kazuya Matsumoto は鋭利な演奏をパフォーマンスを披露していたし、ametsub氏も、agraph氏も、非常に心地良く、音もすごく良かった。見られなかったステージが多くて無念ではあったけれど(ビールラッシュ故)、2011年上半期最高のお祭りでした。
みなさんありがとうございます!
充足感ゆえに楽屋でくたばったyuanyuanの宮本氏
2011-05-29
アシバー
Twitterに投稿するということが身体化されるにつれて、モノを書くときの力の入れ具合や筆圧(キータッチ)、身体四肢の動き、思考方法など、従来持っていた筆記における地図の広げ方に変化が顕れてきたように思う。
もちろんそれらは文字数制限に起因するのだけれど、"尺"の規制によって、語彙の選び方はもちろん、
リズムの取り方にまでその制限は遡及している。
まぁ、ぼく自身はいつも大した文章を書いているわけではないので、その変化は微々たるものだけれど、それにしたって140文字で1センテンスを書くというのは、屋内で遠投するようなもので、ある種の自律神経のこわばりみたいなものを感じる。ちょうど古式のソナタを書くときに似ていて、その感覚は禁欲的な訓練みたいだ。
それが良いのか悪いのか、今はよくわからないけれど、その変化は事後的に顕在化してくるだろう。ダロウ!
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沖縄に行ってきました。オキナワ。
すんごく楽しかった。沖縄のひとびと、とくに宮国ファミリーには大変お世話になってしまいました。
破壊的なほどの歓迎をして頂いて、ちょっと申し訳ないくらいです。
(宮国ママの手料理は本当に美味しかったし、宮国パパは闊達自在であたまが良く、ぼくらを終始楽しませてくれた。)
郷の食を皮膚感覚として味わいたいのならば、土地の一般家庭にズカズカとお邪魔して、彼らと食卓をともにするのがいちばん良いのである。ありがとう!
Ngatariのライブは、Inoue Taishinさん、yuanyuanの宮本賢志さんがラップトップを持ち込み参加。鋭利なビートと色彩豊かなアンビエンスによって、ガタリに新しい息吹をもたらしてくれました。おかげで何故かピアコンを作ろうという気になってます(笑
その二つにどのような因果関係があるのかよくわからないけれど。
ライブ映像は、そのうちどこかで映像を配信するつもり。
さて、天国のパフォーマンス。今回はじめて、代表曲であるさっちゃん三部作を聴きました。すげ〜。
ぼくは彼らを形容する言葉をほとんど持っていない。
けれど、ぼくは彼らを全面的に肯定している。天国の音楽を聴いて、首を縦に振らない人なんてきっといないだろう。
それは彼らが究極だからだ。
個性的という意味ではない、
もちろんクロスオーバーしていると言いたいわけでもない。
彼らは音楽性などというネイチャーの問題を徹底的に退けて、彼らにしか表現できないことを、淡々とこなしている。
「ここはプロコで、ここはライヒだよ。」とニヒルに笑う。
けれど、彼は知っているのだ。そのキャンパスに宮国英治の筆が走ったとき、
鮮烈なオリジナリティが生まれることを。
もっとも重要なのは、自らがサンプリング行為の囚人であることに自覚を持っていることなのだ。
そうでなければ、あのようなオリジナルの音を作り出せるわけがない。
彼らは憂鬱な時代のアーティストにあって、凡百の表現者から一線を画すユニットである。
だいたい、プロコとライヒを自在にコラージュして、その色彩を保持できる技術と表現力のあるピアニストが、日本にどれだけいるだろう。
そしてその厚みと重力に圧倒されることなく、多様な手札と淫靡な声をもって、その音楽を溶解し、再構築することのできるボーカリストなど他には思いつかない。
彼ら二人が出会ったこと自体、僥倖という他はないのだ。
天国はひとつの稀有な音楽というよりは、ひとつの出来事だと思う。
・・・レビューになってしまいました。しかし誰かに伝えようと筆に力を入れると、
「である。」とか、「だろう。」という語尾に自然にシフトするもんですね。
沖縄の珍味や、沖縄人の営み、彼らの牧歌的な息遣いについてこんこんと書きたいけれど、これはたぶんみんなが丁寧に書いてくれるのでぼくは割愛、雑多沖縄(っぽくない)動画とTAISHIN, JESSICA, KENJI, 奇人三人によるUKロックバンドの写真だけ載せます。
ライブの写真がないね。ライブしたのかな本当に、ぼくら。
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写真といえば、最近良い写真をたくさん見た。
(全然良くない写真も、同じくらい見た。)
(twitter)
中平卓馬の写真を見ると脱力する。
「そうだよな、これが節度だよな。」と思う。
たぶん自分の装飾過多な創作行為に対して後ろ指を指された気分になるからだ。「あれもこれも」写しだす写真への病識や、イデアとしてのモノを捉えようとする乾いた身振りは、いつも表現者の姿勢を正す。http://p.tl/fJ-X
(twitter)
昨日は仕事が終わって、ホンマタカシ展に直行した。写真あんまり良くなかったな、彼の仕事の肝要な点はその編集能力にあると思う。展示の仕方はおもしろかった。オペラシティアート二階には李禹煥らの作品も設営されていた。
石川丘子さんの写真は素敵だ。
彼女の撮る山々や湖の写真は色気に満ちている。
彼女には艶やかな山や、蠱惑的な湖を見つけだす能力が備わっているのだろうか。
ぼくはそうではないと思う。きっと山の本来持っている色気を彼女だけが感じ、すくい取り出しているのだろう。
丁度、夏目漱石「夢十夜」の第六夜で、木のなかに埋まっている仁王を掘り出すように。
そう思ったのは、彼女の版画作品を見てからだ。余分な力の篭っていない涼やかな版画群は、距離が美しくて清い。
無造作に鑿と槌を振るう明治の運慶と、流行から遠く離れたところで淡々と作品を作る彼女を同じ文脈で語るのは暴挙だろうか。孤高、と言ったら本人は怒るだろうけど。
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イラストレーションスタディーズ修了制作+新作展2011
「NEW MOON」
橋本くんは地雷撤去のためにカンボジアに派遣されていていなかったけれど、
大きく展示された西山くんのイラストをみて、とびぬけた色彩感覚とデザイン感覚にいたく感動した。
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2011-03-11
ametsub、未知の対話とカノン
多事多端ゆえに、作曲の時間が一日四時間しか取れない。でも四時間あれば一つのセクションは書ける。三時間では書けない。三時間ぐらいあれば、楽想ひとつぐらいひらめく気もするけれど、睡眠と同じで深く潜るためにはウォーミングアップとクールダウンが前後に必要なので、帰宅してドアの鍵をがちゃがちゃ開けたり、鉛筆をこりこり削ったり、鼻かんだり、それらの準備体操の時間を積み上げていくと、楽譜と向き合うのはやはり正味三時間となる。短い。集中力の涵養にはもってこいかもしれないけれど。
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さいきん、Ametsub氏のアルバムばかり聴いている。二年前ぐらいに初めて試聴したのだけれど、聴いた瞬間、「新しい」と思った。「新しい音楽」の「新しさ」を言葉で説明するのはすごく難しい。感じたのは技術的なことというより、その音楽へのアプローチの仕方だからだ。もちろん音は鋭利で、清く、暴力的なまでにリリースを切ったピアノの音は、クレーやミロのように絵画的で清潔感があり、その新鮮さに感動すらするのだけれど、その音楽自体が新しい方法で作られたわけではないはずだ。それでもAmetsub氏の音楽は、新しい言語で語られていて、その音楽の時間のなかでは豊かな対話が聴こえる。
前衛芸術とは新しい方法で作られた芸術のことではない。
新しい語法を希求する姿は勇ましいかもしれない。でもパセティックだ。
前衛的な音楽家というのは、「聴きなれない旋律」や、「真新しい音」や、「奇矯に聴こえる音像」を追い求めるひとではない。
もし初めて聴いた音が前衛的だというなら、それらは時代の推移とともに、あるいは人間の成長とともに当然その前衛性を失うからだ。前衛的というのは、その語義からもわかるとおり、対になるもの(あるいはひと、あるいは主義)があってはじめて有意となる。
音楽の場合、対になるものは、もちろん聴き手だ。
自分にしか理解できない新しい語法で話す人間は、当然その新しさゆえに、他人とのコミュニケーションを断念するしかないけれど、彼の音楽には聴き手を拒絶するような音は何ひとつない。
結局、聴き手を置き去りにするような音はぜんぜん新しくないのだ。ほんとうに前衛的な音楽は、誰をも置き去りにしないし、誰かに上書きされることもないのだとぼくは思う。それは常に、既知と未知の狭間にあって、だからこそ他者との豊かな対話の可能性を秘めている。
というようなことを、明日のototo詩トークショーで話そうと思っていたけれど、ここで書いてしまったので、別のことを話します。
楽しいこと話そう。希望とか、善意とか、女の子とかについて話そう。
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カノンというのは、演奏者たちが正確に譜面を辿る一方、聴衆は主題に熱心に耳を澄ますのだけど、複数の声部を追っているうちに彼らは旋律を見失い、あるいは追従される。その混濁した音列の束のなか、突然空から誰も弾いていない音楽が、聴こえるはずのない旋律が降ってくる、そのようなカノンにしか、ポリフォニー的価値はないと思うよ。
2010-11-26
ゆるゆる裁判のススメ
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「DE LA FANTASIA 2010」を終えて、イノウエタイシンさんのおうちへ。
タイシン家の書架がおもしろくて、くるくる見回してしまう。ドゥルーズ=ガタリまである。ワインを頂きつつ、猥談を交えつつ、深更に至る。
音楽をたくさん聴かせてもらったけれど、音をテクスチャーとして捉える人たちの仕事はとても刺激的だ。ぼく自身は、音を注意深く編んで音楽造形を図る化石的に古い人間だから、彼のように音の手触りを感じ取って、そこから何かを想起する人たちの感覚には深い敬意を持ってしまう。
彼らと共同作業をすることによって、からからに建てられた古い建物に、色とりどりの光が当たって、豊かな陰影が生まれたらいいな。
光と言えば、DE LA FANTASIAのトップバッターを飾った高木正勝さんのステージは素晴らしかった。映像作品を背景にピアノを弾くだけのステージなのだけど、凡百のムード音楽とは明らかに一線を画すパフォーマンス。最近の映像作家の作品には強い忌避感を持ってしまうのだけど、彼の映像はとても気に入っている。
なによりピアノを肯定も否定もしていないような演奏が素晴らしくて、それこそはたを織るような演奏、世界は本当にテクスチャとエッジのみで出来ているんだと思わせるようなリアリティを肌身で感じました。こういうのこそ"オリジナル"と呼ぶのだと思う。
高木正勝さんにクローズアップしてしまったけど、DE LA FANTASIA 2010の面々は本当に素晴らしかったです。ありがとう!
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また政治的なこと書いてやがると思われそうなのだけど、
「こんにゃくゼリー訴訟」への言及(もっぱら「企業側に非なし、両親の不注意」的意見)があまりに多くて、いらいらしてきたので、ちょっとだけ書かせておくれ。
「こんにゃくゼリー訴訟」において問題なのは、「とんだお門違い」の訴訟を起こした人間の判断力ではない。そうではなくて「抱え込んだトラブルをほぼ間違いなく解決してくれる機関がある」と彼らに盲信させた日本の司法の在り方だ。
というのは、日本では訴訟を起こせば、勝敗は別にしてほぼ間違いなく判決が下る。そして正義の名のもとに刑罰が執行される。自分にとっての「悪」を罰する機会が得られるならば、とりわけそれが近親者の命に関わったものであるなら、だれだって、その「正義の裁断」にすがりたくなるだろうし、そういう立場にある人間の「厳罰を希求する感情」を咎めることは誰にもできない。
「危険なこんにゃくゼリー」を作った人たちも悪くないし、両親の不注意と断罪してしまうのはあまりにパセティックだ。
こういう悪の居所がよくわからない問題に直面したときに、もやもやしたまま判断を下す人たちがいるけれど彼らには「両者とも悪ではなくて、不運だった。」と欠性的に結論付ける習慣がない。
それがたまらなく嫌だ。「この訴訟はただの八つ当たり」だと断罪する人間の思考は「悪の居所はこんにゃくゼリー」だと断罪した遺族の思考と同型だ。
「悪は程度の差を抜きにして、必ず罰せられる」という信憑は根強い。
多くの場合悪は許容されるものだし、少なくない数の悪が罰せられる。そういうものなんじゃないか。誰かを必ず罰するとか、どちらかの正義に与する必要なんてないんじゃないか。
悪にだって程度はある。些細な不正から自分の身を守ったり、ちいさなトラブルを事前に回避できるのは「悪の程度」を注意深く測ることのできる人間だけだ。
そういう人たちは、簡単に人を断罪したりしない、と思うよ。
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こんなこと書いていたら、
「こんなことしたやつ殺しちゃえよ」という能天気な市民感情が色濃く反映するように、「厳罰化」を希求したがための結果が裁判員制度なのだろうが、裁判官に求められる職業的キャパシティを甘くみすぎなんじゃないか。
裁判員制度導入を決定した官僚の方々は、ふつうの理性を持った、専門的訓練を受けていない、ふつうの人たちが、人の生き死にを決断する際に負う精神的負荷を想像したことがあるのか。
「一生悩む」と言った裁判員の方の精神的苦痛は、裁判における守秘義務ゆえに、誰にも打ち明けることができない。
「死刑を求刑した裁判員もまた人殺し!」と喚いている連中と同様に、裁判員制度を主謀した人間もまた想像力が足りなかったと言わざるを得ない、と思う。
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20101126k0000m040091000c.html
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年の瀬
ぼくは季節もののイベントが大好きなので、年末年始のお祭りは多いの堪能させて頂く。
クリスマスも好きだし、お正月も好きだし、人日の七草粥も、Thanksgiving Dayのターキも好きだ。何について言祝ぐ、あるいは感謝する人なのかよくわからないので蒙昧な信仰ではあるけれどそれでもいいじゃない。
2010-11-06
10,11月の備忘録
備忘録 |
おはよう。
「柴田元幸と9人の作家たち」と「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」をシーケンシャルに読みつつ、「悪人」読了。「悪人」はブレイクの渦中にある本なので、電車のなかで読むのは少し照れたけれど、わりにおもしろかった。
前半はうんざりするほど退屈で、文体もぎこちないし、たらたらと半ば無理矢理読みすすめ、後半の転がり落ちるような速度と、登場人物への作者の慈しみに少し感動した。吉田修一は、とても人間的な作家だと思う。
絲山秋子「海の仙人」も続けて読む。モチーフはカラフルなのだけど、風通しが良くて、何よりひどく静かな物語。まだ途中だけど。
静かな本を読むと、リズミカルな文章が読みたくなるので、町田康を探しに図書館に行くも、ぜんぜん置いてなくて結局バルト「テクストの快楽」と、CDを数枚借りて、ペタペタ帰宅。
気まぐれに借りたバルトだったけれど、まるで図ったように内田先生がブログで「エクリチュール」について書いている。おお!
平易な言葉でとてもわかりやすい解説。しめくくりがとても良い。まっすぐ垂直で、清潔だ。
こういうプチ奇遇みたいな出来事がブログを書く動機になって、こうして久し振りのブログを書いている。べつに月間読書リストを書き出したかったわけではなくて、凪のような日々を送っているので、特筆すべきトピックがないだけです。
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先日ユーロスペースにふらりと立ち寄って、上映されていた映画「ヘヴンズ・ストーリー」のクレジットを見ると、なんと主題歌があだちくんのプロデュースした歌手、tenkoさんではないか。おお!でも四時間半の映画を見る気にはなれず、その日もすごすご帰宅。
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さて、
11月のライブ日程がほぼ全部fixしました。
まず、16,17日は奇人ユニット、「天国」との2DAYSライブです。
ピアニスト、本間太朗氏(http://twitter.com/tarowitz)とJessicaの共演もアリ。
自分の曲をきちんと演奏してくれる人がいるというのは、作曲家冥利に尽きます。
とても幸福。
今後、自分の曲さえ弾けなくなるかもしれません・・。
そして、ぼくも天国の曲を弾いたりします、たぶん。密やかに。
21日はDE LA FANTASIA 2010に。
恐れ多くも、細野晴臣、ヴァン・ダイク・パークス、TYTYT (高橋幸宏, 宮内優里, 高野寛, 後藤知彦)、トクマルシューゴ、高木正勝をはじめとする大御所の方々に混じって、こっそり参加します。
あくまでこっそりさせてください。詳細はいろんなところに書かれているのでチェックしてみてください。
http://www.cdjournal.com/main/news/van-dyke-parks/34973
2010-09-24
朝カレーとホリガー
備忘録 |
9/22 夜になると鮭はイベント、いらしてくださった方々、出演者の皆様、ありがとうございました。ぼくは非常に楽しかった。 ガタリのCDを買ってくれたみなさん、あまりお話が出来ませんでしたが、とてもとても嬉しかったです。ありがとう!
次は、11月の2DAYSライブです。たぶん、11/16, 11/17 ですかね、わかりません。未定です。
16日は確定。
年の瀬から来年にかけて、ガタリは相当アクティブに動こうと思っています。よろしく。
ぼくはぜんぜん知らないのだけど、Laguna Moonという若い女の子に人気のブランドのイメージ映像?メイキングムービーの音楽に
Forma. 3.10にも収録されているPawnさんの楽曲「Morning Tone」が抜擢され、その曲のピアノアレンジをさせて頂きました。
「Morning Tone」ピアノアレンジバージョンです。
http://www.lagunamoon.net/making/
いわゆる「クリスマスソング」の製作依頼が来たら、オーボエだけに10声部を課すようなキュートな曲を作ってやろうと鼻息ふぅふぅさせてるのに、誰もぼくにオファーしてこない。オファーの兆しさえない。寂しい。
なんてことをハインツ・ホリガーを聴きながら夢想しつつ、朝カレー。
event情報
PROGRESSIVE FOrM presents New Sounds of Tokyo Vol.7
various artists Forma. 3.10 release event
2010.10.10.sun @ Apple Store Ginza(アップルストア銀座)19:00-20:00
Live: Caelum with Takafumi Tsuchiya, yuanyuan, Nakagawa Takuma
Entrance FREE Apple Store Ginza
2010.10.22.fri @ LIQUID LOFT, Ebisu, Tokyo - open/start 23:30
Live: eater, sooner, sabi, Taishin Inoue & Seiji Takahashi
DJ: Ametsub, Geskia!
2010.10.12 エクリより上梓
2010-09-10
小さな声が響く
備忘録 |
お久し振りです。
ツイッターやってる人たちは日々顔を、いや文字を合わせてるけどさ。
最近、政局が混沌としているようですね。
テレビをまったく見ていないので、管政権も、小沢一郎のこともよくわからないし、そもそもぼくは政治には怠惰であろう、どんなイデオロギーにもなるべく与しないよう努めている(ムリだけど。)ので、現内閣がわけのわからない修辞を述べようが、官僚が上告しようが知ったことではない。でも周りの人々はわりに白熱している。
ぼくとしては、与党やら政権なんて何れだっていいんじゃねえの?と思うのだけど、そんなことを言うと激昂されそうなので、静観するのである。
政治的な発言を繰り返す人々は多くの場合、自分が政治的にコレクトなことを発言していると思っている。
だいたい、発言の質というよりは声のボリュームがデカすぎる。
「コレクト」なことは小さな声で語るべきだと思うのだけど、声の大きな主張が強い力を持つというファンタジーが通念であるようで、みんな金切り声で叫んでいる。
音量が大きくなるにつれて、それは「コレクト」ですらなくなってしまうというのに。
誤解されると困るのだけど、政治的に私見を述べる人々をバカにしているわけではないし、自国をよりよくすることに反発しているわけでもない。(政治的意見を持たない無知な人間がまっとうな自説を持つ人々を讃えることはあれど、バカにできるわけがないし、母国をよりよくする活動を忌避する理由なんてどこにもナイ。)
ただ、声のトーンに悪意が含まれているんだよ、声がデカいが故に。
以前、悪意の飛距離について書いた気がするけど、相手を叩きのめすための語法は、もっぱら「デカい音量」で、かつ「コレクト」な文脈において用いられる。
ほら、この文章みたいにね。
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さて、お知らせです
先月リリースされた、PROGRESSIVE FOrMのコンピレーション、「various artists "Forma. 3.10"」が本日、2010.9.8より、世界22ヶ国のiTunes Music Storeにて配信スタートになりました。ぼくも一曲提供しています。チェックしてみてください。全曲とても良いです。
盤を買っていないひとは、是非iTuneにて!
various artists "Forma. 3.10" (PROGRESSIVE FOrM)
Now available on iTMS worldwide 22countries
http://itunes.apple.com/jp/album/forma-3-10/id388672362
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そして、9/22は、radi presents「夜になると鮭は・・・」イベントです。
radiは素敵な友人のひとりである渡辺祐二くんがギターを務めるバンドで、共演は三度目です。出演者は、上記の「Forma」にも参加しておられる、Inoue Taishinさんと、soul tune factoryさん、それにギタリストのBancorainさんです。
soultuneさんは、これまた「Forma」の一曲目を飾っているyuanyuanの宮本さんがゲスト出演するそうです。
radiももちろん素敵だし、他の方々のパフォーマンスは未体験なのでとても楽しみです。
是非いらしてください!
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先月から、Ngatariの新曲をはじめ、短編映像の音楽や、ダンスのための音楽などにとりかかっている。
この前、ドラムの山岸さんと、「川が上流から下流に流れることは時間軸として正しいのだけど、川の隅にできる"溜まり"のような時間の流れがあってもいいはずだよね」というようなことを話した。そういう話ではなかったかもしれないけれど、そのように心に残った。
当然音楽には時間がある。もちろんページをめくる本にもあるし、アニメーションにもある。舞台にもある。(ダンスはちょっと事情が変わると思っているのだけど、まぁこれはまた別の話。)
時間という概念は、要するに人が生まれた瞬間、強制的にスイッチが押されて、死んだと同時に閉じられる物語であり、歴史はその最小単位から派生した便宜的な記号に過ぎない。
「注がれて、しまいには溢れだす、出口はない、終わりパタン。」というような音楽を、尺のある歌曲や、映像や舞台にあてたいと思っている。個人的にはリゲティの音楽がわりとそういうイメージなのだけど、どうでしょう。














