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はかもと(無縁彷徨)は引っ越しました

2008-06-12

宿題を出されたので〜何のための学問か?

もろさんから督促が入ったのでf(^_^;とりあえずエントリします。督促の直前では「研究と批評との区別やら、制度として成功させた例やら、あれこれ見解が相違する」なんてmonodoiがコメントしてるもんだから、それに対するお返事をしなければなりません。

もろさんの先のエントリ*1を一読した際には「研究と批評との区別」がよく分からなくて、とりあえず「見解が相違する」とコメントしたのです。今回また読み直してさらに分からなくなった(-"-;ので、さて、どうしましょうか。ここで全く違う用語を示して議論しちゃう誘惑に駆られます。それは《研究/批評》ではなく、《理学/工学》を指標とする誘惑です。もちろん二択とゆーよりも、二八そばじゃないですがそれぞれどれくらいの割合なのか、との視点です。

で、「学問の再生産と方法の標準化を制度として実現した成功?例」なんですが、もろさんが「表象文化論」を例に出してるのに対して、monodoiはやはり「日本民俗学」でしょうよ、と思うわけです。マンガ批評/研究に絡めて例示するなら、なおさら「日本民俗学」ではないかしら、と。身の回りの当たり前への注視やら、やたら日本へ内向的な点やら、大学への制度化やらなんてのは、かなりリンクするんじゃないかと。


まぁこーゆー話は、そもそも論からせねばそもそもお話しにならないでしょうから、ダラダラと書いてみますけれども、なんのための学問か?*2との、学の根幹をめぐる問いが、マンガ批評/研究は現在でも見え隠れしていて、その辺りがmonodoiにとってはたいへん面白い。

逆に言えば、制度化された学問にドップリと浸かっている限りにおいて、なんのための学問なのかとの問いは、生じようがない。学問があるていど制度化されれば、そのような問いは表面化してこない。そんなことを問い返されたくらいでガタガタするような学問は、学問としてそもそも成熟していない、とも言えそうなのですが。

なので(?)「それを学校で教えられるの?」との問いをめぐる物言い(のやりとり)は基本的関心としてじつに興味深い。ですから『ユリイカ特集*マンガ批評の新展開』でいえば、伊藤剛「『テズカ・イズ・デッド』のそれから」の冒頭が「実作指導と理論研究」なる小見出しで始まること&『筑摩書房PR誌ちくま』2008年6月号*3に掲載された伊藤剛「学校でマンガは学べるのか?」*4がやはり実作指導と理論研究との関係について、自身の経験を交えて論じていることに、惹かれるのであります。

ところで「それを学校で教えられるの?」の「それ」には、マンガに限らずもちろんアニメもそうでしょうが、もう少し抽象化するならばいわゆる「技能」……これは「技術」と区別されるのであろう……と目されるワザ全般が含まれる。あるいは「職人」と表象され評価される人々がある程度の割合を占める領域においては、常に揺り戻し的に生じる問いが、なんのための学問か? なのでしょう。


だから(?)マンガ批評/研究として、とゆーよりは、ワザをめぐる言説実践として鑑賞している意味合いが高い。その言説実践じたいがひとつのワザとして鑑賞するに値するし、何より眺めていて面白い。その言説実践じたいがマンガ的な論者もいれば、文学的な論者もいる。その意味で「見巧者」に憧れているところがあって、たとえばid:makaronisanさんに対しては、ひたすらすげーなーとその見巧者っぷりをいつも楽しく鑑賞しているのであります。

*1id:monodoi:20080529:p1でリンクしてみました。

*2:もちろん「学問」とは「研究」と同義なのか? はたまたそれは「科学」と同義なのか? あたりから詰めないとおそらくお互いのこれまで育てられてきた業界の語感でもってやりとりすることになるでしょうね。

*3筑摩書房 PR誌ちくま 2008年6月号

*4:複数名による「オタク文化の現在」なる連載の一回分。この連載についてはid:goito-mineral:20070829:1188347554で言及されています。

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