仙台広瀬川ワイルド系ワーキングマザー社長

ビールと温泉と面白いものが好きな大学生男子の母。

本嫌いの私が本を読んだ

4冊。

著者の米田智彦さんを知ったのは、コワーキングスペース「こけむさズ」でこの本出版後に開催されたイベントから。
【ホントにそれで】5/24 ライフデザイン会議【食べていけてるの?】

このイベントが、ナリワイの伊藤洋志さんにニートのphaさん、そして「こけむさズ」のイシジマミキさんという私の琴線に触れまくる人たちが出演してて、たいへんそそる内容だったのですよ。「ホントにそれで食べていけるの?」が聞きたかった。で、イベントメインの米田智彦さんにもこの本にも興味を持ったというわけです。
米田さん、なんと1年定住する場所を持たず東京を放浪しつつ仕事するという「ノマド・トーキョー」ということをやっていたそうな。ふぇー面白い。(ノマドトーキョーのサイトは今、エラーで見れない)
なにが起こるかわからない、先の見えない時代を、どうしても我々は生きなきゃいけないわけで。先人の経験もなにも役に立たないわけで。これからは一つのレールを突き進んで脱線しちゃうと崩壊する「ライフプラン」じゃなくて、いろんなその時々によって変わる「ライブデザイン」を考えていこうよ、というわけで、米田さんが出会った「生活」・「仕事」・「自分自身」それぞれの「ライフデザイン」、いろんな人の事例を紹介しています。既に知っている人も多かったし、おおかたの人のやっていることはとても私にとって共感できることだし、伊藤洋志さんやphaさん、イシジマさんの事例は既に知っていることなので、読んでいて馴染みの旧友に会えた気分で大変心地よかった。
しかし、うーん。
やっぱり「そうはいってもなぁ」って思ってしまうのですよ。
家庭を持ってしまうとね。しかも考えが違う配偶者とかだとね。あまりに根本的な主義が違いすぎたりすると、夫婦でライフデザイン考えることすらキビシーわけです。配偶者以外にいろいろ縛られていたりするとね。親とか地域とか。
そんでも少なくとも私自身、自分にできる範囲でいろいろできてるからまだいい方なのかな。畑もやってるし、コワーキングスペースも作ってるし。
私自身の一番の問題は「仕事」、ワークの部分ですね。どうしても夫の収入メインで好き放題やってるかんじなので、なんとかせんと。
ところで、放射能の問題で東京から出て行ってしまった人が載ってて、ちょっと複雑な気持ちになった。やっぱ人は、参考にするでしょう、本に載った人のことを。この人からすれは東北に好きこのんで住んでる我々はどうなんだろうな。考え方はひとそれぞれで、しかたないんだけどさ。ノマドワーカーである利を活かして東北の方に来た人(松田然さんとか)も居るからねー!

10代から社会問題に切り込んで、やり手でバリバリ仕事をしていたライター藤井さんが、45歳で突然パニック障害になった。友人であり主治医でもある精神科医名越康文さんと対談しながら、40代以降の男の生き方をさぐる、そういう本です。
無理も効くし多少の熱もごまかして仕事してきた人が、がくっと何かが起きる、40代の男ってそういうもんらしい。ガンとか致命的な病気に限らず、精神疾患や、なんとなくの機嫌の悪さ、連日の不調、などなど。で、やっぱり「なんで自分が?」「あれが原因?これが悪かったの?何をすれば治る?」って考える。だろうね、びっくりするだろう。藤井さんの体験がとても生々しい。しかし、本書の対話を見てると、原因究明にやっきになるより「こういうことが40代の男には起こるんだな、そういうこともあるんだな」と、思ってしまったほうがいいようだ。
そして、それまでと同じでは駄目と腹をくくって、10%でも5%でもいいから、生活を見なおしてちょっとだけ体にいいことを積み重ねていくこと。
これねー、本当にそう思いますよ。女はさー、月単位で体調が揺さぶられるし、妊娠出産なんかしたら自分の体激変するので、健康なんて全然意のままにならん!と実感しまくってます。だから、加齢による変化も受け入れやすい。一方、男はそういう激変イベントがないもんだから、自分は一生このままで行けるんじゃないかと思っていそう。いや、一生、はなくても、あと5年は大丈夫でしょ、と思ってない?
名越康文先生の言う通り、ちょっとでいいから、体にいいことしようよ……って言って変えられる人、1%もいないんだろうな。

前に読んだ「白夜の国のヴァイオリン弾き」の同じ著者。1960〜70年代にフィンランドをほぼ一文無しで放浪し、フィンランドの女性と結婚し、子どもを作り、どこまでも苦しい生活の日々を続けた。その妻となった女性の両親の体験した悲惨な歴史も綴ってある。
冒頭から性欲をあらわにして楽しいことも何もなく、希望がなくて暗くて家族はバラバラになって終わる。人々の考えることやることは、今とあまりにも違う。「貧乏だから女を求めた、家庭を作ろうとした」という当時の人々の姿勢は、「貧乏だから家庭が持てない」という今の考えとまったく逆で、興味深いと思った。どう考えても、昔のフィンランドのほうが今の日本より生活が苦しい。貧乏だから家庭を……というのは、複数人で運用してリスクヘッジしたほうがいいっていうことなんだろう。ほんとうに貧しいときはそう考えたほうがいいのかもしれない。
文章の重苦しさ・暑苦しさとは想像もつかない、さわやかイケメンの著者の写真にびっくりした。

時々、世界を勝手に狭めて考える。みんな自分と同じなんじゃないかと勘違いして、裏切られたと勝手に傷つく。そうじゃない、違うんだ、全然違うんだ…ということを実感するには、遠くに旅をする外に、こういう違った時代・文化圏の本を読むのも有効だと思う。
「あの夏〜」でもそう思ったし、この「エレンディラ」も、思い切り異文化の困惑に突き落とされる本だ。
つくりばなし。短篇集。でも、どこまで本当に近いのか。コロンビアの海沿いには、本当にベッドにカニが登ってくる地域があるのか。本当に遺体を海に流すのか。違う国の違う時代の話なので、わからない。しかも、話がぽんと遠くに飛んだり、時間軸がいきなり流れていったり。どうとらえていいんだ、この話は……と困っているうちに終わる。
最後の、訳者あとがきを読んでようやく納得がいった。これ、柳田國男の「遠野物語」みたいなもんだと思えばいいのか。


「あの夏」と「エレンディラ」は、読後感が全然良くないんだけど、なんだ人間ってこんなになっても生きてるんじゃん、というところが妙に安心できる。

私は、相変わらず本は決して好きではないけど、人のブログとかSNSで紹介されてて「ほほー、面白そう」と読むのは好きで、その本の中でさらに引用されているとか、同じ著者だとかいうつながりで本を読んでいくのも好き。
だから私は、活字、字面を追うのが嫌いで、本のコンテンツは嫌いじゃないんですね。それって自分はめんどくさがりで、ばかです、って言ってるようなもんか。ITやSNSには基本懐疑的なんだけど、小中高生の時からほとんど本を読まずにいた自分が本を読めるようになったのは、それらのおかげなので、まぁ、技術の進歩に、感謝してやらなくもない、ですね。ふん。