仙台広瀬川ワイルド系ワーキングマザー社長

他にこういうブログも書いてます。

2014-10-17

家計簿つけるのやめたら、二度と再開できなくなってしまった件

2008年からコツコツコツコツコツコツ、記録しつづけた家計簿を、ふと、やめてしまいました。

もう、数ヶ月になる。

まずは、一ヶ月、やめてみようかなと思ってやめたら、再開する気にならなくて、困ってます。このままでいいのでしょうか。

やめてみた理由は下記の通り。

1. めんどくさい

家計簿をつけるためだけに、レシートをもらい、財布がふくらんで見通しが悪くなるのも面倒。

レシートのない買物の場合はいちいちスマホを取り出して記録しなければならないのも面倒。

一定時間を費やして膨大なレシートをいちいち家計簿に入力するのも、面倒。

そしてその結果、使途不明金が出て、「んーこれ何に使ったっけ、こんな金額無くなるわけないんだよな…」と脳みそ絞って、思い出せばいいものの思い出さない時の罪悪感が、めんどくさい。


2. 値を把握するという意味では既に役割を果たした気がする

いつまでもデブと思うなよ」という本をご存知でしょうか。それにしたがってレコーディングダイエットやったことがあるのですが。

方法としては、まず食べたものを記録。次にカロリーも記録。その次に摂取量を気にしてみる。最後には、記録しなくても摂取量を把握できて自分が今日食べて良い量が、しぜんと自覚でき調整できるようになるのです。これは実際やってみて、そうでしたね。

家計簿も似たようなところがあると思います。

支出が多すぎるのを気にするなら、そもそも物の値段がわかっていない状態で買物している可能性が高い。家計簿つけはじめの私はそうでした。手にとったものが高いのか安いのかわからない。季節商品の値段の推移もわからない。だから、まずは、物の値段がわかるように家計簿をつける。そういう役割もあったと思うんです。そんで値段がだいたい頭に入った所で、この商品は安いか高いか、チラシの特売品のためにわざわざバイクででかける必要があるかなど、判断ができるようになります。

というか、普通の主婦のひとは当たり前にそれができているんですね。素晴らしい。

5年くらい家計簿をつけ続けて、ふと、もう価格の把握できてるな、私…と、思ったのでした。


3. 貧乏が辛い

私、いつからこんなに貧乏になったんだっけ…………

ふと、前回のブログを書いていて思ったのですよ。

東北大学を出て、就職して、結婚して、共働きして、出産直前までは、たしかに「貧乏」ではなかったと思う。標準よりちょっとお金ある方だと思っていた。

出産して自分が育児に専念すると、お金がどんどん減っていって、貯金が底をつきそうになった。それでも全然「貧乏」という自覚はなかった。子供が小さい時に貧乏の自覚があったら、あんなに気軽にタクシー乗っていなかった。育児ストレスにプラス貧乏ストレスということになるから、あの頃は自覚がなくてラッキーだった。

それから再び働き出したけど育児を優先せざるを得なくて、全然前と同じようには働けなくて、そうこうしているうちに年収は減り続け、今年はついに100万切りそうだ。息子にもどんどん金がかかるようになってくるし、真のビンボーライフはこれからだ。

そう思ったら、現実を直視したくなくなった。


だって……………………結局ね。

家計簿つけて、価格を把握して、そんで今月こんなに使った!やばい!とかわかるじゃないですか。

でも、どんなにがんばっても食費も雑費もなにもかも、減らないんです。気をつけてもスーパーの安い日狙っても、根本的解決にはならない。大根198円が178円になるのは嬉しい。もやしが38円なのが28円なのも嬉しい。けど、そんな十円レベルをいくら積み重ねようと、変わらないんですよ。ちりも積もれば、って思って安いの狙うけど、実際は何だ結局貧乏だよ。って、思うわけです。


そして、辞めてみて、まぁ1ヶ月くらいで再開しようと思っていたんですけど、まったく再開したくなくなってしまった。

「家計簿をつけて家計を把握するのが基本でしょーが」と、何年も鼻息荒く語っていた私だが、実は、それぐらい、家計簿つけるのが嫌だったんだ。

そうだ、本当は、家計簿つけたくなかったんだよ。6年目にして自覚。


…さて、どうしたらいいでしょうね。

せめて通帳の残高を…とか、大きい金額のものだけでも…と、時々思い立つのだけど、やっぱりめんどくさい。

めんどくさいものは一生めんどくさい。

だから、できない。


困ったね。

2014-10-13

「実践 料理のへそ!」小林カツ代

誰かとご飯を食べるのがデフォルトになってしまうと、ぼっち飯って、なんて幸せなんだろうと気づく。

特に、自分のために作って自分で食べる、ぼっち自炊飯とでも言おうか。

自分の好きなものを、自分のためだけに作る。

スマホをいじったり、PCの画面を見ながら上の空で食べるような人のために、料理するのでは、ない。義務感でごはんがあるから食べるというような人もいない。

そこには、その料理を心から待ち構えている最愛の自分しかいないのだ。

これほどやりがいがある料理があるだろうか。


それで、この本。

実践・料理のへそ! (文春新書)

実践・料理のへそ! (文春新書)

著者の小林カツ代さんは言わずと知れた料理研究家。家庭の昔ながらの料理のレシピを数多く生み出してきた。今年1月、惜しまれて亡くなった。

特にそう書かれていないんだけど、この本に出てくる料理は基本「ぼっち自炊飯」だ。

がーっと作れて、間違いなく満足。量は1人か2人分。

新書だから、一般的レシピ本とは違う。文章だけで畳み掛けて写真はない。イラストもほんの数点。だから料理の初心者にこれを見て「作れ」と言っても無理だと思う。しかし、ある程度経験詰んだ人なら、間違いなく「ああっ作りたい!」と、なると思う。

なにしろ全文喋り言葉で、すごい勢いで、話しはあっちゃこっちゃ脱線しつつ、どんどん料理が説明されていく。レシピ本に必須の量や時間やテクニックはすべて、擬音だ。

「ピャ〜ッ」「カペーッ」「シャッシャッシャッ」「コトコトコトコト」「エイヤーッ」「ムニュムニュムニュ」

でてくる料理がまた、うまそうなのだ。たまらん。冒頭なんてただの、ごはんだ。塩かけごはん。それでも。

一人で食べる贅沢、というのがあります。

すわ、炊きあがった!という電気釜の蓋を開ける。一気に湯気が上がる。すかさず、その炊きあがったご飯の表面をしゃもじでピューッと取る。削ぐように。ちょうど、子供の描く「ワァー」と笑っている口に似た形に取れますよ。これを茶碗によそい、塩を降って食べる。他にな〜んにもいらないくらい美味しい。

いますぐ、ごはんを炊いて塩をかけて食べたくなってしまう。

春菊は茹でるばかりが能ではありません。根っこを持ってシャッシャッシャッと洗ったら、根っこを切り落として、油で焼くように炒めると美味しいです。塩をパラパラ、レモンをジュッ。あるいは醤油をチョッ。緑のものを油で炒めると、ビタミンAの吸収がよくなるらしいし。

昔、神戸に住んでいたとき、好きなお好み焼き屋があって、お好み焼きはいとまずく、焼きソバはいとうまし、でした。その焼きソバが春菊とキャベツが焼き付けるように入っていたんです。

春菊を焼き付けるように炒めた、こおばしい香りが漂ってくる。

もやしは賢い!とか、梅干しは偉い!とか、きのこは楽!とか、栄養価云々より直感的表現が多い。

断じて高級料理風オムライスは間違っているっ!ね?

というふうに、いきなり断じたりする。ね?って言われましても。でも気持ちはわかる。

家庭でやるとめんどくさいことは、「やらなくていい」と、ばっさり。料理の常識といわれるセオリーもすごい勢いでぶっとばす。

出汁を取る時の昆布は煮立ってもいい、かつお節はギューッと絞る。普通、煮立つ前に昆布は取り出し、かつお節は絞ってはダメ、というのに。

道場六三郎さんの言葉として引用しているけど、

だしを取った後の昆布を何かに使えないか、と人は言う。でも、何かにして美味しいぐらいだったら、だしがちゃんと出てないということなんだけどな、と。同感!

という一文は、気が楽になった。だしがらの昆布、真面目に冷凍してとっておいて佃煮にしたこともあるけど、結局そんなにおいしくないし食べないんだもんね。

パラパラっと書いてあったら、パラパラッ、ピャーと書いてあったらピャーと垂らして、あっという間にできるおいしい料理。じっくり時間をかける料理も出てくるけど、多くは、自分のためだけに作りたい、一人で食べて「ああうまい!」と思えるものばかり。

仕事をしている人なら、疲れて帰ってから「ああ、あれを作ろう」と思うと元気が出るような。

家庭の主婦なら、「そうだ、今日の昼は一人であれを食べよう」と思うと、しんどい家事も少しはがんばってできるような。

そんな料理が一杯。ふらりとコンビニに寄れば住む昨今だけど、自分のために自分が料理して、ちょっと幸せになりたい。そういうときも、あるよね。

私はこの本を読んで、安い刺し身を漬けにしたり、インスタントラーメンのためにもやしを買ってきましたよ。空腹時には読んでしまわないよう、注意。

2014-10-06

「こころが折れそうになったとき」上原隆

こころが折れそうになったとき

こころが折れそうになったとき

悲しさと苦しさを、ふっと和らげてくれた本。

これはすごい本だ。

すごいと言っても魂を揺さぶられるような感動はないし、どちらかというと静かに重たい衝撃の連続だ。

私のように「自分を砂粒のように感じた」ことのある人には、手にとって欲しい。多少哲学的な深い思考が苦にならない人なら、なお、おすすめ。


なぜか2冊あったのだ。ノラヤに。なんだよ、弟のやつ間違ってよこしたなと思った。スピリチュアルのような自己啓発のようなタイトルに、私の嫌いな系統の生き方指南本かと、避けていた。だが2冊もあるというのは何か理由があるのかもしれないと思い、読み始めた。

内容は全然違った。著者がたくさんの人達に出会って、話を聞いて、その物語を書いたものだった。

著者の上原氏は、これまで300人以上の人たちから話を聞いてきたという。帯にはこう書かれている。

困難に出会い、自分を砂粒のように感じたとき、人はどうやって自分を支えているのだろう。

「自分を砂粒のように」という表現が的確すぎて胸に刺さった。自分には何の価値もない、とか、誰にも愛されていない、とか、なにを生きがいにしたらいいかわからない、生きていて何が楽しいかわからない、自分なんていなくなってもいい気がする………そういう気持ちを抱いてこの世の片隅に存在しているとき、存在価値がしゅうっと縮まって、砂粒のような心持ちになる。

この本にはそんな人たちがたくさん出てくる。上原氏は彼らに会いに行って、話を聞く。質問をしてことばを引き出す。えっ、そんなことまで聞くの、と、読んでいるこちらが慌てそうなことも。

上原氏の姿勢はずっと謙虚で、眼差しはあたたかくもつめたくもない、常温の水のようだ。自分の気持ちを述べて、相手から引き出された言葉を勝手に曲げたり深堀りして解釈するのではなく、そのまま、その言葉に心をうたれたことを、ストレートに文章にしている。だからこちらも、相手の言葉が水のように滲みこんでくる。困難にあった人間の言葉だから切実だけど、素直に響く。

読んでいて一番衝撃だったのは、須原一秀氏についての章。須原氏は『自死という生き方』という本を書いた哲学者だ。自殺をやむなく行ったわけではなく進んで幸福の頂点で実行するという形もある、と何人かの自殺者をとりあげて、なんと自分自身も自殺してしまう。その過程も本になっているというのだ。

そんな風に死なれたら、自殺が幸せな形だなんて言われて死なれたら、家族はどう思うだろうか。上原氏は須原氏の家族と、いちばん最後まで立ち会った人に会いに行くのだ。

この人達の言葉が、本当に、なんていうか、「なま」。こんな困難に巻き込まれて、それでも生活し、人生は続く、その日々を過ごした実感が込められている。生きるのって、こういう言葉を伝えられるからなのか、と思ってしまう。自死についての是非は、もちろん上原氏は一切言及しない。そして最後にこう述べる。

私は、その人ならではの個別の心のひだに心動かされている。同時に、それがもうこの世にないのだという思いに襲われて慄然としたのだ。

個別のひだは、この世にそれしかない唯一のものだ。死とは唯一のものが永遠に失われることだ。そのことに私は不可解な感じと畏れを感じているのだと思う。

なんで人の死が悲しいのか、についての、腑に落ちる答えだと思った。


須原氏の家族と同じように、途方にくれるような出来事や、困難に出会った人は、どうしているのか。多くの話を読んでいくうちに、ふと気づいた。

生きていくには、前に進むためには、希望や明るい未来がないといけない。いつか幸せになれると信じて進まなければいけない。

苦しくても、希望をみつけよう。目標をみつけよう。ささやかな楽しみをみつけよう。暗闇の中に一条の光を見出して前へ進もう。

そのような考えは、一般常識のように我々を支配している。

でも、実は、未来も、希望も、楽しいことも何もなくても、人って生きていけるんじゃないか。

「仕方なく生きている」でも「生きていかなければならない」でも、ない。単に「生きていける」。

だから夢や希望を無理矢理決めたり、創りだしたりする必要もないんじゃないか。空虚な、かなうはずもない望みを設定して、それに向かって地に足のつかない歩き方をするより、たとえ明日が今日より良くならなくても、体を傾けたら勝手に足が出る。その一歩が本当の強さなんじゃないか。

そう思った。

そう思ったら、夢も希望も明るい未来もないのを、嘆くことはない。なぁんだ、そんなもんなくてもいいや。ちゃんと生きていけるんだ。と、気分が楽になったのだ。


一度ぱたんと閉じてしまうと、なかなか再度開きづらい。

それぐらい、ちょっと内容は重い本だ。

でも、また時々読み返そうと思った。


さらに、須原一秀氏の本も読まねばと思って、図書館で予約した。かなり読むのしんどそうだけど。

自死という生き方―覚悟して逝った哲学者

自死という生き方―覚悟して逝った哲学者

上原隆氏の本もいろいろ読んでみたいと思って予約している。

2014-09-21

※変更しました 10/12(日) うほ?芋煮開催。(毎年恒例のやつ)→ 10/11(土)別の芋煮に混ざります

※変更しました。10/11(土)のフリーソーメン芋煮の方に混ざります。フリーソーメン芋煮の申込はこちら!

https://www.facebook.com/events/288219061384168

※変更ここまで※



東北大学ホームカミング芋煮」、改め「うほの会芋煮」改め、「うほ?芋煮」を開催します。

名前は変遷してますが毎年恒例のやつです。

https://atnd.org/events/56514

この時期はいろんなところが芋煮をしますが、うほ?芋煮の特色はなんといってもアルミを溶かすところでしょう。(余力がなければやりません)


かつて、東北大大学関係者多めでスタートした芋煮ですが、関係ある人もない人も歓迎です。

芋煮はみんなで作るコミュニケーションツール!

http://www.excite.co.jp/News/bit/E1409819718474.html

そして闘いの場。

http://matome.naver.jp/odai/2137793440844206501

食材を注文する都合上、10/6まで参加表明よろしくお願いします!

2014-09-18

ジェーン・スー「貴様いつまで女子でいるつもりだ問題」

私と同じ、四十路の女性ジェーン・スーさんが、切れのいい文体で女性のさまざまな心理に肉薄する随想集。私は彼女と違って既婚子ありだが、未婚子無しの彼女の文章にいちいち首がちぎれるほど「あるあるあるある」と、頷いてしまいそう。

例えば、メールとかSNSで可愛い記号や絵文字を使って愛され系の演出をするのに抵抗があって、せめて感情を表現しようと、無駄に「!」を連発して「おめでとう!!!!!!!」などと書いてしまうという話。私だけかと思っていたら、仲間がいた!!!!

40女って、うーーー、どうしたらよいのやらって感じなんですよね。

40になっても私は、少年漫画にでてくるような大仏パーマのおばさんにならなかったし、かといって、VERYやSTORYに出てくるリッチなおばさんとか、年齢不詳な美魔女にもならなかった。

美しくもなく、かといって女を捨てきれてもおらず。そんな私らでも、痛いと言われようとキモいといわれようと「女子」だ。体に染み付いた女子性は消えない。「貴様いつまで女子でいるつもりだ」と言われたら「一生」なのですよ。

まぁ読んでると、多少、やはり私とは違うところがある。私は既婚で子持ち、独立して8年だというのに、いまだに経済的に自立していない。私は「偉そうなこと言えませんすみません……」と背中を丸めて生きているから、著者の「私は社会的、金銭的に自立しています。精神的にもほぼ自立しています」という、背筋伸ばした確固たる物言いは、本当に潔くて、眩しい。

自分とは違うので、ん?そんなことないけど…と思うところもあるけど(20代男子が優しい件とか)、あとは大体「ていねいな暮らし」だの「可愛い」だの、なんとなく世間でまっとうと思われている女性のふるまいに対するもやっとした気持ち、そういうのはホント同意できる。

めんどくさいこの、中年女子性。40にして惑うのはいまや当たり前。この本を読んでると、その「めんどくささ」をひっぱりだして「まぁそういうもんなんだよ、私らって、うんうん」と自分を慰められるような気になり、とても気分が良いのです。

しょうがないね、これが女子なのだから。

いちばん誰からも「よしよしそんなにがんばんなくていいよ」と言ってもらえない層じゃないだろうか、40代女子って。既婚者も独身者も「ああもっとあれもこれもやらなければっ!!生き残れない!認められない!男に勝てない!子供がちゃんと育たない!心の平穏がないっっ!!!」って。体力も脳力もこんなに落ちてるのに〜。

強く生きようじゃないか、と、思うよ。

ところでFacebookでの交際ステイタスについての記述があったので、試してみたんだけど。『◯◯さんと交際中』が、別れてシングルに戻ると、Facebookは律儀なSNSなので『△△さんが交際ステイタスをシングルに変更しました』とお友達に通知する、という記述がある。現在、独身・別居・離婚・死別へ交際ステータスを変更しても、通知は行かないみたいですよ。ここんとこは、執筆時から仕様変更になったのかな。

実際にFacebookで離婚や独身や既婚に変更しまくったら、友人らに「monya_kataさんが結婚しました」の通知が行ったらしく、驚かせてしまいました。みんなもやってみよう!