一神教学会は設立十二周年を迎えました

2006年5月22日に設立された弊会は、本日、めでたく十二周年の佳節を迎えました。12年の長きにわたって弊会が活動を続けることができましたのは、弊会を生温かく見守ってくださっているすべての皆様のおかげです。ここに、改めまして皆様に厚く御礼申し上げます。

4月16日のエントリーでお知らせしましたように、弊会は、「大黒学会」(Society for Daikokulogy)という機関の設立を十二周年記念事業とすることを決定いたしました。

大黒学会とはいかなる機関であるかということにつきまして、4月16日のエントリーでは、

大黒学会は、弊会が布教している宗教の一つである大黒教(Daikokism)の信徒に対しまして、「大黒曼荼羅」(Daikoku mandala)と呼ばれるものを授与する機関です。

とお伝えしましたが、その後、この説明は正確なものではなくなりました。現状におきましては、

大黒学会は、大黒教の信徒に対する大黒曼荼羅の授与を副次的な機能として持つ、大黒学(daikokulogy)の研究を目的とする機関です。

というのが、より正確な説明です。大黒学(daikokulogy)というのは、大黒教において定義されている「大黒」(Daikoku)という神を研究対象とする神学の一分野のことです。

大黒学会は、4月12日(木)に発足いたしました。その時点から現在までに、次のような課題がすでに解決済みとなっております。

しかしながら、大黒学会は現状ではまだ、すでに軌道に乗ったと言える状態には至っておりません。この機関を軌道に乗せるために残されている課題としましては、次のようなものがあります。

  • 「大黒書」に対する、大黒曼荼羅についての教義を追加するなどの改訂。
  • 大黒曼荼羅を大黒教の信徒に授与することができる体制の整備。
  • 公式サイトのコンテンツを充実させること。

弊会は今後、十二周年記念事業といたしまして、これらの課題を解決して参る所存でございますので、皆様からご意見を頂戴いたしますことを心待ちにいたしております。

大黒学会の設立について

来月の22日、弊会は設立十二周年を迎えます。弊会は例年、「n周年記念事業」と称しまして、設立n周年を記念する事業を実施いたしております。この度、弊会は、「大黒学会」(The Society for Daikokulogy)という機関の設立を十二周年記念事業とすることを決定いたしました。

大黒学会は、弊会が布教している宗教の一つである大黒教(Daikokism)の信徒に対しまして、「大黒曼荼羅」(Daikoku mandala)と呼ばれるものを授与する機関です。

大黒学会は、4日前、すなわち4月12日(木)に発足いたしました。Twitter公式アカウントおよび公式ブログにつきましては、すでに開設され、運用が開始されております。公式サイトにつきましては、建設予定地はすでに確保されておりますが、建設はこれからの課題です。

大黒学会が大黒教の信徒に授与する「大黒曼荼羅」と呼ばれるものがどのようなものになるかということにつきましては、現時点では、「大黒曼荼羅」というはてなキーワードの項目が、それについての最も詳細な説明です。

大黒教の正典である「大黒書」は、現在はまだ一神教学会が管理しておりますが、この経典の管理は、近日中に大黒学会へ移管することになる予定です。移管に伴いましてURLが変更されますので、ご注意願います。また、「大黒書」の改訂についてのお知らせは、今後は大黒学会の公式ブログで実施されることになります。

現状では、大黒学会は、大黒曼荼羅を大黒教の信徒に授与することができる体制を、まだ整えてはおりません。今後、その体制の整備を進めて参る所存でございますので、皆様からご意見を頂戴いたしますことを心待ちにしております。

「浄土真宗ゾーエー派の教理問答・第零版alpha00」を公開しました

5月22日のエントリーですでにお知らせしておりますように、弊会は現在、設立十一周年を記念する事業といたしまして、「ゾーエー派」(Zoeha)という宗教の布教を計画いたしております*1。これは、「浄土真宗」(Jodo Shinshu)と総称される、本願寺派大谷派、高田派、仏光寺派などの宗派群に新たに加わることになる宗派です。

ゾーエー派と、浄土真宗の他の宗派との最大の相違点は、阿弥陀はいかなる存在者であると考えるか、というところにあります。ゾーエー派においては、阿弥陀というのは、「ゾーエー」と呼ばれる命の集合体であると考えられています。すべての衆生は、誕生した時点では二種類の命を持っています。一つは「ビオス」と呼ばれる肉体的な命で、もう一つは「ゾーエー」と呼ばれる霊的な命です。衆生が肉体的に死亡したとき、ビオスの活動は終了しますが、ゾーエーはそののちも活動を続けます。阿弥陀は、肉体的に死亡した衆生のゾーエーを収集して、それを自分の一部分にします。ゾーエー派においては、「衆生が極楽に往生する」というのは、ゾーエーが阿弥陀の一部分になることだと考えられています。

5月22日のエントリーにも書かれておりますように、ゾーエー派においては、「念仏」という言葉は「生きること」を意味していると考えられています。阿弥陀は、いかなる衆生であっても、その肉体が死亡したのち、そのゾーエーを自分の一部分にします。ですから、ゾーエー派においては、阿弥陀の名号を唱えることは、衆生が極楽に往生するために必要なことではありません。そのために必要なことは、ただ単に生きることだけです。

浄土真宗においては、極楽に往生した衆生が、再び穢土に戻って、まだ往生していない衆生に対して極楽への往生という功徳を与えることを、「還相廻向」(げんそうえこう)と呼びます。還相廻向は、ゾーエー派の教義にも含まれています。しかし、ゾーエー派における還相廻向は、浄土真宗の他の宗派とは少し異なっています。ゾーエー派においては、まだ往生していない衆生に対して「アタラクシア」と呼ばれる功徳を阿弥陀が与えることを、「還相廻向」と呼びます。

「アタラクシア」というのは、煩悩を持たない阿弥陀によって幸福と考えられているもののことです。幸福という概念を持っている衆生は人間だけですが、まだ往生していない人間は、アタラクシアを幸福として認識することができません。その理由は、まだ往生していない人間は煩悩を持っていますので、煩悩を満足させることによって得られるもの以外の幸福を、幸福として認識することができないからです。

まだ往生していない人間は、アタラクシアを幸福として認識することができないのですが、しかし、それを滋味として味わう、ということは可能です。衆生は、そのビオスの本性のままに生きているとき、阿弥陀から与えられたアタラクシアを、滋味として味わうことができます。人間の場合、そのビオスの本性は、「思考するものである」ということです。したがって、人間は、思考することによって、アタラクシアを滋味として味わうことができます。その場合の滋味の強弱は、思考の「深さ」に比例します。思考の深さが深ければ深いほど、味わうことのできる滋味は濃厚なものとなります。

弊会は本日、浄土真宗ゾーエー派について解説する、「浄土真宗ゾーエー派の教理問答」という経典を公開しました。ただし、この経典は、現在はまだアルファ版です。今後も改良を進めて参る所存でございますので、ぜひ皆様よりご意見を賜りたいと願っております。またご意見のみならず、誤字脱字につきましても、お気づきの方がいらっしゃいましたらご指摘くださいますようお願い申し上げます。

*1:5月22日のエントリーでは、ゾーエー派の英語名をZoe-haと表記していましたが、ハイフンを除去して、Zoehaとすることにいたしました。

一神教学会は設立十一周年を迎えました

2006年5月22日に設立された弊会は、本日、めでたく十一周年の佳節を迎えました。弊会がこれまで活動を続けることができましたのは、弊会を生温かく見守ってくださっているすべての皆様のおかげです。ここに、改めまして皆様に厚く御礼申し上げます。

弊会は現在、設立十一周年を記念する事業といたしまして、「ゾーエー派」(Zoe-ha)と称する宗教の布教を計画いたしております。この宗教は、浄土真宗を構成している、本願寺派大谷派、高田派、仏光寺派などの宗派群に新たに加わることになる宗派で、その名称は、ギリシア語で命を意味する「ゾーエー」という名詞に由来しています。

浄土真宗の各宗派は、念仏による極楽浄土への往生という教義を信仰の核心に置いています。この点については、ゾーエー派も他の宗派と同様です。ただし、ゾーエー派においては、阿弥陀如来は自身の名前を唱えるか否かということとは無関係に一切の衆生を極楽浄土に往生させる、と考えられています。ですから、ゾーエー派においては「念仏」という言葉を、一切の衆生にとって不可避である行為、すなわち「生きること」と定義しています。

ゾーエー派においては、念仏による極楽浄土への往生という教義に加えて、現世を生きている人間にもたらされる阿弥陀如来の光明に関する教義も重要視されます。阿弥陀如来が人間に光明をもたらす理由は、すべての人間が現世において幸福になることを如来が願っているからです。ただし、煩悩を持たない如来が考える「幸福」と、煩悩を持つ人間が考える「幸福」とは、同じものではありません。

人間は、現世を生きている間は煩悩を捨てることができませんので、現世では如来的な幸福というものの価値を理解することができません。しかし、たとえ理解できなくても、人間的な幸福よりも如来的な幸福を追求するほうがよいとゾーエー派は主張します。なぜなら、もしも人間的な幸福のみを追求した場合、極楽浄土に往生して煩悩が消滅したときに、大きな後悔を味わうことになるからです。

現在、弊会会長は、「浄土真宗ゾーエー派の教理問答」と題するゾーエー派の経典を開発する作業を進めております。近日中にはその経典のアルファテストを開始する予定でございますので、その節は、皆様の忌憚のないご意見をお聞かせいただけますとありがたく存じます。

「大川隆法再解脱経・第零版alpha00」を公開しました

弊会は、「今後の活動予定・2014年版」という2年前のエントリーで、弊会が開発することをその時点で予定していた四つの宗教を紹介しました。「庭球立方体」、「日本型ユダヤ教」、「日本型マニ教」、そして「幸福の科学のパロディー宗教」です。しかし、これらの宗教のうちでこれまでに弊会が開発に着手したのは、「庭球立方体」(現在の名称は「大阪型ダールルハック」)の一つのみです。他の三つの宗教の開発計画は、着手に至らないまま長らく放置されていました。しかし、今年の4月、弊会はようやく二つ目の宗教の開発に着手しました。「幸福の科学のパロディー宗教」です。

当初の計画では、「幸福の科学のパロディー宗教」は、「幸福の科学の信者にも、大川さんの憑霊現象がイタコ芸として秀逸であるということに目覚めてもらう」ということを意図したものになるはずでした。しかし、2年間の潜伏期間を経て始動した開発計画は、それとは異なる意図を持つパロディー宗教を生み出すものでした。

幸福の科学は、「仏陀は再誕する」という教義を持っています。『日本「再仏教化」宣言!』の著者である佐藤哲朗さん(id:ajita)は、「仏陀は再誕しない」というエントリーの中で、この教義について、仏陀というのは輪廻の世界から解脱を果たした人であるから、仏陀が再誕するというのはあり得ない話だと述べています。つまり、「仏陀」という概念と「再誕」という概念を正しく解釈するならば、この教義の中に矛盾が含まれていることは明らかである、ということです。

弊会が開発に着手した「幸福の科学のパロディー宗教」は、現在のところ、「隆法宗」(Ryuhoism)という名称で呼ばれています。これは、仏教の宗派でありながら、幸福の科学が主張している「仏陀は再誕する」という教義にも理解を示す宗教、すなわち、幸福の科学の教義の一部を仏教の中に取り込んだ宗教です。この宗教の意図は、「仏陀は再誕する」という、仏教についての無知から生み出された教義を持つ幸福の科学という宗教を揶揄することです。

仏陀は再誕する」という幸福の科学の教義には矛盾が存在しているわけですが、この教義を少しだけ書き換えて、「釈迦は再誕する」にすると、この矛盾は解消されます。なぜなら、仏陀仏陀のままで再誕することはできないとしても、仏陀が輪廻を繰り返す存在者に戻ったならば、再誕することは可能だからです。輪廻を繰り返す存在者が仏陀になる、すなわち解脱するという変化は、「悟りを得る」という行為によって生じるのですから、「悟りを捨てる」というそれとは逆の行為によって、仏陀は輪廻を繰り返す存在者に戻るはずです。

隆法宗は、「大川隆法は再誕した釈迦である」という教義を持っています。この教義は、「大川隆法は再誕した仏陀である」ということを意味しているわけではありません。釈迦は、悟りを捨てることによって再誕したわけですから、大川隆法は、釈迦ではあるけれども仏陀ではない存在者である、ということになります。

隆法宗の教義はそれだけではありません。「いかなる人間も、仏陀である釈迦の慈悲によってのみ苦しみから救われることができる」という教義も持っています。しかし、現在は、「仏陀である釈迦」という存在者は不在です。したがって、現在は、いかなる人間も「仏陀である釈迦」の慈悲によって苦しみから救われることはできません。これは、隆法宗の信徒にとって由々しき事態です。

仏陀である釈迦」という存在者の不在が解消されるためには、大川隆法が再解脱する必要があります。しかし、大川隆法はあまりにも煩悩にまみれているため、自力での再解脱は不可能です。隆法宗の信徒に残された唯一の希望は、すべての仏陀たちです。すなわち、すべての仏陀たちに対して、彼らの他力による大川隆法の再解脱を祈願することが、隆法宗の信徒たちにとって、人間を苦しみから救ってくれる存在者を取り戻すための唯一の方法なのです。

弊会は本日、隆法宗について解説する、「大川隆法再解脱経」という経典を公開しました。ただし、この経典は、現在はまだアルファ版です。今後も改良を進めて参る所存でございますので、ぜひ皆様よりご意見を賜りたいと願っております。またご意見のみならず、誤字脱字につきましても、お気づきの方がいらっしゃいましたらご指摘くださいますようお願い申し上げます。

「多一教の教理問答・第零版alpha00」を公開しました

昨年の12月22日のエントリーですでにお知らせしておりますように、弊会は現在、設立十周年を記念する事業といたしまして、「多一教」(polynitism)という宗教の布教を計画いたしております。これは、「アブラハム宗教」(Abrahamic religion)と総称される宗教に新たに加わることになる宗教です。

アブラハム宗教」という言葉は、『創世記』に登場するアブラハムという人物に啓示を与えた、「ヤハウェ」(YHWH)と呼ばれる神を帰依の対象とする宗教の総称で、これに属する宗教としては、ユダヤ教キリスト教イスラームバハーイー教などがあります。そして、これからアブラハム宗教に新しく加わることになる多一教も、その帰依の対象はヤハウェです。多一教におけるヤハウェも、他のアブラハム宗教におけるヤハウェと同様に、我々が存在している宇宙を創造して、アブラハムやその他の預言者たちに啓示を与えた人格神です。

しかし、多一教におけるヤハウェの属性は、他のアブラハム宗教におけるヤハウェの属性とまったく同じというわけではありません。最大の相違点は、我々が存在している宇宙に対する物理的な干渉の有無です。多一教以外のアブラハム宗教においては、ヤハウェは我々が存在している宇宙に対して物理的な干渉を加えることがあると考えられており、そのような干渉は「奇跡」と呼ばれます。それに対して多一教は、ヤハウェは我々が存在している宇宙の物理法則と物理定数を定めて、その存在を開始させたが、それ以降はいかなる物理的な干渉も加えようとは考えていない、と主張しています。この点で、多一教は理神論(deism)にかなり近い宗教であると言うことができます。しかし、多一教は決して理神論ではありません。なぜなら、多一教におけるヤハウェは、人間に啓示を与えるという非物理的な手段によって、我々が存在している宇宙に対して干渉を加えるからです。

ところで、アブラハム宗教に属しているそれぞれの宗教が帰依の対象としている神は、それらの宗教に共通する一柱の神であると考えられています。もしもそれが正しいならば、なぜアブラハム宗教は複数の宗教から構成されているのでしょうか。なぜその神が預言者たちに与えた啓示は首尾一貫していないのでしょうか。これまでのアブラハム宗教は、この問題に対して誰もが納得できる解答を示してきませんでした。多一教という新たなアブラハム宗教の設計において最も重視されたことは、この問題についての説得力のある解答を提示することでした。

アブラハム宗教の内部のみならず、人類がこれまでに創造してきた宗教には、きわめて豊富な多様性があります。なぜアブラハム宗教に属する宗教は一つではないのかという問題に対して多一教が提示する解答は、なぜ人類が持つ宗教は一つではないのか、という問題に対する解答でもあります。

弊会は本日、多一教について解説する、「多一教の教理問答」という経典を公開しました。ただし、この経典は、現在はまだアルファ版です。今後も改良を進めて参る所存でございますので、ぜひ皆様よりご意見を賜りたいと願っております。またご意見のみならず、誤字脱字につきましても、お気づきの方がいらっしゃいましたらご指摘くださいますようお願い申し上げます。

一神教学会は設立十周年を迎えました

弊会を見守ってくださっている皆様へ

2006年5月22日に設立された弊会は、本日、めでたく十周年の佳節を迎えました。弊会がこれまで活動を続けることができましたのは、弊会を生温かく見守ってくださっているすべての皆様のおかげです。ここに、改めまして皆様に厚く御礼申し上げます。

弊会の活動の「成果」について

弊会は、これまで十年にわたって活動を続けてきたわけですが、これまでのところ、「成果」と呼べるようなものは、まったく得られておりません。しかし、これは悲嘆すべきことではありません。なぜなら、弊会が「成果」と考えるものは、あまりにも壮大なものであり、それが得られるようになるまでには、何十年、あるいは何百年という時間が必要となるかもしれないからです。したがいまして、弊会の活動を農業にたとえるならば、現在はまだ作物の種を蒔いている段階に過ぎません。場合によっては、現在の会員は種を蒔くだけで寿命を迎え、「成果」を収穫するのは何世代も先の会員となるかもしれません。

弊会が「成果」と考えるものは、人類全体を巻き込む宗教上の革命です。この革命が起きたのちの人類は、「すべての宗教はフィクションである」という命題を常識として共有することになるでしょう。しかし、この革命は、宗教というものを駆逐するわけではありません。この革命ののちも、人類は、新しい宗教を作ったり、それを布教したり、何かに祈りを捧げたり、という活動を続けるでしょう。しかし、宗教が紛争の原因となったり、宗教が反社会的な活動のために利用されたりする、ということはなくなるでしょう。

弊会が起こそうとしている革命は、香川雅信さんが「妖怪革命」と呼ぶ、日本の江戸時代に起きた妖怪をめぐる革命に似ています*1。「妖怪革命」が起きる以前の時代においては、妖怪というのは実在する存在者であると考えられていました。しかし、革命後、妖怪に対する日本人の認識は一変しました。「すべての妖怪はフィクションである」という命題が常識となったのです。しかし、この革命は決して妖怪を駆逐したわけではありません。現在もなお妖怪が日本の文化における不可欠な要素の一つであり続けていることは、皆様もご存知のとおりです。

設立十周年記念事業について

昨年の12月22日のエントリーでお知らせしましたように、弊会は現在、設立十周年を記念する事業といたしまして、「多一教」(polynitism)と称する宗教の布教を計画いたしております。この宗教は、「どのアブラハム宗教も帰依の対象とする神は同一であるにもかかわらず、複数のアブラハム宗教が存在するのはなぜなのか」という問題に対する解答を持つ、アブラハム宗教に属する新しい宗教です*2

現在、弊会会長は、「多一教の教理問答」と題する多一教の経典を開発する作業を進めております。近日中にはその経典のアルファテストを開始する予定でございますので、その節は、皆様の忌憚のないご意見をお聞かせいただけますとありがたく存じます。

*1:香川雅信、『江戸の妖怪革命』、河出書房新社、2005。

*2:昨年の12月22日のエントリーの中で、弊会は、「おそらく多一教は、「第四アブラハム宗教」(the fourth Abrahamic religion)という別名で語られることになるでしょう」と述べましたが、これまでに作られたアブラハム宗教としては、ユダヤ教キリスト教イスラームバハーイー教など、三つ以上のものがありますので、この発言は撤回させていただきたいと思います。