仙台広瀬川ワイルド系ワーキングマザー社長

他にこういうブログも書いてます。

2014-12-01

これは良い本だ。「冬の本」夏葉社

寒くなっていくこれからにぴったりの本。

とても良い本だ。

たくさんの人達が「冬の本」について2ページずつで書いている。冬の思い出がある本、冬っぽい本、冬に読んだ本。「冬」と「本」の関連は自由。いろんな人が選んだ1冊から数冊の本が紹介されている。

読み進めると、まさに表紙の絵ように、本の世界を降りしきる雪の中、一歩一歩進んでいくような気持ちになる。著者が多様で、え?この人も?この人が?という驚きが時々ありながら、本の世界は、どこまでもどこまでも、思わぬ方向に広がる。

決して暖かい道じゃないし、その先に暖かさがあるとも限らない。でも、歩いて行くんだな、みんな、それが人生なんだな、みたいな、しみじみとしたものを感じながら進むような読み心地だ。

紹介された本を読みたくなるし、紹介している人の著書も読みたくなる。だが私は本嫌いなので、そんなにたくさんは読めない。どうしても読みたくて図書館で借りて読んだのは、荻原魚雷が紹介している尾崎一雄の本。

わたしは尾崎一雄から、弱っているときや寒い時は寝ているほうがいいという人生の真理を学んだ。

この一文でものすごく読みたくなった。私も今すぐ寝たくなった。冬眠したくなった。でも、紹介されている「冬眠先生慌てる」は、もう入手困難らしい。仙台市図書館にもなかった。

かわりにこれを読んだ。

読んだら尾崎一雄の他の本も読みたくなった。

私は本嫌いだけど、こんなかんじで読みたい本が広がってくことは嫌いじゃない。活字は苦手だけど、世界がひろがるのは好き。

この夏葉社は、一人の人が思い立って始めた本。実は「冬の本」を手にとったのは、弟と出版について話していたらこの会社を作った人の話が出てきたから。

その経緯も本になっている。こちらも読む予定。おかしいなぁ本嫌いなのに、読みたい本ばっかり積み重なっていく。

2014-11-29

ゆるいコミュニティの持続可能性を考える―「希望難民御一行様 ピースボートと『承認の共同体幻想』」

今更ながら読んだ。古市憲寿。若者代表みたいな存在。新聞に論説や対談が良く載ってるんだけど、読むと関節を外されたような気分がして、イラッとしてたんですよね…。私はもう若者じゃないので、合わないんだなぁこの人…と思っていた。

で、希望難民御一行様。タイトルからして皮肉に満ちている。イライラしながら読むことになるんだろうな、と思ったら違った。とっても面白くて楽しかった。意外だった。古市さんごめんなさい。あのイラッとくるかんじは芸風であり技だったのですね。

読んで見ると、私が継続して深く知りたいと思っている「コミュニティ」にもつながりがある内容だったので、とても興味深く読めた。

「ピースボート」に乗り込む若者たちの研究(乗り込むのは若者以外も多いが、著者は研究対象を若者に絞っている)を通して、若者がピースボートという巨大なコミュニティに何を考えて参加したか、そしてそこでの長期にわたる共同生活の日々で何が起き、どう変わっていったか。その一部始終を知ることができる。

まず私は「ピースボート」に左翼的思想があったことも知らなかった。「9条ダンス」なんてものがあるとは。ポスター貼りで割引もしらなかった(誰が貼ってるんだろうって思ってた)。のんびり世界一周どころか、船内は忙しく、イベント続きというのも知らなかった。

著者はピースボートに乗り込み、実際に旅をする。すると、「怒る老人、泣く若者」と帯にあるような、そんな事件がいろいろ起こる。びっくりの連続だ。ピースボートって全然平和じゃない。大変だ。

著者は調査の過程で、「目的性」と「共同性」という2つの軸で、若者たちを4つに分類した。たとえばピースボートの理念に強く共感していれば「目的性」が高く、そんな理念に基づく9条ダンスなどのイベントに積極的に参加し連帯しようとすれば「共同性」が高い、そういうどちらの軸も高いのが『セカイ型』…、というように。船内での過ごし方、船内の出来事に対する反応、意識の変化…若者たちが分類ごとにそれぞれどうだったか、詳細に綴られていく。

そして……船を降りたあとの、若者たちの追跡調査もしている。こっちがむしろメインかもしれない。そこで「共同性」の高かった、船内で日々を満喫していたグループの若者たちが「あきらめ」て暮らしていることがわかる。かつて「9条護持」「世界平和」に強い思いを抱いて船内で過ごしていた「目的性」の高い若者が、もはや「目的性」が漂白されて「共同性」は高いまま、生きているのだ。乗船前より条件の悪い仕事についたりもしながら、時折集まって宴会したり、ルームシェアしたり、ゆるくつながっていくことに楽しさを感じて暮らしている。

まっとうな人生に必要な要素ー仕事、結婚、家庭、お金、地位etcーでそれなりのところに落ち着くことを諦めた若者たちは、「承認の共同体」の中で自分を見つけ出そうとする。ピースボートもそれだし、サブカル文化もそれだし、日常を見渡すと様々な承認の共同体がある。コワーキングスペースももしかするとそれかもしれない。「承認の共同体」というものが、「コミュニティ」の広義にも含まれると私は思うんだけど、コミュニティがあれば人は頑張れるし誰かに認めてもらえるし、それがきっかけで社会が変わるかもしれないし、みたいな、期待ってあると思う。だけどピースボートの経験を経た若者たちは「承認の共同体」の中で、あきらめることを身につけてしまった。ピースボートに限らず、さまざまな若者の共同体の冷却効果をとりあげ、そういうのに社会が期待している風潮に対して「若者をあきらめさせろ」と、希望のない話で終わる。

最後に解説で「ニートって言うな!」等の若者をめぐる労働問題の著書が多い本田由紀先生が登場。帯では古市憲寿といがみ合ってるようなポーズの写真になってるけど、解説文はどこまでも暖かい。研究成果を褒めつつ、違和感を表明する。

諦めた若者たちのコミュニティは、サステナブルなものなのだろうか、と。つまり、お金がなくても楽しくゆるく、なんて、そんないつまでも持続可能なものじゃないだろうと。

この指摘は、ぎくりとする。

そうなのだ。まっとうなルートを外れてしまった人間が居場所を求めて「目的性」がなくなって「共同性」だけになった仲間うちに居ついて、ゆるく楽しくても、先が見えないのだ。本田先生はこう述べる。生き続けていくためには「目的性」に相当するものを、何か持ち続けると、それがエネルギーになる。あきらめたふりを時にはしてもいいけど、あきらめるな、がむしゃらに歩き続けるんだ!と、熱いメッセージを若者に送る。お陰で、古市さんの本文だけだとやるせない気分で終わりそうだったのが、ちょっと体温が上がって読み終えることができる。(でも、そういうのを求めちゃうのも、若者じゃなくて中年だからなんだろなぁ)


…というわけで。

居心地のよい、お金もまともな仕事もない人たちが集まって承認を求めて作る「居場所」とか「コミュニティ」は、いろんな今の社会の欠けてるところを補完する存在として期待されてるけど、そんなにうまくはいかない。「目的性」がないと、ただの「あきらめ」の場所になってしまう。あきらめて、そんなにお金がなくてもゆるい繋がりを持ち続けて生きるのも、いいんじゃないの。でもそれは楽しいけど、持続可能なもんじゃないよ。

という、ゆるいコワーキングスペースオーナーにとって厳しい、当たり前っちゃ当たり前の事実なわけである。

「目的性」「共有性」の二軸は、コワーキングスペースを含むコミュニティにも応用できるだろう。実は試しに仙台のコワーキングスペースをマッピングしてみたんだけど晒さないでおきます。

ノラヤなんかは、「目的性」がなく「共有性」は強いという、いちばんやばいパターン、いや、わかってたんですけど。

あきらめたふりをしながらも、なにか牽引していく「目的性」は、やはり必要なのかもしれない。まずはコワーキング文化を率先して周知しコワーキング文化を定着させたい、という目的はずっとあるんだけどね。そういう再帰的っぽい目的もありなんだろうか。達成されたときに次の目的を考えなきゃいけないけどね。

2014-11-23

自殺に関する本を読んだ(2)「生き心地の良い町 この自殺率の低さには理由がある」

二冊目。

生き心地の良い町 この自殺率の低さには理由(わけ)がある

生き心地の良い町 この自殺率の低さには理由(わけ)がある

図書館でしばらく順番待ちして読めた本。私の本についての情報はたいてい、とっている朝日新聞からなんだけど、この本もたしか朝日の書評ではじめて知ったと記憶している。この海辺の田舎町で自殺率が低いのは「コミュニティ」がポイント、という紹介のされかただったので、コワーキングスペースというコミュニティのつながりを知りたい私のセンサーにひっかかった。

しかし「コミュニティ」の力で自殺率が低い、としたら…うっとおしい、濃厚な近所づきあいなんだろうな、監視社会のように、近所の噂はすぐ広まって、繋がりは強いかもしれないけど住んでるのはきつそうな、そんな状況を想像した。しかし、そうではないらしい。ゆるいらしい。どう、ゆるいのか。

本を読み進めるにつれ、謎が溶けていって、驚きの連続だった。わくわくして、次が読みたくて仕方がなかった。

「えっ、こんな場所があるの?」「こんな考え方をする人たちがいるの?」いわゆる田舎、とひとくくりにできない海部町だけの特徴が、驚きの後「なるほど」と納得とともにやってくる。

その繰り返しが読んでてとても、楽しかった。

論文としてまとめる研究がベースになっているので、著者の思い込みや他の影響する要素は注意深く除いてある。いわゆる自殺が増える要素として知られているものは、他の町と比べても差がないのに、自殺する人が低い。それは自殺を予防する、なにかがあるから。前例がほとんどないらしい、この「自殺予防因子」の研究を著者は進める。大量のデータを調べ、実際に海部町に滞在して聞き取り調査をし、そして明らかになった、「自殺予防因子」は5つ。

  1. いろんな人がいてもいい、いろんな人がいたほうがいい
  2. 人物本位主義をつらぬく
  3. どうせ自分なんて、と考えない
  4. 病、市に出せ
  5. ゆるやかにつながる

…こんな風に列挙してしまうと、当たり前のようで理想のようで、めんどくさそうなんだけど、それをどう海部町では実現しているか、その具体例を読むとほんとにびっくりする。

そして、同時に私はすごく興奮していた。

これって、とても、コワーキングスペースっぽいんじゃないか!いや、なんとなく、私の目指している方向のような気がする。居心地良く思ってもらえるコワーキングスペースの条件って、これなんじゃないだろうか。

  1. いろんな人がいてもいい、いろんな人がいたほうがいい → いろんな人が来るほど面白いから、多様性を認める、むしろ多様性歓迎の空気を持つ。
  2. 人物本位主義をつらぬく → 年齢や学歴、職業や年収で人を見下したり持ち上げたりしない。コワーキングスペースで出るのはその人の「素」だ。
  3. どうせ自分なんて、と考えない → 卑屈になることなく自分をアピールできる場、そしてそれを生かせる雰囲気。
  4. 病、市に出せ → 悩みや大変なことは共有してみんなでなんとかする。
  5. ゆるやかにつながる → うっとおしくない程度に、その場にいる人に常に関心がある状態。挨拶して、なんとなく会話に混ざって。でも作業に没頭してもいい。

もし、そんなスペースが実現できたとしたら、たとえば自殺予防因子がある場として、コワーキングスペースをとらえてもらう。これって社会に存在意義があるんじゃないか。起業とか多様な働き方とかの面だけでなく。

だとしたらすごいよこれは。

ダメ人間のためのコワーキングスペース「ノラヤ」が、とたんに社会的意義を帯びてきた。助成金もらえるかもしれない。


さて、妄想はおいといて。本の内容に戻るけど、著者は調査の結果をこうして著書にし、講演会でも詳しく伝えている。しかし、すでに自殺多発になるようなコミュニティができている地域で、じゃぁどうしたらよいのか。たとえば本文中に出てきた自殺多発地域A町、こちらでは異端を排除する空気、何かしたら近所に噂になって恥、自分の手に負えない時は諦めがちな無力感、などができている。もうずっとそういう町だったのに、どうしたらよいのか。

著者は、最後の章で「明日から何ができるか」について述べている。無力感にさいなまれがちな地域で「海部町のよいところを取り入れましょう」ったって、「自殺多発地域だし」とかえって卑屈になられそうだ。そのあたりの反応ももちろん考慮しつつ(実際に著者は多く経験したのだろう)、いくつか提言している。

そのひとつ、誰でもできることとして『「どうせ自分なんて」をやめませんか』というのが、私は気に入った。本当に自分がどうしようもないささいな存在に思えたとき、そう言ってしまいがちだ。言っても言わなくても変わらないのに。だったら、とりあえずやめましょう。そう言われたら、じゃぁ、やめようかなぁ、と思えてきた。

それから、「幸せでなくてもいい」というのが、前のブログとも関連するんだけど。海部町は自分を幸せだと思う率が決して高くなかったそうだ。幸福でも不幸でもない、そこそこ、が多かったと。大事なのは、今幸福かどうかではなく、なんらかの理由で幸福を感じられなくなった時の対処の仕方ではないだろうか、と著者はいう。なるほど……。これも、楽になれる考え方だ。生き心地が良いためには、金色のおにぎりを食べているような幸福を目指す必要は、別にない。すべての生きる人に平等にやってくる、病気や喪失体験など、不幸や困難を乗り越える考え方ができるか、そしてそれを見守ってくれるコミュニティがあるかどうか。


あとがきは、かなり切ない。

読んでください。オススメ。

2014-11-22

自殺に関する本を読んだ(1)「自死という生き方―覚悟して逝った哲学者」

前に上原隆著の「こころが折れそうになったとき」を読んで、自殺した須原一秀氏に興味をもったので彼の自殺までに書かれた本を読んでみたわけです。

自死という生き方―覚悟して逝った哲学者

自死という生き方―覚悟して逝った哲学者

「かなりしんどそう」と書いたものの、実はちょっと期待もしていた。この本の内容がものすごく説得力あって、納得の行くものであって、「そうか、私も自殺しよう!」という気分になるような、そんなすごい本だったら、それはそれで貴重な読書体験できるな、ってね。

ところが、期待はずれ。

全然違う意味でしんどかった。主張がいちいち、同意できないものばかりだったのだ。中身にすっと入っていけないから、読むのが苦痛でしょうがなくて、読み進むのに時間がかかった。活字嫌いなのでどんな本でもすいすい読めるわけではない。しょうがないから飛ばし読みした。

著者は、この本を通して世間の人に積極的に幸福のさなかで死を選ぶという選択肢があってよい、認めるべき、と訴える。たしかに自殺への世間の目はかなり特殊だ。だが、だからといって著者のように、死にたがりとして生き、自分が絶頂から落ちるだけと悟った時死んで行く、そんなのを潔いとか、あるべきとか、あってよいとか、どうしても思えない。

老衰で眠るように死ぬという自然死が理想と人はいうが、本当に苦しくないのか?傍で見ている分には眠っているようでも、本人はすごく辛いんじゃないのか?という意見については、私も同意する。体が動かせなくて表現もできなくて、意識があるとしたらけっこうきついだろうし、その時が来るのが怖い。苦しみの果てに死ぬなら、自死も含めてあっさり死ねる手段を選んだほうがいいんじゃないか、と著者は言うのだが、そこはやっぱり簡単に結論だせないんだよなぁ。

なんとなく同意できたのはそのあたりぐらいで、あとはなかなかすんなり主張を受け入れられなかった。それは多分、言葉の端々に、偏見や「見下し」が感じられる表現が多いからだと思う。周囲の老人、満員電車に揺られて会社に行くサラリーマン、夫がいないと生活できない家庭の主婦。なんかそういういわゆる平凡でひーこらひーこらと暮らしている、とても私に近い人達を、マイナスの例として持ってくることが多くて、率直に言うと、侮辱されているようでかんじわるいのだ。「こころが折れそうになったとき」でも書かれていたが、須原氏はいつもごきげんにくらし、大学の非常勤講師で家計は火の車だったけど、家庭の迷惑をあまり顧みず好きに楽しく暮らしていたようだ。伊丹十三の言葉として引用されていた「金色のおにぎりをぱくぱくと食べているような」幸せを感じていたのあろう。本の中では家族や周囲の人たちへの「死んだら迷惑だろうか、悲しむだろうか」という思いやりはほとんど感じられなくて、むしろ家族を泣かせても信念を貫くのが武士道、自分の自死は武士道にもとづいている、とばっさり。はぁそうですか、ひとを見下して、周囲へのおもいやりもなくて、自分は幸せいっぱいで、死ぬなら、勝手にしてくださいよと言いたくなってしまう。

著者のもくろみと逆に、死にたくなくなりました。あたしはこんなにいろんな苦労も困難も抱えてるんだから、死ねませんよと。

そして思ったのは、幸せすぎて「極み」に達してしまうのもまた、どうなんだろうなと。もしかして自殺と、本人が幸福かどうかって、そんなに関係なかったりして。

そう思ったら、次に読んだ「生き心地の良い町」に、関連することが書いてあったのですよ。

長くなったので、「生き心地の良い町」のレビューは次に。

生き心地の良い町 この自殺率の低さには理由(わけ)がある

生き心地の良い町 この自殺率の低さには理由(わけ)がある

2014-10-17

家計簿つけるのやめたら、二度と再開できなくなってしまった件

2008年からコツコツコツコツコツコツ、記録しつづけた家計簿を、ふと、やめてしまいました。

もう、数ヶ月になる。

まずは、一ヶ月、やめてみようかなと思ってやめたら、再開する気にならなくて、困ってます。このままでいいのでしょうか。

やめてみた理由は下記の通り。

1. めんどくさい

家計簿をつけるためだけに、レシートをもらい、財布がふくらんで見通しが悪くなるのも面倒。

レシートのない買物の場合はいちいちスマホを取り出して記録しなければならないのも面倒。

一定時間を費やして膨大なレシートをいちいち家計簿に入力するのも、面倒。

そしてその結果、使途不明金が出て、「んーこれ何に使ったっけ、こんな金額無くなるわけないんだよな…」と脳みそ絞って、思い出せばいいものの思い出さない時の罪悪感が、めんどくさい。


2. 値を把握するという意味では既に役割を果たした気がする

いつまでもデブと思うなよ」という本をご存知でしょうか。それにしたがってレコーディングダイエットやったことがあるのですが。

方法としては、まず食べたものを記録。次にカロリーも記録。その次に摂取量を気にしてみる。最後には、記録しなくても摂取量を把握できて自分が今日食べて良い量が、しぜんと自覚でき調整できるようになるのです。これは実際やってみて、そうでしたね。

家計簿も似たようなところがあると思います。

支出が多すぎるのを気にするなら、そもそも物の値段がわかっていない状態で買物している可能性が高い。家計簿つけはじめの私はそうでした。手にとったものが高いのか安いのかわからない。季節商品の値段の推移もわからない。だから、まずは、物の値段がわかるように家計簿をつける。そういう役割もあったと思うんです。そんで値段がだいたい頭に入った所で、この商品は安いか高いか、チラシの特売品のためにわざわざバイクででかける必要があるかなど、判断ができるようになります。

というか、普通の主婦のひとは当たり前にそれができているんですね。素晴らしい。

5年くらい家計簿をつけ続けて、ふと、もう価格の把握できてるな、私…と、思ったのでした。


3. 貧乏が辛い

私、いつからこんなに貧乏になったんだっけ…………

ふと、前回のブログを書いていて思ったのですよ。

東北大学を出て、就職して、結婚して、共働きして、出産直前までは、たしかに「貧乏」ではなかったと思う。標準よりちょっとお金ある方だと思っていた。

出産して自分が育児に専念すると、お金がどんどん減っていって、貯金が底をつきそうになった。それでも全然「貧乏」という自覚はなかった。子供が小さい時に貧乏の自覚があったら、あんなに気軽にタクシー乗っていなかった。育児ストレスにプラス貧乏ストレスということになるから、あの頃は自覚がなくてラッキーだった。

それから再び働き出したけど育児を優先せざるを得なくて、全然前と同じようには働けなくて、そうこうしているうちに年収は減り続け、今年はついに100万切りそうだ。息子にもどんどん金がかかるようになってくるし、真のビンボーライフはこれからだ。

そう思ったら、現実を直視したくなくなった。


だって……………………結局ね。

家計簿つけて、価格を把握して、そんで今月こんなに使った!やばい!とかわかるじゃないですか。

でも、どんなにがんばっても食費も雑費もなにもかも、減らないんです。気をつけてもスーパーの安い日狙っても、根本的解決にはならない。大根198円が178円になるのは嬉しい。もやしが38円なのが28円なのも嬉しい。けど、そんな十円レベルをいくら積み重ねようと、変わらないんですよ。ちりも積もれば、って思って安いの狙うけど、実際は何だ結局貧乏だよ。って、思うわけです。


そして、辞めてみて、まぁ1ヶ月くらいで再開しようと思っていたんですけど、まったく再開したくなくなってしまった。

「家計簿をつけて家計を把握するのが基本でしょーが」と、何年も鼻息荒く語っていた私だが、実は、それぐらい、家計簿つけるのが嫌だったんだ。

そうだ、本当は、家計簿つけたくなかったんだよ。6年目にして自覚。


…さて、どうしたらいいでしょうね。

せめて通帳の残高を…とか、大きい金額のものだけでも…と、時々思い立つのだけど、やっぱりめんどくさい。

めんどくさいものは一生めんどくさい。

だから、できない。


困ったね。